15 / 27
第十五話 半歩ぶん、ずれていく
しおりを挟む
実習の中盤、その「事故」は、本人すら気づかないほどの些細なずれとして起きた。
寝たきりの患者の体位変換。
シーツを引き、身体を支える――いつも通りの手順。
けれど、ペアを組んだ結衣が、ふと動きを止めた。
「……尚人、もう少し力入れて。支えきれない」
「……え?」
尚人は困惑したまま、シーツを握り直す。
自分では、確かに力を入れているつもりだった。
指先に、意識を集める。
力を、込める。
――その瞬間。
手の内側が、わずかに沈んだ。
以前なら、骨張った節が浮き、押し返すような張りが返ってきたはずの手が、
今は抵抗する代わりに、体重をやわらかく受け流してしまう。
踏ん張りどころが、ない。
肋骨の奥が、ふっと一拍だけ空振った。
(……あれ?)
胸の内側で、支点のひとつが消える。
力を入れているはずなのに、どこか余白が残る。
重さを引き受ける代わりに、
何かを、静かに置いてきたような軽さ。
肩の奥で張っていたものが、ほどけるときの感覚に、よく似ていた。
――同時に。
腰の下で、薄い布がわずかに擦れた。
動きに合わせて伸び縮みする感触が、
筋肉の緊張を、ほんの半拍だけ先回りしてほどいていく。
(……あれ?)
戸惑うより先に、
身体のどこかが、その感触を「悪くない」と判断してしまう。
腹の奥で、レースの縁が呼吸に合わせて微かに波打つ。
力を入れ直そうとすると、
そのたびに――逆に、腰の芯がするりと緩んだ。
「ごめん……ちゃんと、やってるつもりなんだけど」
謝りながら顔を上げた、その瞬間。
結衣と、近すぎる距離で目が合った。
彼女の呼吸が、ほんの一拍だけ止まる。
――浅く吸いかけた息が、途中で細く揺れた。
焦点を合わせ直すような、
それでいて――合わせてはいけないものを見てしまったような揺れ。
視線が、一瞬だけ、尚人の腰のあたりへ落ちた。
すぐに戻る。
けれど、戻しきれていない。
「……尚人、あなた……」
声が、途中で止まる。
その沈黙は、
単なる「異変」への戸惑いではなかった。
今、この距離でいいのか。
この声に、どの立ち位置で応じればいいのか。
男友達としての一歩後ろでもない。
女友達に許す近さでもない。
――立ち位置そのものが、曖昧に溶けている。
結衣は、無意識に半歩だけ近づき、
次の瞬間、その距離を測り損ねる。
近づきすぎたのか。
離れすぎたのか。
彼女自身にも、分からなかった。
「……ううん。なんでもない」
そう言って、視線を逸らす。
直人は、それに気づかない。
――いや、尚人自身、気づこうとしていなかった。
自分の毛穴から立ち昇っている、
体温と一緒に、ゆっくり滲み出している気配に。
実習着の下で、女物の下着が汗を含み、肌に吸いつく。
その密着が、無意識のうちに、
動きの角をひとつずつ削いでいることにも。
「……お姉さん、ありがとうね。優しい手だねぇ」
ベッドの上の老患者が、虚空を見つめたまま、尚人の手を握る。
弱い力。
けれど、逃がさない温度。
尚人は――振りほどかなかった。
否定もしなかった。
「違いますよ」と言えばいい言葉が、
喉の手前で、重たく沈む。
押し出そうとすると、
さっき胸の奥でほどけた支点が、
元に戻ってしまう気がした。
腰の内側で、薄膜みたいな布が、
逃げ場を塞ぐみたいに熱を閉じ込める。
――大丈夫。
そんな錯覚が、どこからともなく広がる。
尚人は、ただ、
握られた温度をそのまま受け入れた。
支えるでも、守るでもない。
預けられる側の、静かな沈黙。
その沈黙が、
また一歩、彼を「青い服」から浮かび上がらせていった。
⸻
次に気づいたとき、尚人は、廊下を歩いていた。
歩幅が、わずかに噛み合わない。
膝を割り、地面を蹴る。
以前は無意識にできていたその動作が、
今は、関節の奥で小さく空回る。
どこに力を置けばいいのか。
どこを固めればいいのか。
男として身につけてきた「歩行の型」が、
今の身体に、微かに合わない。
一歩、踏み出す。
足裏が、床から離れてしまいそうな錯覚が走った。
(……変だ)
頭の奥で、小さな警告が鳴る。
けれど。
重心を、ほんの少しだけ内側へ落とし、
歩幅を狭めた、その瞬間――
すっと、楽になる。
腰の力が抜け、
身体が、考えるより先に前へ運ばれる。
下着の伸縮に合わせて骨盤がわずかに揺れ、
その揺れが、最初から決まっていた動作みたいに、
静かに定着していく。
(……なんだ、これ)
エラーだ、とどこかが告げる。
――戻れ。
確かに、そういう声があった。
けれど、その声は、
次の一歩を踏み出す前に、
やわらかな感触に包まれて、
輪郭を失った。
⸻
「尚人くん」
背後から声。
振り返る。
神宮寺綾羽が、そこに立っていた。
綾羽の視線が、尚人の重心の落ち方を一瞬だけ正確に捉える。
「……綾羽さん」
「少し、顔を貸してくれるかしら」
一拍。
「今日の分の、調整をしましょう」
――調整。
その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥の違和感が、
不安に変わる前に、静かにほどけた。
どこかが、まだ合っていない。
このままでは、噛み合わない。
でも。
彼女のところへ行けば――
その“ずれ”を、
きっと、きれいに整えてもらえる。
そう思った。
思ってしまった。
その判断に、疑問は浮かばなかった。
尚人は、歩き出す。
背中に、結衣の視線が刺さっている気がした。
けれど、振り返れば、
今の歩き方が崩れてしまう気がして、
振り返らなかった。
廊下の消毒液の匂いが、
いつの間にか、呼吸の奥でぬるく混じる。
名前を呼ばれた気がして、
ほんの一瞬だけ、思考が遅れた。
(……尚人)
そのはずの音が、
指の間から、わずかに滑り落ちる。
誰の名前だったか――
考える前に、
次の一歩が、静かに前へ出ていた。
寝たきりの患者の体位変換。
シーツを引き、身体を支える――いつも通りの手順。
けれど、ペアを組んだ結衣が、ふと動きを止めた。
「……尚人、もう少し力入れて。支えきれない」
「……え?」
尚人は困惑したまま、シーツを握り直す。
自分では、確かに力を入れているつもりだった。
指先に、意識を集める。
力を、込める。
――その瞬間。
手の内側が、わずかに沈んだ。
以前なら、骨張った節が浮き、押し返すような張りが返ってきたはずの手が、
今は抵抗する代わりに、体重をやわらかく受け流してしまう。
踏ん張りどころが、ない。
肋骨の奥が、ふっと一拍だけ空振った。
(……あれ?)
胸の内側で、支点のひとつが消える。
力を入れているはずなのに、どこか余白が残る。
重さを引き受ける代わりに、
何かを、静かに置いてきたような軽さ。
肩の奥で張っていたものが、ほどけるときの感覚に、よく似ていた。
――同時に。
腰の下で、薄い布がわずかに擦れた。
動きに合わせて伸び縮みする感触が、
筋肉の緊張を、ほんの半拍だけ先回りしてほどいていく。
(……あれ?)
戸惑うより先に、
身体のどこかが、その感触を「悪くない」と判断してしまう。
腹の奥で、レースの縁が呼吸に合わせて微かに波打つ。
力を入れ直そうとすると、
そのたびに――逆に、腰の芯がするりと緩んだ。
「ごめん……ちゃんと、やってるつもりなんだけど」
謝りながら顔を上げた、その瞬間。
結衣と、近すぎる距離で目が合った。
彼女の呼吸が、ほんの一拍だけ止まる。
――浅く吸いかけた息が、途中で細く揺れた。
焦点を合わせ直すような、
それでいて――合わせてはいけないものを見てしまったような揺れ。
視線が、一瞬だけ、尚人の腰のあたりへ落ちた。
すぐに戻る。
けれど、戻しきれていない。
「……尚人、あなた……」
声が、途中で止まる。
その沈黙は、
単なる「異変」への戸惑いではなかった。
今、この距離でいいのか。
この声に、どの立ち位置で応じればいいのか。
男友達としての一歩後ろでもない。
女友達に許す近さでもない。
――立ち位置そのものが、曖昧に溶けている。
結衣は、無意識に半歩だけ近づき、
次の瞬間、その距離を測り損ねる。
近づきすぎたのか。
離れすぎたのか。
彼女自身にも、分からなかった。
「……ううん。なんでもない」
そう言って、視線を逸らす。
直人は、それに気づかない。
――いや、尚人自身、気づこうとしていなかった。
自分の毛穴から立ち昇っている、
体温と一緒に、ゆっくり滲み出している気配に。
実習着の下で、女物の下着が汗を含み、肌に吸いつく。
その密着が、無意識のうちに、
動きの角をひとつずつ削いでいることにも。
「……お姉さん、ありがとうね。優しい手だねぇ」
ベッドの上の老患者が、虚空を見つめたまま、尚人の手を握る。
弱い力。
けれど、逃がさない温度。
尚人は――振りほどかなかった。
否定もしなかった。
「違いますよ」と言えばいい言葉が、
喉の手前で、重たく沈む。
押し出そうとすると、
さっき胸の奥でほどけた支点が、
元に戻ってしまう気がした。
腰の内側で、薄膜みたいな布が、
逃げ場を塞ぐみたいに熱を閉じ込める。
――大丈夫。
そんな錯覚が、どこからともなく広がる。
尚人は、ただ、
握られた温度をそのまま受け入れた。
支えるでも、守るでもない。
預けられる側の、静かな沈黙。
その沈黙が、
また一歩、彼を「青い服」から浮かび上がらせていった。
⸻
次に気づいたとき、尚人は、廊下を歩いていた。
歩幅が、わずかに噛み合わない。
膝を割り、地面を蹴る。
以前は無意識にできていたその動作が、
今は、関節の奥で小さく空回る。
どこに力を置けばいいのか。
どこを固めればいいのか。
男として身につけてきた「歩行の型」が、
今の身体に、微かに合わない。
一歩、踏み出す。
足裏が、床から離れてしまいそうな錯覚が走った。
(……変だ)
頭の奥で、小さな警告が鳴る。
けれど。
重心を、ほんの少しだけ内側へ落とし、
歩幅を狭めた、その瞬間――
すっと、楽になる。
腰の力が抜け、
身体が、考えるより先に前へ運ばれる。
下着の伸縮に合わせて骨盤がわずかに揺れ、
その揺れが、最初から決まっていた動作みたいに、
静かに定着していく。
(……なんだ、これ)
エラーだ、とどこかが告げる。
――戻れ。
確かに、そういう声があった。
けれど、その声は、
次の一歩を踏み出す前に、
やわらかな感触に包まれて、
輪郭を失った。
⸻
「尚人くん」
背後から声。
振り返る。
神宮寺綾羽が、そこに立っていた。
綾羽の視線が、尚人の重心の落ち方を一瞬だけ正確に捉える。
「……綾羽さん」
「少し、顔を貸してくれるかしら」
一拍。
「今日の分の、調整をしましょう」
――調整。
その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥の違和感が、
不安に変わる前に、静かにほどけた。
どこかが、まだ合っていない。
このままでは、噛み合わない。
でも。
彼女のところへ行けば――
その“ずれ”を、
きっと、きれいに整えてもらえる。
そう思った。
思ってしまった。
その判断に、疑問は浮かばなかった。
尚人は、歩き出す。
背中に、結衣の視線が刺さっている気がした。
けれど、振り返れば、
今の歩き方が崩れてしまう気がして、
振り返らなかった。
廊下の消毒液の匂いが、
いつの間にか、呼吸の奥でぬるく混じる。
名前を呼ばれた気がして、
ほんの一瞬だけ、思考が遅れた。
(……尚人)
そのはずの音が、
指の間から、わずかに滑り落ちる。
誰の名前だったか――
考える前に、
次の一歩が、静かに前へ出ていた。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
二重のカーテン (スカートの下の黒い意志)
MisakiNonagase
青春
洗濯物の隙間に隠したのは、母としての祈りと、娘のプライド。
かつて、女子高生という生き物はもっと無防備で、自由だった。
44歳の主婦、愛子が朝のベランダで手にするのは、娘たちが毎日履き替える漆黒のオーバーパンツ、通称「黒パン」。それは、令和を生きる娘たちが自らの尊厳を守るために身に着ける、鉄壁の「鎧」だった。
小学校時代のママ友たちとのランチ会。そこで語られるのは、ブルセラショップに下着を売っていた奔放な50代、無防備なまま凛と歩くしかなかった40代、そして「見せないこと」に命を懸ける10代の、あまりに深い断絶。さらには、階段で石像のように固まる父、生徒の背後に立たないよう神経を削る教師……。
一枚の黒い布を通して浮き彫りになる、現代社会の歪さと、その根底にある不器用なまでの「優しさ」。
ベランダに干された黒いカーテンの向こう側に、あなたは何を見ますか?
17歳男子高生と32歳主婦の境界線
MisakiNonagase
恋愛
32歳の主婦・加恋。冷え切った家庭で孤独に苛まれる彼女を救い出したのは、ネットの向こう側にいた二十歳(はたち)と偽っていた17歳の少年・晴人だった。
「未成年との不倫」という、社会から断罪されるべき背徳。それでも二人は、震える手で未来への約束を交わす。少年が大学生になり、社会人となり、守られる存在から「守る男」へと成長していく中で、加恋は自らの手で「妻」という仮面を脱ぎ捨てていく…
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。
その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。
全7話
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる