6 / 8
手紙から始まった未来
しおりを挟む
雪也のもとに、一通の手紙が届いた。白い封筒には赤い国際郵便のスタンプ。外国の空気を閉じ込めたような、ざらりとした紙肌。差出人は見慣れない英字だった。
リビングの光の下で封を切った雪也は、英語の文章を最後まで目で追うと、小さく息を呑み、何事もなかったように紙を折りたたむ。その仕草は整っているのに、指先の動きは妙にぎこちない。
「……ユキ、大丈夫?」
プリンの器を捨てようとキッチンの入り口に居たが、そこから俺が覗き込む。
「平気。……寝る準備してきな」
す、と手紙を大きな手の中に隠され、短く、それ以上を拒むような声。目を合わせずに返された言葉が、胸の奥で引っかかった。
寝室に入った俺はスマホを開き、天原にメッセージを送る。返事は思いのほか早く、すぐに着信が鳴った。夜勤の休憩中らしい。
『……電話のほうが早いと思って。…盟君、百舌君は、何に困ってる感じ?』
「俺が側に来ると、手紙を隠すんです。何の手紙かはわからなくて。でも、困ってるなら一人で抱えないでほしいし」
『ふむ……まあ、内容次第だよね、そういうのって…。柄とか、封筒の感じは?』
「国際郵便っぽい……」
『ああ、じゃあ百舌君のお父様かも』
「ユキの……お父さん?」
『イギリス在住って聞いたことある。弁護士してるんだよね、確か』
「べんごしさん……」
『もしかしたら呼び出しかなぁ……まあ、僕の推測だけど。…(PPPPPPッ!)…あ、ごめん、ちょっとピッチ鳴っちゃった。朝になったらまた電話するよ』
通話が切れると、部屋は時計の音すら飲み込むような静けさに包まれた。布団に潜り、暗がりの天井を見つめていると、寝室のドアがゆっくり開く。
黒いスウェット姿の雪也が入ってきて、何も言わずに隣に横たわる。枕に頭を落とした瞬間、顔を覆って深く長いため息が落ちた。
「……ねえ、どうかしたのか、聞いていい?」
俺は雪也の方を向いて慎重に言葉を選びながら尋ねる。
「俺に関係ないことかもしれないけど、困ってるなら……話くらい、俺だって聞けるよ」
布団を胸の前で抱えた雪也はしばらく黙っていた。その沈黙は、何を言うか迷っている時間であり、言わずに済ませたい気持ちとのせめぎ合ってるふうでもあった。
やがて雪也は、ふっと視線を落とし、低い声で語り始めた。
「……大学で俺の恩師がリタイアするんだ。もう高齢でね。それで、油絵の講師として、後釜に俺を推薦したいって話が来てる」
言葉に重みと、わずかな熱が宿る。
「イギリス、今のデザイナーの仕事を辞めて行ったっていい。でも、行くなら俺は盟と行きたい。向こうはパートナー制度が整ってるから、同性でも暮らしやすい。ただ……俺は就労ビザで渡航できるけど、盟はそうじゃない」
「……?」
俺は「なんで?」と聞くと、「盟の足じゃ…まともに働けないだろ?」と返ってきた。それに、と続けた雪也は「向こうの仕事が先に見つからないと就労ビザは降りない」…つまり、俺は最初から就労ビザで渡航することはできないのだ。
「今のような…俺が盟を養う様な感じで、まともにやるとすれば、日本で俺の戸籍に盟が養子縁組をする。それで俺が就労ビザ、盟は家族ビザになる。これならビザはクリアできる。…でも……イギリスは入国のときに英語能力テストがある。それを超えないと、盟は入国できない。本気で二人で行くつもりなら……盟が死ぬ気で英語を覚える覚悟がいる」
「なるほど…。」
「答えは、今聞かない。よく考えていいよ。すぐ決まるほど簡単な話じゃないから……」
そう言って、雪也は何も発しなくなって、いつの間にか寝息が聞こえてきた。
────翌日。
「…あのさ」
コップをテーブルに置いて、俺は視線を雪也に向けた。
「英語、やるって言ったら…本当に、ちゃんと教えてくれる?」
「本当にいいの?海外…それもイギリスに行くんだよ?暫くは毎年ビザ更新しに一旦帰国するけど、5年後永住権取れるようになったら、俺は確実に取るよ?それに…戸籍だって…いいの?」
「ユキが隣にいるなら、俺はどこでもいい。そのためなら、英語だって死ぬ気で覚える。戸籍だって、指輪貰っておいて今更嫌とかないよ」
「やる気があるなら、やろう。…言っておくけれど俺、英語は容赦しないよ?」
「こわ…」
苦笑いしながら、またコップを持ち上げる。
リンゴジュースの甘さでほっとするのに、言葉だけはなんだか身構えさせる。
「じゃあ、明日から始めよう。…まずはbe動詞から」
「え、いきなり中学一年生のやつ?」
「基礎は大事だよ。…それに、きっとbe動詞すら怪しいでしょ、盟は」
「……ぐぅの音も出ない」
雪也は席を立ち、寝室に向かう途中でぽつりと振り返った。
「それと、発音はみっちりやる。…口の動き、ちゃんと見せてね?」
「な、なんかいやらしい言い方すんなよっ!」
「盟ってば、変な想像しすぎ」
そんな軽口を交わしながら、二人は夜支度に向かった。
────数日後の昼下がり。
雪也が壁向きに、パソコンデスクで二枚のディスプレイを使いデザイン仕事をしている間、少し離れたリビングテーブルの上には新品の英語ドリルとノート。
俺は鉛筆を握りしめ、眉間に皺を寄せて「be動詞 am, are, is…」を唱えていた。
「声に出して、耳から覚えるんだよ」
「わかってるけど…なんかもう、この字面が睨んでくる…」
「睨まれてるのは盟の集中力ね?」
「ちょっと怖いこと言わないで」
リビングのデジタル時計が時を刻む。
冬の日差しがカーテン越しに柔らかく差し込み、俺の髪を淡く照らす。
夕方、雪也が仕事の手を止めると、背伸びをして口を開いた。
「今日はここまでにしようか。…明日は俺が出社で居ない間、モモさんホトケさんに頼んであるからね?医者の英語指導してもらえるなんて滅多にないよ」
「えー…モモさんに英語教わるの?なんか俺の英語レベル笑われないかな…」
「盟、あの人の本当の軽口に耐えられたら、入国審査の質問くらい余裕だよ」
翌日、俺は雪也のマンションからバスを使い、佛斑と天原と互いの家の中間地点にあるカフェで合流した。
俺の服装の変化や、髪型にびっくりした二人は「人違いでは…無いよね?」としきりに聞かれた。
そのやり取りも「もうええわ」とここに関西人が居ないのに関西風に笑って止め、3人で入店した。佛斑が天原と俺の飲み物を聞き、一人オーダーカウンターへ行く。天原はカフェオレ、俺はブラッドオレンジジュース。
佛斑はオーダーカウンターで決めるんだろうが、カウンターからよく通る声で聞こえてきた佛斑のオーダーはホットコーヒーだった。
場所取りを頼まれた俺と天原は、カフェの席に腰を下ろすや否や、リュックから単語帳、参考書とノートを取り出すように天原に指示された。そして、「早速始めようか」とニッコリする。
「はい生徒くん、まずは発音チェックからいきましょうか。Repeat after me……」
そのテンションで来たので、一応乗っておく。
「先生、いきなりテンション高いですね…」
「英語は勢いが大事なんだよ、盟君」
「そ、そうなんですか…?」
オレンジジュースを片手に、盟くんは発音を繰り返し、時々佛斑も横から「今のは悪くない」と口を挟む。
「一ノ瀬君、文法は苦手でも耳は悪くないな」
「それ、褒めてます?」
「褒めてる。…ほら、続けろ」
日々の勉強は、時に真剣で、時に笑い混じり。
少しずつ単語が増えていくノートのページに、俺の指先は鉛筆の木の匂いを残していった。
暖房の効いた居間。俺が冬になって寒くてリビングのソファーでブランケットに包まって生活することが増えたので、見兼ねた雪也がネット注文した、ソファーに座りながら入れる高足こたつに潜り込み、英単語帳を膝に置きながら、雪也の横顔をチラチラ盗み見ていた。
「…集中」
「してるよ」
「声に出して」
「…apple、banana、carrot」
「野菜はcarrotしかないね」
「…じゃあ、onion」
「いいね。その調子」
小さなやり取りの中にも、どこか家庭的な空気が流れる。
外は粉雪が舞い、窓辺のカーテンが暖色の灯りに揺れていた。
数日後、俺はまた天原と佛斑とカフェで英会話練習をしていた。
「じゃあ、自己紹介やってみようか。Hi, my name is…」
「え…Hi, my name is…a…Me…i?」
「そこで迷子にならないの。a…Meじゃなくて、ちゃんとメイって英語っぽく発音」
「め…めぇい…」
「羊かな?」
「やめて、モモさん!」
恥ずかしくて口を押さえて俯く俺に、横から佛斑が「やっぱり、発音は悪くない」とぼそっとフォローする。
「ほら、ホトケは優しいなあ」
「モモがふざけ過ぎなだけだ」
夕食の後、「これだけは盟君に大事なフレーズだから」と医者の時の真面目な顔をした天原から習った呪文みたいに長い英語のフレーズを口ずさんでいると、雪也さんが台所から「それ、この前よりスムーズになってる」と言った。
「ほんと?」
「うん。…やっぱり盟は、覚えるのは早いね」
「そ、それほどでも…」
「そこは“Yes, I am”って答えるとこだね」
「…Yes, I am」
雪也が笑う。
その笑みは、英語の成績よりも、俺が少しずつ自信を持ち始めていることを喜んでいるようだった。
勉強を重ねる中で、ふとした瞬間に雪也が何か考え込むような目をするような姿を何回か見かけた。
「どうしたの?」
「いや…盟が英語を覚えるほど、向こうでの生活が現実になるなって思って」
「…俺、本当に行けるかな」
「行けるよ」
その夜、勉強を終えてテーブルの上の単語帳を片付けていると、雪也がふと手を止めた。
視線はテーブルの端に置かれた封筒へ向けられている。茶色いクラフト紙の封筒には、書類の束が入っているらしい。
「…ユキ、それ」
声をかけると、雪也は短く息を吐いて、俺の方を見た。
「盟…、盟は、本当の名前と生年月日、知りたいと思う?」
唐突すぎて、息が詰まった。
言葉を失った俺に、雪也ははっきりと言った。
「はっきり答えていい。俺が勝手なお節介で調べてもらったことだから。知りたくないなら、この情報は俺も忘れるし、資料も全部燃やして捨てる」
「……俺の名前と生年月日…あるの?」
「誰でも持ってるものだから、そりゃね。盟は戸籍登録されてなかっただけで、本当の名前を呼ばれてたときは赤ん坊だったから覚えてなかったんだ」
胸の奥に、得体の知れない重みが沈んでいく。
「…聞きたい。俺、ほんとは何者なの?」
雪也はしばらく黙った後、ゆっくりと口を開いた。
「……2001年4月20日生まれ……。『立花かりん』。それが、盟の母親がつけた名前だよ」
俺は瞬きもできず、ただその音を耳でなぞっていた。
『かりん』────甘く、やわらかい響き。
でも、それが自分の名前だという実感は、どこにもなかった。
雪也の声が続く。
「母親は若くして結婚したけど、旦那からのDVで家を飛び出して逃げてる間に妊娠がわかった。女の子を望んでたけど、生まれたのは旦那と同じ性別の男の子。どうしても旦那の子供にしたくなかったから、出生届を出さなかった。そして、可愛く育てれば女の子になってくれると思い、『かりん』と名付けた。でも、成長するにつれて男の子の片鱗が見えてくる『かりん』に、母親は育てる気を失った…その後は盟が知ってる通りだよ」
部屋の中は静かだった。
暖房の小さな唸りだけが聞こえる。
俺は唇を噛み、足先を見た。
「……立花かりん、か」
その名前は、俺の中で氷のように冷たく、遠い。
だけど今、こうして呼ばれてきた『盟』という名前は、確かに熱を帯びている。
それが、何よりもはっきりとした感覚だった。
「……母親は、そのうち水商売で働き始め、酒と薬に溺れて、『かりん』を置いて他の男と家を出た。児相と警察が盟を見つけたあとは母親は逮捕。児童虐待より罪の重い傷害罪で13年服役した。服役中、酒も薬も抜けて、今までの行動に反省したらしく、頻りに弁護士に『かりんに会いたい』と言っていたそうだ」
…雪也は続けた。
「出所して何年かしか経ってないから、まだ保護観察中で、今勤めてるところと、連絡先まで一応知ってる。………母親に会ってみたい?」
雪也の問いは、淡々としているのに、やけに重く響いた。
俺は少し考えてから、首を横に振った。
「…遠くで眺めるだけでいい。会っても…きっと俺、何も言う事無いと思うから」
俺の言葉に雪也は黙って頷き、それ以上は何も聞かなかった。
数日後の午後、冬の曇り空の下、雪也は車をとある印刷工場の脇道にある裏門に停めた。
窓の外には、灰色の壁と鉄の扉、そして搬出口の段差。
外気は冷たく、車の中はフロントガラスが吐いた息で端から曇る。
しばらくして、出荷口から作業着姿の女性が段ボールを抱えて現れた。
髪は後ろでひとつに束ねられ、背は思っていたよりも低い。
手袋越しに箱を抱える姿は、淡々とした動作の繰り返しのように見えた。
…顔は、無表情の時の俺とよく似ている。
「今のが────立花咲江。盟の本当のお母さん」
雪也の低い声が、車内に落ちた。
俺は一つ息を吐いた。足の間に置いていた杖をくるりと一周回して、口を開く。
「……うん、ありがとう。もう…いいよ。…今後、会うこともない」
目を伏せて言うと、雪也は小さく「分かった」とだけ返し、車を発進させた。
帰り道、外はすっかり暗くなり、街灯の明かりが車内に流れ込む。
俺は窓に映る自分の顔をぼんやり見つめながら、かすれた声を出した。
「……俺、何も思わなかった。あの人がお母さんって言われても。少し…街行く親子連れを見るたびに『お母さん』に憧れたことはあったけど…あの人見ても何も感じなかった。────ユキから聞いた話は、お母さんが会いたいのは『立花かりん』で、『一ノ瀬盟』じゃないから…。……俺じゃないから」
雪也は何も言わず、運転する手をほんの少し強くハンドルに添えた。
しばらくして、信号待ちでふいに俺の頭を引き寄せ、自分の肩に押しつけた。
その温もりに、俺はただ一筋涙を流して目を閉じた。
マンションに戻ると、部屋の中は昼間のまま冷えていた。
暖房をつける音と同時に、キッチンで湯が沸かすがする。
「…飲むでしょう?」
雪也が差し出したのは、マグカップから立ちのぼる湯気。
ほんのりとカカオの匂いが広がる。
「……ココア?」
「うん、甘いやつ。…前に、甘いカフェオレを作ったとき、ミルクのせいでカフェオレの甘みがボケて、美味しくないって言ってたから。ココアならどうかなって」
いつの間にか俺のものと化していた北欧デザインの赤いマグカップ。受け取ったマグカップは両手にすっぽり収まって、指先からじんわりと温まっていく。
一口飲むと、舌の奥でかすかに感じる甘さが広がって、胸の奥がじわっと熱くなった。
そのまま、ちょっとだけ目頭も熱くなった。
「…っ…あったかい…」
「今日はもう何も考えなくていいよ。…もう、お風呂入って寝よう?」
それを聞いて頷いて、もう一口だけ飲む。
外の冷たい空気がまだ頬に残っているのに、口の中だけはやけに甘かった。
風呂を終えて、寝室のドアを閉めると、外の冷たい空気は完全に遮断される。
布団に潜り込むと、厚手の掛け布団がすぐに体に沿って沈み、外の世界との境界が消えていった。
俺は背を向けたまま、雪也の腕が自分の腰に回され、それに手を添えた。
その腕に包まれると、不思議と呼吸が深くなった。
「……あの工場のこと、もう考えなくていいよ。……ただ、俺は名前を付けてもらってたことを知ってほしかった。『名前が無かった』訳じゃないって」
耳元で囁く声は、低くて、少し掠れている。
俺は答えず、小さく頷くだけ。
「あの時病院でパニックで盟が叫んだときに……俺はちゃんと知りたいって思った。だから、弁護士の父のツテを借りた…。ごめん、勝手に調べて」
謝るように、俺の後頭部の項の辺りに額をつけた雪也に、俺は枕に顔を擦り付けるように首を振った。
「別に…ユキがそうしてくれたおかげで、俺は…知らなかったこと、知ることが出来たから…」
「…もう、一旦、考えるの…終わりにしよう。……盟のために」
そう言って、雪也はまた腰に回した手に力を込めた。
さらに密着した雪也の胸の鼓動と、自分の鼓動が、布団の中で混ざっていく。
遠くで風が唸っているのに、この小さな空間だけはあまりにも静かで、ぬくもりが濃かった。
やがて、瞼が重くなり、意識が深いところへ沈んでいく。
最後に感じたのは、背中を撫でる手と、甘いココアの残り香だった。
英語の勉強は、もう生活の一部になっていた。
朝食のテーブルでも、夜ベッドに入る前でも、雪也は容赦なく簡単な質問を投げてくる。
「This is a pen. …はい、訳は?」
「……これはペンです」
「うん、正解」
そんなやりとりを繰り返す日々。夜勤明けの日や、完全オフの日、雪也が出社して仕事が長引く日は、天原や佛斑が入れ替わりで教えてくれた。
天原は、発音が多少崩れても気にせず、やたら日常会話を増やそうとする。
「So, what do you want to eat for dinner today?」
「……カレー?」
「Oh, curry! Good choice!」
大げさに褒めてくるから、間違っていても悪い気はしない。
一方、佛斑はやけに発音にうるさい。
「違う。“think”は舌を出して。……そう、th、th、そうだ」
「……しんく」
「th、th、ほら、笑うなモモ」
口元をぐっと押さえて笑いを堪える天原を横目に、俺は何度も舌を動かした。
そんな日々が続いて、ある夜。
夕食を終えて食器を片付けたあと、雪也が唐突に言った。
「そろそろ、実戦してみない?」
「じっせん?」
「うん、机に向かって勉強するんじゃなくて、人と話す練習」
「え、もしかして…外人さんと?」
「まあね」
ふふと笑って、時計を確認してからスマホを取り出すと、何やらメッセージを送った。
「ダニオはイタリア人だけど、イギリス在住で癖の少ないキレイな英語を喋れるから。────…この前のバケーションの案内で、散々俺を振り回したツケを払ってもらおうか。…俺は高いよ、ダニオ…?」
その言葉を話す雪也は少しからかうようなイジメっ子の顔をしていた。
数分後、リビングに持ってきたタブレットの画面に映ったのは、金髪で笑顔の細面の男性。
『Yukiya! Long time no see!』
「It’s been a while, Danio.」
雪也と軽く英語で挨拶を交わしたあと、画面の向こうの彼は俺に視線を向けた。
『So, you are… Mei?』
「……Yes, I’m Mei. Nice to meet you…」
『Nice to meet you too!』
声がほんの少し震えたけど、なんとか言えた。ダニオはゆっくりと、わかる単語だけを選んで話しかけてくれる。
『Do you like London?』
「……I don’t know yet. But… I want to go.」
『Good! You will love it!』
その笑顔に、少しだけ緊張がほどけた。
短い会話だったけど、通話を終えたあと、雪也が言った。
「ちゃんと会話になってたよ」
「……ほんと?」
「ほんと」
その言葉が嬉しくて、ちょっとだけ顔が熱くなった。
でもその夜、ベッドに入って天井を見上げていたら、ふと考えてしまった。
「もし俺が向こうに行くとなったら、名前、どうするんだろう…。」
ぽつりとつぶやいた俺に、雪也は目を閉じたまま、「そうだね…無理ない程度に考えといて」とだけ言った。
あの英会話から数日たった。
天原・佛斑の家のリビングテーブルの上には、ホワイトボードと参考書、それにコンビニのカフェラテやジュースやらお菓子やらが散らばっている。もうかれこれ5~6時間はテーブルに向かって、チョコレートやら飲み物やらを飲食しながら、ホワイトボードとノート、単語帳とにらめっこしている。
集中力も切れかかった頃だった。
「はい、repeat after me」
天原がマーカーを持ちながらゆっくり言う。
「beach」
「……ビッチ」
その瞬間、向かいに座った佛斑が「ぶっ」と飲み物を吹き出し、派手に噎せ返り、その隣の天原も腹を抱えて笑い出した。
「いやいやいや盟くん、それ海じゃなくて…」
天原が説明しようとすると、横で佛斑が噎せたせいで顔を真っ赤にして、見たことないほど笑っている。
「ち、ちが…!だって…!発音、難しいんだって!」
俺は両手で顔を覆って抗議するが、その姿がまた二人を笑わせる。
ちょうどその時、玄関が開く音がして、大きな筒のデザイン画用のケースを抱えた雪也が天原・佛斑の家に帰ってきた。
「ただいま……って、なにこの笑い声、二人とも」
勝手知ったるマンションの玄関で靴を脱ぎながら怪訝そうに部屋に入り、俺の隣のソファーに腰を下ろす。
天原がすかさず笑いながら暴露した。
「ねえ百舌君、あの性的なことに免疫の無い盟君がさ、『ビーチ』を『ビッチ』って…!」
「モモさん!!言わないで!!」
俺が顔を真っ赤にして机に突っ伏すと、雪也は肩を揺らして大笑いしながら肩に手を置いた。
「……発音いいよ」
そう言って、わざと褒めた。
「しつこいっ!!」
俺は顔を上げてさらに真っ赤になると、もはや茹でダコ状態だ。
全員がまた笑いに包まれる。
笑いが落ち着いた頃、ホトケが急に真顔で、低い声で言った。
「……でもな、発音はマジでいい」
「そこ褒められても!」
俺のツッコミに、部屋は再び笑い声で満ちた。
「…まあ、スペルミスより発音ミスの方が、上達しているなによりの証拠かな」
雪也はそう言って、肩を叩いた。
俺は口を尖らせ、悔しくて口の中で「beach、beach…」と繰り返した。
この日、帰る頃になって俺の本当の誕生日と本名を二人に話したが、二人とも「どっちの名前も素敵だ」と言ってくれた。
その温かい空気の中、窓の外はすっかり夕暮れに染まり、冷えた空気が冬の匂いを運んでいた。
────夜。
寝室のサイドテーブルの照明は柔らかく、外の街灯がカーテン越しに滲んでいる。
俺が歯磨きを終えて戻ると、雪也は枕にもたれて座っていた。
「……ねえ、そろそろ役所に行こうか」
「え?」
「養子縁組と、パスポートの申請。一緒に」
俺の笑顔が一瞬固まる。胸の奥に母親の顔、本名の二文字が浮かぶ。
「……うん」
…この返事をしたとき、俺はどんな顔をしていたか分からない。
役所に行こうか、と会話から数日、俺が風邪を引いたせいで間が空いてしまった。それでも、時折様子を見に来ては「大人しく寝てなさい」と注意する雪也に隠れて、ベッドの中でずっと単語帳を捲っていた。
やっと風邪の症状も治まり、仕事前に家まで診察に来てくれた天原のゴーサインが出たところで三人で出掛けることになった。
車内は、暖房の低い音と、タイヤがアスファルトを撫でる音だけが響いている。
運転席の雪也は、ハンドルを握る手の力加減まで慎重なように見える。
助手席の俺は、書類の角を無意識に何度も指でなぞっていた。
「そんなに緊張しなくて大丈夫だよ」
夜勤前の昼だというのに、心配だから、と家で診察したまま着いてきてくれた天原。
俺のすぐ後ろの後部座席から、天原がふっと笑う声がした。コンビニドリップのコーヒーを持ったまま、ミラー越しに視線を送ってくる。
「…別に、緊張してない、ですけど…」
そう返すものの、握った書類がわずかに震えているのを自分でもわかっていた。
雪也は前を向いたまま、安心させるように口角がほんの少しだけ上がった。
「…大丈夫。俺が一緒にいるよ」
その低い声は、エンジン音よりも静かに、確かに俺の耳に届く。
信号で停まるたびに、窓の外の街並みが少しずつ変わっていく。
役所の庁舎が視界に入ったとき、俺は深く息を吸い込んだ。
障害者用の駐車場に車を止め、車を降りて、ドアを閉める。雪也が車のロックをしたのが聞こえた。
右手で持った杖の木の取っ手が、指先の熱を吸い取るように冷たい。
杖先がアスファルトを叩く乾いた音が、ひとつ、またひとつと響き、足取りを慎重に刻む。
近づくにつれ、外側の自動ドアの向こうで淡い蛍光灯の光がぼんやりと滲んで見える。
その内側から、暖房の混ざった空気がわずかに流れ出してくるのが、冬の冷えた頬に心地よい。
雪也も、俺の歩幅に合わせてゆっくりと歩く。
背後からは天原が、足音をほとんど立てずに付いてきているのが分かった。
ガラス越しに見える受付の人影や書類の山、奥に並んだ椅子までが、やけに現実味を帯びて迫ってくる。
胸の奥の鼓動が、冬の外気よりもずっと速く、熱く脈打っていた。
内側の自動ドアが小さく開く音とともに、冬の外気が背中から押し出されるようにして、暖房の効いた空気が頬を包んだ。
乾いた紙とインクの匂い、遠くで響く書類をめくる音、足音や小さな会話が混じり合っている。
「……行こうか」
雪也の低い声が、背中をそっと押す。
俺はゆっくり頷き、杖先を床に置いて、一歩を踏み出した
足裏に伝わる床の硬さが、妙に現実的で逃げ場を与えない。
天原が後ろから静かに付いてくる気配が、何よりも心強かった。
けれど、それ以上に────
(ここで俺の『名前』を、決めるんだ)
そう思うと、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
受付までの短い廊下は、たった数十歩なのにやけに長く感じた。
杖の先が床を軽く叩く音が、周囲の雑音の中でやけに鮮明に耳に届く。
「大丈夫だよ」
横に並んだ雪也が、聞こえるか聞こえないかの声で囁く。
その一言に合わせるように、天原が後ろから「ほら、背筋」と小さく声を掛けて肩を叩いた。
俺はほんの少しだけ息を吸い込み、吐き出す。
視線の先には、淡い色のカウンターと、座っている女性職員の落ち着いた微笑み。
(──この数分後、自分はペンを持って、名前をどちらか選んで書くんだ……)
杖を突くたび、わずかに手のひらへ響く衝撃。
その感触と、靴底が床を擦る音が、耳の奥で何倍にも膨らんで聞こえる。
歩幅は自然と狭くなり、足先が廊下の模様をひとつ、またひとつと踏み越えていく。
ただの役所の床なのに、まるでそこに線が引かれていて、その先に行けばもう後戻りできないような気がしてならない。
(……本当に、これでいいのか。)
『かりん』じゃない。ちゃんと『盟』として生きていく。
それは何度も自分の中で答えを出したはずなのに、いざこの場に立つと、胸の奥がざわついた。
横を歩く雪也の肩越しに、受付のカウンターが見える。
あの場所に座ってペンを取れば、今度こそ決定になる。
後ろから天原の「背筋」という短い声がして、少しだけ肩が伸びた。
(………大丈夫。大丈夫。)
自分に言い聞かせるように、ゆっくりともう一歩を踏み出した。
カウンターの前まで来た瞬間、俺は無意識に深く息を吸い込んだ。
窓口の職員が微笑みながら「本日はどういったご用件で?」と尋ねる。
胸の奥が一度ぎゅっと縮まり、言葉が喉に引っかかったが、隣から雪也の「大丈夫」という短い声が落ちてきた。
「…養子縁組の手続きで来ました」
自分の声が、思ったよりもはっきりしていた。
「どなたの養子ですか」と聞かれ、雪也が「俺です」と言ってマイナンバーカードを出した。
職員は頷き、マイナンバーカードを読み込ませて少しデータを出すと書類とペンを差し出してくる。
手元に視線を落とすと、そこには自分の新しい戸籍の欄。
「氏名」という二文字の右に、空白が広がっている。
背後から天原が、聞こえるか聞こえないかの声で「落ち着いて書けばいいよ」と囁く。
そう言われて、ペンを握った指先にじわりと汗がにじむ。震える手。
だんだん背筋に冷や汗も流れる。呼吸が冷たいものしか入ってこなくて、手の震えが大きくなって、一旦ペンをおいた。
肩に、温もりが来て、顔を上げたら雪也が肩に手を置いていた。反対側からは背中をポンポンと落ち着かせようとゆっくりあやす天原の手。
────『かりん』じゃない。何年も、何度も何度も数え切れない程、雪也に呼ばれてきた、『俺』の名前。
俺はもう一度ペンを握って、一画目を書き始めた。
「……『盟』」
静かにペン先が紙の上を走る。
最後の一画を書き終えた瞬間、胸の奥で長く滞っていた何かが、少しだけほどけた気がした。
雪也が横から覗き込み、ふっと笑う。
「うん、やっぱり似合ってる」
俺は答えず、ただ少し唇を結んだまま、書類を職員へ差し出した。
同時にパスポート申請もして、外に出ると、冬の空気が冷たく頬を刺した。
駐車場の隅に停めてあったSUVにゆっくり乗り込み、シートベルトを締める。
ドアが閉まる音と同時に、車内にしんとした静けさが落ちた。
エンジンがかかり、ハイブリッド車独特の低い振動が足元から伝わる。
雪也は何も言わず、しばらくそのままハンドルを握っていた。
雪也が信号待ちでふと視線を俺に向けるのに気が付かないくらい、俺は膝の上に手を置き、書き終えた名前をまだ心の中でなぞっていた。
「…重かった?」
不意に雪也が聞く。
「……うん。ちょっとだけ。でも、軽くもなった」
雪也はそれを聞くと、アクセルを緩く踏んだため、視線を前に戻したまま、それでも少し口元が緩んでいる。それ以上深く聞かず、代わりに片手を伸ばして俺の髪をぐしゃりと撫でた。
「じゃあ、帰ったら甘いココア淹れるよ」
「…子ども扱い」
小さく笑った盟の声が、暖房の効いた車内に溶けていった。
これから仕事の天原をマンションに送り、家に戻ると、外の冷たさが嘘のように、室内は柔らかな暖かさに包まれていた。雪也がスマホの遠隔操作で暖房のスイッチを入れていたらしい。
俺は黒いブルゾンを脱いで、ハンガーに掛けた。
雪也がキッチンでココアを作り、湯気の立つマグカップをテーブルに置く。
「熱いから、少し冷まして」
湯気越しに見える雪也の笑顔が、今日一日の緊張をゆっくりと溶かしていく。
俺は両手で赤いマグカップを包み込むように持ち、香りを吸い込みながら小さく息をついた。
「…やっと終わった感じ」
その声はどこか安堵と、ほんの少しの名残惜しさが混じっていた。
雪也は答えず、ただ隣に座ってカップを手に取り、同じようにブラックコーヒーを一口飲む。
二人の間には、言葉よりも深い静けさが流れていた。
暖房の音と、時折カップがテーブルに触れる小さな音だけが部屋を満たしている。
────そして、数週間後。
パスポート受取日。
役所よりもさらに厳格な空気が漂う窓口で、受け取った真新しいパスポートを開く。
中にははっきりと「百舌 盟(Mei Mozu)」の名前。
思わず指先で文字をなぞり、胸の奥で何かがじわりと熱くなった。
「おめでとう、これで準備は整ったね」
雪也が小声で言い、俺は小さく笑ってうなずく。
その後、雪也は仕事の引き継ぎや事後処理、客先まわり、マンションの手続きと慌ただしく動き続けた。
合間を縫って、俺の大きなスーツケースや追加で俺の服と渡航で使えるボディバッグを買いに出かけ、薬のために大学病院にも通った。天原は渡航先のイギリスで使用可能な俺の薬を探すために診察室で険しい顔をしながらパソコンとにらめっこし、佛斑はロンドンの知り合いの医者宛ての紹介状と連絡を整えてくれた。
俺はコンビニバイトは他店舗も兼任店長してるため遭遇する可能性が少なかったので電話でちゃんと謝り、居酒屋には雪也と一緒に店長に「突然バイト辞めてごめんなさい」と謝りに行った。
酒瓶の並び替えをしていた阿井はいつの間にかバイトから正社員になっていて、ド派手な金髪ロングのウェーブも落ち着いた栗色のボブヘアになっていて、「えっ!いっちーも、ガチのイメチェンじゃん!つーかまじでエロカワ雰囲気増してね?」と言ったあと、「もう少ししたら、仕込みシフトで弓削っち来るから、ちょい待ってなよ」と笑った。やって来た弓削は相変わらずマッチョで、「お前がやめたのめっちゃ寂しいけど、これから頑張って」と短く、でも真っすぐに送り出してくれた。
もちろん店長の前橋さんも、「お前の足を見たら、いくらお前が有能でも『続けてくれ』とは言えねえよ。新天地、頑張れよ」と送り出してくれた。
そして、仕込み最中の開店前にも関わらず、「今日はいいネタ入ってんだ。寿司食ってけ、もちろん、俺の奢りだ。お祝い含めてな」と俺の背中を豪快にバンッと久しぶりに叩き、俺と雪也はご馳走になった。
最後、店を出る間際「あんちゃん、コイツ、海外行ったらきっと色々危ねえから、ちゃんと見ててやってくれな。頼んだぞ」の店長の一言に俺は一瞬ポカンとしたあと、「もちろん、手は離しませんから」の雪也の言葉で顔を真っ赤にした。
俺は家に帰ると、少しイメージチェンジを図った。
耳たぶだけじゃなく軟骨や耳の中、トラガスまでびっしり開けていたピアスを外し、両耳たぶにひとつずつだけ残した。舌ピアスもやめた。
残したのは一つは、初めて開けようとしたときに居酒屋バイトクルーだった弓削が「やらせて」とロッカーで開けてくれたやつ。二つ年下なのに面倒みの良い兄貴肌で、俺にやたらアクセサリーをくれる変わったやつだった。
もう一つは、居酒屋に同じ時期に入った阿井。豹柄と派手なピンクが好きな典型的なギャル。元バレー部とかで俺より背が高く、170cmの長身を使い、俺を弟扱いして、てっぺんから俺の頭を撫で回すのが好きなやつ。阿井も、弓削が俺のを開けてるのを見て、「えーあたしも!いっちーの開けたーい!」と一緒に開けてくれた。
あの二人が残してくれたものを、今の俺は無くせない。
──これくらいしか出来ないけど、俺なりのケジメの付け方だった。
他のピアス穴は自傷行為みたいに開けていたから、今はもう開け直す気もない。
「もう、自分を自分で赦してもいいか」そう思えたのだ。
ベッドに腰掛け、ベッドサイドで残った二つ以外のピアスを外し、片手いっぱいの金属の冷たさを握りしめる。
耳をかき上げながら寝室を出ると、ダイニングでコーヒーを飲んでいた雪也が、こちらを見て目を見開いた。
ちょっと反応が面白かったから、無言で「これも、」と言わんばかりに、雪也に向かってぺろ、とピアスの無い舌を出したら、更に開いた目から青い目玉が落ちそうになっていた。
「……っ」
何かを言いかけて、持っていたマグカップを落としそうになっていた。その視線に、少しだけくすぐったさを覚えた。
その夜は、不思議なくらい静かだった。
窓の外には冬の街灯が、オレンジ色のにじみを落としている。遠くでたまに車の音がするほかは、時計の針の音さえ耳に届く。
夕食を終えて、それぞれの荷造りはもうほとんど済んでいた。
リビングの片隅には、俺のシルバーの新品の大きなスーツケースと雪也のちょっと年季の入った黒い大きなスーツケース。タグも新しく、どちらも明日を待っているようにじっとしている。
ソファに座って、俺は何度目かのパスポートを手に取った。
表紙の濃紺はまだ新品のざらりとした手触りで、その中央の金色の紋章が、やけに頼もしく見える。
……これを持って、俺は海を越えるんだ。
ほんの数か月前までは想像もしていなかった未来。
「……緊張してる?」
キッチンでもう一杯淹れたマグを片手に戻ってきた雪也が、いつもの低い声で聞く。
「ちょっとだけ」
正直にそう言うと、彼はくすっと笑って、俺の横に腰を下ろした。
「大丈夫だよ。盟は頑張ってきた。もしこの先不安になりそう事があっても不安になる前に俺がその種を潰してあげるから」
その言葉は、冗談めかしているようで、妙に胸に落ちる重さがあった。
少し間を置いて、雪也の視線が俺の耳に止まる。
昼間外したピアスのことを、まだ気にしているらしい。
「……やっぱり、似合うね」
「え?」
「両耳にひとつずつ。『それで充分』って、盟が選んだ二つなんでしょ?」
スッと指先が俺の軟骨のピアス穴をなぞり耳朶まで辿り着く。
頬が熱くなる。どうしてこう、全部見透かされるんだろう。
テーブルの上には明日のフライト情報を印刷した紙が置いてある。そこに視線を落としながら、俺はふと窓の外を見た。
街灯の光が、薄いカーテン越しに揺れる。あの光の向こうに、明日からのロンドンが待っている。
「……楽しみだな」
ぽつりとこぼすと、雪也は「ね」とだけ言って、俺の肩に手を回した。
触れるだけの軽い仕草なのに、そのぬくもりが胸の奥まで沁み込む。
明日は早いのに、眠れる気がしなかった。
それでも、この夜の静けさごと胸にしまって、俺は雪也の横顔を見つめた。
まるで、長い夢の入口に立っているような、そんな夜だった。
────そして、出発の日。
東京から成田空港までは、やっぱり遠い。
朝の冷たい空気の中、改札を抜け、混み合う電車に乗り込む。最初は杖をついて踏ん張って立っていたが、数駅進んだところで、若いスーツの男性が俺の杖とヘルプマークを見て「どうぞ」と席を譲ってくれた。
礼を言い、お言葉に甘えて腰を下ろすと、雪也が前に立ち、つり革を握っている。
彼の背中越しに見える窓の外では、街がゆっくりと流れていった。
空港駅に着くと、そこからがまた長い。ロビーまでの道のりは入り組んでいて、方向感覚が狂う。人波に押されるたびに、頭が少しふらついた。
黒いキャップを深く被っていたが、人酔いは防げず、結局キャップの影で目を細める。
何度か壁際に寄って、雪也のコートの袖をそっと掴み、頭を寄せて小休止を取った。
そのたびに雪也は、俺のモコモコのフェイクファーの背中を静かに撫でてくれる。
最終的に、大きめのフードをすっぽりかぶり、マスクをつけて歩くことにした。外界を少しでも遮断して、余計な刺激を減らすためだ。猫耳は俺の気分と連動してるのか、へにょ、と伏せ耳になってるらしく、雪也は少し笑っていた。
やっとのことで辿り着いた空港のロビーは、冬特有の冷たい光が大きなガラス越しに差し込み、硬質な床を踏み鳴らす人々の足音と、天井から降り注ぐアナウンスが重なって響く。
スーツケースのハンドルを握る手に自然と力が入った。新品のそれは、これからの旅を象徴しているようで、少しだけ手汗で滑った。
雪也が振り返り、「大丈夫?」と小声で聞く。
俺は息を整えながら、こくりと頷く。
その瞬間、ここから先は戻れないんだ、と心の奥で静かに覚悟が芽生えた。
歩き出す雪也の背中を、俺は一瞬だけ見つめ、そして静かに杖をついてその後を追った。
雪也が先にスーツケースを押しながら、航空会社のカウンターへと歩き出す。
巨大なロビーの天井は高く、金属の骨組みとガラスが冬の光を反射している。どこからともなくコーヒーと焼き立てパンの香りが混ざり合い、行き交う人の衣擦れやキャスターの音が響く。
カウンター前で列に並ぶ。俺の後ろを歩く人のスーツケースが軽く踵に当たり、反射的に小さく肩をすくめる。そんな仕草に気づいたのか、雪也は俺の背中に片手を添えて「もうすぐだよ」と低く言った。
順番が来て、パスポートと搭乗券の確認が始まる。カウンターの女性がにこやかに「Have a nice trip」と声をかけるが、一瞬、返す言葉が出てこない。
それを察した雪也が横から「Thanks」と軽く返し、俺の背中を押すようにして次のエリアへ促した。
セキュリティチェックでは、杖を持っているため通常のレーンから誘導される。
係員の指示に従い、ゆっくりとゲートを通過する。金属探知機が静かに鳴ると、杖やアクセサリーの確認が行われるが、特に問題はなかった。
少しだけ緊張していた呼吸が緩む。雪也が少し海外スイッチが入り、喋る端々が英語混じりになってくる。「Good job」と囁き、さりげなく俺のキャップを整えてくれた。
出発ゲートへ向かう途中、巨大な窓の外に、出発を待つ機体が何機も並んでいるのが見えた。
その中に、自分たちが乗る便の機体があるのだと思うと、心臓の奥がじんわりと熱くなる。
雪也が自販機で水を2本買い、1本を差し出す。
「のど、乾いてるでしょ?ごめん、盟の飲めそうな甘いの無かった」
「……ありがとう」
ペットボトルの冷たさが手に心地よく、口に含んだ水が喉をゆっくり通っていく。
搭乗開始のアナウンスが流れ始めたとき、俺は改めて手元のパスポートを見つめた。
そこには、長い時間をかけて選び取った名前――「盟」が刻まれている。
雪也が横で、「行くよ」と静かに言う。その声は不思議と、緊張よりも安心を連れてくる響きだった。
二人でゲートをくぐり、長いボーディングブリッジを進む。
機内に入った瞬間、独特の空調の匂いとエンジンの低い振動が全身を包み込んだ。
これから始まる旅の重みを、ようやく実感した。
シートに腰を落ち着け、ベルトを締めると、ふいに雪也が座席の繋ぎ目に左手を差し出してきた。
自然とその手を取ると、指と指が絡まる。恋人繋ぎの温もりが、機内の冷えた空気にやわらかく広がっていった。
片手でフードを取り、マスクを取った俺の口が一文字に結ばれてるのを見た雪也はふふ、と笑った。
「まだ、緊張してる?」
「…ちょっと。…まあ、そもそも飛行機が生まれて初めてだし」
俺が俯いて言うと、雪也は笑いながら、軽く親指で俺の手の甲を撫でた。
「大丈夫。離陸してしまえば、あとは空の旅だよ」
エンジンの低い唸りが次第に大きくなり、シートがわずかに震える。
機体が滑走路を走り出すと、俺は少しびっくりして握った手に自然と力がこもった。
雪也はそれを受け止めるように、ほんの少しだけ握り返す。
やがて、地上が遠ざかり、窓の外に広がる雲海が視界いっぱいに広がった。
俺は手を繋いだまま、顔を窓に向ける。
冬の光に照らされた雲は、白い大地のように果てしなく続いていた。
(これからは…イギリスだ)
胸の奥で、その言葉をゆっくりと反芻する。
隣には雪也の温もり。手の中には確かな感触。左手にあるお揃いの指輪。
この空の先に、まだ知らない日々が待っている…。
そう思っていたら、右手からの温かさと先程の人酔いの疲れもあってか、どうやら緊張が緩んで30分程寝たらしい。シートベルトを外しても良い、というアナウンスもとっくにあったらしく、起きたときに雪也のシートベルトは外れていた。
そして、客室乗務員が目の前に来ていて、雪也が少しだけ話していた。
「ビーフ、オア、フィッシュ?」
機内食のカートを押していた客室乗務員が笑顔で俺にも問いかける。
俺は一瞬だけ雪也を見て、それからまっすぐ乗務員に向き直った。
「…S-sweet one, please.」
ゆっくり、でも練習通りの発音で。
その瞬間、乗務員が軽く笑って「Of course」と頷き、アイスクリームのカップを差し出した。
「……やるね」
隣で雪也が声を潜めて笑い、繋いだ手を離して俺の頭をくしゃっと撫でた。
「発音、完璧だった。俺が初めて教えたときより、ずっと良くなってるよ」
「…う、うるさい…」
耳まで赤くなった俺が小声で返すと、雪也はもう一度優しく撫でて、視線を窓の外へと戻した。
アイスクリームを食べ終わると、俺は疑問をぶつけた。
「…そういや、着いたら暫くはホテル泊まるって、最初言ってたけど」
俺は雪也を向いて、ぽつりと訊いた。
「うん。…最初はそのつもりだったんだ。そしたら、いきなり実は実家に泊まれ、って言われてね」
雪也が少し笑いながら、また繋いだ手を親指で撫でる。
「…父さん────イギリス人のハーフで、ジェームズ・百舌っていうんだけど。『俺にもメイ君を会わせてくれ』ってさ。メールだけじゃなくて、手紙にもわざわざ書いてきた。…あの人ちょっとしつこいんだ。」
「……俺?」
「うん。会えば、きっと盟を気に入ると思う。あの人、人を見る目だけは確かだから」
雪也はそう言って、少しだけ窓の外の青を見やった。
「だから、ちょっと実家に顔を出そうと思う。…盟、父さんの英語はめちゃくちゃ聞き取りやすいから安心して。俺より発音の癖がない」
「……複雑な安心のさせ方やめてよ」
苦笑いした俺に、雪也が小さく肩をすくめた。
「まあ、一泊くらいだけ…にするつもりだから。盟は父さんと無理して話さなくてもいい。隣に俺がいるから」
そこで会話が終わっていた。
ヒースロー空港につくまで12時間ほど、少し寝たりなど少しする。完全にはぐっすり眠れなかった。
着陸少し前、雪也は父親に対する注意事項を伝えてきた。
「そういえば、俺の父さん、俺の前では日本語と英語がごちゃ混ぜになるから、注意してね。一応ちゃんと日本語も英語も流暢に喋れるけど」
雪也が少し笑って言った。
「混ぜるって…?」
「例えば、『How are you, 元気?』みたいな。俺が英語覚えるまでよくやってたやつが、口癖になったっぽくて。本人は親切心なんだけど、英語をマスターしてから聞いてる方は脳がバグる」
「……俺、たぶん英語より混ぜ語のほうが混乱する…」
そんなやり取りをしているうちに、機内の照明が少しずつ明るくなってきた。
ヒースロー空港のロビー。
自動ドアが開くたび、外気の冷たさと、甘い焼き菓子とエスプレッソの匂いが薄く混ざって流れ込む。
長身の英国紳士が俺達を見つけ、まっすぐこちらへ歩いてきた。白に近いブロンドの髪、青色の瞳──雪也とよく似た鋭さを湛えている。
「Father. This is Mei, my partner(父さん、彼が盟。俺の恋人だ)」
雪也の紹介の英語に、男性──ジェームズは一瞬だけ眉を上げ、すぐに目尻をやわらげて右手を差し出した。
「Welcome to England, Mei.(イギリスにようこそ、盟)」
そう話すと、踵を返して「Come on!」と呼んだ。
外へ出る。湿り気を帯びた空気が頬に貼りつき、雲の切れ間から落ちる淡い光が、濡れたアスファルトを鈍く照らしていた。路肩に息を潜めるように、赤いジャガー E-Type 2+2 が佇んでいる。クロームのバンパーが曇天を映し、長いボンネットの曲線が冷たい光を受けて滑った。
俺は雪也に助手席のドアを開けてもらい、杖が車のフレームや内装に触れないよう神経を尖らせながら、革シートへ身を沈める。俺の分と雪也の分の荷物をジェームズは積み込むと、後ろのシートに雪也を乗せて、自分も運転席に乗り込んだ。
ドアが閉まると、旧車特有のやわらかい油と革の匂い。イグニッションの一噛みで、直列六気筒が腹の底に落ちる低音を響かせた。細かな振動が足元から背に伝わり、舗装の継ぎ目を踏むたびに「コトン」と軽い揺れが積もる。
「家まですぐさ。肩の力を抜きなさい。Morris という housekeeper がいる。困ったら mother みたいに、何でも相談するといい」
ジェームズの『混ぜ語』に、後部座席の雪也が小声で笑う。「父さんの混ぜ語、聞き取りづらくない?」
「……なんとか」
と答えると、ルームミラー越しにジェームズが口角を上げた。
「雪也の英語 training をしていたら、私の口癖がこうなったんだ。こいつは単語ばかり覚えて、フレーズが苦手でな」
「Stop it, it's such an old story...(やめてくれ、その古い話……)」
雪也が英語で返す。
「By the way, how many languages do you speak, Yukiya?(ところで雪也、今何カ国語話せるんだっけ?)」
「English, French, Italian, and I'm currently learning German.(英語、フランス語、イタリア語。ドイツ語は勉強中だよ)」
ジェームズの目がいたずらっぽく細くなる。
「Allora… Chi dorme non piglia pesci.(ふうん?……寝る者は魚を捕らえられぬ)」
いきなりイタリア語で挑戦状を叩き付けてきたジェームズに、雪也はフッと笑った。
「Qui n’avance pas, recule.(前進しない者は後退する)」
雪也は即座にフランス語で返す。
「Gut… Übung macht den Meister.(はっ…習うより慣れよ)」
ジェームズはドイツ語を話す。
「……Il faut battre le fer pendant qu’il est chaud.(……鉄は熱いうちに打て)」
まだ雪也が勉強中のドイツ語を平然と出してきた父親にムキになった息子は、フランス語をまた返す。
「Interessant… Quem não arrisca, não petisca.(面白い…危険を冒さねば何も得られない)」
雪也は両手を軽く上げ、笑って降参した。
「Alright, I give up, …父さん。ポルトガル語は無理だ。まだ勉強してない」
ジェームズの王手だったようだ。
話の内容は全く持って分からなかった俺だが、何かで話しながら楽しく勝負をしていた空気は感じ取れたし、その会話のレスポンスで、この親子が仲のいいことが分かった。…羨ましいと思った。
赤いロンドンバスが横を滑り、石造りの建物が途切れると、街路樹の緑が増えた。走行風が窓の隙間から忍び込み、雨上がりの石と古い木、どこかのカフェから漏れる紅茶とパンの甘い香りを連れてくる。全部が“初めて”で、視界は忙しい。胸の奥がきゅっと縮まる。
(もっと英語を、いつかは他の言語も。…ここでユキと生きるために)
随分郊外まで走った。何個かあるうちの一つの白い塀の前で減速する。
ジェームズがリモコンを操作すると、邸宅の黒いゲートが開く。砂利を踏む乾いた音が足元から伝わり、庭の奥に白壁と濃い木枠の大きな家が現れた。玄関まで進むと、白髪をまとめた女性が出迎える。エプロンの裾の刺繍には “Morris”。
車から降りると、両手を広げたモリスが近付いてきた。
「Mei! I’ve heard so much about you!(メイ、あなたの事はたくさん聞いてるわ!)」
抱擁は意外なほど力強く、けれど温かい。
『母親みたいに』頼れ、と言われていた言葉が胸の中で反響する。
…どう接すればいいのか分からない。それでも、この腕の温度は、抵抗なく体に染みた。
リビングに通され、慣れた手つきで雪也がコートをコート掛けに掛けた。俺も続いてモタモタとブルゾンを掛ける。
暖炉の火が薪を舐める音、真鍮のランプの柔らかな灯り。
ソファに腰を下ろすと、雪也が背筋を正し、ジェームズの目を真っ直ぐに受けた。
「父さん。勝手で申し訳ないけど──盟と養子縁組をした」
炎の光が、ジェームズの瞳の奥で揺れる。少しの沈黙。
両手で顔を覆って大きな溜息を吐いたあと、彼は立ち上がり、両腕を広げ、完全な英語で叫んだ。
「What on earth…! My God, Morris! I have such an adorable son now!(ああ、どうしようか、モリス!俺にこんな愛らしい息子ができたなんて!)」
「Today, we celebrate! Bring the finest champagne from the cellar!(まあ!お祝いですね!セラーからシャンパンを持ってきますわ!)」
モリスが「Oh my goodness!(最高だわ!)」と笑いながら、軽やかにキッチンへ消える。ジェームズは俺の肩を軽く掴み、正面から視線を合わせた。
「From now on, you are truly part of this family.(君はこれから、本当に我が家族の一員だ!)」
俺はその言葉を聞いて、頬を赤く染めた。
それから、暫く雪也とジェームズの世間話が続き、俺は黙って手元でキャップを触りながら時折返事を返す。不思議と居心地悪いとかはなかった。
「準備ができたわ!」呼びに来たモリスに手を取られてダイニングへ連れて行かれた。白磁の皿、磨かれたカトラリー、シャンデリアの光。キッチンからはローストの香りとバターの甘さ。
一度席に通されて雪也の隣りの椅子に腰掛けたが、迷った末、俺は意を決してモリスのもとへ歩く。
「Mo… Morris. May I tell you something?(モ、モリスさん…ちょっと話してもいいですか?)」
彼女が振り向く。
「Yes, dear?(どうしたの?)」
俺は一つ深く深呼吸した。
「My sense of taste… it only detects sweetness now. I can only taste sweet things.(俺の味覚…甘いのしか感じなくて…甘いものしか味が分からないんだ。)」
少しどもったけれど、天原と用意してきた『絶対使うフレーズ』はちゃんと口から出た。
「Oh, you poor dear! Then we’ll make plenty of sweets for you!(ああ、かわいそうに…!それならお菓子をいっぱい作ってあげるわ!)」
ふわりと抱きしめられ、肩の力がほんの少し抜けた。
乾杯のグラスが触れ合う。「To family.(家族に!)」
食卓のざわめきと笑い声。俺は「Thank you」を何度も口にし、そのたびに、この家の空気が体に馴染んでいくのを感じる。
翌朝。石畳に霜の気配。雪也が車庫の棚から 旧車のE-Type のキーを借りようとすると、「雪也!」と声がした。コーヒーマグを片手に見送りに出てきたジェームズが、完全な英語で短く言った。
「I have prepared yours as well.(お前の分も用意してある)」
放物線を描いて飛んできたのは、金属ではない、真新しいボタン式の車のキー。雪也が片手で受け取る。ジェームズが指先で示す先、冬空の下で深いブリティッシュ・レーシング・グリーンのボディが光る──ジャガー F-Type 75。最新型のジャガーだった。
「俺の旧車じゃ、盟が大変だろう?」
ジェームズはウィンクひとつすると、コーヒーの湯気をたなびかせて背を向けて家の中へ入っていった。胸の奥が温かく痺れた。
(…俺のために)
F-Type は、同じ六気筒でも鼓動が違う。低く滑らかな脈動が足元から伝わり、路面の微細なざらつきを包み隠す。片道およそ一時間、ロンドン芸術大学へ。濡れた舗装に、曇天と少しの霧雨。明かりが細長く伸び、信号待ちのたびに動かしたワイパーゴムが小さくきしむ。
雪也が大学で教授への挨拶と手続きを済ませ、俺は駐車場に止めた車の中で待った。30分くらいで戻ってきた雪也は、また少し車を走らせ、車をメトロの近くの駐車場に置いて、俺達はメトロに降りた。地下のホームは鉄とオゾンの匂い、構内アナウンスの英語が胸に直接触れるみたいに入ってくる。車内は温かく、人々の衣擦れが絶えない。
地上に出ると、少しバスに乗った。焼き菓子の屋台、紅茶の湯気、花屋の湿った匂い。視界の情報は多すぎるが、ひとつひとつ大事に拾っていきたい。片手に杖、片手は雪也のコートを握り黒のキャップの隙間から、観察をする。
ロンドンの街は、冬らしい鉛色の雲に覆われていた。
通りを走る赤い二階建てバスの窓が鈍く光り、石畳は夜明け前の雨をまだ抱いている。
石畳を踏むたび、細やかな震動が足の裏から伝わってくる。舗装の粗さが、日本のアスファルトとは全然違う。冬の曇り空、光は柔らかく拡散され、街全体が薄いフィルターをかけられたようにくすんでいるのに、ショーウィンドウの中は宝石みたいに輝いて見えた。
「…ねぇ、あれ」
俺が足を止め、ガラス越しに見入ったのは、細いチェーンに小さなストーンが一粒だけ光るブレスレット。雪也は少し後ろで、その視線の動きを黙って追う。
「気になる?」
「…あ、いや…ちょっと、見てただけ」
照れ隠しで視線を外すと、通りを抜ける風が頬を冷やした。風には焼きたてパンの香りが混ざり、すぐそこのカフェの扉から立ち上る。
「寒いし、中入ろうか」
雪也が軽く顎で示すと、盟は頷く。中は小さな丸テーブルがいくつも並び、磨き込まれた木の床から甘い香りとコーヒーの苦い匂いが立ち上っていた。
カウンター前で注文を待つ間、盟は黒板に書かれた『Elderflower Cordial』を見て小首を傾げる。
「ユキ…これ、なに?」
「エルダーフラワーコーディアル。ハーブのシロップみたいなやつ。炭酸で割ると甘くて飲みやすいよ」
「…じゃあ、それにする」
ぎこちない発音で店員に注文し、ちょっとだけ「通じた…」と安堵する。
窓際の席で、雪也はコーヒーを、盟は淡い金色のコーディアルを口にする。ほのかな花の香りと、シュワっとした泡が舌をくすぐり、思わず目を細めた。
「どう?」
「…うまい。甘い」
雪也はカップ越しに微笑んだ。その目が、さっきのショーウィンドウを一瞬だけ思い出させる。
カフェを出たあと、細い路地の古着屋やアンティークショップを覗きながら歩く。盟がアクセサリーの棚で立ち止まり、指でそっと触れると、その質感に心の中で小さく息をのむ。
(買えないのはわかってる。…でも、綺麗だ)
その後ろで、雪也がさりげなくレジで何かを包んでもらっていることには、俺は気づけなかった。
やがて、通りの先に大きな時計塔のシルエットが見えた。
「…あれって…ビッグベン?」
「そう。行ってみる?」
「…行きたい。日本のテレビで見たことあるけど…本物、見てみたい」
近付いてみると、観光地なだけあって人で溢れていた。石畳に響く靴音と、様々な国の言葉。俺は視線を泳がせながら、少し肩をすぼめる。やがて疲れが出はじめ、呼吸が荒くなる。苦しくなって杖に両手ですがりつくと、雪也が「休憩しよ」と声をかけた。
暫くビッグベンから離れると、少し楽になり、そのうちハイドパークに入った。ベンチに腰掛けると、冷たい木の感触がブルゾン越しに伝わる。雪也は近くのキッチンカーでアップルジュースとコーヒーをテイクアウトで買って戻ってきて俺に差し出した。
「ホットで甘いのなかった。アップルジュースだけどいい?」
「…ありがと」
少しずつ飲みながら、目の前の芝生の広がりを眺める。冬枯れの木々の隙間から覗く空は、相変わらず灰色だったけど、不思議と冷たくは感じなかった。
「馴染めそう?」
「…まだ、わかんない。でも…嫌じゃない」
雪也は笑い、「それなら十分」と答えた。
夕暮れ前、バスとメトロを乗り継いで駐車場まで戻るとF-Type75に乗り込んで、行きとは別のルートで帰った。家に着くと、雪也が車の中でコートのポケットから小さな箱を取り出す。
「はい、これ」
開けると、あのショーウィンドウで見たブレスレットが入っていた。
「……なんで」
「似合うと思ったから」
俺の骨ばった細い手首にそっと留められると、冷たい金属が体温でじわりと温まっていく。俺は俯きながら、小さく笑った。
(…指輪以外の、はじめての…アクセサリーのプレゼント、だ)
玄関を開けると、外の冬の冷気が背中を押し返し、暖炉の熱が胸の奥まで入り込んでくる。
焦げた薪の香りと、キッチンから漂うロースト肉の匂いが、鼻腔をくすぐった。
「Welcome home!(おかえりなさい!)」
モリスがエプロン姿で振り向き、笑顔で出迎える。
リビングへ足を踏み入れると、ソファで新聞をたたんでいたジェームズが視線を上げた。
「So… what did you give him?(それで?…彼に何買ってやったんだ?)」
いきなりの問いに俺の心臓が跳ねる。
雪也は涼しい顔で「…Secret.(…秘密)」とだけ返した。
「Oh, come on…Mei.(んーおいで、盟)」
ジェームズは身を乗り出し、盟の手首を覗き込む。
「Let me guess… A necklace? No… too obvious. Earrings? Nah… too small. Bracelet, maybe?(当てようか…。ネックレス?…いや、わかりやすすぎ。イヤリング?…いや、小さすぎ。……さてはブレスレットだな?)」
その瞬間、青い瞳が袖の隙間から覗く銀の輝きに止まる。
俺は慌てて袖を引き下ろすが、遅かった。
「Ha! I knew it!(ほーら、やっぱりね!)」
勝ち誇った声と同時に、モリスが「Oh James, that's a celebration!(あら!ジェームズ、お祝いですね!)」と笑う。
「Indeed, Morris! Champagne!(まさにだよ、モリス!シャンパンを開けよう!)」
ジェームズが暖炉脇のキャビネットからボトルを取り出す。
ポン、と軽い音を立ててコルクが抜け、金色の泡が立ちのぼる。
暖炉の炎がグラスの中の泡を黄金色に染めた。
「To Yukiya and Mei.(雪也と盟に!)」
短い乾杯のあと、ジェームズが俺と雪也をまっすぐ見る。
「Next time, I’ll take you around myself. And I’ll buy you something even better.(次は俺が連れて行くよ。もっとすごいものを買ってやろう!)」
その真剣な響きに、俺の頬がじわりと熱を帯びる。
「…Thank…、you.(ありがとう…、ございます…)」
拙い英語で絞り出すと、ジェームズが嬉しそうに頷いた。
「You’re welcome, dear. Now, drink before it gets warm.(どういたしまして。さあ、温まってしまう前に飲んでくれ。)」
グラスを口に運ぶと、炭酸の刺激が舌先をくすぐる。シャンパンは俺の舌では味を感じ取れないけれど、不思議と美味しく感じれた。
雪也がさりげなく俺の背中を押すように手を添え、低く囁いた。
「See? You’re already part of the family.(ほらね、父さんはもう盟を家族の一員だと思ってる)」
(……悪くない。いや、それどころか──家族って、こんなに温かいんだ)
ブレスレットの冷たい感触と、暖炉のぬくもりが、胸の奥で静かに混ざり合っていった。
俺が今日の街並みの様子やコーディアルを雪也に「こう思った、素敵だった」と日本語で話していると、雪也はうん、うんと頷く。
ジェームズがシャンパンをもう一度俺のグラスに注ぎながら、モリスと視線を交わす。
「…You see them, Morris? Absolutely buzzin’, aren’t they?(…分かるかい、モリス。二人はとてもイイ感じだな?)」
モリスも頬をゆるめ、笑う。
「Oh, totally buzzin’. Can’t hide it at all.(ほんとね、全然ラブラブなのを隠さないわ)」
とからかうように返す。
(バズン…?)
俺はグラスを持ったまま、首を傾げた。話しつつもモリスとジェームズの英語に集中して耳を澄ませていたはずなのに、この単語だけ妙に引っかかる。
「…Buzzin’?」
小さな声で雪也に問いかけると、雪也は一瞬口元に笑みを浮かべて、視線だけで「あとで」と告げる。
「…I’ll tell you when we’re alone.(…二人きりになったら話すよ)」
その低い声に、何故か胸の奥がくすぐったくなる。
ジェームズはそれに気づいたのか、わざとらしくウィンクしてみせる。
「He’ll love the meaning, I’m sure.(彼は、きっと受け入れてる)」
モリスも「Oh yes, definitely.(私もそうだと思うわ)」と頷き、キッチンへ戻っていった。
(……なんなんだ、この家族。温かいのに、時々こうやって翻弄してくる)
そう思いながらも、俺はその空気に溶け込んでいく自分を感じていた。
シャンパンをよく勧められてしまい、そんなに酒の強くない俺は少しほろ酔いだったが、なんとか部屋に戻ると、夜のロンドンが窓の向こうに静かに沈んでいた。
遠くの街灯が霧にぼんやりと滲み、薄く開いた窓からは冷たい夜気がすべり込む。ほんのり潮の匂いと、どこかで焼かれているパンの甘い香りが混ざっていた。
遅れて入ってきた雪也はドアを後ろ手で閉め、少し意地の悪そうな笑みを浮かべる。
「で、さっきの“buzzin’”だけど──」
俺はベッドの端に腰を下ろし、無意識に前のめりになる。
「…あれ、どういう意味?」
雪也は窓際にあった椅子にゆったりともたれ、指先で宙をくるりと描く。
「イギリス英語で“すっごく幸せ”とか“テンションが上がってる”って意味。あの二人が言ったニュアンスは──」
彼はそこでわざと間を置き、唇の端を上げる。
「“お前ら、ラブラブだな”ってとこかな」
「……!」
熱が一瞬で首筋から耳までせり上がった。
「ラブラブって…」
声がわずかに裏返る。
「まあ、間違ってないけどね?」
雪也は片目を軽くつむり、ウインクを送る。わざとらしいその仕草に、胸の奥がくすぐったくて息が詰まる。
「…う~くそぉ……」
両手で顔を覆い、小さく吐き出すと、雪也は肩をすくめて笑って、俺の隣に腰を下ろした。膝がかすかに触れ、俺の鼓動が跳ねる。
「慣れてよ。こっちじゃ、そういうこと普通に言われるから」
落ち着いた声と、目の奥に漂う優しさ。その言葉が、壁の陰やランプの光と混ざってやわらかく胸に染み込んでくる。
(慣れたくない…いや、慣れたいのかもしれない)
心の奥で揺れる感情が、静かな部屋の中で波紋のように広がっていく。
外では、霧に包まれた街の向こうで時計塔の鐘が低く鳴った。
その音が合図のように、二人はふっと笑い合った。
窓から射し込む月明かりが、俺たちの肩越しに淡く落ちていた。
…俺は、雪也の肩に頭を乗せ、窓を見た。
ロンドンの空は、やっぱり灰色だった。
雲が低く、光がやわらかく拡散している。冷たい空気を吸い込むと、わずかに甘いパンの匂いが混ざっていて、それだけで異国に来たことを思い知らされた。
……今までのことを、思い返す。
施設の食堂で、どうしても食べれなくて、冷めたご飯を前に座っていた自分。
何を話せばいいのかわからず、目の前の子どもたちの声が、遠くの波の音みたいに聞こえていた。
そこに少し年上の雪也が来て、笑顔で隣に座ると「もう怒る人はいないから、食べていいんだよ」と言った日のことは、今でもはっきり覚えている。あの声がなければ、自分はきっと今も、食べれないままだった。
雪也が施設から居なくなり、高校を出てからの孤独、コンビニの蛍光灯、無表情で客とやりとりをするだけの毎日。居酒屋バイトでは良くしてもらったが、返事はいつも「うん」だけ。
そこに再び雪也が現れ、生活は大きく変わった。
あのときは再会は嬉しかったけど、雪也とのベッドは毎回怖くて、混乱して、それでもどこかで「この人となら」と思っていた。
倒れて入院するなんて出会いだったが、天原や佛斑に会って、初めて“守ってくれる大人”がいると知った。怒られることよりも、心配されることに慣れていない自分だったが、俺は戸惑いながらも、ちゃんと救われた。
左手の薬指にある指輪の感触が、少しだけ胸を温める。
あの日、退院して真っ先に美容室へ連れて行かれたこと。鏡に映った自分の姿が、知らない誰かみたいに見えて────その誰かを、少しだけ好きになれそうだと思った。
イギリス行きの決心がついて、それから。
英語を覚えるのは、意外なほど楽しかった。
間違えても怒られない。笑われるけどちゃんと訂正してくれる、できたらしっかり褒められる。
雪也は忙しいのに、俺ひとりで勉強させたことはなかった。
天原や佛斑も、まるで兄のようにそばにいてくれた。
今、その延長線上にロンドンがある。
車の中から見える街並みは、赤いレンガと古い石造りの壁、黒い鉄のフェンス。
歩道を行き交う人々のマフラーの色、足元で水たまりを跳ねる音。
全てが新しくて、まだ少しだけ怖い。
────でも。
隣には雪也がいて、その先には、モリスやジェームズが待っている。
もう、自分は一人じゃない。
家族、という形が、ゆっくりと胸の中に根を下ろしていくのを感じた。
少し間を置いて、欠けた月が少し翳った頃、雪也は静かに息を吸った。
「……見せたいものがあるんだ」
現実へ引き戻すように、雪也の声が落ちる。
振り向くと、穏やかな笑みと共に差し出された手がそこにあった。
指先は温かく、迷いのない力で俺の手を包み込む。
雪也の手は、指先こそ温かいのに、手のひらは少し冷えてて、ほんの僅かに力がこもっていた。
部屋を出て廊下を歩くたび、その力は微妙に強まったり弱まったり………まるで、言葉にしない逡巡がそこに混じっているようだった。
横顔を覗き見ると、雪也は無理に平静を装っているような笑みを浮かべている。
その目は、何度も何度も前を見据えたまま、瞬きを遅らせる。
まるで、歩を進めるたびに何かを確かめているかのようだ。
「……」
声をかけかけて、俺は飲み込む。
聞けば、きっと『今じゃなくてもいい』と引き返してしまう気がしたから。
階段を上がる足取りは重くもなく、軽くもなく、慎重な一定のリズムを刻んでいた。歩く速さは俺に合わせてくれている。
けれど、二階の廊下に差し込む月光の中で、その肩は一度だけ深く息を吐くたび、わずかに下がった。
そして、一つのドアの前で雪也は立ち止まる。
その瞬間、握られていた俺の手がほんの僅かに震えた気がした。
「………ここが、俺がアトリエとして使ってた部屋」
ドアノブにかけた手が、一瞬だけ固まる。
視線を下げ、唇を小さく結び、それから深く息を吸い込む。
──雪也の覚悟を固める音が、確かに聞こえた。
次の瞬間、金属の小さな音と共に、静かに扉が開いていった。
開いた部屋はアトリエというにはふさわしいほど床に敷かれた白い布は絵の具で汚れていたし、絵筆を立ててる筆立ても絵の具が垂れたのか、元の色がわからないほどカラフルになってる。イーゼルが部屋の中に三つ立っていて、そのうち一つ、キャンバスに白い布が掛かっているものに雪也は案内した。
雪也の手が、俺の背をイーゼルの真ん中に来るようにゆっくりと押し出す。
絵の具で染められた床の白い布がが月光に濡れたように淡く光り、その光を辿るように歩を進めると、視界の奥でキャンバスに掛かった白い布が静かに揺れていた。
乾いた油絵の匂いが、胸の奥に深く沈んだ記憶をくすぐる……ここには、知らないはずなのに懐かしい空気がある。
雪也が布に指先をかけた。
呼吸の音が、やけに耳に届く。心臓の鼓動が、やけに大きく響く。
布がゆっくりと外されていくにつれ、月明かりがその下に潜む色を優しく撫でた。
……そこにいたのは、幼い俺だった。
……ああ、これ、俺なんだ。
まだ細く、頼りなく、何も知らない笑み。
この頃の俺は、きっと未来のことなんて想像すらしていなかった。
何も守るものを持たず、ただ日々をやり過ごすしかなかった俺が。
雪也の記憶の中で、こんなにも大切そうに、こんなにも温かく描かれていたなんて。
気づけば、呼吸が浅くなる。
笑ってる。こんなふうに、まっすぐ。
脳裏に、あの薄暗い施設の部屋がよぎる。
固い畳、擦り切れた毛布、窓から差す夕日の色。
笑えなかった俺に、雪也が言った──
「もう怒る人は居ないから、食べていいんだよ」
それで初めて、施設でご飯を少しだけ口にした日のこと。
あれから雪也が居なくなってから何度も、世界から背を向けた。
けれど、再会して、いつも後ろから呼んでくれたのは雪也だった。
病室で、杖と指輪を渡されたときのぬくもり。
退院の日に、初めて美容室で見た、少しだけ明るい自分の顔。
英語の勉強で、ひとつフレーズを覚えるたびに「よくできた」と笑ってくれた時間。
──今、こうして、この絵と向き合えるのは、あの頃から繋いできた手が離れなかったからだ。
もう逃げない。
この先も、雪也と歩きたい。
喉の奥が熱くなり、息を呑む。
視界の端がじんわり滲んでいく。
指先まで震えてしまうのを、どうすることもできなかった。
「……Amazing…」
零れたのは、たった一言の英語だった。
自分でも驚くほど自然に出たその声に、雪也が柔らかく目を細める。
俺は、ただ見つめ続けた。
描かれた自分は、弱くても、確かに生きていた。
その姿が、今の俺へとつながっているのだと……初めて、心の底から信じられた。
「大学で絵を学んでから、帰国するまでずっと描いてた。…この笑顔をずっと覚えていたくて」
「そうだったんだ…」
「……俺…この絵以降、これ以上いい作品を描けてないんだ」
溜め息混じりに笑った雪也に、俺は見上げて声を掛けた。
「……なら、また…描いてくれる?」
自分でも驚くほど、頼るような声になった。
「もちろん。描くよ…描かせてよ──『盟』を」
「……俺、最初から『盟』で描かれてたんだ」
「そうだよ。俺の中じゃ、ずっと盟だ」
距離がなくなるまで、自然に近づく。
雪也の肩に額をそっと預けると、優しい手が頭に添えられた。
外の冬の月が二人を包み、静かに時間がほどけていく。
「……ありがとう」
俺はこの一言に、過去も、今も、未来も全部詰め込んだ。
額が触れたまま、雪也はそっと息を吐いた。
その吐息が、月光に淡く溶けていく。
雪也の指先が俺の後頭部を優しく支え、逃げ場を与えない。けれど、その手はかつてのように支配するためではなく、落ちないように、壊れないように包み込むためのものだった。
唇が触れる瞬間、胸の奥で小さな音がした気がした。
それは、ずっと固く閉ざしていた扉が、ゆっくり開く音だったのかもしれない。
……開いた扉の奥で気づいた。
俺は…ちゃんと『恋』をしてた。『好き』を知ってた。ずっと昔から、気付かないうちに。
柔らかく、深く、時間をかけるキス。
舌も歯も使わず、ただ温もりだけを確かめるように、静かに、静かに。
窓の外では、冬の月が白く瞬き、世界をやさしく覆っている。
あの頃の俺を描いた絵も、今の俺たちも、同じ光に包まれていた。
この時間が永遠に続けばいい────そう思った。
唇が離れると、雪也は何も言わずに俺の頬に手を添えた。
その掌の温もりが、胸の奥にまで染み渡っていく。
言葉はいらない。もう十分伝わっている。
俺は小さく頷き、肩に額を預けた。
外の静けさと、部屋の温もりと、雪也の心音だけが、夜を満たしていた。
────まるで、この瞬間がエンディング曲の中で閉じられていくように。
リビングの光の下で封を切った雪也は、英語の文章を最後まで目で追うと、小さく息を呑み、何事もなかったように紙を折りたたむ。その仕草は整っているのに、指先の動きは妙にぎこちない。
「……ユキ、大丈夫?」
プリンの器を捨てようとキッチンの入り口に居たが、そこから俺が覗き込む。
「平気。……寝る準備してきな」
す、と手紙を大きな手の中に隠され、短く、それ以上を拒むような声。目を合わせずに返された言葉が、胸の奥で引っかかった。
寝室に入った俺はスマホを開き、天原にメッセージを送る。返事は思いのほか早く、すぐに着信が鳴った。夜勤の休憩中らしい。
『……電話のほうが早いと思って。…盟君、百舌君は、何に困ってる感じ?』
「俺が側に来ると、手紙を隠すんです。何の手紙かはわからなくて。でも、困ってるなら一人で抱えないでほしいし」
『ふむ……まあ、内容次第だよね、そういうのって…。柄とか、封筒の感じは?』
「国際郵便っぽい……」
『ああ、じゃあ百舌君のお父様かも』
「ユキの……お父さん?」
『イギリス在住って聞いたことある。弁護士してるんだよね、確か』
「べんごしさん……」
『もしかしたら呼び出しかなぁ……まあ、僕の推測だけど。…(PPPPPPッ!)…あ、ごめん、ちょっとピッチ鳴っちゃった。朝になったらまた電話するよ』
通話が切れると、部屋は時計の音すら飲み込むような静けさに包まれた。布団に潜り、暗がりの天井を見つめていると、寝室のドアがゆっくり開く。
黒いスウェット姿の雪也が入ってきて、何も言わずに隣に横たわる。枕に頭を落とした瞬間、顔を覆って深く長いため息が落ちた。
「……ねえ、どうかしたのか、聞いていい?」
俺は雪也の方を向いて慎重に言葉を選びながら尋ねる。
「俺に関係ないことかもしれないけど、困ってるなら……話くらい、俺だって聞けるよ」
布団を胸の前で抱えた雪也はしばらく黙っていた。その沈黙は、何を言うか迷っている時間であり、言わずに済ませたい気持ちとのせめぎ合ってるふうでもあった。
やがて雪也は、ふっと視線を落とし、低い声で語り始めた。
「……大学で俺の恩師がリタイアするんだ。もう高齢でね。それで、油絵の講師として、後釜に俺を推薦したいって話が来てる」
言葉に重みと、わずかな熱が宿る。
「イギリス、今のデザイナーの仕事を辞めて行ったっていい。でも、行くなら俺は盟と行きたい。向こうはパートナー制度が整ってるから、同性でも暮らしやすい。ただ……俺は就労ビザで渡航できるけど、盟はそうじゃない」
「……?」
俺は「なんで?」と聞くと、「盟の足じゃ…まともに働けないだろ?」と返ってきた。それに、と続けた雪也は「向こうの仕事が先に見つからないと就労ビザは降りない」…つまり、俺は最初から就労ビザで渡航することはできないのだ。
「今のような…俺が盟を養う様な感じで、まともにやるとすれば、日本で俺の戸籍に盟が養子縁組をする。それで俺が就労ビザ、盟は家族ビザになる。これならビザはクリアできる。…でも……イギリスは入国のときに英語能力テストがある。それを超えないと、盟は入国できない。本気で二人で行くつもりなら……盟が死ぬ気で英語を覚える覚悟がいる」
「なるほど…。」
「答えは、今聞かない。よく考えていいよ。すぐ決まるほど簡単な話じゃないから……」
そう言って、雪也は何も発しなくなって、いつの間にか寝息が聞こえてきた。
────翌日。
「…あのさ」
コップをテーブルに置いて、俺は視線を雪也に向けた。
「英語、やるって言ったら…本当に、ちゃんと教えてくれる?」
「本当にいいの?海外…それもイギリスに行くんだよ?暫くは毎年ビザ更新しに一旦帰国するけど、5年後永住権取れるようになったら、俺は確実に取るよ?それに…戸籍だって…いいの?」
「ユキが隣にいるなら、俺はどこでもいい。そのためなら、英語だって死ぬ気で覚える。戸籍だって、指輪貰っておいて今更嫌とかないよ」
「やる気があるなら、やろう。…言っておくけれど俺、英語は容赦しないよ?」
「こわ…」
苦笑いしながら、またコップを持ち上げる。
リンゴジュースの甘さでほっとするのに、言葉だけはなんだか身構えさせる。
「じゃあ、明日から始めよう。…まずはbe動詞から」
「え、いきなり中学一年生のやつ?」
「基礎は大事だよ。…それに、きっとbe動詞すら怪しいでしょ、盟は」
「……ぐぅの音も出ない」
雪也は席を立ち、寝室に向かう途中でぽつりと振り返った。
「それと、発音はみっちりやる。…口の動き、ちゃんと見せてね?」
「な、なんかいやらしい言い方すんなよっ!」
「盟ってば、変な想像しすぎ」
そんな軽口を交わしながら、二人は夜支度に向かった。
────数日後の昼下がり。
雪也が壁向きに、パソコンデスクで二枚のディスプレイを使いデザイン仕事をしている間、少し離れたリビングテーブルの上には新品の英語ドリルとノート。
俺は鉛筆を握りしめ、眉間に皺を寄せて「be動詞 am, are, is…」を唱えていた。
「声に出して、耳から覚えるんだよ」
「わかってるけど…なんかもう、この字面が睨んでくる…」
「睨まれてるのは盟の集中力ね?」
「ちょっと怖いこと言わないで」
リビングのデジタル時計が時を刻む。
冬の日差しがカーテン越しに柔らかく差し込み、俺の髪を淡く照らす。
夕方、雪也が仕事の手を止めると、背伸びをして口を開いた。
「今日はここまでにしようか。…明日は俺が出社で居ない間、モモさんホトケさんに頼んであるからね?医者の英語指導してもらえるなんて滅多にないよ」
「えー…モモさんに英語教わるの?なんか俺の英語レベル笑われないかな…」
「盟、あの人の本当の軽口に耐えられたら、入国審査の質問くらい余裕だよ」
翌日、俺は雪也のマンションからバスを使い、佛斑と天原と互いの家の中間地点にあるカフェで合流した。
俺の服装の変化や、髪型にびっくりした二人は「人違いでは…無いよね?」としきりに聞かれた。
そのやり取りも「もうええわ」とここに関西人が居ないのに関西風に笑って止め、3人で入店した。佛斑が天原と俺の飲み物を聞き、一人オーダーカウンターへ行く。天原はカフェオレ、俺はブラッドオレンジジュース。
佛斑はオーダーカウンターで決めるんだろうが、カウンターからよく通る声で聞こえてきた佛斑のオーダーはホットコーヒーだった。
場所取りを頼まれた俺と天原は、カフェの席に腰を下ろすや否や、リュックから単語帳、参考書とノートを取り出すように天原に指示された。そして、「早速始めようか」とニッコリする。
「はい生徒くん、まずは発音チェックからいきましょうか。Repeat after me……」
そのテンションで来たので、一応乗っておく。
「先生、いきなりテンション高いですね…」
「英語は勢いが大事なんだよ、盟君」
「そ、そうなんですか…?」
オレンジジュースを片手に、盟くんは発音を繰り返し、時々佛斑も横から「今のは悪くない」と口を挟む。
「一ノ瀬君、文法は苦手でも耳は悪くないな」
「それ、褒めてます?」
「褒めてる。…ほら、続けろ」
日々の勉強は、時に真剣で、時に笑い混じり。
少しずつ単語が増えていくノートのページに、俺の指先は鉛筆の木の匂いを残していった。
暖房の効いた居間。俺が冬になって寒くてリビングのソファーでブランケットに包まって生活することが増えたので、見兼ねた雪也がネット注文した、ソファーに座りながら入れる高足こたつに潜り込み、英単語帳を膝に置きながら、雪也の横顔をチラチラ盗み見ていた。
「…集中」
「してるよ」
「声に出して」
「…apple、banana、carrot」
「野菜はcarrotしかないね」
「…じゃあ、onion」
「いいね。その調子」
小さなやり取りの中にも、どこか家庭的な空気が流れる。
外は粉雪が舞い、窓辺のカーテンが暖色の灯りに揺れていた。
数日後、俺はまた天原と佛斑とカフェで英会話練習をしていた。
「じゃあ、自己紹介やってみようか。Hi, my name is…」
「え…Hi, my name is…a…Me…i?」
「そこで迷子にならないの。a…Meじゃなくて、ちゃんとメイって英語っぽく発音」
「め…めぇい…」
「羊かな?」
「やめて、モモさん!」
恥ずかしくて口を押さえて俯く俺に、横から佛斑が「やっぱり、発音は悪くない」とぼそっとフォローする。
「ほら、ホトケは優しいなあ」
「モモがふざけ過ぎなだけだ」
夕食の後、「これだけは盟君に大事なフレーズだから」と医者の時の真面目な顔をした天原から習った呪文みたいに長い英語のフレーズを口ずさんでいると、雪也さんが台所から「それ、この前よりスムーズになってる」と言った。
「ほんと?」
「うん。…やっぱり盟は、覚えるのは早いね」
「そ、それほどでも…」
「そこは“Yes, I am”って答えるとこだね」
「…Yes, I am」
雪也が笑う。
その笑みは、英語の成績よりも、俺が少しずつ自信を持ち始めていることを喜んでいるようだった。
勉強を重ねる中で、ふとした瞬間に雪也が何か考え込むような目をするような姿を何回か見かけた。
「どうしたの?」
「いや…盟が英語を覚えるほど、向こうでの生活が現実になるなって思って」
「…俺、本当に行けるかな」
「行けるよ」
その夜、勉強を終えてテーブルの上の単語帳を片付けていると、雪也がふと手を止めた。
視線はテーブルの端に置かれた封筒へ向けられている。茶色いクラフト紙の封筒には、書類の束が入っているらしい。
「…ユキ、それ」
声をかけると、雪也は短く息を吐いて、俺の方を見た。
「盟…、盟は、本当の名前と生年月日、知りたいと思う?」
唐突すぎて、息が詰まった。
言葉を失った俺に、雪也ははっきりと言った。
「はっきり答えていい。俺が勝手なお節介で調べてもらったことだから。知りたくないなら、この情報は俺も忘れるし、資料も全部燃やして捨てる」
「……俺の名前と生年月日…あるの?」
「誰でも持ってるものだから、そりゃね。盟は戸籍登録されてなかっただけで、本当の名前を呼ばれてたときは赤ん坊だったから覚えてなかったんだ」
胸の奥に、得体の知れない重みが沈んでいく。
「…聞きたい。俺、ほんとは何者なの?」
雪也はしばらく黙った後、ゆっくりと口を開いた。
「……2001年4月20日生まれ……。『立花かりん』。それが、盟の母親がつけた名前だよ」
俺は瞬きもできず、ただその音を耳でなぞっていた。
『かりん』────甘く、やわらかい響き。
でも、それが自分の名前だという実感は、どこにもなかった。
雪也の声が続く。
「母親は若くして結婚したけど、旦那からのDVで家を飛び出して逃げてる間に妊娠がわかった。女の子を望んでたけど、生まれたのは旦那と同じ性別の男の子。どうしても旦那の子供にしたくなかったから、出生届を出さなかった。そして、可愛く育てれば女の子になってくれると思い、『かりん』と名付けた。でも、成長するにつれて男の子の片鱗が見えてくる『かりん』に、母親は育てる気を失った…その後は盟が知ってる通りだよ」
部屋の中は静かだった。
暖房の小さな唸りだけが聞こえる。
俺は唇を噛み、足先を見た。
「……立花かりん、か」
その名前は、俺の中で氷のように冷たく、遠い。
だけど今、こうして呼ばれてきた『盟』という名前は、確かに熱を帯びている。
それが、何よりもはっきりとした感覚だった。
「……母親は、そのうち水商売で働き始め、酒と薬に溺れて、『かりん』を置いて他の男と家を出た。児相と警察が盟を見つけたあとは母親は逮捕。児童虐待より罪の重い傷害罪で13年服役した。服役中、酒も薬も抜けて、今までの行動に反省したらしく、頻りに弁護士に『かりんに会いたい』と言っていたそうだ」
…雪也は続けた。
「出所して何年かしか経ってないから、まだ保護観察中で、今勤めてるところと、連絡先まで一応知ってる。………母親に会ってみたい?」
雪也の問いは、淡々としているのに、やけに重く響いた。
俺は少し考えてから、首を横に振った。
「…遠くで眺めるだけでいい。会っても…きっと俺、何も言う事無いと思うから」
俺の言葉に雪也は黙って頷き、それ以上は何も聞かなかった。
数日後の午後、冬の曇り空の下、雪也は車をとある印刷工場の脇道にある裏門に停めた。
窓の外には、灰色の壁と鉄の扉、そして搬出口の段差。
外気は冷たく、車の中はフロントガラスが吐いた息で端から曇る。
しばらくして、出荷口から作業着姿の女性が段ボールを抱えて現れた。
髪は後ろでひとつに束ねられ、背は思っていたよりも低い。
手袋越しに箱を抱える姿は、淡々とした動作の繰り返しのように見えた。
…顔は、無表情の時の俺とよく似ている。
「今のが────立花咲江。盟の本当のお母さん」
雪也の低い声が、車内に落ちた。
俺は一つ息を吐いた。足の間に置いていた杖をくるりと一周回して、口を開く。
「……うん、ありがとう。もう…いいよ。…今後、会うこともない」
目を伏せて言うと、雪也は小さく「分かった」とだけ返し、車を発進させた。
帰り道、外はすっかり暗くなり、街灯の明かりが車内に流れ込む。
俺は窓に映る自分の顔をぼんやり見つめながら、かすれた声を出した。
「……俺、何も思わなかった。あの人がお母さんって言われても。少し…街行く親子連れを見るたびに『お母さん』に憧れたことはあったけど…あの人見ても何も感じなかった。────ユキから聞いた話は、お母さんが会いたいのは『立花かりん』で、『一ノ瀬盟』じゃないから…。……俺じゃないから」
雪也は何も言わず、運転する手をほんの少し強くハンドルに添えた。
しばらくして、信号待ちでふいに俺の頭を引き寄せ、自分の肩に押しつけた。
その温もりに、俺はただ一筋涙を流して目を閉じた。
マンションに戻ると、部屋の中は昼間のまま冷えていた。
暖房をつける音と同時に、キッチンで湯が沸かすがする。
「…飲むでしょう?」
雪也が差し出したのは、マグカップから立ちのぼる湯気。
ほんのりとカカオの匂いが広がる。
「……ココア?」
「うん、甘いやつ。…前に、甘いカフェオレを作ったとき、ミルクのせいでカフェオレの甘みがボケて、美味しくないって言ってたから。ココアならどうかなって」
いつの間にか俺のものと化していた北欧デザインの赤いマグカップ。受け取ったマグカップは両手にすっぽり収まって、指先からじんわりと温まっていく。
一口飲むと、舌の奥でかすかに感じる甘さが広がって、胸の奥がじわっと熱くなった。
そのまま、ちょっとだけ目頭も熱くなった。
「…っ…あったかい…」
「今日はもう何も考えなくていいよ。…もう、お風呂入って寝よう?」
それを聞いて頷いて、もう一口だけ飲む。
外の冷たい空気がまだ頬に残っているのに、口の中だけはやけに甘かった。
風呂を終えて、寝室のドアを閉めると、外の冷たい空気は完全に遮断される。
布団に潜り込むと、厚手の掛け布団がすぐに体に沿って沈み、外の世界との境界が消えていった。
俺は背を向けたまま、雪也の腕が自分の腰に回され、それに手を添えた。
その腕に包まれると、不思議と呼吸が深くなった。
「……あの工場のこと、もう考えなくていいよ。……ただ、俺は名前を付けてもらってたことを知ってほしかった。『名前が無かった』訳じゃないって」
耳元で囁く声は、低くて、少し掠れている。
俺は答えず、小さく頷くだけ。
「あの時病院でパニックで盟が叫んだときに……俺はちゃんと知りたいって思った。だから、弁護士の父のツテを借りた…。ごめん、勝手に調べて」
謝るように、俺の後頭部の項の辺りに額をつけた雪也に、俺は枕に顔を擦り付けるように首を振った。
「別に…ユキがそうしてくれたおかげで、俺は…知らなかったこと、知ることが出来たから…」
「…もう、一旦、考えるの…終わりにしよう。……盟のために」
そう言って、雪也はまた腰に回した手に力を込めた。
さらに密着した雪也の胸の鼓動と、自分の鼓動が、布団の中で混ざっていく。
遠くで風が唸っているのに、この小さな空間だけはあまりにも静かで、ぬくもりが濃かった。
やがて、瞼が重くなり、意識が深いところへ沈んでいく。
最後に感じたのは、背中を撫でる手と、甘いココアの残り香だった。
英語の勉強は、もう生活の一部になっていた。
朝食のテーブルでも、夜ベッドに入る前でも、雪也は容赦なく簡単な質問を投げてくる。
「This is a pen. …はい、訳は?」
「……これはペンです」
「うん、正解」
そんなやりとりを繰り返す日々。夜勤明けの日や、完全オフの日、雪也が出社して仕事が長引く日は、天原や佛斑が入れ替わりで教えてくれた。
天原は、発音が多少崩れても気にせず、やたら日常会話を増やそうとする。
「So, what do you want to eat for dinner today?」
「……カレー?」
「Oh, curry! Good choice!」
大げさに褒めてくるから、間違っていても悪い気はしない。
一方、佛斑はやけに発音にうるさい。
「違う。“think”は舌を出して。……そう、th、th、そうだ」
「……しんく」
「th、th、ほら、笑うなモモ」
口元をぐっと押さえて笑いを堪える天原を横目に、俺は何度も舌を動かした。
そんな日々が続いて、ある夜。
夕食を終えて食器を片付けたあと、雪也が唐突に言った。
「そろそろ、実戦してみない?」
「じっせん?」
「うん、机に向かって勉強するんじゃなくて、人と話す練習」
「え、もしかして…外人さんと?」
「まあね」
ふふと笑って、時計を確認してからスマホを取り出すと、何やらメッセージを送った。
「ダニオはイタリア人だけど、イギリス在住で癖の少ないキレイな英語を喋れるから。────…この前のバケーションの案内で、散々俺を振り回したツケを払ってもらおうか。…俺は高いよ、ダニオ…?」
その言葉を話す雪也は少しからかうようなイジメっ子の顔をしていた。
数分後、リビングに持ってきたタブレットの画面に映ったのは、金髪で笑顔の細面の男性。
『Yukiya! Long time no see!』
「It’s been a while, Danio.」
雪也と軽く英語で挨拶を交わしたあと、画面の向こうの彼は俺に視線を向けた。
『So, you are… Mei?』
「……Yes, I’m Mei. Nice to meet you…」
『Nice to meet you too!』
声がほんの少し震えたけど、なんとか言えた。ダニオはゆっくりと、わかる単語だけを選んで話しかけてくれる。
『Do you like London?』
「……I don’t know yet. But… I want to go.」
『Good! You will love it!』
その笑顔に、少しだけ緊張がほどけた。
短い会話だったけど、通話を終えたあと、雪也が言った。
「ちゃんと会話になってたよ」
「……ほんと?」
「ほんと」
その言葉が嬉しくて、ちょっとだけ顔が熱くなった。
でもその夜、ベッドに入って天井を見上げていたら、ふと考えてしまった。
「もし俺が向こうに行くとなったら、名前、どうするんだろう…。」
ぽつりとつぶやいた俺に、雪也は目を閉じたまま、「そうだね…無理ない程度に考えといて」とだけ言った。
あの英会話から数日たった。
天原・佛斑の家のリビングテーブルの上には、ホワイトボードと参考書、それにコンビニのカフェラテやジュースやらお菓子やらが散らばっている。もうかれこれ5~6時間はテーブルに向かって、チョコレートやら飲み物やらを飲食しながら、ホワイトボードとノート、単語帳とにらめっこしている。
集中力も切れかかった頃だった。
「はい、repeat after me」
天原がマーカーを持ちながらゆっくり言う。
「beach」
「……ビッチ」
その瞬間、向かいに座った佛斑が「ぶっ」と飲み物を吹き出し、派手に噎せ返り、その隣の天原も腹を抱えて笑い出した。
「いやいやいや盟くん、それ海じゃなくて…」
天原が説明しようとすると、横で佛斑が噎せたせいで顔を真っ赤にして、見たことないほど笑っている。
「ち、ちが…!だって…!発音、難しいんだって!」
俺は両手で顔を覆って抗議するが、その姿がまた二人を笑わせる。
ちょうどその時、玄関が開く音がして、大きな筒のデザイン画用のケースを抱えた雪也が天原・佛斑の家に帰ってきた。
「ただいま……って、なにこの笑い声、二人とも」
勝手知ったるマンションの玄関で靴を脱ぎながら怪訝そうに部屋に入り、俺の隣のソファーに腰を下ろす。
天原がすかさず笑いながら暴露した。
「ねえ百舌君、あの性的なことに免疫の無い盟君がさ、『ビーチ』を『ビッチ』って…!」
「モモさん!!言わないで!!」
俺が顔を真っ赤にして机に突っ伏すと、雪也は肩を揺らして大笑いしながら肩に手を置いた。
「……発音いいよ」
そう言って、わざと褒めた。
「しつこいっ!!」
俺は顔を上げてさらに真っ赤になると、もはや茹でダコ状態だ。
全員がまた笑いに包まれる。
笑いが落ち着いた頃、ホトケが急に真顔で、低い声で言った。
「……でもな、発音はマジでいい」
「そこ褒められても!」
俺のツッコミに、部屋は再び笑い声で満ちた。
「…まあ、スペルミスより発音ミスの方が、上達しているなによりの証拠かな」
雪也はそう言って、肩を叩いた。
俺は口を尖らせ、悔しくて口の中で「beach、beach…」と繰り返した。
この日、帰る頃になって俺の本当の誕生日と本名を二人に話したが、二人とも「どっちの名前も素敵だ」と言ってくれた。
その温かい空気の中、窓の外はすっかり夕暮れに染まり、冷えた空気が冬の匂いを運んでいた。
────夜。
寝室のサイドテーブルの照明は柔らかく、外の街灯がカーテン越しに滲んでいる。
俺が歯磨きを終えて戻ると、雪也は枕にもたれて座っていた。
「……ねえ、そろそろ役所に行こうか」
「え?」
「養子縁組と、パスポートの申請。一緒に」
俺の笑顔が一瞬固まる。胸の奥に母親の顔、本名の二文字が浮かぶ。
「……うん」
…この返事をしたとき、俺はどんな顔をしていたか分からない。
役所に行こうか、と会話から数日、俺が風邪を引いたせいで間が空いてしまった。それでも、時折様子を見に来ては「大人しく寝てなさい」と注意する雪也に隠れて、ベッドの中でずっと単語帳を捲っていた。
やっと風邪の症状も治まり、仕事前に家まで診察に来てくれた天原のゴーサインが出たところで三人で出掛けることになった。
車内は、暖房の低い音と、タイヤがアスファルトを撫でる音だけが響いている。
運転席の雪也は、ハンドルを握る手の力加減まで慎重なように見える。
助手席の俺は、書類の角を無意識に何度も指でなぞっていた。
「そんなに緊張しなくて大丈夫だよ」
夜勤前の昼だというのに、心配だから、と家で診察したまま着いてきてくれた天原。
俺のすぐ後ろの後部座席から、天原がふっと笑う声がした。コンビニドリップのコーヒーを持ったまま、ミラー越しに視線を送ってくる。
「…別に、緊張してない、ですけど…」
そう返すものの、握った書類がわずかに震えているのを自分でもわかっていた。
雪也は前を向いたまま、安心させるように口角がほんの少しだけ上がった。
「…大丈夫。俺が一緒にいるよ」
その低い声は、エンジン音よりも静かに、確かに俺の耳に届く。
信号で停まるたびに、窓の外の街並みが少しずつ変わっていく。
役所の庁舎が視界に入ったとき、俺は深く息を吸い込んだ。
障害者用の駐車場に車を止め、車を降りて、ドアを閉める。雪也が車のロックをしたのが聞こえた。
右手で持った杖の木の取っ手が、指先の熱を吸い取るように冷たい。
杖先がアスファルトを叩く乾いた音が、ひとつ、またひとつと響き、足取りを慎重に刻む。
近づくにつれ、外側の自動ドアの向こうで淡い蛍光灯の光がぼんやりと滲んで見える。
その内側から、暖房の混ざった空気がわずかに流れ出してくるのが、冬の冷えた頬に心地よい。
雪也も、俺の歩幅に合わせてゆっくりと歩く。
背後からは天原が、足音をほとんど立てずに付いてきているのが分かった。
ガラス越しに見える受付の人影や書類の山、奥に並んだ椅子までが、やけに現実味を帯びて迫ってくる。
胸の奥の鼓動が、冬の外気よりもずっと速く、熱く脈打っていた。
内側の自動ドアが小さく開く音とともに、冬の外気が背中から押し出されるようにして、暖房の効いた空気が頬を包んだ。
乾いた紙とインクの匂い、遠くで響く書類をめくる音、足音や小さな会話が混じり合っている。
「……行こうか」
雪也の低い声が、背中をそっと押す。
俺はゆっくり頷き、杖先を床に置いて、一歩を踏み出した
足裏に伝わる床の硬さが、妙に現実的で逃げ場を与えない。
天原が後ろから静かに付いてくる気配が、何よりも心強かった。
けれど、それ以上に────
(ここで俺の『名前』を、決めるんだ)
そう思うと、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
受付までの短い廊下は、たった数十歩なのにやけに長く感じた。
杖の先が床を軽く叩く音が、周囲の雑音の中でやけに鮮明に耳に届く。
「大丈夫だよ」
横に並んだ雪也が、聞こえるか聞こえないかの声で囁く。
その一言に合わせるように、天原が後ろから「ほら、背筋」と小さく声を掛けて肩を叩いた。
俺はほんの少しだけ息を吸い込み、吐き出す。
視線の先には、淡い色のカウンターと、座っている女性職員の落ち着いた微笑み。
(──この数分後、自分はペンを持って、名前をどちらか選んで書くんだ……)
杖を突くたび、わずかに手のひらへ響く衝撃。
その感触と、靴底が床を擦る音が、耳の奥で何倍にも膨らんで聞こえる。
歩幅は自然と狭くなり、足先が廊下の模様をひとつ、またひとつと踏み越えていく。
ただの役所の床なのに、まるでそこに線が引かれていて、その先に行けばもう後戻りできないような気がしてならない。
(……本当に、これでいいのか。)
『かりん』じゃない。ちゃんと『盟』として生きていく。
それは何度も自分の中で答えを出したはずなのに、いざこの場に立つと、胸の奥がざわついた。
横を歩く雪也の肩越しに、受付のカウンターが見える。
あの場所に座ってペンを取れば、今度こそ決定になる。
後ろから天原の「背筋」という短い声がして、少しだけ肩が伸びた。
(………大丈夫。大丈夫。)
自分に言い聞かせるように、ゆっくりともう一歩を踏み出した。
カウンターの前まで来た瞬間、俺は無意識に深く息を吸い込んだ。
窓口の職員が微笑みながら「本日はどういったご用件で?」と尋ねる。
胸の奥が一度ぎゅっと縮まり、言葉が喉に引っかかったが、隣から雪也の「大丈夫」という短い声が落ちてきた。
「…養子縁組の手続きで来ました」
自分の声が、思ったよりもはっきりしていた。
「どなたの養子ですか」と聞かれ、雪也が「俺です」と言ってマイナンバーカードを出した。
職員は頷き、マイナンバーカードを読み込ませて少しデータを出すと書類とペンを差し出してくる。
手元に視線を落とすと、そこには自分の新しい戸籍の欄。
「氏名」という二文字の右に、空白が広がっている。
背後から天原が、聞こえるか聞こえないかの声で「落ち着いて書けばいいよ」と囁く。
そう言われて、ペンを握った指先にじわりと汗がにじむ。震える手。
だんだん背筋に冷や汗も流れる。呼吸が冷たいものしか入ってこなくて、手の震えが大きくなって、一旦ペンをおいた。
肩に、温もりが来て、顔を上げたら雪也が肩に手を置いていた。反対側からは背中をポンポンと落ち着かせようとゆっくりあやす天原の手。
────『かりん』じゃない。何年も、何度も何度も数え切れない程、雪也に呼ばれてきた、『俺』の名前。
俺はもう一度ペンを握って、一画目を書き始めた。
「……『盟』」
静かにペン先が紙の上を走る。
最後の一画を書き終えた瞬間、胸の奥で長く滞っていた何かが、少しだけほどけた気がした。
雪也が横から覗き込み、ふっと笑う。
「うん、やっぱり似合ってる」
俺は答えず、ただ少し唇を結んだまま、書類を職員へ差し出した。
同時にパスポート申請もして、外に出ると、冬の空気が冷たく頬を刺した。
駐車場の隅に停めてあったSUVにゆっくり乗り込み、シートベルトを締める。
ドアが閉まる音と同時に、車内にしんとした静けさが落ちた。
エンジンがかかり、ハイブリッド車独特の低い振動が足元から伝わる。
雪也は何も言わず、しばらくそのままハンドルを握っていた。
雪也が信号待ちでふと視線を俺に向けるのに気が付かないくらい、俺は膝の上に手を置き、書き終えた名前をまだ心の中でなぞっていた。
「…重かった?」
不意に雪也が聞く。
「……うん。ちょっとだけ。でも、軽くもなった」
雪也はそれを聞くと、アクセルを緩く踏んだため、視線を前に戻したまま、それでも少し口元が緩んでいる。それ以上深く聞かず、代わりに片手を伸ばして俺の髪をぐしゃりと撫でた。
「じゃあ、帰ったら甘いココア淹れるよ」
「…子ども扱い」
小さく笑った盟の声が、暖房の効いた車内に溶けていった。
これから仕事の天原をマンションに送り、家に戻ると、外の冷たさが嘘のように、室内は柔らかな暖かさに包まれていた。雪也がスマホの遠隔操作で暖房のスイッチを入れていたらしい。
俺は黒いブルゾンを脱いで、ハンガーに掛けた。
雪也がキッチンでココアを作り、湯気の立つマグカップをテーブルに置く。
「熱いから、少し冷まして」
湯気越しに見える雪也の笑顔が、今日一日の緊張をゆっくりと溶かしていく。
俺は両手で赤いマグカップを包み込むように持ち、香りを吸い込みながら小さく息をついた。
「…やっと終わった感じ」
その声はどこか安堵と、ほんの少しの名残惜しさが混じっていた。
雪也は答えず、ただ隣に座ってカップを手に取り、同じようにブラックコーヒーを一口飲む。
二人の間には、言葉よりも深い静けさが流れていた。
暖房の音と、時折カップがテーブルに触れる小さな音だけが部屋を満たしている。
────そして、数週間後。
パスポート受取日。
役所よりもさらに厳格な空気が漂う窓口で、受け取った真新しいパスポートを開く。
中にははっきりと「百舌 盟(Mei Mozu)」の名前。
思わず指先で文字をなぞり、胸の奥で何かがじわりと熱くなった。
「おめでとう、これで準備は整ったね」
雪也が小声で言い、俺は小さく笑ってうなずく。
その後、雪也は仕事の引き継ぎや事後処理、客先まわり、マンションの手続きと慌ただしく動き続けた。
合間を縫って、俺の大きなスーツケースや追加で俺の服と渡航で使えるボディバッグを買いに出かけ、薬のために大学病院にも通った。天原は渡航先のイギリスで使用可能な俺の薬を探すために診察室で険しい顔をしながらパソコンとにらめっこし、佛斑はロンドンの知り合いの医者宛ての紹介状と連絡を整えてくれた。
俺はコンビニバイトは他店舗も兼任店長してるため遭遇する可能性が少なかったので電話でちゃんと謝り、居酒屋には雪也と一緒に店長に「突然バイト辞めてごめんなさい」と謝りに行った。
酒瓶の並び替えをしていた阿井はいつの間にかバイトから正社員になっていて、ド派手な金髪ロングのウェーブも落ち着いた栗色のボブヘアになっていて、「えっ!いっちーも、ガチのイメチェンじゃん!つーかまじでエロカワ雰囲気増してね?」と言ったあと、「もう少ししたら、仕込みシフトで弓削っち来るから、ちょい待ってなよ」と笑った。やって来た弓削は相変わらずマッチョで、「お前がやめたのめっちゃ寂しいけど、これから頑張って」と短く、でも真っすぐに送り出してくれた。
もちろん店長の前橋さんも、「お前の足を見たら、いくらお前が有能でも『続けてくれ』とは言えねえよ。新天地、頑張れよ」と送り出してくれた。
そして、仕込み最中の開店前にも関わらず、「今日はいいネタ入ってんだ。寿司食ってけ、もちろん、俺の奢りだ。お祝い含めてな」と俺の背中を豪快にバンッと久しぶりに叩き、俺と雪也はご馳走になった。
最後、店を出る間際「あんちゃん、コイツ、海外行ったらきっと色々危ねえから、ちゃんと見ててやってくれな。頼んだぞ」の店長の一言に俺は一瞬ポカンとしたあと、「もちろん、手は離しませんから」の雪也の言葉で顔を真っ赤にした。
俺は家に帰ると、少しイメージチェンジを図った。
耳たぶだけじゃなく軟骨や耳の中、トラガスまでびっしり開けていたピアスを外し、両耳たぶにひとつずつだけ残した。舌ピアスもやめた。
残したのは一つは、初めて開けようとしたときに居酒屋バイトクルーだった弓削が「やらせて」とロッカーで開けてくれたやつ。二つ年下なのに面倒みの良い兄貴肌で、俺にやたらアクセサリーをくれる変わったやつだった。
もう一つは、居酒屋に同じ時期に入った阿井。豹柄と派手なピンクが好きな典型的なギャル。元バレー部とかで俺より背が高く、170cmの長身を使い、俺を弟扱いして、てっぺんから俺の頭を撫で回すのが好きなやつ。阿井も、弓削が俺のを開けてるのを見て、「えーあたしも!いっちーの開けたーい!」と一緒に開けてくれた。
あの二人が残してくれたものを、今の俺は無くせない。
──これくらいしか出来ないけど、俺なりのケジメの付け方だった。
他のピアス穴は自傷行為みたいに開けていたから、今はもう開け直す気もない。
「もう、自分を自分で赦してもいいか」そう思えたのだ。
ベッドに腰掛け、ベッドサイドで残った二つ以外のピアスを外し、片手いっぱいの金属の冷たさを握りしめる。
耳をかき上げながら寝室を出ると、ダイニングでコーヒーを飲んでいた雪也が、こちらを見て目を見開いた。
ちょっと反応が面白かったから、無言で「これも、」と言わんばかりに、雪也に向かってぺろ、とピアスの無い舌を出したら、更に開いた目から青い目玉が落ちそうになっていた。
「……っ」
何かを言いかけて、持っていたマグカップを落としそうになっていた。その視線に、少しだけくすぐったさを覚えた。
その夜は、不思議なくらい静かだった。
窓の外には冬の街灯が、オレンジ色のにじみを落としている。遠くでたまに車の音がするほかは、時計の針の音さえ耳に届く。
夕食を終えて、それぞれの荷造りはもうほとんど済んでいた。
リビングの片隅には、俺のシルバーの新品の大きなスーツケースと雪也のちょっと年季の入った黒い大きなスーツケース。タグも新しく、どちらも明日を待っているようにじっとしている。
ソファに座って、俺は何度目かのパスポートを手に取った。
表紙の濃紺はまだ新品のざらりとした手触りで、その中央の金色の紋章が、やけに頼もしく見える。
……これを持って、俺は海を越えるんだ。
ほんの数か月前までは想像もしていなかった未来。
「……緊張してる?」
キッチンでもう一杯淹れたマグを片手に戻ってきた雪也が、いつもの低い声で聞く。
「ちょっとだけ」
正直にそう言うと、彼はくすっと笑って、俺の横に腰を下ろした。
「大丈夫だよ。盟は頑張ってきた。もしこの先不安になりそう事があっても不安になる前に俺がその種を潰してあげるから」
その言葉は、冗談めかしているようで、妙に胸に落ちる重さがあった。
少し間を置いて、雪也の視線が俺の耳に止まる。
昼間外したピアスのことを、まだ気にしているらしい。
「……やっぱり、似合うね」
「え?」
「両耳にひとつずつ。『それで充分』って、盟が選んだ二つなんでしょ?」
スッと指先が俺の軟骨のピアス穴をなぞり耳朶まで辿り着く。
頬が熱くなる。どうしてこう、全部見透かされるんだろう。
テーブルの上には明日のフライト情報を印刷した紙が置いてある。そこに視線を落としながら、俺はふと窓の外を見た。
街灯の光が、薄いカーテン越しに揺れる。あの光の向こうに、明日からのロンドンが待っている。
「……楽しみだな」
ぽつりとこぼすと、雪也は「ね」とだけ言って、俺の肩に手を回した。
触れるだけの軽い仕草なのに、そのぬくもりが胸の奥まで沁み込む。
明日は早いのに、眠れる気がしなかった。
それでも、この夜の静けさごと胸にしまって、俺は雪也の横顔を見つめた。
まるで、長い夢の入口に立っているような、そんな夜だった。
────そして、出発の日。
東京から成田空港までは、やっぱり遠い。
朝の冷たい空気の中、改札を抜け、混み合う電車に乗り込む。最初は杖をついて踏ん張って立っていたが、数駅進んだところで、若いスーツの男性が俺の杖とヘルプマークを見て「どうぞ」と席を譲ってくれた。
礼を言い、お言葉に甘えて腰を下ろすと、雪也が前に立ち、つり革を握っている。
彼の背中越しに見える窓の外では、街がゆっくりと流れていった。
空港駅に着くと、そこからがまた長い。ロビーまでの道のりは入り組んでいて、方向感覚が狂う。人波に押されるたびに、頭が少しふらついた。
黒いキャップを深く被っていたが、人酔いは防げず、結局キャップの影で目を細める。
何度か壁際に寄って、雪也のコートの袖をそっと掴み、頭を寄せて小休止を取った。
そのたびに雪也は、俺のモコモコのフェイクファーの背中を静かに撫でてくれる。
最終的に、大きめのフードをすっぽりかぶり、マスクをつけて歩くことにした。外界を少しでも遮断して、余計な刺激を減らすためだ。猫耳は俺の気分と連動してるのか、へにょ、と伏せ耳になってるらしく、雪也は少し笑っていた。
やっとのことで辿り着いた空港のロビーは、冬特有の冷たい光が大きなガラス越しに差し込み、硬質な床を踏み鳴らす人々の足音と、天井から降り注ぐアナウンスが重なって響く。
スーツケースのハンドルを握る手に自然と力が入った。新品のそれは、これからの旅を象徴しているようで、少しだけ手汗で滑った。
雪也が振り返り、「大丈夫?」と小声で聞く。
俺は息を整えながら、こくりと頷く。
その瞬間、ここから先は戻れないんだ、と心の奥で静かに覚悟が芽生えた。
歩き出す雪也の背中を、俺は一瞬だけ見つめ、そして静かに杖をついてその後を追った。
雪也が先にスーツケースを押しながら、航空会社のカウンターへと歩き出す。
巨大なロビーの天井は高く、金属の骨組みとガラスが冬の光を反射している。どこからともなくコーヒーと焼き立てパンの香りが混ざり合い、行き交う人の衣擦れやキャスターの音が響く。
カウンター前で列に並ぶ。俺の後ろを歩く人のスーツケースが軽く踵に当たり、反射的に小さく肩をすくめる。そんな仕草に気づいたのか、雪也は俺の背中に片手を添えて「もうすぐだよ」と低く言った。
順番が来て、パスポートと搭乗券の確認が始まる。カウンターの女性がにこやかに「Have a nice trip」と声をかけるが、一瞬、返す言葉が出てこない。
それを察した雪也が横から「Thanks」と軽く返し、俺の背中を押すようにして次のエリアへ促した。
セキュリティチェックでは、杖を持っているため通常のレーンから誘導される。
係員の指示に従い、ゆっくりとゲートを通過する。金属探知機が静かに鳴ると、杖やアクセサリーの確認が行われるが、特に問題はなかった。
少しだけ緊張していた呼吸が緩む。雪也が少し海外スイッチが入り、喋る端々が英語混じりになってくる。「Good job」と囁き、さりげなく俺のキャップを整えてくれた。
出発ゲートへ向かう途中、巨大な窓の外に、出発を待つ機体が何機も並んでいるのが見えた。
その中に、自分たちが乗る便の機体があるのだと思うと、心臓の奥がじんわりと熱くなる。
雪也が自販機で水を2本買い、1本を差し出す。
「のど、乾いてるでしょ?ごめん、盟の飲めそうな甘いの無かった」
「……ありがとう」
ペットボトルの冷たさが手に心地よく、口に含んだ水が喉をゆっくり通っていく。
搭乗開始のアナウンスが流れ始めたとき、俺は改めて手元のパスポートを見つめた。
そこには、長い時間をかけて選び取った名前――「盟」が刻まれている。
雪也が横で、「行くよ」と静かに言う。その声は不思議と、緊張よりも安心を連れてくる響きだった。
二人でゲートをくぐり、長いボーディングブリッジを進む。
機内に入った瞬間、独特の空調の匂いとエンジンの低い振動が全身を包み込んだ。
これから始まる旅の重みを、ようやく実感した。
シートに腰を落ち着け、ベルトを締めると、ふいに雪也が座席の繋ぎ目に左手を差し出してきた。
自然とその手を取ると、指と指が絡まる。恋人繋ぎの温もりが、機内の冷えた空気にやわらかく広がっていった。
片手でフードを取り、マスクを取った俺の口が一文字に結ばれてるのを見た雪也はふふ、と笑った。
「まだ、緊張してる?」
「…ちょっと。…まあ、そもそも飛行機が生まれて初めてだし」
俺が俯いて言うと、雪也は笑いながら、軽く親指で俺の手の甲を撫でた。
「大丈夫。離陸してしまえば、あとは空の旅だよ」
エンジンの低い唸りが次第に大きくなり、シートがわずかに震える。
機体が滑走路を走り出すと、俺は少しびっくりして握った手に自然と力がこもった。
雪也はそれを受け止めるように、ほんの少しだけ握り返す。
やがて、地上が遠ざかり、窓の外に広がる雲海が視界いっぱいに広がった。
俺は手を繋いだまま、顔を窓に向ける。
冬の光に照らされた雲は、白い大地のように果てしなく続いていた。
(これからは…イギリスだ)
胸の奥で、その言葉をゆっくりと反芻する。
隣には雪也の温もり。手の中には確かな感触。左手にあるお揃いの指輪。
この空の先に、まだ知らない日々が待っている…。
そう思っていたら、右手からの温かさと先程の人酔いの疲れもあってか、どうやら緊張が緩んで30分程寝たらしい。シートベルトを外しても良い、というアナウンスもとっくにあったらしく、起きたときに雪也のシートベルトは外れていた。
そして、客室乗務員が目の前に来ていて、雪也が少しだけ話していた。
「ビーフ、オア、フィッシュ?」
機内食のカートを押していた客室乗務員が笑顔で俺にも問いかける。
俺は一瞬だけ雪也を見て、それからまっすぐ乗務員に向き直った。
「…S-sweet one, please.」
ゆっくり、でも練習通りの発音で。
その瞬間、乗務員が軽く笑って「Of course」と頷き、アイスクリームのカップを差し出した。
「……やるね」
隣で雪也が声を潜めて笑い、繋いだ手を離して俺の頭をくしゃっと撫でた。
「発音、完璧だった。俺が初めて教えたときより、ずっと良くなってるよ」
「…う、うるさい…」
耳まで赤くなった俺が小声で返すと、雪也はもう一度優しく撫でて、視線を窓の外へと戻した。
アイスクリームを食べ終わると、俺は疑問をぶつけた。
「…そういや、着いたら暫くはホテル泊まるって、最初言ってたけど」
俺は雪也を向いて、ぽつりと訊いた。
「うん。…最初はそのつもりだったんだ。そしたら、いきなり実は実家に泊まれ、って言われてね」
雪也が少し笑いながら、また繋いだ手を親指で撫でる。
「…父さん────イギリス人のハーフで、ジェームズ・百舌っていうんだけど。『俺にもメイ君を会わせてくれ』ってさ。メールだけじゃなくて、手紙にもわざわざ書いてきた。…あの人ちょっとしつこいんだ。」
「……俺?」
「うん。会えば、きっと盟を気に入ると思う。あの人、人を見る目だけは確かだから」
雪也はそう言って、少しだけ窓の外の青を見やった。
「だから、ちょっと実家に顔を出そうと思う。…盟、父さんの英語はめちゃくちゃ聞き取りやすいから安心して。俺より発音の癖がない」
「……複雑な安心のさせ方やめてよ」
苦笑いした俺に、雪也が小さく肩をすくめた。
「まあ、一泊くらいだけ…にするつもりだから。盟は父さんと無理して話さなくてもいい。隣に俺がいるから」
そこで会話が終わっていた。
ヒースロー空港につくまで12時間ほど、少し寝たりなど少しする。完全にはぐっすり眠れなかった。
着陸少し前、雪也は父親に対する注意事項を伝えてきた。
「そういえば、俺の父さん、俺の前では日本語と英語がごちゃ混ぜになるから、注意してね。一応ちゃんと日本語も英語も流暢に喋れるけど」
雪也が少し笑って言った。
「混ぜるって…?」
「例えば、『How are you, 元気?』みたいな。俺が英語覚えるまでよくやってたやつが、口癖になったっぽくて。本人は親切心なんだけど、英語をマスターしてから聞いてる方は脳がバグる」
「……俺、たぶん英語より混ぜ語のほうが混乱する…」
そんなやり取りをしているうちに、機内の照明が少しずつ明るくなってきた。
ヒースロー空港のロビー。
自動ドアが開くたび、外気の冷たさと、甘い焼き菓子とエスプレッソの匂いが薄く混ざって流れ込む。
長身の英国紳士が俺達を見つけ、まっすぐこちらへ歩いてきた。白に近いブロンドの髪、青色の瞳──雪也とよく似た鋭さを湛えている。
「Father. This is Mei, my partner(父さん、彼が盟。俺の恋人だ)」
雪也の紹介の英語に、男性──ジェームズは一瞬だけ眉を上げ、すぐに目尻をやわらげて右手を差し出した。
「Welcome to England, Mei.(イギリスにようこそ、盟)」
そう話すと、踵を返して「Come on!」と呼んだ。
外へ出る。湿り気を帯びた空気が頬に貼りつき、雲の切れ間から落ちる淡い光が、濡れたアスファルトを鈍く照らしていた。路肩に息を潜めるように、赤いジャガー E-Type 2+2 が佇んでいる。クロームのバンパーが曇天を映し、長いボンネットの曲線が冷たい光を受けて滑った。
俺は雪也に助手席のドアを開けてもらい、杖が車のフレームや内装に触れないよう神経を尖らせながら、革シートへ身を沈める。俺の分と雪也の分の荷物をジェームズは積み込むと、後ろのシートに雪也を乗せて、自分も運転席に乗り込んだ。
ドアが閉まると、旧車特有のやわらかい油と革の匂い。イグニッションの一噛みで、直列六気筒が腹の底に落ちる低音を響かせた。細かな振動が足元から背に伝わり、舗装の継ぎ目を踏むたびに「コトン」と軽い揺れが積もる。
「家まですぐさ。肩の力を抜きなさい。Morris という housekeeper がいる。困ったら mother みたいに、何でも相談するといい」
ジェームズの『混ぜ語』に、後部座席の雪也が小声で笑う。「父さんの混ぜ語、聞き取りづらくない?」
「……なんとか」
と答えると、ルームミラー越しにジェームズが口角を上げた。
「雪也の英語 training をしていたら、私の口癖がこうなったんだ。こいつは単語ばかり覚えて、フレーズが苦手でな」
「Stop it, it's such an old story...(やめてくれ、その古い話……)」
雪也が英語で返す。
「By the way, how many languages do you speak, Yukiya?(ところで雪也、今何カ国語話せるんだっけ?)」
「English, French, Italian, and I'm currently learning German.(英語、フランス語、イタリア語。ドイツ語は勉強中だよ)」
ジェームズの目がいたずらっぽく細くなる。
「Allora… Chi dorme non piglia pesci.(ふうん?……寝る者は魚を捕らえられぬ)」
いきなりイタリア語で挑戦状を叩き付けてきたジェームズに、雪也はフッと笑った。
「Qui n’avance pas, recule.(前進しない者は後退する)」
雪也は即座にフランス語で返す。
「Gut… Übung macht den Meister.(はっ…習うより慣れよ)」
ジェームズはドイツ語を話す。
「……Il faut battre le fer pendant qu’il est chaud.(……鉄は熱いうちに打て)」
まだ雪也が勉強中のドイツ語を平然と出してきた父親にムキになった息子は、フランス語をまた返す。
「Interessant… Quem não arrisca, não petisca.(面白い…危険を冒さねば何も得られない)」
雪也は両手を軽く上げ、笑って降参した。
「Alright, I give up, …父さん。ポルトガル語は無理だ。まだ勉強してない」
ジェームズの王手だったようだ。
話の内容は全く持って分からなかった俺だが、何かで話しながら楽しく勝負をしていた空気は感じ取れたし、その会話のレスポンスで、この親子が仲のいいことが分かった。…羨ましいと思った。
赤いロンドンバスが横を滑り、石造りの建物が途切れると、街路樹の緑が増えた。走行風が窓の隙間から忍び込み、雨上がりの石と古い木、どこかのカフェから漏れる紅茶とパンの甘い香りを連れてくる。全部が“初めて”で、視界は忙しい。胸の奥がきゅっと縮まる。
(もっと英語を、いつかは他の言語も。…ここでユキと生きるために)
随分郊外まで走った。何個かあるうちの一つの白い塀の前で減速する。
ジェームズがリモコンを操作すると、邸宅の黒いゲートが開く。砂利を踏む乾いた音が足元から伝わり、庭の奥に白壁と濃い木枠の大きな家が現れた。玄関まで進むと、白髪をまとめた女性が出迎える。エプロンの裾の刺繍には “Morris”。
車から降りると、両手を広げたモリスが近付いてきた。
「Mei! I’ve heard so much about you!(メイ、あなたの事はたくさん聞いてるわ!)」
抱擁は意外なほど力強く、けれど温かい。
『母親みたいに』頼れ、と言われていた言葉が胸の中で反響する。
…どう接すればいいのか分からない。それでも、この腕の温度は、抵抗なく体に染みた。
リビングに通され、慣れた手つきで雪也がコートをコート掛けに掛けた。俺も続いてモタモタとブルゾンを掛ける。
暖炉の火が薪を舐める音、真鍮のランプの柔らかな灯り。
ソファに腰を下ろすと、雪也が背筋を正し、ジェームズの目を真っ直ぐに受けた。
「父さん。勝手で申し訳ないけど──盟と養子縁組をした」
炎の光が、ジェームズの瞳の奥で揺れる。少しの沈黙。
両手で顔を覆って大きな溜息を吐いたあと、彼は立ち上がり、両腕を広げ、完全な英語で叫んだ。
「What on earth…! My God, Morris! I have such an adorable son now!(ああ、どうしようか、モリス!俺にこんな愛らしい息子ができたなんて!)」
「Today, we celebrate! Bring the finest champagne from the cellar!(まあ!お祝いですね!セラーからシャンパンを持ってきますわ!)」
モリスが「Oh my goodness!(最高だわ!)」と笑いながら、軽やかにキッチンへ消える。ジェームズは俺の肩を軽く掴み、正面から視線を合わせた。
「From now on, you are truly part of this family.(君はこれから、本当に我が家族の一員だ!)」
俺はその言葉を聞いて、頬を赤く染めた。
それから、暫く雪也とジェームズの世間話が続き、俺は黙って手元でキャップを触りながら時折返事を返す。不思議と居心地悪いとかはなかった。
「準備ができたわ!」呼びに来たモリスに手を取られてダイニングへ連れて行かれた。白磁の皿、磨かれたカトラリー、シャンデリアの光。キッチンからはローストの香りとバターの甘さ。
一度席に通されて雪也の隣りの椅子に腰掛けたが、迷った末、俺は意を決してモリスのもとへ歩く。
「Mo… Morris. May I tell you something?(モ、モリスさん…ちょっと話してもいいですか?)」
彼女が振り向く。
「Yes, dear?(どうしたの?)」
俺は一つ深く深呼吸した。
「My sense of taste… it only detects sweetness now. I can only taste sweet things.(俺の味覚…甘いのしか感じなくて…甘いものしか味が分からないんだ。)」
少しどもったけれど、天原と用意してきた『絶対使うフレーズ』はちゃんと口から出た。
「Oh, you poor dear! Then we’ll make plenty of sweets for you!(ああ、かわいそうに…!それならお菓子をいっぱい作ってあげるわ!)」
ふわりと抱きしめられ、肩の力がほんの少し抜けた。
乾杯のグラスが触れ合う。「To family.(家族に!)」
食卓のざわめきと笑い声。俺は「Thank you」を何度も口にし、そのたびに、この家の空気が体に馴染んでいくのを感じる。
翌朝。石畳に霜の気配。雪也が車庫の棚から 旧車のE-Type のキーを借りようとすると、「雪也!」と声がした。コーヒーマグを片手に見送りに出てきたジェームズが、完全な英語で短く言った。
「I have prepared yours as well.(お前の分も用意してある)」
放物線を描いて飛んできたのは、金属ではない、真新しいボタン式の車のキー。雪也が片手で受け取る。ジェームズが指先で示す先、冬空の下で深いブリティッシュ・レーシング・グリーンのボディが光る──ジャガー F-Type 75。最新型のジャガーだった。
「俺の旧車じゃ、盟が大変だろう?」
ジェームズはウィンクひとつすると、コーヒーの湯気をたなびかせて背を向けて家の中へ入っていった。胸の奥が温かく痺れた。
(…俺のために)
F-Type は、同じ六気筒でも鼓動が違う。低く滑らかな脈動が足元から伝わり、路面の微細なざらつきを包み隠す。片道およそ一時間、ロンドン芸術大学へ。濡れた舗装に、曇天と少しの霧雨。明かりが細長く伸び、信号待ちのたびに動かしたワイパーゴムが小さくきしむ。
雪也が大学で教授への挨拶と手続きを済ませ、俺は駐車場に止めた車の中で待った。30分くらいで戻ってきた雪也は、また少し車を走らせ、車をメトロの近くの駐車場に置いて、俺達はメトロに降りた。地下のホームは鉄とオゾンの匂い、構内アナウンスの英語が胸に直接触れるみたいに入ってくる。車内は温かく、人々の衣擦れが絶えない。
地上に出ると、少しバスに乗った。焼き菓子の屋台、紅茶の湯気、花屋の湿った匂い。視界の情報は多すぎるが、ひとつひとつ大事に拾っていきたい。片手に杖、片手は雪也のコートを握り黒のキャップの隙間から、観察をする。
ロンドンの街は、冬らしい鉛色の雲に覆われていた。
通りを走る赤い二階建てバスの窓が鈍く光り、石畳は夜明け前の雨をまだ抱いている。
石畳を踏むたび、細やかな震動が足の裏から伝わってくる。舗装の粗さが、日本のアスファルトとは全然違う。冬の曇り空、光は柔らかく拡散され、街全体が薄いフィルターをかけられたようにくすんでいるのに、ショーウィンドウの中は宝石みたいに輝いて見えた。
「…ねぇ、あれ」
俺が足を止め、ガラス越しに見入ったのは、細いチェーンに小さなストーンが一粒だけ光るブレスレット。雪也は少し後ろで、その視線の動きを黙って追う。
「気になる?」
「…あ、いや…ちょっと、見てただけ」
照れ隠しで視線を外すと、通りを抜ける風が頬を冷やした。風には焼きたてパンの香りが混ざり、すぐそこのカフェの扉から立ち上る。
「寒いし、中入ろうか」
雪也が軽く顎で示すと、盟は頷く。中は小さな丸テーブルがいくつも並び、磨き込まれた木の床から甘い香りとコーヒーの苦い匂いが立ち上っていた。
カウンター前で注文を待つ間、盟は黒板に書かれた『Elderflower Cordial』を見て小首を傾げる。
「ユキ…これ、なに?」
「エルダーフラワーコーディアル。ハーブのシロップみたいなやつ。炭酸で割ると甘くて飲みやすいよ」
「…じゃあ、それにする」
ぎこちない発音で店員に注文し、ちょっとだけ「通じた…」と安堵する。
窓際の席で、雪也はコーヒーを、盟は淡い金色のコーディアルを口にする。ほのかな花の香りと、シュワっとした泡が舌をくすぐり、思わず目を細めた。
「どう?」
「…うまい。甘い」
雪也はカップ越しに微笑んだ。その目が、さっきのショーウィンドウを一瞬だけ思い出させる。
カフェを出たあと、細い路地の古着屋やアンティークショップを覗きながら歩く。盟がアクセサリーの棚で立ち止まり、指でそっと触れると、その質感に心の中で小さく息をのむ。
(買えないのはわかってる。…でも、綺麗だ)
その後ろで、雪也がさりげなくレジで何かを包んでもらっていることには、俺は気づけなかった。
やがて、通りの先に大きな時計塔のシルエットが見えた。
「…あれって…ビッグベン?」
「そう。行ってみる?」
「…行きたい。日本のテレビで見たことあるけど…本物、見てみたい」
近付いてみると、観光地なだけあって人で溢れていた。石畳に響く靴音と、様々な国の言葉。俺は視線を泳がせながら、少し肩をすぼめる。やがて疲れが出はじめ、呼吸が荒くなる。苦しくなって杖に両手ですがりつくと、雪也が「休憩しよ」と声をかけた。
暫くビッグベンから離れると、少し楽になり、そのうちハイドパークに入った。ベンチに腰掛けると、冷たい木の感触がブルゾン越しに伝わる。雪也は近くのキッチンカーでアップルジュースとコーヒーをテイクアウトで買って戻ってきて俺に差し出した。
「ホットで甘いのなかった。アップルジュースだけどいい?」
「…ありがと」
少しずつ飲みながら、目の前の芝生の広がりを眺める。冬枯れの木々の隙間から覗く空は、相変わらず灰色だったけど、不思議と冷たくは感じなかった。
「馴染めそう?」
「…まだ、わかんない。でも…嫌じゃない」
雪也は笑い、「それなら十分」と答えた。
夕暮れ前、バスとメトロを乗り継いで駐車場まで戻るとF-Type75に乗り込んで、行きとは別のルートで帰った。家に着くと、雪也が車の中でコートのポケットから小さな箱を取り出す。
「はい、これ」
開けると、あのショーウィンドウで見たブレスレットが入っていた。
「……なんで」
「似合うと思ったから」
俺の骨ばった細い手首にそっと留められると、冷たい金属が体温でじわりと温まっていく。俺は俯きながら、小さく笑った。
(…指輪以外の、はじめての…アクセサリーのプレゼント、だ)
玄関を開けると、外の冬の冷気が背中を押し返し、暖炉の熱が胸の奥まで入り込んでくる。
焦げた薪の香りと、キッチンから漂うロースト肉の匂いが、鼻腔をくすぐった。
「Welcome home!(おかえりなさい!)」
モリスがエプロン姿で振り向き、笑顔で出迎える。
リビングへ足を踏み入れると、ソファで新聞をたたんでいたジェームズが視線を上げた。
「So… what did you give him?(それで?…彼に何買ってやったんだ?)」
いきなりの問いに俺の心臓が跳ねる。
雪也は涼しい顔で「…Secret.(…秘密)」とだけ返した。
「Oh, come on…Mei.(んーおいで、盟)」
ジェームズは身を乗り出し、盟の手首を覗き込む。
「Let me guess… A necklace? No… too obvious. Earrings? Nah… too small. Bracelet, maybe?(当てようか…。ネックレス?…いや、わかりやすすぎ。イヤリング?…いや、小さすぎ。……さてはブレスレットだな?)」
その瞬間、青い瞳が袖の隙間から覗く銀の輝きに止まる。
俺は慌てて袖を引き下ろすが、遅かった。
「Ha! I knew it!(ほーら、やっぱりね!)」
勝ち誇った声と同時に、モリスが「Oh James, that's a celebration!(あら!ジェームズ、お祝いですね!)」と笑う。
「Indeed, Morris! Champagne!(まさにだよ、モリス!シャンパンを開けよう!)」
ジェームズが暖炉脇のキャビネットからボトルを取り出す。
ポン、と軽い音を立ててコルクが抜け、金色の泡が立ちのぼる。
暖炉の炎がグラスの中の泡を黄金色に染めた。
「To Yukiya and Mei.(雪也と盟に!)」
短い乾杯のあと、ジェームズが俺と雪也をまっすぐ見る。
「Next time, I’ll take you around myself. And I’ll buy you something even better.(次は俺が連れて行くよ。もっとすごいものを買ってやろう!)」
その真剣な響きに、俺の頬がじわりと熱を帯びる。
「…Thank…、you.(ありがとう…、ございます…)」
拙い英語で絞り出すと、ジェームズが嬉しそうに頷いた。
「You’re welcome, dear. Now, drink before it gets warm.(どういたしまして。さあ、温まってしまう前に飲んでくれ。)」
グラスを口に運ぶと、炭酸の刺激が舌先をくすぐる。シャンパンは俺の舌では味を感じ取れないけれど、不思議と美味しく感じれた。
雪也がさりげなく俺の背中を押すように手を添え、低く囁いた。
「See? You’re already part of the family.(ほらね、父さんはもう盟を家族の一員だと思ってる)」
(……悪くない。いや、それどころか──家族って、こんなに温かいんだ)
ブレスレットの冷たい感触と、暖炉のぬくもりが、胸の奥で静かに混ざり合っていった。
俺が今日の街並みの様子やコーディアルを雪也に「こう思った、素敵だった」と日本語で話していると、雪也はうん、うんと頷く。
ジェームズがシャンパンをもう一度俺のグラスに注ぎながら、モリスと視線を交わす。
「…You see them, Morris? Absolutely buzzin’, aren’t they?(…分かるかい、モリス。二人はとてもイイ感じだな?)」
モリスも頬をゆるめ、笑う。
「Oh, totally buzzin’. Can’t hide it at all.(ほんとね、全然ラブラブなのを隠さないわ)」
とからかうように返す。
(バズン…?)
俺はグラスを持ったまま、首を傾げた。話しつつもモリスとジェームズの英語に集中して耳を澄ませていたはずなのに、この単語だけ妙に引っかかる。
「…Buzzin’?」
小さな声で雪也に問いかけると、雪也は一瞬口元に笑みを浮かべて、視線だけで「あとで」と告げる。
「…I’ll tell you when we’re alone.(…二人きりになったら話すよ)」
その低い声に、何故か胸の奥がくすぐったくなる。
ジェームズはそれに気づいたのか、わざとらしくウィンクしてみせる。
「He’ll love the meaning, I’m sure.(彼は、きっと受け入れてる)」
モリスも「Oh yes, definitely.(私もそうだと思うわ)」と頷き、キッチンへ戻っていった。
(……なんなんだ、この家族。温かいのに、時々こうやって翻弄してくる)
そう思いながらも、俺はその空気に溶け込んでいく自分を感じていた。
シャンパンをよく勧められてしまい、そんなに酒の強くない俺は少しほろ酔いだったが、なんとか部屋に戻ると、夜のロンドンが窓の向こうに静かに沈んでいた。
遠くの街灯が霧にぼんやりと滲み、薄く開いた窓からは冷たい夜気がすべり込む。ほんのり潮の匂いと、どこかで焼かれているパンの甘い香りが混ざっていた。
遅れて入ってきた雪也はドアを後ろ手で閉め、少し意地の悪そうな笑みを浮かべる。
「で、さっきの“buzzin’”だけど──」
俺はベッドの端に腰を下ろし、無意識に前のめりになる。
「…あれ、どういう意味?」
雪也は窓際にあった椅子にゆったりともたれ、指先で宙をくるりと描く。
「イギリス英語で“すっごく幸せ”とか“テンションが上がってる”って意味。あの二人が言ったニュアンスは──」
彼はそこでわざと間を置き、唇の端を上げる。
「“お前ら、ラブラブだな”ってとこかな」
「……!」
熱が一瞬で首筋から耳までせり上がった。
「ラブラブって…」
声がわずかに裏返る。
「まあ、間違ってないけどね?」
雪也は片目を軽くつむり、ウインクを送る。わざとらしいその仕草に、胸の奥がくすぐったくて息が詰まる。
「…う~くそぉ……」
両手で顔を覆い、小さく吐き出すと、雪也は肩をすくめて笑って、俺の隣に腰を下ろした。膝がかすかに触れ、俺の鼓動が跳ねる。
「慣れてよ。こっちじゃ、そういうこと普通に言われるから」
落ち着いた声と、目の奥に漂う優しさ。その言葉が、壁の陰やランプの光と混ざってやわらかく胸に染み込んでくる。
(慣れたくない…いや、慣れたいのかもしれない)
心の奥で揺れる感情が、静かな部屋の中で波紋のように広がっていく。
外では、霧に包まれた街の向こうで時計塔の鐘が低く鳴った。
その音が合図のように、二人はふっと笑い合った。
窓から射し込む月明かりが、俺たちの肩越しに淡く落ちていた。
…俺は、雪也の肩に頭を乗せ、窓を見た。
ロンドンの空は、やっぱり灰色だった。
雲が低く、光がやわらかく拡散している。冷たい空気を吸い込むと、わずかに甘いパンの匂いが混ざっていて、それだけで異国に来たことを思い知らされた。
……今までのことを、思い返す。
施設の食堂で、どうしても食べれなくて、冷めたご飯を前に座っていた自分。
何を話せばいいのかわからず、目の前の子どもたちの声が、遠くの波の音みたいに聞こえていた。
そこに少し年上の雪也が来て、笑顔で隣に座ると「もう怒る人はいないから、食べていいんだよ」と言った日のことは、今でもはっきり覚えている。あの声がなければ、自分はきっと今も、食べれないままだった。
雪也が施設から居なくなり、高校を出てからの孤独、コンビニの蛍光灯、無表情で客とやりとりをするだけの毎日。居酒屋バイトでは良くしてもらったが、返事はいつも「うん」だけ。
そこに再び雪也が現れ、生活は大きく変わった。
あのときは再会は嬉しかったけど、雪也とのベッドは毎回怖くて、混乱して、それでもどこかで「この人となら」と思っていた。
倒れて入院するなんて出会いだったが、天原や佛斑に会って、初めて“守ってくれる大人”がいると知った。怒られることよりも、心配されることに慣れていない自分だったが、俺は戸惑いながらも、ちゃんと救われた。
左手の薬指にある指輪の感触が、少しだけ胸を温める。
あの日、退院して真っ先に美容室へ連れて行かれたこと。鏡に映った自分の姿が、知らない誰かみたいに見えて────その誰かを、少しだけ好きになれそうだと思った。
イギリス行きの決心がついて、それから。
英語を覚えるのは、意外なほど楽しかった。
間違えても怒られない。笑われるけどちゃんと訂正してくれる、できたらしっかり褒められる。
雪也は忙しいのに、俺ひとりで勉強させたことはなかった。
天原や佛斑も、まるで兄のようにそばにいてくれた。
今、その延長線上にロンドンがある。
車の中から見える街並みは、赤いレンガと古い石造りの壁、黒い鉄のフェンス。
歩道を行き交う人々のマフラーの色、足元で水たまりを跳ねる音。
全てが新しくて、まだ少しだけ怖い。
────でも。
隣には雪也がいて、その先には、モリスやジェームズが待っている。
もう、自分は一人じゃない。
家族、という形が、ゆっくりと胸の中に根を下ろしていくのを感じた。
少し間を置いて、欠けた月が少し翳った頃、雪也は静かに息を吸った。
「……見せたいものがあるんだ」
現実へ引き戻すように、雪也の声が落ちる。
振り向くと、穏やかな笑みと共に差し出された手がそこにあった。
指先は温かく、迷いのない力で俺の手を包み込む。
雪也の手は、指先こそ温かいのに、手のひらは少し冷えてて、ほんの僅かに力がこもっていた。
部屋を出て廊下を歩くたび、その力は微妙に強まったり弱まったり………まるで、言葉にしない逡巡がそこに混じっているようだった。
横顔を覗き見ると、雪也は無理に平静を装っているような笑みを浮かべている。
その目は、何度も何度も前を見据えたまま、瞬きを遅らせる。
まるで、歩を進めるたびに何かを確かめているかのようだ。
「……」
声をかけかけて、俺は飲み込む。
聞けば、きっと『今じゃなくてもいい』と引き返してしまう気がしたから。
階段を上がる足取りは重くもなく、軽くもなく、慎重な一定のリズムを刻んでいた。歩く速さは俺に合わせてくれている。
けれど、二階の廊下に差し込む月光の中で、その肩は一度だけ深く息を吐くたび、わずかに下がった。
そして、一つのドアの前で雪也は立ち止まる。
その瞬間、握られていた俺の手がほんの僅かに震えた気がした。
「………ここが、俺がアトリエとして使ってた部屋」
ドアノブにかけた手が、一瞬だけ固まる。
視線を下げ、唇を小さく結び、それから深く息を吸い込む。
──雪也の覚悟を固める音が、確かに聞こえた。
次の瞬間、金属の小さな音と共に、静かに扉が開いていった。
開いた部屋はアトリエというにはふさわしいほど床に敷かれた白い布は絵の具で汚れていたし、絵筆を立ててる筆立ても絵の具が垂れたのか、元の色がわからないほどカラフルになってる。イーゼルが部屋の中に三つ立っていて、そのうち一つ、キャンバスに白い布が掛かっているものに雪也は案内した。
雪也の手が、俺の背をイーゼルの真ん中に来るようにゆっくりと押し出す。
絵の具で染められた床の白い布がが月光に濡れたように淡く光り、その光を辿るように歩を進めると、視界の奥でキャンバスに掛かった白い布が静かに揺れていた。
乾いた油絵の匂いが、胸の奥に深く沈んだ記憶をくすぐる……ここには、知らないはずなのに懐かしい空気がある。
雪也が布に指先をかけた。
呼吸の音が、やけに耳に届く。心臓の鼓動が、やけに大きく響く。
布がゆっくりと外されていくにつれ、月明かりがその下に潜む色を優しく撫でた。
……そこにいたのは、幼い俺だった。
……ああ、これ、俺なんだ。
まだ細く、頼りなく、何も知らない笑み。
この頃の俺は、きっと未来のことなんて想像すらしていなかった。
何も守るものを持たず、ただ日々をやり過ごすしかなかった俺が。
雪也の記憶の中で、こんなにも大切そうに、こんなにも温かく描かれていたなんて。
気づけば、呼吸が浅くなる。
笑ってる。こんなふうに、まっすぐ。
脳裏に、あの薄暗い施設の部屋がよぎる。
固い畳、擦り切れた毛布、窓から差す夕日の色。
笑えなかった俺に、雪也が言った──
「もう怒る人は居ないから、食べていいんだよ」
それで初めて、施設でご飯を少しだけ口にした日のこと。
あれから雪也が居なくなってから何度も、世界から背を向けた。
けれど、再会して、いつも後ろから呼んでくれたのは雪也だった。
病室で、杖と指輪を渡されたときのぬくもり。
退院の日に、初めて美容室で見た、少しだけ明るい自分の顔。
英語の勉強で、ひとつフレーズを覚えるたびに「よくできた」と笑ってくれた時間。
──今、こうして、この絵と向き合えるのは、あの頃から繋いできた手が離れなかったからだ。
もう逃げない。
この先も、雪也と歩きたい。
喉の奥が熱くなり、息を呑む。
視界の端がじんわり滲んでいく。
指先まで震えてしまうのを、どうすることもできなかった。
「……Amazing…」
零れたのは、たった一言の英語だった。
自分でも驚くほど自然に出たその声に、雪也が柔らかく目を細める。
俺は、ただ見つめ続けた。
描かれた自分は、弱くても、確かに生きていた。
その姿が、今の俺へとつながっているのだと……初めて、心の底から信じられた。
「大学で絵を学んでから、帰国するまでずっと描いてた。…この笑顔をずっと覚えていたくて」
「そうだったんだ…」
「……俺…この絵以降、これ以上いい作品を描けてないんだ」
溜め息混じりに笑った雪也に、俺は見上げて声を掛けた。
「……なら、また…描いてくれる?」
自分でも驚くほど、頼るような声になった。
「もちろん。描くよ…描かせてよ──『盟』を」
「……俺、最初から『盟』で描かれてたんだ」
「そうだよ。俺の中じゃ、ずっと盟だ」
距離がなくなるまで、自然に近づく。
雪也の肩に額をそっと預けると、優しい手が頭に添えられた。
外の冬の月が二人を包み、静かに時間がほどけていく。
「……ありがとう」
俺はこの一言に、過去も、今も、未来も全部詰め込んだ。
額が触れたまま、雪也はそっと息を吐いた。
その吐息が、月光に淡く溶けていく。
雪也の指先が俺の後頭部を優しく支え、逃げ場を与えない。けれど、その手はかつてのように支配するためではなく、落ちないように、壊れないように包み込むためのものだった。
唇が触れる瞬間、胸の奥で小さな音がした気がした。
それは、ずっと固く閉ざしていた扉が、ゆっくり開く音だったのかもしれない。
……開いた扉の奥で気づいた。
俺は…ちゃんと『恋』をしてた。『好き』を知ってた。ずっと昔から、気付かないうちに。
柔らかく、深く、時間をかけるキス。
舌も歯も使わず、ただ温もりだけを確かめるように、静かに、静かに。
窓の外では、冬の月が白く瞬き、世界をやさしく覆っている。
あの頃の俺を描いた絵も、今の俺たちも、同じ光に包まれていた。
この時間が永遠に続けばいい────そう思った。
唇が離れると、雪也は何も言わずに俺の頬に手を添えた。
その掌の温もりが、胸の奥にまで染み渡っていく。
言葉はいらない。もう十分伝わっている。
俺は小さく頷き、肩に額を預けた。
外の静けさと、部屋の温もりと、雪也の心音だけが、夜を満たしていた。
────まるで、この瞬間がエンディング曲の中で閉じられていくように。
1
あなたにおすすめの小説
〈完結〉【書籍化・取り下げ予定】「他に愛するひとがいる」と言った旦那様が溺愛してくるのですが、そういうのは不要です
ごろごろみかん。
恋愛
「私には、他に愛するひとがいます」
「では、契約結婚といたしましょう」
そうして今の夫と結婚したシドローネ。
夫は、シドローネより四つも年下の若き騎士だ。
彼には愛するひとがいる。
それを理解した上で政略結婚を結んだはずだったのだが、だんだん夫の様子が変わり始めて……?
【完結】愛されたかった僕の人生
Kanade
BL
✯オメガバース
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。
今日も《夫》は帰らない。
《夫》には僕以外の『番』がいる。
ねぇ、どうしてなの?
一目惚れだって言ったじゃない。
愛してるって言ってくれたじゃないか。
ねぇ、僕はもう要らないの…?
独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。
鎖に繋がれた騎士は、敵国で皇帝の愛に囚われる
結衣可
BL
戦場で捕らえられた若き騎士エリアスは、牢に繋がれながらも誇りを折らず、帝国の皇帝オルフェンの瞳を惹きつける。
冷酷と畏怖で人を遠ざけてきた皇帝は、彼を望み、夜ごと逢瀬を重ねていく。
憎しみと抗いのはずが、いつしか芽生える心の揺らぎ。
誇り高き騎士が囚われたのは、冷徹な皇帝の愛。
鎖に繋がれた誇りと、独占欲に満ちた溺愛の行方は――。
【完結済】あの日、王子の隣を去った俺は、いまもあなたを想っている
キノア9g
BL
かつて、誰よりも大切だった人と別れた――それが、すべての始まりだった。
今はただ、冒険者として任務をこなす日々。けれどある日、思いがけず「彼」と再び顔を合わせることになる。
魔法と剣が支配するリオセルト大陸。
平和を取り戻しつつあるこの世界で、心に火種を抱えたふたりが、交差する。
過去を捨てたはずの男と、捨てきれなかった男。
すれ違った時間の中に、まだ消えていない想いがある。
――これは、「終わったはずの恋」に、もう一度立ち向かう物語。
切なくも温かい、“再会”から始まるファンタジーBL。
全8話
お題『復縁/元恋人と3年後に再会/主人公は冒険者/身を引いた形』設定担当AI /c
《完結》僕が天使になるまで
MITARASI_
BL
命が尽きると知った遥は、恋人・翔太には秘密を抱えたまま「別れ」を選ぶ。
それは翔太の未来を守るため――。
料理のレシピ、小さなメモ、親友に託した願い。
遥が残した“天使の贈り物”の数々は、翔太の心を深く揺さぶり、やがて彼を未来へと導いていく。
涙と希望が交差する、切なくも温かい愛の物語。
やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。
毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。
そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。
彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。
「これでやっと安心して退場できる」
これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。
目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。
「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」
その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。
「あなた……Ωになっていますよ」
「へ?」
そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て――
オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。
希少なΩだと隠して生きてきた薬師は、視察に来た冷徹なα騎士団長に一瞬で見抜かれ「お前は俺の番だ」と帝都に連れ去られてしまう
水凪しおん
BL
「君は、今日から俺のものだ」
辺境の村で薬師として静かに暮らす青年カイリ。彼には誰にも言えない秘密があった。それは希少なΩ(オメガ)でありながら、その性を偽りβ(ベータ)として生きていること。
ある日、村を訪れたのは『帝国の氷盾』と畏れられる冷徹な騎士団総長、リアム。彼は最上級のα(アルファ)であり、カイリが必死に隠してきたΩの資質をいとも簡単に見抜いてしまう。
「お前のその特異な力を、帝国のために使え」
強引に帝都へ連れ去られ、リアムの屋敷で“偽りの主従関係”を結ぶことになったカイリ。冷たい命令とは裏腹に、リアムが時折見せる不器用な優しさと孤独を秘めた瞳に、カイリの心は次第に揺らいでいく。
しかし、カイリの持つ特別なフェロモンは帝国の覇権を揺るがす甘美な毒。やがて二人は、宮廷を渦巻く巨大な陰謀に巻き込まれていく――。
運命の番(つがい)に抗う不遇のΩと、愛を知らない最強α騎士。
偽りの関係から始まる、甘く切ない身分差ファンタジー・ラブ!
愛してやまなかった婚約者は俺に興味がない
了承
BL
卒業パーティー。
皇子は婚約者に破棄を告げ、左腕には新しい恋人を抱いていた。
青年はただ微笑み、一枚の紙を手渡す。
皇子が目を向けた、その瞬間——。
「この瞬間だと思った。」
すべてを愛で終わらせた、沈黙の恋の物語。
IFストーリーあり
誤字あれば報告お願いします!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる