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色欲の章

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「夢の中で幸福な光景を見せられて、それを壊される……そうして心を破壊され廃人になったあなたは、私の素敵な玩具になるわ。さぁ、落ちて」

 彼女の手が、俺の頬に触れようとした。

「――生憎だけど、最近よく眠れていなくてね? 夢なんて見れないんだよ」
「――!」

 煙管の女は驚愕し、咄嗟に距離をとる。
 俺と視線を合わせ、汗った表情で呟く。

「嘘でしょ? 自力で解いたの?」
「ああ、胸糞悪い体験をどうもありがとう。おかげでとても……気分がいいよ」

天芯倶舎テンジンクシャ】、十の奥義の一つ。

「【十纏ジッテン】――けん! あらゆる術式を強制解除する。対象に触れていないと発動しないが、自身にかけられた効果なら自力で突破できるんだよ」
「そんな術式……そう、あなたが噂の大賢者ね」
「俺はまだ未熟だよ。だが、未熟な俺でも、お前の幻術を破ることは他愛なかったな」
「――ふふっ、あなたはそうね。でも、他はどうかしら?」

 震えが伝わる。
 握っている手から、彼女から。
 そう、幻術にかかったのは俺一人じゃない。
 香りを嗅ぐことが発動条件だとしたら、一緒にいた彼女も。

「い、いや……いやあああああああああああああああ!」
「ロール姫!」
「嫌嫌嫌! お母さん! お母さんが!」
「ふふっ、どうやらそっちの子にはちゃんと効いたみたいね」

 ロール姫には幻術の対処方がない。
 わかっていたはずなのに。
 一緒にいるべきではなかった。
 彼女も同じように、幸福からの絶望を見せられてしまった。

「落ち着け! 全て幻だ!」
「だってお母さんが! お母さんがいなくなる! ボクを置いてまた……一人に……!」

 俺が知らない彼女の中のタブーに、呪具の幻術は触れたのだろう。
 こんなにも錯乱している彼女は初めて見る。
 普段の落ち着きも、余裕もない。

「大丈夫! 俺はいる! 一人じゃない!」
「アンセル……でも、お母さんが! お母さんを助けて!」
「――っ、すまない」
「っ……」

 このままじゃ取り乱し、余計に心を壊される。
 そう思った俺は彼女の額に指をかざし、彼女の意識を鎮める。
 
「今は眠ってくれ。あとで話ならいくらでも聞く」
「酷い男ね。傷心の女性を眠らせて、何をするつもりかしら?」
「お前を懲らしめるために眠ってもらっただけだ」

 こいつ、彼女が女性だと気付いていたのか。

「でもいいの? 他のも一緒にいたでしょう? あの子たちも同じ目に合っているかもしれないわ」
「――甘い奴だな」
「え?」
「うちの弟子たちは、甘い夢に惑わされたりはしないよ」

 確信を持つ。
 直後、煙の中から三人が飛び出し、俺の元へ駆けつける。

「先生!」
「遅くなったわ!」
「大丈夫? 王子様も無事かな?」
「――! まさか、幻術にかかっていたはずなのに」

 煙管の女は焦る。
 冷や汗が流れ落ちる彼女に、俺は得意げに語る。

「俺たちは日々、煩悩を制御する修行を積んでいる。だからよく知っているんだ。この世は不条理に満ちていることに」

 【十纏ジッテン】には至っていない彼女たちも、それぞれ幻術への対抗策は持っている。
 一人では厳しくとも、三人一緒なら十分に対処できると思った。
 さっきの夢は、匂いを嗅がせないと発動できない。

「これで終わりだな」
「そうかしら? ここは私のテリトリーよ! この空間にいる限り、あなたは私を捕まえられないわ!」
「先生!」
「あいつ逃げる気よ!」

 煙管の女が煙に紛れようとする。
 しかし逃がす気はない。
 俺に胸糞悪い夢を見せた償いをしてもらわないとな。
 
 この空間は呪具によって生成された幻だ。
 漂う煙が街を構築している。
 ならば単純。
 この煙を全て吹き飛ばし、街をこちらから破壊すればいい。

「【十纏ジッテン】――掉挙じょうこ

 俺は右手で地面に触れる。
 俺の足元を中心に振動が伝わり、大地震が起こる。
 振動は地面から空気にも拡散。
 街全体が揺れ、そのまま煙も吹き飛ばし、現れたのは何もない草原だった。
 そこにポツリと、煙管の女性が立っている。

「そ、そんな……」
「見つけたぞ」
「くっ――!」

 逃げようと背を向ける女の眼前に、俺は先回りする。
 そうして指を立て、彼女の額に当てた。
 振動が伝わり、脳が揺れる。
 一瞬にして意識は闇に沈むだろう。

「そん……な……」
「お前はいい加減、夢から覚めたほうがいいな」

 といいつつ、彼女はこれから夢を見るだろう。
 酷く現実的で、楽しみもない投獄生活、という夢をな。 
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