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第十三話 桜色の正常化
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床に落ちた男物の布が、やけに遠くに見えた。
尚人は、動けないまま立ち尽くしていた。
裸足の足裏に、冷えたフローリングの感触。
換気扇の低い音。
遠くの車の走行音。
世界は何も変わっていない。
――なのに。
腰のあたりだけが、ひどく意識に張りついている。
息を吸うたび、腹の奥が微かに引き攣る。
吐くたび、何かを手放してしまいそうになる。
視線を落とす。
掌の中で、あの無造作に掴み取った一枚の桜色が静かに揺れていた。
薄すぎる布。
指の熱を逃がさない素材。
広げただけで、形が崩れそうな頼りなさ。
それなのに――妙に、目が離せない。
尚人は、ほんのわずかだけ息を止めた。
布越しに伝わる温度が、指先にじんわりと絡みついてくる。
(……こんなに、軽いのに)
喉の奥が、かすかに鳴る。
派手な装飾はない。
余計な主張もない。
ただ静かに、そこにあるだけの一枚。
なのに――
視線だけが、不自然なほど引き寄せられていた。
恥ずかしさから逃げるように、尚人はそれを持ち直す。
選んだ理由なんて、きっと後付けでしかない。
できるだけ目立たないものを。
できるだけ“誤魔化せそうな”ものを。
そう思った、はずなのに。
掌の中で揺れるそれは、
控えめな形のくせに、どこか確かに――
女物特有の、静かな色気を宿していた。
(……違う。
これは、まだ“履いていない”。)
そう言い聞かせるのに、
喉の奥がひくりと鳴った。
脚を通すだけだ。
それだけ。
(確認。
――ただの、確認。)
そう思った瞬間。
膝が、勝手に折れた。
ほんの数センチ。
身体が、もう“準備の姿勢”を取っていた。
(――早すぎる。)
尚人は唇を噛みしめた。
(……やめろ)
なのに。
布を持つ指のほうが、
声より先に動いていた。
指先が、意志とは無関係に、かすかに震えている。
女物を広げる。
薄い布が、掌の熱に吸い寄せられるみたいに沈み込み、指の腹に絡みつくように柔らかく歪んだ。
ひと撫でするだけで、生地がぬるりと形を変え、まるで最初から肌の曲線を待っていたかのように、従順に波打つ。
表面はわずかに湿り気を帯びた錯覚を誘うほど艶やかで、縁取りのレースは、触れただけで神経の奥をなぞられるような細さだった。
持ち上げれば簡単に崩れ、その軽さが逆に――これが直接、裸の内腿と股間に触れる前提で作られていることを、いやというほど思い知らせてくる。
脚を通す。
動かしたつもりはなかったのに、足先が勝手に前へ滑り込み、躊躇だけが、半拍遅れて意識を引っ掴んだ。
空気が張りつめる。
換気扇の音が、遠ざかる。
自分の鼓動だけが、内側でやけに大きい。
(……待て)
そう思った瞬間――
腿の内側に、薄い布が触れた。
ひやり、とした感触が走り、次の瞬間には体温を吸い取られて、じわりと、輪郭をなぞられる。
逃げ場を探す前に、筋肉のほうが先に緩んだ。
尚人の喉から、自覚のないまま空気が零れ落ちる。
短く――熱を孕んだ吐息が。
胸の奥に溜め込んでいた力が、ひとつ、音もなく解ける。
続いて、もうひとつ。
肺の底まで、ゆっくり沈んでいった。
布地が内ももを滑る感触が、ひんやりとした冷たさから、すぐに体温を吸い取ってじんわり温かくなる。
レースの縁が肌を優しく撫でるように這い、微かな摩擦が、甘い電流のように股の奥まで伝わった。
肺の底に引っかかっていた何かが、音もなく抜け落ちた。
詰まっていた胸の奥が、嘘みたいに凪(な)いでいく。
拍子抜けするほど、穏やかに。
尚人は、その場で固まった。
喉の奥で、短い空気が擦れる。
思考が一拍、遅れる。
身体のほうが先に静まってしまった事実だけが、
遅れて、骨の内側に染み込んできた。
違和感を探そうとして、何も掴めない。
拒絶の準備だけが、空振りする。
腰まで引き上げる。
妙に、合う。
締めつけていないのに、
骨の出っ張りを避けるように沿い、
内側から支えられている感覚がある。
布は薄いのに、冷えも突っ張りもなく、
筋の力が自然に抜けていく方向へ誘われている。
(……軽い。)
その場で、完全に止まった。
喉の奥で、短く息が詰まる。
理屈より先に、感覚だけが広がっていく。
布の存在感が、ほとんど消えていた。
さっきまで気になっていた腰骨のあたりが、
水面の下へ沈むみたいに静まり返っている。
呼吸が、深くなる。
勝手に。
肩の力が、抜ける。
……落ち着く。
思考に辿り着く前に、
身体が別の均衡を選び取っている。
重心が、わずかに内側へ滑り込んだ。
布地の下で、何かが疼き始める。
薄いレースが股間に優しく密着し、微かな摩擦が、熱い脈動を呼び起こしていく。
布の内側で、血流だけが別の命令を受け取ったみたいに加速し、尚人の意思を待たずに、脈が一拍、深く打った。
抑え込まれながら――ゆっくりと硬さを増していくそれは、淡い桜色の布地を内側から残酷なほど鮮明に押し上げた。
その事実に気づいた瞬間、喉が、ひくりと鳴った。
(……なんで)
(……男なのに。こんな下着を穿いて、形を歪ませて……)
顔が、耳まで真っ赤に染まる。
恥辱が胸の奥から噴き上がる。
それなのに、指先だけが――その滑らかな『不正解』の感触を、飢えたように求めていた。
ガラスの向こうを確かめる。
映り込んだ自分は、唇を噛み、頬を赤らめ、腰をわずかに逃がしていた。
膝が、内側に寄る。
まるで無意識に、そこを覆おうとするみたいな仕草。
外見は、そこ以外どこも崩れていない。
なのに。
立ち方が違う。
腰の位置。
脚の距離。
肩の落ち方。
胸の上下の仕方まで、知らない配列に組み替えられている。
思考が辿り着く前に、
身体だけが、知らない均衡へ沈み込んでいた。
慌てて開こうとして――
……開かない。
力を入れたつもりなのに、
さっきほど広がらない。
「……」
息を吐く。
それだけで、胸の奥に溜まっていた張りが、するりとほどけていった。
綾羽の声が、こだます。
『今日から下着は、これを身につけて』
尚人は、鏡の中の自分を見返した。
笑おうとして――
頬の筋肉が、わずかに引きつった。
「……。」
気づいた時には。
選んだ覚えもないまま。
拒否するという工程だけが、
どこかで、静かに省略されていた。
尚人は、動けないまま立ち尽くしていた。
裸足の足裏に、冷えたフローリングの感触。
換気扇の低い音。
遠くの車の走行音。
世界は何も変わっていない。
――なのに。
腰のあたりだけが、ひどく意識に張りついている。
息を吸うたび、腹の奥が微かに引き攣る。
吐くたび、何かを手放してしまいそうになる。
視線を落とす。
掌の中で、あの無造作に掴み取った一枚の桜色が静かに揺れていた。
薄すぎる布。
指の熱を逃がさない素材。
広げただけで、形が崩れそうな頼りなさ。
それなのに――妙に、目が離せない。
尚人は、ほんのわずかだけ息を止めた。
布越しに伝わる温度が、指先にじんわりと絡みついてくる。
(……こんなに、軽いのに)
喉の奥が、かすかに鳴る。
派手な装飾はない。
余計な主張もない。
ただ静かに、そこにあるだけの一枚。
なのに――
視線だけが、不自然なほど引き寄せられていた。
恥ずかしさから逃げるように、尚人はそれを持ち直す。
選んだ理由なんて、きっと後付けでしかない。
できるだけ目立たないものを。
できるだけ“誤魔化せそうな”ものを。
そう思った、はずなのに。
掌の中で揺れるそれは、
控えめな形のくせに、どこか確かに――
女物特有の、静かな色気を宿していた。
(……違う。
これは、まだ“履いていない”。)
そう言い聞かせるのに、
喉の奥がひくりと鳴った。
脚を通すだけだ。
それだけ。
(確認。
――ただの、確認。)
そう思った瞬間。
膝が、勝手に折れた。
ほんの数センチ。
身体が、もう“準備の姿勢”を取っていた。
(――早すぎる。)
尚人は唇を噛みしめた。
(……やめろ)
なのに。
布を持つ指のほうが、
声より先に動いていた。
指先が、意志とは無関係に、かすかに震えている。
女物を広げる。
薄い布が、掌の熱に吸い寄せられるみたいに沈み込み、指の腹に絡みつくように柔らかく歪んだ。
ひと撫でするだけで、生地がぬるりと形を変え、まるで最初から肌の曲線を待っていたかのように、従順に波打つ。
表面はわずかに湿り気を帯びた錯覚を誘うほど艶やかで、縁取りのレースは、触れただけで神経の奥をなぞられるような細さだった。
持ち上げれば簡単に崩れ、その軽さが逆に――これが直接、裸の内腿と股間に触れる前提で作られていることを、いやというほど思い知らせてくる。
脚を通す。
動かしたつもりはなかったのに、足先が勝手に前へ滑り込み、躊躇だけが、半拍遅れて意識を引っ掴んだ。
空気が張りつめる。
換気扇の音が、遠ざかる。
自分の鼓動だけが、内側でやけに大きい。
(……待て)
そう思った瞬間――
腿の内側に、薄い布が触れた。
ひやり、とした感触が走り、次の瞬間には体温を吸い取られて、じわりと、輪郭をなぞられる。
逃げ場を探す前に、筋肉のほうが先に緩んだ。
尚人の喉から、自覚のないまま空気が零れ落ちる。
短く――熱を孕んだ吐息が。
胸の奥に溜め込んでいた力が、ひとつ、音もなく解ける。
続いて、もうひとつ。
肺の底まで、ゆっくり沈んでいった。
布地が内ももを滑る感触が、ひんやりとした冷たさから、すぐに体温を吸い取ってじんわり温かくなる。
レースの縁が肌を優しく撫でるように這い、微かな摩擦が、甘い電流のように股の奥まで伝わった。
肺の底に引っかかっていた何かが、音もなく抜け落ちた。
詰まっていた胸の奥が、嘘みたいに凪(な)いでいく。
拍子抜けするほど、穏やかに。
尚人は、その場で固まった。
喉の奥で、短い空気が擦れる。
思考が一拍、遅れる。
身体のほうが先に静まってしまった事実だけが、
遅れて、骨の内側に染み込んできた。
違和感を探そうとして、何も掴めない。
拒絶の準備だけが、空振りする。
腰まで引き上げる。
妙に、合う。
締めつけていないのに、
骨の出っ張りを避けるように沿い、
内側から支えられている感覚がある。
布は薄いのに、冷えも突っ張りもなく、
筋の力が自然に抜けていく方向へ誘われている。
(……軽い。)
その場で、完全に止まった。
喉の奥で、短く息が詰まる。
理屈より先に、感覚だけが広がっていく。
布の存在感が、ほとんど消えていた。
さっきまで気になっていた腰骨のあたりが、
水面の下へ沈むみたいに静まり返っている。
呼吸が、深くなる。
勝手に。
肩の力が、抜ける。
……落ち着く。
思考に辿り着く前に、
身体が別の均衡を選び取っている。
重心が、わずかに内側へ滑り込んだ。
布地の下で、何かが疼き始める。
薄いレースが股間に優しく密着し、微かな摩擦が、熱い脈動を呼び起こしていく。
布の内側で、血流だけが別の命令を受け取ったみたいに加速し、尚人の意思を待たずに、脈が一拍、深く打った。
抑え込まれながら――ゆっくりと硬さを増していくそれは、淡い桜色の布地を内側から残酷なほど鮮明に押し上げた。
その事実に気づいた瞬間、喉が、ひくりと鳴った。
(……なんで)
(……男なのに。こんな下着を穿いて、形を歪ませて……)
顔が、耳まで真っ赤に染まる。
恥辱が胸の奥から噴き上がる。
それなのに、指先だけが――その滑らかな『不正解』の感触を、飢えたように求めていた。
ガラスの向こうを確かめる。
映り込んだ自分は、唇を噛み、頬を赤らめ、腰をわずかに逃がしていた。
膝が、内側に寄る。
まるで無意識に、そこを覆おうとするみたいな仕草。
外見は、そこ以外どこも崩れていない。
なのに。
立ち方が違う。
腰の位置。
脚の距離。
肩の落ち方。
胸の上下の仕方まで、知らない配列に組み替えられている。
思考が辿り着く前に、
身体だけが、知らない均衡へ沈み込んでいた。
慌てて開こうとして――
……開かない。
力を入れたつもりなのに、
さっきほど広がらない。
「……」
息を吐く。
それだけで、胸の奥に溜まっていた張りが、するりとほどけていった。
綾羽の声が、こだます。
『今日から下着は、これを身につけて』
尚人は、鏡の中の自分を見返した。
笑おうとして――
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