『神宮寺綾羽の調整記録 ―ナースへ堕とす禁断オペ―』

風間玲央

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第十六話 定着のプロトコル

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診察室の空気は、廊下よりも一段だけぬるかった。
消毒液の匂いに、かすかな花の甘さが混じっている。

尚人が椅子に腰を下ろしたとき、すでに視線は一点に引き寄せられていた。
診察机の端に腰かけた綾羽の脚。
白衣の隙間から覗く膝が、振り子みたいに、ゆっくり揺れている。

意味を考える前に、呼吸の間隔だけが、そちらへ寄っていった。
――二度、三度と瞬きをするころには、尚人の呼吸は、その揺れと同じ周期を、無意識に模倣し始めていた。

「少しは、自分の『声』が聞こえるようになったかしら?」

尚人は、椅子の上で指先を絡ませた。
ほどこうとして、どこをほどけばいいのか分からない結び方だった。

名前を呼ばれる前の、ほんの一瞬。
喉の奥が、理由もなく小さく震えた。

「……前よりは、少し。でも、まだ……実習に行くと、自分が浮いているような気がして」

言葉にした瞬間、胸の奥で、“浮いている”という表現だけが、妙に正確すぎる手応えを残した。

「それでいいのよ。浮いていると感じるのは、あなたがそこにある『当たり前』に馴染めない、特別な感性を持っている証拠」

綾羽は立ち上がり、尚人の背後に回った。
彼女が通った後に、あの微かな、甘い花の匂いが残る。

「みんな、自分を騙して大人になるわ。男は強く、女はしなやかに、看護師は献身的に。……でも尚人くん、あなたは自分を騙すのが下手なのね」

“男は強く”という言葉が耳をかすめた瞬間、
なぜか尚人の意識は、そこにだけ、半拍遅れて触れた。
喉の奥が、理由もなく、かすかに乾いた。

背後から伸ばされた彼女の手が、尚人の両肩に置かれた。
重みというよりは、肩という境界が、そっと消されるような感覚。

「だから、そんなに肩が硬くなっている」

「力を抜いて。ここでは、誰の期待にも応えなくていい。将来のこと、両親のこと、友達のこと。全部、この部屋の扉の外に置いてきなさい」

綾羽の指先が、首の付け根を小さく円を描くように解していく。
尚人は、自分の呼気が少しずつ深くなっていくのを感じた。
楽になっている――はずなのに、
身体のどこかが、これを“正しい状態”だと静かに受け入れ始めている。
時計はそこにあるはずなのに、秒という単位だけが部屋から抜け落ちていた。

――吸う。
吐く。
そのリズムが、自分で調整しているものなのか、
それとも、すでに誘導されているものなのか、判別がつかない。

「……綾羽さん。僕、このままでいいんでしょうか」

問いかけた瞬間、かつて自分で進路を選んだ日の感触が、胸の奥でかすかに疼いた。
──誰かに決められたわけじゃない。
その記憶は、濡れた紙のように輪郭を失い、掴む前に崩れた。

「『いい』のよ。私が保証してあげる」

綾羽の声は、静かだった。

「……あなたは、今のままのあなたでいようとするから苦しいの」
「自分を、まだ骨の入っていない柔らかな素材だと思って。押されれば形を変える。それは変化じゃない、定着よ」

耳元で囁かれる言葉は、処方箋というよりは、身体の内側に染み込む温度に近い。
尚人は、自分が相談をしているのか、それとも彼女の言葉を受け入れる準備をしているのか、その境界が曖昧になっていくのを感じていた。

「いいわ。呼吸が、さっきより静か」

綾羽は尚人の背後に立ったまま、彼のこめかみにそっと指先を添えた。
視界に彼女の姿はない。
白衣の揺れだけが、視界の端でゆっくりと続いている。

綾羽は、尚人の反応を確かめると、
まるで最初から結果を知っていたかのように、
一度だけ静かに視線を伏せた。

「まだ少しだけ、古い癖が残っている」

綾羽の指先が、わずかに動く。
その動きを見たわけでもないのに、尚人の視線が、勝手に揺れた。

綾羽の瞳が、ごくわずかに細まる。
――順調。
声にならない確信だけが、静かに沈んだ。

「でも大丈夫。人はね、慣れた緊張を『自分』だと勘違いしているだけ」

尚人の思考が、輪郭を失っていく。
言葉にしようとした問いは、どこまで考えていたのかさえ思い出せなかった。

「私の声は、あなたの中で整っていくだけ」

説明でも、命令でもない声音。
吸う息に合わせて、胸骨の裏に溜まっていた余熱が下がっていく。
吐く息と一緒に、噛み締めていた奥歯の力が、音もなくほどけていく。
呼吸の深さが、いつの間にか、自分の意思ではなく、視界の端で揺れる白衣のリズムと一致し始めていた。

「……あ……」

尚人の口から、意味を持たない吐息がこぼれた。
抵抗しようとした感覚だけが、温度のない記憶として沈んでいく。

「そう。今、視界が少しだけ白くなっているでしょう」

綾羽は、尚人の前に回り込む。
彼の目には、彼女の全身ではなく、輪郭だけが淡く浮かんで見えた。

「将来の不安も、実習の辛さも、ちゃんとそこにある。
ただ、今は触らなくていいだけ」

尚人の瞳は、定まらない焦点のまま、彼女を映している。
眠ってはいない。
けれど、判断するための距離が、失われていた。
尚人の呼吸は、いつからか、視界の端で揺れていた白衣のリズムを、なぞるようになっていた。

綾羽は微笑む。

「いい状態ね。
無理に『強く』も『正しく』もならなくていい」

その言葉は、慰めではなかった。
定義だった。
尚人は、ゆっくりと息を吐く。
名前を呼ばれた気がした。

(……尚人)

その音が、胸に落ちるまで、ほんの半拍だけ、遅れた。
まばたき一つで、遅れは埋まる。
――埋まった、はずだった。

けれど。
“男として呼ばれている”という感覚だけが、
指先から、わずかに滑り落ちた。
その動きが、自分で選んだものなのか。
それとも、もう選ぶ必要がなくなった結果なのか。

“尚人”という名前を内側でなぞろうとして、ほんの一瞬だけ、それが自分のものではないような空白が挟まった。
指先の力が、ほんのわずかに抜けた。

考えるという行為そのものが、
静かに、手放されていた。
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