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三章 -箱館編ー

動き始める黒き影

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 穏やかな時はいつも早く過ぎていく。正月を祝っていたのにもう春を迎えようとしていた。この北の大地はまだ春とは言えるような空気ではないけれど、それでも深かった雪は溶け、道の端に忘れたように残っている程度になった。少しづつ日が差す時間が長くなり始めても、心躍る春はこの蝦夷にはまだ来ない。なぜなら、海が怪しげに騒がしくなり始めたからだ。春の訪れは戦争の再開を意味している。

「分かった。すぐに行く」

 いつでも戦えるよう、年明けから海軍も陸軍も訓練を始めていた。そんな矢先、土方は榎本総司令に呼ばれた。私はとうとう明治政府彼らが動き出したのだと確信した。彼らは海からくる。私は弁天台場に走った。

「馬鹿だな。まさか奴らが正面から来るとでも思っているのか」
「沢……」

 いつの間にか私の後ろに沢がいた。この男の気配が読めないのが歯がゆい。同じくらいの年齢なのに沢には勝てない。剣さばきも、疾風の術も、銃の扱いも、全ての身のこなしが悔しいけれど私より優っていた。

「別にっ、感じておきたかっただけです。心の、準備を」
「そうだな。もしかしたら甲板の上で戦うことになるかもしれない。そのまま海に落ちることもあるしな。まあ、お前なら大丈夫だろう。泳ぎは問題ない」
「な、なんで知って!」
「いや、単なる俺の勘だ。鈍いお前でも、なんとなく水には強そうだってね」

 沢の勘は当たっている。私は南の国で育ったから泳ぎは得意だ。兄様とよく魚をとりに潜っていたから。でも、この北の海はどうだろう。三月とはいえ国の海とは違う。波も辛ければ水も恐ろしく冷たい。



 明治二年の春の訪れは榎本艦隊と共に始まった。軍事会議から戻った土方の顔色は最近にないくらい厳しいもので、全て、決定事項だとこれから行う作戦を述べていった。それはここにいる全員が思わず立ち上がるほどのもので、驚きは隠しきれなかった。

「宮古湾に明治政府軍の艦隊が集結しているらしい。雪解けと同時に箱館をとりに来るためだろう。しかし、知っての通り我が軍の主力艦船だった開陽丸が沈んだ。残念ながら今の我々の力では勝てない。よって、一か八か敵の艦隊に奇襲をかける。そしてあわよくば向こうのふねをいただく」

 すると、一人の隊士が尋ねる。

「どのようにして、奪うのですか」

 土方は言った。 

「アボルダージュ戦法だとよ」
「あ、あぼ……」

 聞き慣れない異国の言葉にその場にいた者たちは硬直した。分からないなりにも、とんでもない作戦に違いないと感じたからだ。そのアボルダージュ戦法とは移乗攻撃といって、自軍の艦船から敵の艦船に飛び移って戦う歴とした海戦術らしい。敵の艦船に大胆にも接舷せつげんして乗り移って行う戦闘だ。

「砲撃ではだめなのですか」
「これの目的はその艦船を頂戴することだ。拿捕して持ち帰るんだよ。開陽丸の代わりにするためにな」
「可能なのでしょうか」
「やろうがやるまいが、今の俺たちには敵に勝てる兵力が足りていない。本格的な戦いが始まるのを待っているほど余力がないと言えば分かるか」

 もう、誰も何も言い返せなかった。明治政府軍は列島を味方につけて、兵力も財力も膨れ上がるばかりだ。現にこれから拿捕しようとする艦船はアメリカという異国から購入した最新のものらしい。旧幕府軍がもっていたあの開陽丸よりも優れているという。

「甲鉄という艦を奪う。今から言うやつは前に出ろ。俺と一緒に回天に乗ってその作戦を補助する」

 回天、蟠竜ばんりゅう、高雄の三隻でその作戦を行う。蟠竜と高雄がその作戦を実行し、回天は旗艦としてニ隻を援護するそうだ。選ばれた隊士たちはそれぞれの艦に分かれて乗船、私は数名の新選組隊士と彰義隊と共に回天に乗ることになった。指揮をとるのは陸軍奉行並の土方だ。もともとこの甲鉄は慶応三年に江戸幕府がアメリカに購入を約束した艦だった。しかし当時、新政府軍も買い取りたいと申し出る。アメリカは中立を立てるために内戦の決着がつくまではどちらにも売らないと宣言していた。その後、江戸無血開城し明治政府発足にあたりアメリカは中立を撤廃し、それを受けて明治政府軍は購入に踏み切った。

「取り返すんだよ、あの艦を」

 甲鉄はその名の通り船体を鉄または鋼に覆われたとても頑丈な艦船だ。少しくらいの砲弾ではびくともしないらしい。それが手に入れば開陽丸よりも戦闘能力は遥か上となる。

「承知しました! やりましょう!」

 今か今かと待ち望んでいた明治政府軍との戦いに、皆の士気が上がり始める。私もあの艦を取り返すんだと拳を握り直した。







 そして、私たちは箱館を出港した。久しぶりに乗る艦に足元がよろめく。土方は船首でひとり海を見ていた。

「土方さん」
「嫌な風だな。雨が、来やがったか」
「あ……本当だ」

 空が黒く染まり始めた。それは夜の訪れを知らせるというよりも、嵐の訪れを予感させるものだった。分厚い黒い雲が見る見る私たちの空を覆っていく。それはとても速かった。風が、それを早めている。

「こいつは、まずいな。船内に戻るぞ」
「はい」

 そういったそばから波がうねりはじめた。艦内に続く梯子は狭く、人ひとりがなんとか通れるくらいだ。小柄な私ですら狭いと感じるほど。梯子を降りる途中で、船体が大きく揺れた。

「うわっ」
「大丈夫か! 手は離すなよ」
「すみません。大丈夫です」

 海の変化の早さに私は驚きを隠せなかった。北の海はなんと荒々しいことか。この回天の艦長を務めるのは甲賀源吾こうがげんごという男だった。土方は艦長のもとに急いだ。

「甲賀殿! 海が」
「土方くんか! 悪いが君と話している暇はない。蟠竜と高雄とはぐれた。今、奴らの艦影を探すので忙しいのでな!」
「見失ったのですか!」

 監視員が覗く望遠鏡からニ隻が消えた。荒れ狂う波に攫われたのか、三隻は散り散りになってしまったのだ。確かに船内は立っているだけの事が難しいこの状態だ。その波の上ではこれ以上だと私は思った。

「見つかったら伝達する! 邪魔はしないでくれ」

 海のとこを知っているはずの甲賀艦長の吊り上がった目を見ると、今がどれほど大変なのかがよく分かった。土方は私の腕を掴んで操縦室から離れた。

「流石に艦の上では何もできないな。待つしかないのか」

 そして暴風雨は一晩中続いた。荒れ狂うのは海だけではない。艦内の荒れ方も凄かった。逃げ場のない海の上で、脳みそごと激しく揺さぶられた隊士たちは船酔いを起こす。当然、私もそうなった。

「うっ……だめ、無理っ」
「テツ」

 吐くものなんてないのに、胃の底からこみ上げるものに抗えなかった。指先の震えが止まらなくなる始末。こんなことではいけない。もし、今、奇襲されたらどうする! 土方を護れるのか! 焦れば焦るほど酔は酷くなるばかりだった。吐き気、目眩、悪寒、冷や汗、震え……終わりが見えなかった。

(死ぬのかな……)

 それほど苦しかったのだ。

「おい、水を飲め」
「沢……。なぜ平気なのですか」

 艦内の廊下の端でうずくまる私に沢が水を持ってきた。飲んだらまた吐くからと断ると、吐くから飲まなければならないんだと叱られた。なんだが、お爺みたいだ。

「一度に飲まなくてもいい。一口ずつ、ゆっくり飲め。他の者たちのところにも行ってくる」

 こんな時も役に立てる沢が羨ましい。それと同時に沢が逞しくまた頼りがいのある男に見えた。常世兄様のよう、なそんな空気を纏っていた。

(兄様……。あなたは明治政府軍の艦にいるのですか。今の常葉はあなたの敵です)

 暫くすると、陸軍部隊に招集がかかった。行方を見失った高雄を発見したという知らせだった。蟠竜は未だ何処にいるのかさえ分からないそうだ。作戦の要である高雄が見つかったなら何とかなるだろう。そんな安堵の空気を艦長の甲賀は打ち消した。

「高雄は機関に故障が見つかった。高雄での作戦は中止する」
「では、このまま撤退ですか」

 誰かがそう聞いたとき、甲賀の隣に立っていた土方がこう言った。回天で作戦を実行すると。もちろん周りはどよめいた。後方援護だと思っていた任務が、奪取する主要任務に変わった。しかも、援護なしで突っ込むのだから当然だ。

「我々しかヤれる人間がいないのですね」

 一緒に乗船していた相馬がそう言った。艦長も土方も黙ってそれにうなずいた。

(やるしか、ない)

「回天でやる!」
「「おおー!」」

 土方の一声にみなが賛同した。このまま箱館に帰っても優位に戦える方法はないのだ。これに掛けるしかなかった。甲鉄さえ、なんとか手に入れば五分五分とまでは行かなくとも、今よりも随分と戦いやすくなる。

「降りたい者がいれば、高雄に移す。恐らくこの作戦でかなりの死者がでるだろう……迷いがある者は移れ」

 しんと静まり返る中で皆考えた。今の土方は降りると言っても罰することなどしないと、誰もが知っていた。しかし、誰も手をあげなかった。

「いない、ということでいいんだな」

 最後の確認にその場にいた全員が固く口を結んだまま頷いた。それを見た艦長の甲賀は高らかに叫ぶ。

「全員、持ち場につけー! 回天、出陣いたす!」

 静かにそれは、始まった。
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