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その後ー番外編ー
私にお世話させてください!
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「くそぅ……ちっ」
東二等陸佐、駐屯地医務室にてイライラが止まらない。ここ半月ほど、新妻が待つ自宅に帰っていないのが主な原因である。
「失礼します。東二佐、書類まとめました。よろしくお願いします」
「ああ、そこに置いてくれ」
「大変申し上げにくいのですが……」
「ああ、分かっている。明日の朝までに、だろ。どうせ家には帰れないんだ。仕事しかやることがないからな。まったく、早く帰りたいよ俺は」
「申し訳ありません! では」
逃げるように、看護官は書類を置いて去っていった。陸上自衛隊は大雨だの台風だので災害派遣が続いていた。避難者の生活支援や健康管理も自治体と協力しながら行なっている。
こんなに忙しい年は東が入隊してから記憶にない。
なんせ普段から慢性的な人員不足、入隊希望者はいっこうに増えない。これは医官や看護官にしても同じ状況であった。
「俺の身体が丈夫なことに感謝するんだな。はぁ……それよりも、ひよりだ。ちゃんと食べているのか? 体調に変わりはないか? 毎日確認しても不安だな。触らないと落ち着かない」
電話も毎日ではないがしている。メールは手が空くたびに送っている。ただ、直接触れることができないだけだ。
「ひよりが足りない」
この身体はひよりで栄養を補給しているようなものだと、東はため息をついた。もう、独り身の頃には戻れない。足りないのは体の栄養ではなく、心の栄養なのだ。
「ひより……」
東二等陸佐、心の栄養失調一歩手前である。
◇
「どうしよう! 夕飯、どうしよう!」
昼休みに夫の八雲からメールが届いた。なんと二週間ぶりに、帰ってくるというのだ。
嬉しくて午後はずっと顔が緩みっぱなしだった。いつもなら突き返したくなる書類も、快く引き受けて、倍速でそれらの仕事をこなした。
だから失念していたのだ。
「お夕飯! 考えてなかった! どうしよう、何にしよう」
考えれば考えるほど、悩めば悩むほど頭の中は空っぽになってしまう。今からレストランを探すには遅すぎる。いや、疲れて帰る夫を外に連れ出すなんて妻としてありえない。
「うわー! ちょっとなにやってるのよわたし! 家に帰ってきちゃったじゃないの!」
頭と体は別なようで、足は真っ直ぐに我が家に向かっていたのであった。
ひよりは慌ててエントランスの前で回れ右をして、スーパーに向かって走り出そうとした。
そのとき、
ドンという衝撃にみまわれる。
「きゃっ」
「おおっと」
あまりにも視野が狭すぎた。帰宅途中の誰かにぶつかってしまったようだ。ひよりは慌てて頭を下げる。
「ごめんなさい!」
ぶつかった相手はひよりの謝罪には反応せず、ただじっとしている。ひよりは頭を上げるべきかどうか悩みながら、その人の靴を見ていた。
きれいに磨かれた靴の先には、自分の顔がうつりそうなほどの輝きがある。
(うん? この感じは……あっ⁉︎)
この磨きかたには見覚えがあった。
「八雲さん、お帰りなさい!」
ひよりは自信満々に満面の笑みを上げ、目の前の人にそう言った。久しぶりでも分かるのだ。愛する夫は爪先まで自衛官だから。
「ただいま、ひより。それにしてもずいぶんと大慌てだったな。会社に忘れ物でもしたのかい?」
東は自分を見上げるひよりの頬に手を伸ばし、冷え切った頬を手の甲で軽く触れた。自分にされるがまま、少しだけ目を細めるひよりの仕草に早くも東は目眩を覚えた。
もう、可愛くて可愛くてたまらないのだ。
「あっ……そうだ、あのね八雲さん」
「なんだい?」
たった今までキラキラした笑顔のひよりが、今度は困ったような表情に変わった。そんな変化すらも可愛くて愛おしくてたまらない東は、お日様のように穏やかな笑みを崩さない。
「実は、お夕飯のお買い物ができないの。ぜんぜんアイデアも浮かばなくて、考えながら帰っていたつもりなのに、いつのまにかマンションに帰りついてて……わたし、今からスーパーに行ってくるから八雲さんはお風呂に入ってゆっくりしてて!」
ひよりは早口でそういうと、東の横をひゅんっとすり抜けるように足を踏み出した。
「おっと、早まらないでくれ。ひよりさん?」
東はすぐにでも走り出しそうなひよりの腕を掴んだ。東の行動に驚いたひよりは振り返って首をかしげた。
「帰ると知らせたのは今日の昼だからね。準備できてなくてとうぜんだよ。だからね、ほら」
東は手に下げた袋を少し上げて見せた。その袋の中には、いろいろな食材が入っているのは一目瞭然だった。
「えっ? あっ、もしかして買ってきてくれたの⁉︎」
「ご名答。さあてと、久しぶりだから腕がなるなぁ。ひよりは一人でよくがんばったね。えらいぞ。さあ、帰ろう。お風呂の準備は頼んだよ」
「あの、八雲さん? まって、わたしが作るから……ねえ、聞いてます? 八雲さんってば」
東は鼻歌でも歌い出しそうなご機嫌な笑顔で歩き出す。もちろんひよりの手を引いて。
東二等陸佐、ひよりの顔を見て生気を取り戻す。
◇
帰宅すると東は荷物を置いて、身の回り品を片付けると夕飯の支度に取りかかった。
その身のこなしと言ったら驚くほどに素早い。ひよりが玄関でまごついてる間に、東は手洗いを済ませて買い物袋をキッチンに置くと、そのまま自室に入って着替えをすませる。
ひよりが洗面室から出てくる頃にはエプロンをつけて食材を取り出していた。
「もう作ってる! 早くないですか?」
「うん? そうかな。普通だと思うよ」
「いや、普通じゃないと思います。じゃ、お風呂準備してきます。そのあとわたしも手伝いますね」
ひよりは負けていられないと、腕まくりをしてお風呂を洗った。湯張りスイッチを入れるだけにして、エプロンをつけながら東の隣に立った。
「何からお手伝いしましょう」
にこにこ笑顔の東はひよりのエプロン姿を見て、更ににこにこになる。もう目尻は下がりっぱなし、頬も上がりっぱなし。駐屯地では威厳ある二等陸佐も、愛する妻の前ではデレデレのデロデロだ。
「そうだね。じゃあ、ここに座っていて。よっと」
東はひよりを抱え上げて、キッチンのそばに置いてあった椅子に座らせた。
「あのっ、八雲さん?」
「ひよりはそこにいてくれるだけで、手伝いになるよ。頼むからそこにいて、僕のこと見ていて」
「なにいって――」
にこにこ笑顔が急に、色気のある男の笑みに変わった。ひよりの心臓がドキドキドキドキと騒ぎ出す。
(僕のこと、見ていてって!)
ボッと火がついたように顔が熱くなった。ひよりは思わず両手で頬を包み込む。東の少し低い声で、大人の瞳に見つめられながら、薄い唇が少しだけ動いてそんなことを言う。
「降参します……」
「ひより? いったい君は何に負けたんだい?」
「八雲さんの……(色気)」
「僕の、なに?」
「言わない! ぜったいに、言わない! もう、もう、もう! 大人ってズルい」
椅子にちょこんと座ったひよりが顔を赤くして悶えている。東はそれに満足したのか、料理に戻った。
久しぶりの我が家で、妻の手料理を食べるのは幸せなことだ。しかし東にとっては、自分の手料理を妻に食べさせたいという思いの方が強い。
二週間も離れていた。東はひよりが一人で寝て、一人で起き、一人でご飯を食べて仕事に向かう姿を思うと、胸が張り裂けそうになるのだ。
とにかく東は自分の管理下で、ひよりの健康と安全を守りたくて仕方がない。しかし、そうは自衛隊が許してはくれない。
どこそこのゾーニングを確認しろだの、衛生教育をどこそこの部隊で行えだの、それが終わると訓練で倒れた隊員の治療をし、手が足りないと市内の自衛隊病院へ出向いたりと、とにかく近頃は忙しい。
だからこうして、休みをもぎ取ってはひよりに尽くす。それが唯一の楽しみであり、癒しでもある。
「ひよりがいなかった頃の僕は、どうやって生きていたんだろうな」
「わたしがいなかったら? もっとのんびりできるんじゃないですか? これじゃ休まらないじゃない。妻として失格だよ」
―― 妻として失格なわけないだろう!
こんなにも俺の心を満たし、癒し、励ましてくれている。君の声、君の豊かな表情、君の温もりにどれほど俺は助けられていることか。
自分の持ちうる全てをもって尽くしたいと、そう思える女性は他にいない。俺がいるときくらいはもっと甘えていいんだよ。もっとわがままを言っていいんだよと東は心の中で叫ぶ。
いちばん大変なときにいないかもしれない自衛官。
いちばん辛いとき、苦しいときに他人のために働く自衛官。家族は二の次、国民のために命をかける自衛官。
だから平時くらいは、愛する家族や恋人のために尽くしたい。
「ひよりはまだまだ分かってないな。仕方がない、今夜ゆっくりと教えてあげよう。幸い明日はひよりも休みだし、俺も連勤の見返りに数日の休暇をぶん取ってきた。楽しみにしておいで、ひより」
「八雲さんっ」
いつも東は自分のことを僕という。それが俺に変わってしまった。それの意味をひよりは知っている。頼りがいのある優しい医官さんが、エロさ増し増しの医官さんになってしまうのだ。
ひよりはそっと椅子から降りた。
そして、お風呂の湯張りスイッチを押した。
もうなにをどう抵抗しても東には勝てない。であれば、大人しく夕飯をいただいて、お風呂に入って思いのままにいただかれよう。
「大丈夫かなわたし。バチがあたらないか心配。夫が何もかもしてくれるだなんて、夢でも見ているのかな」
はぁ……と小さく贅沢なため息をついた。
◇
「ねぇ、八雲さん」
「なんだい? ひより」
「あの……疲れて帰ってきたのは八雲さんのはずなんですよ。ずっと、忙しくて家に帰れなくて。だからわたしが労って、お疲れ様って言ってさぁ。でも、これどういうことですか」
「どういうことって? 僕はこうすることで英気を養っているんだよ。ひより、ありがとう」
「いや。違うと、思います」
ひよりがこう言うのも無理はない。今、ひよりがいるのは温かい湯船の中で、そこお湯に揺られながら東に後ろから包まれるように座っているのだ。
東はというとさっきからずっと後ろから、ひよりの腕をなでたり脚をマッサージしたりと忙しない。
しまいには、首筋にキスをするしまつ。
「んんっ」
「癒されるなぁ。ひよりの肌は白くて滑らかで、柔らかい。なにより美しい。ずっと野朗どもの手入れをさせられていたんだぞ? 分かってくれよ」
「それでもっ、やっぱりなんか違います」
「まだまだ分からないか。困ったなうちの奥さんは。僕はね、ひよりを甘やかすことが唯一の休息なんだ。その唯一を奪わないでほしいね」
「えぇ……」
愛する夫は疲れているだろうに帰りにスーパーに寄り、手を抜かない夕飯を作りながら、一人でよく頑張ったねと労ってくれる。
ひよりも立派に働くアラサーOLだ。夫の留守を守るのは妻として当たり前だし、褒められるようなことはしていない。
むしろ、今回に限ってはひよりが東を甘やかしてあげるべきなのだ。きっと24時間、気を張り詰めて勤務をしていたはずなのだから。
「納得していないようだね」
「やっぱり納得できないよ。頑張ったのは八雲さんの方だし、甘やかされるのも八雲さんです! だって、ずっと泊まり込みだったんですよ?」
「だからこうして」
「違います!」
ひよりにも譲れないものがある。
今回ばかりは自分が夫を労い、甘やかす番だと強く思っている。ひよりは勢いよく振り向いて、意志の強さを示すように夫の目を見つめた。
「うむ……困ったな」
「困る必要、あります? お世話させてください」
ひよりは両手を合わせて妻らしいことをさせてくれと頼み込む。それもどうかと思うが、東は指で顎を撫でながら何やら思案している。
「ひよりが僕のお世話ねぇ。いいのかな?」
「はい! 喜んで!」
「ひよりの僕を想う気持ちを立てなければならないね」
「うん。お風呂出たら、髪乾かすね。あと、ベッドでマッサージしてあげる! 肩とか腰とか、腕もね。こう見えてもわたし、マッサージ得意だから」
とたんに瞳を輝かせるひよりに、東は不敵な笑みを浮かべる。
まるでオオカミが、ヒツジを目前にして舌舐めずりをしているようだ。しかし、ひよりは気づかない。
「今夜はひよりに俺の全てを委ねるとするよ」
「まかせ……えっ」
東がザバァと湯船から勢いよく立ち上がった。それをひよりはぼんやりと見上げた。
(あれ? なんか、違和感……!)
「さあ、こうしてはいられない。一日は24時間しかないからね」
「わっ、え? ひあぁっ」
東は驚くひよりをよそに、軽々とその体を持ち上げた。脱衣室で手早くひよりにガウンを着せ、自分は適当に羽織って両手を広げる。
「さあ奥さん、手厚く頼むよ」
「はっ……はい」
ひよりが後悔したかはさておき、長い夜の扉を叩いたのは間違いない。
(これが休息ですか、医官さん‼︎)
ひよりの心の叫び声は東の胸に吸い込まれていった。
東二等陸佐、駐屯地医務室にてイライラが止まらない。ここ半月ほど、新妻が待つ自宅に帰っていないのが主な原因である。
「失礼します。東二佐、書類まとめました。よろしくお願いします」
「ああ、そこに置いてくれ」
「大変申し上げにくいのですが……」
「ああ、分かっている。明日の朝までに、だろ。どうせ家には帰れないんだ。仕事しかやることがないからな。まったく、早く帰りたいよ俺は」
「申し訳ありません! では」
逃げるように、看護官は書類を置いて去っていった。陸上自衛隊は大雨だの台風だので災害派遣が続いていた。避難者の生活支援や健康管理も自治体と協力しながら行なっている。
こんなに忙しい年は東が入隊してから記憶にない。
なんせ普段から慢性的な人員不足、入隊希望者はいっこうに増えない。これは医官や看護官にしても同じ状況であった。
「俺の身体が丈夫なことに感謝するんだな。はぁ……それよりも、ひよりだ。ちゃんと食べているのか? 体調に変わりはないか? 毎日確認しても不安だな。触らないと落ち着かない」
電話も毎日ではないがしている。メールは手が空くたびに送っている。ただ、直接触れることができないだけだ。
「ひよりが足りない」
この身体はひよりで栄養を補給しているようなものだと、東はため息をついた。もう、独り身の頃には戻れない。足りないのは体の栄養ではなく、心の栄養なのだ。
「ひより……」
東二等陸佐、心の栄養失調一歩手前である。
◇
「どうしよう! 夕飯、どうしよう!」
昼休みに夫の八雲からメールが届いた。なんと二週間ぶりに、帰ってくるというのだ。
嬉しくて午後はずっと顔が緩みっぱなしだった。いつもなら突き返したくなる書類も、快く引き受けて、倍速でそれらの仕事をこなした。
だから失念していたのだ。
「お夕飯! 考えてなかった! どうしよう、何にしよう」
考えれば考えるほど、悩めば悩むほど頭の中は空っぽになってしまう。今からレストランを探すには遅すぎる。いや、疲れて帰る夫を外に連れ出すなんて妻としてありえない。
「うわー! ちょっとなにやってるのよわたし! 家に帰ってきちゃったじゃないの!」
頭と体は別なようで、足は真っ直ぐに我が家に向かっていたのであった。
ひよりは慌ててエントランスの前で回れ右をして、スーパーに向かって走り出そうとした。
そのとき、
ドンという衝撃にみまわれる。
「きゃっ」
「おおっと」
あまりにも視野が狭すぎた。帰宅途中の誰かにぶつかってしまったようだ。ひよりは慌てて頭を下げる。
「ごめんなさい!」
ぶつかった相手はひよりの謝罪には反応せず、ただじっとしている。ひよりは頭を上げるべきかどうか悩みながら、その人の靴を見ていた。
きれいに磨かれた靴の先には、自分の顔がうつりそうなほどの輝きがある。
(うん? この感じは……あっ⁉︎)
この磨きかたには見覚えがあった。
「八雲さん、お帰りなさい!」
ひよりは自信満々に満面の笑みを上げ、目の前の人にそう言った。久しぶりでも分かるのだ。愛する夫は爪先まで自衛官だから。
「ただいま、ひより。それにしてもずいぶんと大慌てだったな。会社に忘れ物でもしたのかい?」
東は自分を見上げるひよりの頬に手を伸ばし、冷え切った頬を手の甲で軽く触れた。自分にされるがまま、少しだけ目を細めるひよりの仕草に早くも東は目眩を覚えた。
もう、可愛くて可愛くてたまらないのだ。
「あっ……そうだ、あのね八雲さん」
「なんだい?」
たった今までキラキラした笑顔のひよりが、今度は困ったような表情に変わった。そんな変化すらも可愛くて愛おしくてたまらない東は、お日様のように穏やかな笑みを崩さない。
「実は、お夕飯のお買い物ができないの。ぜんぜんアイデアも浮かばなくて、考えながら帰っていたつもりなのに、いつのまにかマンションに帰りついてて……わたし、今からスーパーに行ってくるから八雲さんはお風呂に入ってゆっくりしてて!」
ひよりは早口でそういうと、東の横をひゅんっとすり抜けるように足を踏み出した。
「おっと、早まらないでくれ。ひよりさん?」
東はすぐにでも走り出しそうなひよりの腕を掴んだ。東の行動に驚いたひよりは振り返って首をかしげた。
「帰ると知らせたのは今日の昼だからね。準備できてなくてとうぜんだよ。だからね、ほら」
東は手に下げた袋を少し上げて見せた。その袋の中には、いろいろな食材が入っているのは一目瞭然だった。
「えっ? あっ、もしかして買ってきてくれたの⁉︎」
「ご名答。さあてと、久しぶりだから腕がなるなぁ。ひよりは一人でよくがんばったね。えらいぞ。さあ、帰ろう。お風呂の準備は頼んだよ」
「あの、八雲さん? まって、わたしが作るから……ねえ、聞いてます? 八雲さんってば」
東は鼻歌でも歌い出しそうなご機嫌な笑顔で歩き出す。もちろんひよりの手を引いて。
東二等陸佐、ひよりの顔を見て生気を取り戻す。
◇
帰宅すると東は荷物を置いて、身の回り品を片付けると夕飯の支度に取りかかった。
その身のこなしと言ったら驚くほどに素早い。ひよりが玄関でまごついてる間に、東は手洗いを済ませて買い物袋をキッチンに置くと、そのまま自室に入って着替えをすませる。
ひよりが洗面室から出てくる頃にはエプロンをつけて食材を取り出していた。
「もう作ってる! 早くないですか?」
「うん? そうかな。普通だと思うよ」
「いや、普通じゃないと思います。じゃ、お風呂準備してきます。そのあとわたしも手伝いますね」
ひよりは負けていられないと、腕まくりをしてお風呂を洗った。湯張りスイッチを入れるだけにして、エプロンをつけながら東の隣に立った。
「何からお手伝いしましょう」
にこにこ笑顔の東はひよりのエプロン姿を見て、更ににこにこになる。もう目尻は下がりっぱなし、頬も上がりっぱなし。駐屯地では威厳ある二等陸佐も、愛する妻の前ではデレデレのデロデロだ。
「そうだね。じゃあ、ここに座っていて。よっと」
東はひよりを抱え上げて、キッチンのそばに置いてあった椅子に座らせた。
「あのっ、八雲さん?」
「ひよりはそこにいてくれるだけで、手伝いになるよ。頼むからそこにいて、僕のこと見ていて」
「なにいって――」
にこにこ笑顔が急に、色気のある男の笑みに変わった。ひよりの心臓がドキドキドキドキと騒ぎ出す。
(僕のこと、見ていてって!)
ボッと火がついたように顔が熱くなった。ひよりは思わず両手で頬を包み込む。東の少し低い声で、大人の瞳に見つめられながら、薄い唇が少しだけ動いてそんなことを言う。
「降参します……」
「ひより? いったい君は何に負けたんだい?」
「八雲さんの……(色気)」
「僕の、なに?」
「言わない! ぜったいに、言わない! もう、もう、もう! 大人ってズルい」
椅子にちょこんと座ったひよりが顔を赤くして悶えている。東はそれに満足したのか、料理に戻った。
久しぶりの我が家で、妻の手料理を食べるのは幸せなことだ。しかし東にとっては、自分の手料理を妻に食べさせたいという思いの方が強い。
二週間も離れていた。東はひよりが一人で寝て、一人で起き、一人でご飯を食べて仕事に向かう姿を思うと、胸が張り裂けそうになるのだ。
とにかく東は自分の管理下で、ひよりの健康と安全を守りたくて仕方がない。しかし、そうは自衛隊が許してはくれない。
どこそこのゾーニングを確認しろだの、衛生教育をどこそこの部隊で行えだの、それが終わると訓練で倒れた隊員の治療をし、手が足りないと市内の自衛隊病院へ出向いたりと、とにかく近頃は忙しい。
だからこうして、休みをもぎ取ってはひよりに尽くす。それが唯一の楽しみであり、癒しでもある。
「ひよりがいなかった頃の僕は、どうやって生きていたんだろうな」
「わたしがいなかったら? もっとのんびりできるんじゃないですか? これじゃ休まらないじゃない。妻として失格だよ」
―― 妻として失格なわけないだろう!
こんなにも俺の心を満たし、癒し、励ましてくれている。君の声、君の豊かな表情、君の温もりにどれほど俺は助けられていることか。
自分の持ちうる全てをもって尽くしたいと、そう思える女性は他にいない。俺がいるときくらいはもっと甘えていいんだよ。もっとわがままを言っていいんだよと東は心の中で叫ぶ。
いちばん大変なときにいないかもしれない自衛官。
いちばん辛いとき、苦しいときに他人のために働く自衛官。家族は二の次、国民のために命をかける自衛官。
だから平時くらいは、愛する家族や恋人のために尽くしたい。
「ひよりはまだまだ分かってないな。仕方がない、今夜ゆっくりと教えてあげよう。幸い明日はひよりも休みだし、俺も連勤の見返りに数日の休暇をぶん取ってきた。楽しみにしておいで、ひより」
「八雲さんっ」
いつも東は自分のことを僕という。それが俺に変わってしまった。それの意味をひよりは知っている。頼りがいのある優しい医官さんが、エロさ増し増しの医官さんになってしまうのだ。
ひよりはそっと椅子から降りた。
そして、お風呂の湯張りスイッチを押した。
もうなにをどう抵抗しても東には勝てない。であれば、大人しく夕飯をいただいて、お風呂に入って思いのままにいただかれよう。
「大丈夫かなわたし。バチがあたらないか心配。夫が何もかもしてくれるだなんて、夢でも見ているのかな」
はぁ……と小さく贅沢なため息をついた。
◇
「ねぇ、八雲さん」
「なんだい? ひより」
「あの……疲れて帰ってきたのは八雲さんのはずなんですよ。ずっと、忙しくて家に帰れなくて。だからわたしが労って、お疲れ様って言ってさぁ。でも、これどういうことですか」
「どういうことって? 僕はこうすることで英気を養っているんだよ。ひより、ありがとう」
「いや。違うと、思います」
ひよりがこう言うのも無理はない。今、ひよりがいるのは温かい湯船の中で、そこお湯に揺られながら東に後ろから包まれるように座っているのだ。
東はというとさっきからずっと後ろから、ひよりの腕をなでたり脚をマッサージしたりと忙しない。
しまいには、首筋にキスをするしまつ。
「んんっ」
「癒されるなぁ。ひよりの肌は白くて滑らかで、柔らかい。なにより美しい。ずっと野朗どもの手入れをさせられていたんだぞ? 分かってくれよ」
「それでもっ、やっぱりなんか違います」
「まだまだ分からないか。困ったなうちの奥さんは。僕はね、ひよりを甘やかすことが唯一の休息なんだ。その唯一を奪わないでほしいね」
「えぇ……」
愛する夫は疲れているだろうに帰りにスーパーに寄り、手を抜かない夕飯を作りながら、一人でよく頑張ったねと労ってくれる。
ひよりも立派に働くアラサーOLだ。夫の留守を守るのは妻として当たり前だし、褒められるようなことはしていない。
むしろ、今回に限ってはひよりが東を甘やかしてあげるべきなのだ。きっと24時間、気を張り詰めて勤務をしていたはずなのだから。
「納得していないようだね」
「やっぱり納得できないよ。頑張ったのは八雲さんの方だし、甘やかされるのも八雲さんです! だって、ずっと泊まり込みだったんですよ?」
「だからこうして」
「違います!」
ひよりにも譲れないものがある。
今回ばかりは自分が夫を労い、甘やかす番だと強く思っている。ひよりは勢いよく振り向いて、意志の強さを示すように夫の目を見つめた。
「うむ……困ったな」
「困る必要、あります? お世話させてください」
ひよりは両手を合わせて妻らしいことをさせてくれと頼み込む。それもどうかと思うが、東は指で顎を撫でながら何やら思案している。
「ひよりが僕のお世話ねぇ。いいのかな?」
「はい! 喜んで!」
「ひよりの僕を想う気持ちを立てなければならないね」
「うん。お風呂出たら、髪乾かすね。あと、ベッドでマッサージしてあげる! 肩とか腰とか、腕もね。こう見えてもわたし、マッサージ得意だから」
とたんに瞳を輝かせるひよりに、東は不敵な笑みを浮かべる。
まるでオオカミが、ヒツジを目前にして舌舐めずりをしているようだ。しかし、ひよりは気づかない。
「今夜はひよりに俺の全てを委ねるとするよ」
「まかせ……えっ」
東がザバァと湯船から勢いよく立ち上がった。それをひよりはぼんやりと見上げた。
(あれ? なんか、違和感……!)
「さあ、こうしてはいられない。一日は24時間しかないからね」
「わっ、え? ひあぁっ」
東は驚くひよりをよそに、軽々とその体を持ち上げた。脱衣室で手早くひよりにガウンを着せ、自分は適当に羽織って両手を広げる。
「さあ奥さん、手厚く頼むよ」
「はっ……はい」
ひよりが後悔したかはさておき、長い夜の扉を叩いたのは間違いない。
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