若竹侍

岡山工場(inpipo)

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道場破り

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 その道場破りは、鬼瓦のような顔を真っ赤にして、進退窮まっていた。上段に構えた木刀を振り下ろすことも出来なくなり、ただ、鼻の穴を膨らませて、荒い息を吐き出しているだけだった。
 一方、対峙している武内新十郎は、ゆったりと、正眼に構えていた。一見すると隙だらけのようにも見えたが、相手の筋肉の動き、重心の移動など、細かな所作の変化に対して敏感に反応していた。
 緊迫した室内と対照的に、道場の武者窓から見える外は春を思わせる穏やかな日和だった。新十郎が駆け込んできた若党に呼ばれてここへ駆けつける途中でも、温かくなった日差しと、つぼみの膨らんできた桜があちこちに見えた。こんな無骨なことなどせず、しがらみはすべて忘れ、桜の根元で転寝をしたい、そんな日和だった。
 しかし今は、しがらみに絡み取られ、本所の、かすかに磯の香の漂う町道場で、無粋にも、道場破りと木刀を交えなければならない事情があった。懐が寂しくなって、かなりの日にちが経っていたのだ。生きていくためには仕方がない、と、自分を慰めるしかなかった。
 そんな新十郎の想いなどを思い巡らせる余裕もない道場破りは、真っ赤な口を開けると、叫び声を上げはじめた。
「うー、やー、とー」
 更に音量が上がっていく。
「はぁっとぉっ、かぁぁぁっ!」
 道場破りはこれまで、この大声で相手を威嚇することで勝ってきたのかもしれないな、と、新十郎が呆れるほどの大声だった。
 やがて、いくら叫んでも新十郎の構えに微塵も変化がないとわかると、道場破りの真っ赤な顔全面に汗粒が湧き上がってきた。鼻息が更に激しくなった。それに対し新十郎の剣先は、その真っ赤な顔の前をじれったくなる速度で、ゆるゆると上がっていった。正眼から、上段へ構えを移すとも見えた。
 誘いだった。煮込み鯰のような顔になっていた道場破りは、まんまと誘い出された。
「おりゃぁっ」
 新十郎の脳天めがけ、道場破りの木刀が振り下ろされた。当たれば一撃で脳蓋が砕けそうな剛刀だった。しかしそれは空を叩いただけに終わった。新十郎は、「入り身」をし、道場破りの木刀を左に受け流すと、その動きに合わせて、軽いが鋭い小手を見舞った。
 道場破りは木刀を取り落とした。そのまま打たれた左手首を抑えてうずくまった。新十郎は元の位置まで下がり、道場破りにはすでに戦意がないと判断した。構えを解き、声をかけた。
「いやあ、お強い。紙一重、でしたね」
 道場破りは顔を上げ、新十郎を見た。なんとも情けない顔になっていた。十日は茶碗も持てないだろうが、骨は砕かないように手加減をしたつもりだった。新十郎は続けた。
「ご教授ありがとうございました。それでは、またの機会に」
 道場破りが背中を丸くして去っていった。それを見送っていると、後ろから声がかかった。
「それでは武内様、こちらへ」
 道場主の赤羽長太夫だった。新十郎は奥の座敷へ通された。
「いつもながらの見事なお腕前でした」
「いえ、まだまだです」
 恥ずかしげに小さく笑みを浮かべた新十郎だったが、今の言葉は本心だった。朝夕の素振りは続けていたが、本格的な稽古は出来ずにいた。
「それでは、些少ながら」
 赤羽長太夫が塗り盆を新十郎の前へ進めた。小粒が入っているらしき紙包みが乗っていた。新十郎は遠慮せず、それをつかみ上げると、一度押し頂いてから懐に入れた。これで、たまっていた家賃を支払ってなお、ひと月は楽に生きていけるはずだった。
「また、何かありましたら、お呼びください」
「当方としては、何もないことが望みですよ」
「ごもっともです」
 長太夫の商売用の笑みに見送られて、新十郎は道場をあとにした。こうやって、道場破りが来た時に臨時の助っ人として相手をすることで、ささやかな収入を得ていた。
「道場破り破り、とでも言ったところかな」
 帰りは急き立てる者もいないので、のんびりと早春の風情を楽しむ事が出来た。どこからか、梅の残り香が漂ってきた。懐が暖かくなっている新十郎には、すべてが喜びを連れてくるように感じていた。
 ただでさえ、府中(江戸市街地)の範疇から外されている深川にあって、横川に掛かる法恩寺橋を渡れば、一層、鄙びた風情が増してくる。新十郎はそれを好んでいた。
 新十郎の長屋は更に先の亀戸村に面していた。裏には水田用の溜池があり、横手には竹林が繁っていた。この地を選んだのには様々な理由があったが、一番は、周辺の雰囲気が故郷に似ていたからだった。もちろん、町外れの裏店で立地がよくないことから、九尺二間が月百五十文と破格に安いのも魅力だった。
 長屋の木戸を潜り、側溝板に沿って歩いていると、井戸端にいたおかみさん連中がいっせいに新十郎を見た。その中の一人、小柄ながら元気が服を着ているような女性が声をかけてきた。
「片付きましたか、若先生」
「あ、ええ」
 この女性は確か、名前をお糸といった。長屋を実質的に仕切っている世話好きだったはずだ、と、思い出していた。
「若先生、お強いんですってね」
 新十郎は、頭の後ろに手をやって、うつむいた。
「い、いやあ、そこそこ、です」
 新十郎が照れると、お糸をはじめ、おかみさん連中は一斉に笑った。どうも、新十郎をからかって照れさせるのが、おかみさん連中の楽しみになっているらしかった。早々に退散すべし、と、新十郎は奥から三軒目の我が家に駆け込んだ。内部に異常がないことを眼でざっと確認してから、後ろ手で戸を閉めた。
「あらあら。あんたたちが囃すもんだから、若先生、岩戸の奥に引っ篭もっちまったよ」
 お糸がそう言うと、またおかみさん連中が笑いあった。その声を障子戸越しに聞きながら、新十郎は甕から竹柄杓で水をすくい、一気に飲んだ。そして、大きく息を吐いた。
「やれやれ。愉快な土地だ」
 新十郎は足の埃を落とし、部屋に上がった。部屋といっても四畳半ほどの板の間に筵を敷いただけだった。それでも今の新十郎にとっては、立派な「城」だった。胡座をかき、懐から紙包みを取り出した。開いてみると、いつもどおり、豆銀がころころと入っていた。
「ありがたい、ありがたい」
 改めて押し頂くと、大切に懐奥深く仕舞いこんだ。新十郎は外のおかみさん連中の声が消えたのを確認してから、入り口をそっと開けた。井戸端には、人影はなかった。
「やれやれ」
 次に、部屋の東側にある手作りの格子付きの窓を開けた。ここはもともと格子も何もない障子窓だったが、得意の竹加工の腕前を発揮し、新十郎が改装したのだ。引き違いの外側の窓枠に、竹の格子を取り付けた。細い竹を縦繁に並べ、視線の遮断と同時にそこそこの強度をもたせることで、防犯性を高めた。外側の障子は固定されたため、内側の障子の開閉で、部屋に風を入れるようにした。障子窓だけだと、侵入者は簡単に突破できると思えて心許無かったからだが、そう感じるのは元武士の新十郎だけらしかった。ほかの家は前も後ろも開けっ放しに近いのに、平気で暮らしていた。
「私が間違っているのかな。自分で勝手に生き方を窮屈にしているのだろうか」
 考え込みそうになっている自分に気づくと、新十郎は慌てて頭を振った。
「いかんぞ、いつもの悪い癖だ。心は大きく持たねば。久しぶりの竹の細工は楽しかったから良し、とするべきだな」
 昨年の暮れ頃、裏の農家が竹藪刈りをしているのに気づくと、「手助けするぞ」と押しかけ、報酬代わりに売り物にならない立ち枯れの竹を何束か手に入れたのだ。その竹はこの冬の間に、格子窓だけではなく、柄杓や籠、笊などに変わり、部屋や土間のあちこちに置かれていた。
 更に余った竹で作った六つ目の手篭を近所に配った。それが大好評だった。それまで、この辺りでは珍しい武家出の住人を訝しそうに遠目から様子を窺っていたおかみさん連中が、それを機に、一気に寄ってくるようになった。どこからか貰い物があればお裾分けしてくれるし、服の破れ目を見つければ縫ってくれる。
 ここの主(ぬし)格のお糸などは、毎夕、少々の米を収めるだけで、新十郎の分まで夕餉を作って持ってきてくれるのだ。大助かりだった。新十郎はそういった近隣の厚意を、素直に受け、感謝していた。侍だった頃よりも、よっぽど人間的で温かみのある暮らしが出来ていた。
 竹細工も、一度やってみると昔の感覚が甦ってきた。創作意欲が湧き上がり、腕がうずうずとしてきた。
「次に竹が手に入ったら、まずはご近所に笊でも作って配ろう。それから自分用に衝立を作ろう。戸を開けると表から部屋の中のすべてが見通せるというのは、さすがにまだ、慣れないからな」
 新十郎はもう一度土間に降りた。衝立の大きさはどうしようかと、手で框の寸法を測りながら考え始めた。おかみさん連中の視線を防ぐとしたら、かなり大きなものにしなければいけないという結論が出た。
 その時、二軒隣、長屋の終い、一番竹薮側の万作の家から、行商人の身なりをした男が出てきた。白髪混じりで日によく焼けた五十近いと思われる顔つきだったが、腰と足取りは若々しかった。万作の家へ向かって丁寧にお辞儀をしてから、背中の荷を背負い直し、新十郎の方に歩いてきた。この長屋には一方向にしか出口がないから、一番奥まで行くと表まで戻らなければならなかった。
 男は、新十郎の脇を抜ける時、丁寧にお辞儀をした。尻端折って、清潔な股引を見せていた。股引の色はよくある浅黄色ではなく、萌黄色だった。背中の荷は、これも萌黄色の風呂敷で包んだ大きなものだが、軽そうに見えた。一際目立つのは頭に巻いた手拭で、そこに書かれた「駿河屋」という文字が眼にも鮮やかだった。そうやって店の宣伝もしているのだろう。
 男の所作の丁寧さに感心しながら、新十郎は「駿河」という文字に郷愁を掻き立てられた。そのまま行き過ぎようとした男だったが、何かを思い出したかのように、足を止め、振り返った。
「わたくし、日本橋駿河屋の買い回りをしております徳市と申します。つかぬことをお伺いいたしますが、武内新十郎様、でしょうか」
 新十郎は頷いた。
「はい、私です。何かありましたか」
「少し、お時間を頂いても、よろしゅうございますか」
 徳市という男の表情には悪意がなく、いたって真摯な様子だった。
「ああ、かまわないですよ。むさ苦しいところですが、よかったら、中へ」
「それでは、お邪魔いたします」
 新十郎は部屋に上がり、入り口に向いて正座をした。徳市は腰を低くし、土間に入ったところでもう一度丁寧に頭を下げた。
「それで、何の話でしょうか」
 徳市は、背中の荷を框に降ろした。
「駿河屋は、小間物を扱っておりますが、中でも竹の細工が本分でございます。それで屋号も、駿河屋と申します」
 新十郎は頷いた。全国各地に名産、名品は数あるが、竹細工といえば駿河は本場だった。川柳にも、
 親孝行 するが(駿河)一番 竹細工
と読まれるほどだった。
「まずはこれをご覧下さい」
 風呂敷を開くと、竹で編み込まれた網代底の笊を二十枚ほど重ねたものが現れた。一番上に乗っていた一枚を手に取ると、新十郎に手渡した。新十郎は、その笊をしげしげと見た。裏に返し、横に透かし、また表に返した。
「あるところで揃いの物を二十枚作らせました。いかがでございましょう」
「いかが、とは、この笊を見て、気づいたことを言ってみてくれ、ということですか」
「そうでございます」
「何を言ってもいいのですか」
「もちろんでございます」
 新十郎は、笊を徳市の前にかざすと、底部から側面にかけて立ち上がる部分を指で突付いた。
「底の網代編みは見事だが、ここの腰立ちで目が不揃いになっている。しかも、縁の巻きはいささか乱暴な仕上げだ。これを作った者は、かなり辛抱が足らんのだろう。作っている途中で、飽きてきたのかもしれないな」
 頷きながら聞いていた徳市は、にこりと笑った。
「お見事でございます。この細工職人の欠点が、その、辛抱のなさでございます」
 褒められて、新十郎は照れた。頭の後ろに手をやって、うつむき、「いや、なに、その」などと呟いた。
「実は先程、万作さんのところで、見事な手篭を見せていただきました」
「ああ、あれですか」
 新十郎が近所に配った品のことだとわかった。
「失礼ながら、竹内様の手になるものとお聞きいたしました」
「手になるものというか、まあ、手慰みなんだが」
「いえいえ、お見事でございます。あの手篭でしたら、駿河屋に並べましても中の上、いや、それ以上の上品(じょうぼん)でございます」
「そ、それは、言い過ぎ、というものではないですか」
 新十郎は更に照れて、うつむいた。
「おべっかではございません。わたくしもあちこちの職人を回って品を見定めてきた目利きという自負がございます。手篭を目にした時、はっといたしました」
「それは、その、私はただ、丁寧に作ろうと思っただけで」
「それです。その心です」
 徳市が身を乗り出してきた。部屋のあちら、そちらと、指を差して言った。
「その柄杓、その格子窓、他にもこの部屋に置かれている様々な細工物、どれもあなた様の手によるものとお見受けいたします。これでございます。先程、あなた様が申されましたとおり、最近の職人には、堪え性が足りません。それは何故だと思われますか」
 にじり寄ってくる徳市に圧倒されながら、新十郎は首を横に振った。
「いや、わからない。なんだろう」
 徳市は、新十郎の目をじっと覗き込んで、言った。
「それは、竹に対する、慈しみの心です。それが足らない。しかし私はそれを、今日、見つけました。あなた様の手篭に、です。ここに置かれた、様々な細工物に、です」
「そう、なのか」
「はい。しかも、竹細工にかなりの素養がおありのようです。これらの技は、どちらで」
「故郷(くに)では、武士の修養の一つとして、もちろん、ささやかな小遣い稼ぎを兼ねて、皆、これくらいの細工はやっていた。私も小さい時分より、父からいろいろと、磨きに割り、剥ぎ、巻きに編み、その他もろもろ、教えを受けた」
 新十郎は、部屋の奥に仕舞っておいた竹加工用の小刀を取り出した。手の平に入る大きさで、直刃と平刃の二種類あった。徳市はそれを手に取ると、じっくりと観察し、頷いた。
「なるほど。道具の手入れも、入念にされておられます。細工のお手に年季が入っておられるわけです」
 小刀を返すと、徳市はなおも一人合点して何度も頷きながら、懐から紙入れを取り出した。その中に大切そうに仕舞われていた一枚の紙を、新十郎の前に広げた。
「これをご覧下さい」
 そこには、壁掛け式の花籠が描かれていた。各部位の編み込みの指示と、寸法が記載されていた。底が尖り、腰がくびれた、優美な姿の花篭だった。
「武内様さえよろしければ、一度、これを作ってみていただきたいのです」
 図面を見た瞬間から、意識せずに新十郎は、頭の中で、その花篭の作り方を考えていた。同時に、父が手を添えて四ツ目編みを教えてくれたことを思い出していた。添えられた手は、大きく、ごつごつとし、温かかった。まだ何の苦労も知らなかった頃の思い出が、切なく甦ってきた。
「武内様?」
 名前を呼ばれて、はっと新十郎は我に返った。
「あ、ああ、花籠、だったな」
「そうでございます」
 徳市は新十郎をじっと見詰めた。
「実はこの花篭、さるお方からの頼まれ物でございます。ある職人に作らせ、すでに完成してはおるのですが、わたくしにはどうしても納得できない点がありまして」
「それを私に作らせて、どうする」
「あなた様なら、わたくしの納得できる花篭が作れるものと信じております」
「私は竹細工職人ではないぞ。こう見えても、武士だ」
「失礼は十分に承知しております。ここで御手打ちにされる覚悟もございます」
 徳市は目をそらさなかった。本気なのだな、と、新十郎は思った。その目から、新十郎が「作ってみる」と言うまでは梃子でも動かぬぞ、と叫んでいるような強い意志を感じたからだ。
「私はそれを作る自信はない。出来るという確約も出来ない。出来たとしても、その仕上がり具合に責任などもてない」
「承知しております」
「私の細工など、手慰みに毛が生えたものなのだぞ」
「あなた様のお心が出ていれば、十分な品になると思っております」
「心か。心がいつも出てくれるものかどうか。それに、このような暮らしだ、期限は守れないと思って欲しい」
「あなた様へのお願いは、あくまで、期限なし、出来上がり次第、と考えております。今回の花篭につきましても、ちょうどこのようなお話が別であったということで、武内様には、ご自由にお作りいただけたら、と思っております」
 新十郎は唸った。新十郎にとって竹細工とは、思い出深く、楽しい作業だった。心細い江戸での生活の中で、唯一、自分を忘れて没頭できる時間でもあった。新十郎の心が揺れていると見て取ったのか、徳市が駄目を押した。
「もちろん、それに応じたお支払いをさせていただきます。あなた様の腕でこの花篭でしたら、そこそこの金額になると思います」
 新十郎はこの言葉に折れ、細工を了承した。実は、故郷からの仕送りはすでに途絶えており、この長屋に来る前には、武士にとって大切なものまで売り払わないと食ってゆけないほどに切羽詰った状況だったのだ。それゆえ、今の、いつ来るのかわからない道場破りを待つ生活には疲れていた。わずかでもいいから、生活費が入る生活をしなければならなかった。
「材料の竹は駿河屋の方でいかほどでも工面いたします。あとは武内様、お好きな時に、お好きなように、お気の向くままお作りいただければ、と」
 新十郎は、折れた。徳市の熱心な視線より、大好きな竹細工が生活の糧になる喜びの方が大きな理由だった。
「そうか。それでいいのなら」
 徳市は平伏するように腰をかがめて礼を言った。
「お受けいただきましてありがとうございます。すぐさま、手配をさせていただきます」
 新十郎が話の展開の早さにまごついている間に、徳市は荷物をまとめ直し、また深々と頭を下げた。その時、新十郎はひとつだけ気になっていたことを思い出した。
「徳市さん、ところであなた、奥の万作さんのところから出てきたように見受けたが、万作さんも細工物の職人なのか」
 徳市は頷いた。そのあと、なんとも悲しげな顔になった。
「万作さんは、煙管の羅宇細工が得意な、腕のいい彫物職人でした」
「でした、とは」
「昨年からお身体を悪くされ、今では細工はまったく手付かずじまい。あの見事な腕がもう見られないと思うと、勿体のないことであり、残念でございます」
「そうなのか」
 新十郎が手篭を配った時、万作の家だけが反応がおかしかった。家は暗く、整理も掃除もされていない様子だった。万作自体の様子も怪しく、呼びかけても、ただ見事な煙管でタバコを吸っているだけで、まともな返事が返ってこなかった。視線も出て行くまで一度も新十郎と合わそうとしなかった。それで気になっていたのだ。
 さらに、万作の家の土間で遊んでいた女の子を思い出した。あれは万作の娘なのだろう。薄汚れた顔に表情はなく、身体も痩せているようだった。ここに越してから見ている限り、母親らしき姿はなかった。四十絡みの万作と十に満たないと思われる少女と二人で、暗く湿った家で息を潜めているようだった。
「そうか。病か」
 徳市の背中を見送りながら、新十郎は、漠然とした不安を感じていた。
 四日後の朝、予感は的中した。その日、竹薮での朝稽古を終えた新十郎が長屋に戻ると、お糸の威勢のいい啖呵が響き渡っていた。
「小さい子供に、おんぶにだっこ、それで助けは要らぬだなんて、どの口が言えるんだい。あんたみたいな朴念仁に、伸ばす助けの手はないけれど、お天ちゃんにゃあ罪はない。その口だけでお天ちゃんのお腹が一杯になるんなら、口を挟む気もないさ」
 お糸の声は、万作の家の前から聞こえてきた。おかみさん連中が、遠巻きにして見守っていた。その一人に声をかけた。
「どうしたのだ」
「ああ、若先生。実は」
 仕事できなくなってから、万作とお天の二人家族は、見る見るうちに困窮していった。お天は毎朝、早いうちからどこかへ出かけ、小銭を稼いでいるという。二人は一日一食、それも蜆か何かの味噌汁にわずかな米を放り込んだ雑炊モドキだけらしい。料理の準備も片付けもお天がしているという。
 それなのに万作は、毎日ただ、自慢の煙管で煙草を吸うだけで、何もしていないのだ。しかもその煙草代で、お天のわずかな稼ぎの大半を煙にしているらしかった。見かねたお糸が、朝餉を二人分、余計に作り、今朝、万作のところへ持っていたのだ。その膳を、万作は煙管を叩きつけて土間に撒き散らせてしまった。汁は地に染み込み、納豆は砂に塗れた。
「施しは要らねえ」
 そう怒鳴ったきり、また口を閉じると、新しい煙草を吸い始めた。それでお糸の堪忍袋の緒が切れたのだ。
「なるほど。それはお糸が怒るのもわけはない。だが」
 お糸は万作に怒鳴り続け、万作は煙を吐き続けているだけで、話は一向につきそうになかった。新十郎は、おかみさん連中を掻き分け、お糸の横に進み出た。
「あ、若先生」
 お糸がため息交じりに声を上げ、新十郎に駆け寄った。
「話は聞いた。おい、万作さん」
 戸口から暗い部屋の中を覗いた新十郎は、眉をひそめた。前に来た時より、かなり荒れていた。いたるところにゴミのようなものが落ち、空気は煙草の煙で霞み、奥が見えないほどだった。
 視線を巡らせると、土間の片隅に、少女が立っていた。上目遣いで、新十郎を見ていた。しかしただ見ているだけで、怒りも憎しみも、それどころか感情の一遍さえも浮かんでいない、醒めた目だった。新十郎は、煙の一倍濃い辺りに万作がいると決め、声をかけた。
「病とは聞いていたが、これほどまで荒れるまで放って置くとは尋常ではないな。一声、近所に声をかければよいだろう」
 煙の奥には何の反応もなかった。
「見事な細工の腕もあると聞いているぞ。早く病を治し、稼ぐようにすべきじゃないのか。病を治すには、飯を食わねばならん。自分で食えないのなら、近所を頼め」
 なおも、無反応だった。念を押すように、もう一声、掛けてみた。
「困った時は相見互いというではないか」
 煙が濃くなるだけで、返事はなかった。無人の家に声をかけているような空虚さが漂っていた。新十郎も疲れてきた。
「どういうつもりかしらないが、食べ物を地面に叩きつけるとは、お百姓衆の苦労も知らぬ傲慢さだな」
 その言葉に、初めて煙の奥が動いた。かすれた声が聞こえた。
「食い物は悪かった。だが、その女に聞いてみな。いつも、俺をどう扱ってきたのか。今まで、俺たち親子を、どうしてきたのか。動けない俺を笑いに来て、気が済んだんなら帰ぇりやがれ」
 新十郎は、お糸を振り返ってみた。困り顔で頷いたお糸が言った。苦しそうな口調だった。
「万作さんの言う通りだよ。昔、酒の席で揉めてね、うちらの宿六どもは万作さんと付き合いするなと臍を曲げちまってたのさ」
「それは、村八分ということか」
 お糸が答えに詰まっていると、代わりに奥から万作の声が聞こえた。
「そういうこった。だがそれは、俺とここの馬鹿どもとの揉め事だ。わかったら、新参の侍ぇは首ぃ突っ込むな。とっとと帰ぇれ」
 新十郎は返答に窮した。逸らした視線が、少女の視線とぶつかった。無表情に変わりない視線だった。しかし、その奥に、新十郎は、何かを感じた。このままここを去ってはいけないと感じた。
「万作さん、はいそうですかと、帰るわけにはいかないな」
 新十郎は、思ったままを口にした。
「確かに私は新参者だ。お前が今までどういうつらい目にあってきたのかとか、どれほど悔しい思いをしてきたのかとか、そういうことはわからない。だから、お前の怒りもわからない。だが、ひとつだけわかっていることがある」
 新十郎は少女を見た。少女も、新十郎を見ていた。
「お天ちゃんというのだな、この子は。お前のことは知らん。気にもかけんが、私は、お天ちゃんのことは気にかけるぞ。子は国の宝。世間に罪があっても、この子に何の罪があるものか。この子が病気になったり、死にそうになったりするのは、見たくない。そんなことがあっていいものか。親たちの都合で、この子が不幸になって良い訳がない」
 一気に捲くし立てた。その言葉に、一片の嘘もなかった。目の前で不幸になろうとしているその幼い子を放っておくことなど出来なかった。そんな新十郎の心からの言葉にも、万作は素気無かった。
「うるせぇ。俺の娘だ、赤の他人が構うな。帰ぇれ、帰ぇりやがれ」
 新十郎は、煙の奥を睨みつけると、大きく踏み出した。
「たわけっ」
 新十郎は、この長屋に来て始めて、本気で一喝した。かつて道場でならした一喝に、万作も言葉を飲み込んだ。それからお天の前まで行くと、腰をかがめた。二人の顔の高さが一緒になった。新十郎は、お天の顔を正面から見た。
「お前さんの父御はあの通りだが、私は父御ではなく、お天ちゃん、お前さんに構うことにした」
 お天の表情に変化はなかった。新十郎は続けた。
「そうだな。この間の手篭は、使ってくれているか」
 お天は、指で土間の反対を指差した。そちらを見ると、新十郎の手篭が野草の入れ物になっていた。
「おお、使ってくれているか。嬉しいな」
 新十郎は笑った。お天の瞳の奥で、微かだが何かが動いた。
「どうだ。手篭は使いやすいか」
 お天は、小さく頷いた。
「そうか、よかった。一生懸命、作ったからな」
 新十郎は立ち上がった。
「お天ちゃんのために、また何か作ってこよう。万作さんのために持ってくるのじゃないぞ、あくまでも、お天ちゃんのために、だ。だから」
 首をひねると、万作のいるであろう、煙の奥を睨みつけた。
「だから、私の作ってくるものを、施しと思うな。第一、お前に作ってやるのではない。お天ちゃんに使ってもらって、使い勝手を聞きたいのだ。ここにお前が飛び散らかした食べ物みたいに、私の作ったものを扱ってみろ、ただではおかん」
 煙の奥で万作は鼻を鳴らし、吐き捨てるように言った。
「ただではおかん、か。へっ、ご自慢のそのお腰の物で切捨て御免、かい」
 新十郎は、腰に差していた刀に手をやった。そして、笑った。
「これで、斬る、と思うのか」
 新十郎は、ゆっくりと刀を抜いた。辺りが一瞬で、凍りついた。外の野次馬があとずさった。それを、新十郎の大笑いする声が解きほぐした。
「よく見ろ。竹光だ」
 新十郎は、抜いた刀の先を、軽々と回して見せた。
「食うに困ってな、父の遺した名刀を二束三文で売ってしまった。この竹光では、万作さんどころか、大根も斬り捨て御免には出来ないだろうな」
 緊張した空気が、和んだ。それを感じてから、刀を仕舞うと、新十郎はお天を見た。
「刀もなければ金もないが、竹の細工は出来るという不思議な侍なのだ。何か欲しいものがあったら言ってくれ。笊でも籠でも魚篭でも、お天ちゃんのために一生懸命作るぞ」
 相変わらず少女の反応はなかったが、新十郎は満足していた。反応がなくても、お天の瞳に、今までなかった光が宿っている気がしたからだった。念を押すように、こちらも反応がない煙の奥を鋭くひと睨みしてから、外へ出た。その場で、万作にも聞こえるように大声で、集まっているおかみさん連中に言った。
「万作さんのことは知らぬが、俺はお天ちゃんを放っては置けないと決めた。皆も何かお天ちゃんにしてやれることがあったら、頼む。私からも頼む」
 新十郎は頭を下げた。慌ててお糸が飛んできた。
「お侍様があたしらなんかに頭下げちゃあ、あたしらが困っちまうよ。お天ちゃんのことは、あたしらも助けるから」
 そう言うと、お糸はおかみさん連中に向き直った。
「若先生の話は聞いたね。もしこのことで宿六どもが文句を言ったら、あたしが怒鳴り込んでやるよ」
 おかみさん連中は、三々五々去っていった。お糸は、新十郎に向かって胸をぽんと叩いて、家に戻っていった。新十郎は、これでよかったのかと、自問自答した。答えはわからなかった。

 桜の花が満開になる頃には、新十郎の新しい生活も落ち着いてきた。今までは朝の一人稽古を終えた後、今日一日をどう過ごしたものかと悩んだものだったが、それがなくなった。
 日の出前に起き、裏の竹薮で素振りを千回。井戸端で身体を拭き、日が昇る頃に夕餉の残り物を温め直して朝餉を取る。それから腹が鳴るまで、竹を細工する。昼餉を取ったら、また竹の細工を工夫する。日が傾けば竹薮で素振りをまた千回。それを終えて帰れば、お糸の夕餉が待っている。そして寝るまで、また竹の細工。行灯の油がもったいないので早めに就寝。朝に減り張りがつくと、その日一日丸々が有意義に過ごせるとわかった。国許でお勤めをしていた頃よりもはるかに一日が充実していた。
 徳市は一と五の付く日には必ず、竹の束を一つ背負って現れた。ところが今日、背負って来た束は二つあった。束の一つは青々とした真竹、もう一つは真竹を油抜きした白竹だった。見事な加工で、脱色されて白竹の名の通りに真っ白になっていた。その肌合いは艶やかで、象牙を思わせた。
「青竹の方は、手鳴らしにお使いください。白竹の方は、先日の花篭用ということでお願いいたします」
 徳市は懐から、先日見たのと同じ図面を取り出した。ただ、紙と墨の新しさから、写しであるとわかった。
 新十郎は袴で軽く指先を拭ってから、白竹を一本抜き出した。それを頭上に上げ、日に透かし、目を近づけ、いろいろな角度から観察した。
「これは良い物だな。表面が緻密で、光沢に満ちている。これだけの仕上がり、手間が掛かっただろう。さぞ、高いのだろうな」
 徳市は笑うだけで答えなかった。新十郎は元に戻すと、次に青竹を引き抜き、手に取った。
「これも、世がほどほどに長く、節が低い。試しと言われても、疎かには出来ないな」
 世とは、竹の節と節の間の部分であり、ここが長いと裂いて籖(ひご)にした時に具合がよくなる。
「いえいえ、そちらは、ご自由にお使いください。もちろん出来上がりましたものには、わたくしの目で判断しただけの額で買い取りをさせていただきます」
「そうか。青竹で試しに拵えた小物でも、買い取ってくれるのか」
「はい」
 新十郎は、予想以上に収入を得ることが出来そうだと、ほっと息を吐いた。徳市は腰を上げ、荷をまとめた。去り際はいつも決まって、次の言葉を口にした。
「それでは、今日はこれで失礼させていただきます。手が取れます限り、顔を出させていただきます。さてさて、万作さんの様子でも、少し」
 いつもは、そう言ってから徳市は、帰りがけに必ず万作の家へ寄った。仕事が出来なくなった職人にも毎回のように顔を見せに行く実直なその姿には、新十郎も感心していた。ただ、万作の病は長引くものらしく、まだ仕事を始める様子はないとのことだった。
 去りかけた徳市の背中を、新十郎は呼び止めた。
「ひとつ、教えて欲しいことがあるのですが」
「何でございましょう」
「万作さんの娘の、お天ちゃんのことなのですが」
「はい。あの、利発な子でございますな」
「お天ちゃんに、何か手ごろな竹細工を上げようと思っているのですが、何を上げたらいいのか見当もつかないのですよ。徳市さんのお知恵を拝借できればと」
 徳市は顎に手を当てて、しばらく考えた。そして、一人大きく頷いた。
「ぽっくりはいかがでしょう」
「ああ、子供用の下駄ですか」
 新十郎の脳裏に、土間に佇んでいたお天が浮かんだ。足には、半分擦り切れて用を足しているのかどうか怪しくなった草履を履いていたことを思い出した。徳市は、部屋の隅に立てかけておいてあった竹の中の一本を指した。
「それなどは、肉厚ですのでよろしいでしょう」
 新十郎はその竹を手に取ると、じっくりと見た。
「故郷で知り合いが作っているのを見たことがある。半分に割り、伏せたように使う。節の部分を下駄の歯の代わりとするのだったな。上の部分を平らに削り、鼻緒を通す。軽くて丈夫だと聞き覚えがある」
「そうでございます。あとは、竹の端くれが足に刺さらぬよう、仕上げを緻密に。おっと、武内様のご丁寧な仕事でしたら、心配は要りませんでした。釈迦に説法でございました」
「釈迦三尊にはかなわないですが、これはなにしろお天ちゃんの履く物だ、疎かには作れないですよ」
 新十郎は竹の寸法を定めに掛かった。もう少しで下駄の削り出しが出来るというところで、若衆が長屋に駆け込んできた。赤羽道場からの使いだった。ここまで駆けてきたというのに、顔色は少しも上気しておらず、逆に真っ青だった。
「武内様、お願い致します」
「また、道場破りか」
「はい。先日の髭面とは違い、滅法強く、居合わせました御師範も、敗れました」
「そうか」
 師範が敗れたとなると、あの道場には道場主の赤羽しか残っていないはずだった。若衆の顔色が青くなるのも仕方がない状況だろうと、新十郎は慌てて支度をした。
「何故、もっと早めに知らせに来なかった」
「それが、あっという間に居りました五人とも」
 いつもなら、相手に一人、二人と倒されると、すぐに知らせが来た。それをする間もなく五人も倒されたと言うのだ。ただならぬ相手と知った。道場へ向かって裏道を駆けながら、横を来る若衆に尋ねた。
「どんな太刀筋だ」
「奇妙な剣を使います。上かと思うと、下から、下かと思うと、横から」
 喘ぐ息で必死に説明しようとする若衆の言葉に、新十郎は考えた。変幻自在な剣というものは聞いたことがあった。しかし新十郎が実際に目にした剣はどれも、曲芸に近い紛い物でしかなかった。
「だが、曲芸では、五人も倒せぬ」
 屋敷に着いた。別間で稽古着に着替え、息を整えた。渋いお茶を口に含み、ゆっくりと飲み下した。
「よし」
 道場に入ると、異様な光景が目についた。中央に、痩躯の男が立っていた。手にはぶらりと木剣を下げていた。その背後には倒れた門弟が、仲間に介抱されていた。
 男の目の前に、道場主の赤羽が座っていた。身振り手振りを交え、流派の歴史を語っているらしかった。必死の時間稼ぎのつもりなのだろう。新十郎が来たのを知ると、赤羽はにこやかに笑いかけてきた。
「おお、遅かったな。待っておったぞ」
 穏やかそうな声だったが、その顔には汗の粒がびっしりと浮き出ていた。新十郎は心の内で、「さすがの狸親爺も冷や汗をかいたようだな」と笑みがこぼれたが、意識はすぐ、痩躯の男に向けられた。
 着ているものは薄汚れ、月代は伸び放題だった。しかし、その姿がその男の過ごして来た世界を示していた。剣鬼という言葉がある。幽鬼という言葉もある。この男は、その二つを捏ねて作り上げたような禍々しさを持っていた。
 赤羽が後ろに下がると、入れ替わるようにして、新十郎が男の正面に立った。
「所用で遅れて申し訳ござらぬ。私はここで師範頭をしております武内新十郎と申す者。お手前は」
 目の前の男は、痩せこけた頬に、笑みらしきものを浮かべて、答えた。
「伊坂左内」
「ではそっさく、ご教授願いましょうか」
 伊坂左内は小さく頷くと、正眼に構えた。それに合わせるように、新十郎も正眼に構えた。対峙した相手が尋常な腕ではないと悟ると同時に、新十郎の意識は丹田に落ち着いた。足の指で板の間を掴むように踏みしめた。
 新十郎は、道場に入った時にすぐ、倒されていた門弟を観察していた。どこを打たれて倒されたかを知ることで、相手の太刀筋を見切るためだった。額が二人、肩と脇が一人ずつ、それに師範は、足を打たれていたように見えた。決まり手の多様さから見ても、若衆が言ったように、変幻自在な剣だと知れた。
 互いが相手の腕を悟ると、手数が減る。隙など容易に見出せないために、一撃に全身全霊のすべてを込めようとするからだ。今の二人がそうだった。道場の中はあらゆるものが凍り付いていた。空気も、人も、時間さえも、すべてが止まっていた。
 その時、外で鶯が鳴いた。
 瞬間。二人が同時に打ち込んだ。伊坂左内は、新十郎の肩を斬り下ろす袈裟懸け。と、思われた、が。その剣先は肩を過ぎ、真っ直ぐ下へ向かった。新十郎の脛目掛けて。
 伊坂左内の木剣にかぶせ合わせるように小手を狙いにいった新十郎は、咄嗟に小手を外すと、思いっきり地面目掛けて斬り下ろした。
 激しい音が道場に響き渡った。何が起こったのか、瞬時には誰もわからなかった。
 間を置いて、離れた場所で、乾いた音が鳴った。折れた木剣の先が転がった音だった。
 伊坂左内が三歩下がり、正眼の構えに戻った。一方、新十郎は、打ち合った場所から動けずにいた。やがて、伊坂左内は木剣の構えを解いた。その木剣は、先三寸が折れていた。折れ飛んだ木剣は、伊坂左内のものだった。
 新十郎は心臓が高鳴っていた。喉下から血の塊が飛び出しそうなほどに、脈が突き上げていた。
 伊坂左内の木剣は折れ、新十郎の木剣は床板に一寸ほども突き刺さっていた。何故、そうなったのか、新十郎にはわかっていた。伊坂左内の、脛を狙った一撃を、新十郎は剣先を床に叩きつけることで辛うじて受け止めた。それが出来たのは、仕合う前に、介抱されていた師範が足を挫かれているのを見たからだった。その知識を得ていなければ、新十郎はいつものように入り身をし、木剣をかぶせるようにして小手を狙いに行っただろう。もしそうしていれば、新十郎の木剣が伊坂左内の小手を砕く前に、新十郎の脛が微塵に砕かれていただろう。それほどに凄まじい脛斬りの一撃だった。
 新十郎の木剣は辛うじて伊坂左内の一撃を受け止めたが、勢いは負けていた。伊坂左内の剣圧で新十郎の木剣は床板に打ち込まれたのだ。動きを封じられた新十郎は、次の伊坂左内の一撃を防ぐ手立てがなかった。続く打ち込みで、額を割られていてもおかしくなかった。そうならなかったのは、伊坂左内の木剣が折れたからだった。
 折れたのは、ただ、運の成せる技だった。少しだけ新十郎に運が向いていた、それだけのことだった。
 伊坂左内は、静かに一礼した。新十郎も我に返り、木剣を床板から引き抜くと、礼を返した。伊坂左内は、じっと新十郎を見ていた。その目が、「真剣ならば、私の勝ちだったな」と笑っているのがわかった。
 無言のまま、伊坂左内は去って行った。誰もその後を追おうとはしなかった。新十郎も、その時になって、全身から嫌な汗が噴出しているのに気づいた。
 その時になってようやく、新十郎は自分の心の中に、伊坂左内に対し、恐怖と同時に、憐れみを感じていることに気づいた。あれだけの凄まじい腕を持ちながら、薄汚れた姿で道場破りをしなければならないのだ。そしてその憐れみの中に、新十郎自身への自己憐憫が混じり合っていることもわかっていた。
「いやあ、また助かりました」
 赤羽だけが、いつもの能天気な笑みを浮かべていた。それを見てやっと、新十郎は生きている自分に気づいた。
 その日は下駄作りに集中した。気が弛むと、伊坂左内の魔剣が脳裏に甦り、背筋が寒くなった。
「いかん、いかん」
 頭を大きく振って、新十郎は加工中の青竹を見詰めた。お天の顔を思い描き、伊坂左内を吹き飛ばした。履きやすくなるようにと、一刀に心を込めた。あどけなさの中に哀しみを秘めたお天の顔は、忌まわしい魔剣の幻影を祓う力があった。
 竹の下駄は軽くて丈夫だが、作り方が粗雑だとささくれが足を痛める。作り手の思いが、そこに現れると言えた。思い切りのいい刃先が、滑らかな曲線を削りだし、お天の足へ馴染むようにとその表面を仕上げていった。
 鼻緒の材質に悩んだが、新十郎は筍の皮を使うことにした。肌を痛めないように、柔らかく仕上げた。
「出来た」
 新十郎は下駄の加工面に唇を当てた。そうすることで、見逃したささくれを探るのだ。同じ事をかつて父がしてくれたことを思い出していた。新十郎がぽっくりをねだった時だった。
「よし。気に入ってくれたらいいのだが」
 良い物が出来たという自負があった。しかし、お天が「要らない」と言えばそれまでだった。徳市の言葉が甦った。
「使う人への思いです」
 新十郎は、下駄を見詰めて頷いた。
「そうだな、徳市さん。お天が気に入ってくれなくても、その思いに嘘偽りはない」
 新十郎は立ち上がると、大きく伸びをした。行灯の火を落とし、裏の格子窓に寄ると、外を見た。綺麗な星空が広がっていた。横たわる天の川に誘われるように、新十郎は外に出た。水も人も違って入るが、星空だけは、江戸も故郷も同じだと思った。
 木剣を手に、裏の竹薮に入った。いつもの素振りをする場所へ向かった。そこだけ三畳間ほど、土の質が違うらしく、竹が生えない場所だった。呼吸を整え、木剣を構えた。星明りに浮かぶ竹の陰に、あの男が浮かんでいた。
「伊坂左内」
 どこであのような剣を覚えたのか、いつからあのような鬼気がこもったのか。新十郎も正眼、伊坂左内も正眼。夜の竹薮が静かに燃え始めた。
 寝静まっていた鳥が騒ぎ、遠くで犬が遠吠えを始めた。風が止まり、星明りがすっと翳った。
 一瞬。裂帛の気合と同時に、新十郎は木剣を伊坂左内に打ち込んだ。同時に、伊坂左内が打ち込んできた。
 激突。新十郎の全身を、激しい衝撃が襲った。脛が痺れたように痛んだ。新十郎は思わず、脛を押さえてしゃがみ込んだ。幻痛だった。
「相討ち、いや、瞬の間、私が負けていたな」
 脳裏に刻まれた伊坂左内の魔剣の恐ろしさに、改めて身震いした。次に相まみえた時、どう戦えばいいのか、それもわからなかった。深川近辺で、道場破り破りを引き受けている道場が、赤羽道場の他に二つあった。そのどちらかに、伊坂左内が現れても不思議ではなかった。
「飛び上がるか」
 脛斬りは飛ぶ事でかわせるだろうと思った。しかし相手が、こちらが飛ぶと知れば、剣先は地から天に駆け上がり、空中にいる新十郎を撃つだろう。空中にあっては、守りは難しくなるのは道理だった。
「こちらの打ち込みが、相手の速さに勝れば勝てる」
 それはわかっていた。では、どうすれば早くなるのか。素振り千回を二千回に増やしたところで、一月や二月の短期間では、それほど速くなるとは思えなかった。
「あの男とは因縁があるような気がしてならない。次までに、なんとかして手立てを考えなければ」
 大きく息を吐くと、新十郎は空を見上げた。竹の生い茂る隙間から、天の川が見えた。子供の頃、無心で天の川を見詰めていた自分を思い出した。そして今。
「随分、おかしな生き方を選んだものだな、私も」
 元服をしてすぐ、凶事で父と母をいっぺんに失った。嫡子のない伯父の家に養子として引き取られ、その家を継ぐ事になった。伯父は若い頃から才気溌剌とし、城代家老の娘を貰っていた。その縁で、家中では重く扱われている伯父の家を継ぐ事は、新十郎には思っても見なかった出世だった。しかしそれを素直に喜ぶことは出来なかった。
 父が生前、伯父と喧嘩をし、姻戚関係を断っていたからだった。父は理由をこう言っていた。
「地位を鼻にかけ、傲慢な振る舞いが過ぎる。幾度となく忠告申し上げてきたが、強きに阿り弱きを挫くあり方、見過ごすことは出来ない」
 しかし、こういう父の考え方は、親戚の中では異端だった。誰もが飛ぶ鳥を落とす勢いの伯父を頼り、甘い汁を吸おうと群がっていた。新十郎一家は親戚の中で浮き、孤立していた。
 そんな新十郎に、父母の死を機会に伯父が養子にしたいと願い出たのは、文武で秀でたところが見えていた新十郎の才を買ったからだという噂が専らだった。新十郎は父の見方が正しいと思っていた。しかし、伯父に請われて、それを断るだけの強さはなかった。複雑な思いを抱えたまま、伯父の家で暮らし始めた。
 その矢先、第二の凶事が起こった。伯父が下城の際、部下に斬られたのだ。城代家老と対立する江戸家老が絡んでいるという噂が流れた。部下はそのまま逐電した。伯父の才気を愛でていた城主は、新十郎を含めた親族一党に仇討ちを命じた。新十郎は真っ先に追っ手を名乗り出た。争いに塗れた家中が嫌になっていたのだ。国を離れ、一人になりたかった。仇討ちなど、はじめからどうでもよかった。
 親族一党の中から五人ほどが仇討ちの旅に出ていた。城主が、仇を討った者を重く取りたてると約束したからだった。継ぐ家のない次男坊や三男坊が、押っ取り刀で四方に散っていった。
 そして新十郎は今、江戸に仇がいるという国許からの情報を得たため、江戸にやってきて暮らしていた。しかし新十郎の真意は、仇探しなどにはなかった。仇を探している振りをしつつ、自由な風の吹くこの江戸の地で生きていこうというものだった。
 江戸屋敷に顔を出せば、そこそこの生活資金を得ることは出来るだろうが、新十郎にその気はなかった。欲しいものは国の援助ではなく、自由だけだった。
「はてさて、これからどうなる事やら」
 見上げている星たちは、いつもと変わらない瞬きを返すだけだった。

 次の日の朝、朝稽古と朝餉を済ませると、新十郎はいそいそと万作の家に出かけた。戸口は開いており、上り框に腰を下ろしているお天が見えた。新十郎は背筋を伸ばし、万作の家の前に立った。
「おはようございます」
 お天が驚いた顔で新十郎を見上げていた。部屋の奥にいるはずの万作は、ちょうど陰になっていて新十郎の位置からははっきりと見えなかった。新十郎は万作を無視し、しゃがみ込んで目線の高さをあわせると、お天に微笑みかけた。
「こんなものを作ってみたんだ。ちょっと使い勝手を試してみて欲しいんだ」
 懐から、出来上がったばかりの青々しい竹の下駄を取り出した。それを目にして、お天の驚いて見開かれていた目が、さらにまん丸になった。
「そのままそこに腰掛けていて。鼻緒は具合を見て加減が必要だからね」
 お天の履いていた、昔は草履だったと思われるものの残骸をそっと外した。お天の足の指が、びくっと縮こまった。
「そんなに固くならなくてもいい。さあ、指を通してみてくれないか」
 お天は、恐る恐ると鼻緒に指を通した。新十郎は、隙間を指で確かめた。
「きつくはないようだ。ほら、反対の足も。そう、ちょっと歩いてみてくれ」
 お天は土間へ降りた。それから下駄の調子を探るように、足踏みした。さらにその場で何度か飛び跳ねた。しかしその表情には、大きな変化はなかった。
「どうだ。履き心地は」
 お天は、ちらっと部屋の奥、万作がいる辺りを見た。それから新十郎を見ると、大きく頷いた。
「そうか。よさそうか。具合が悪かったら言っておくれ」
 お天は外へ飛び出した。竹の下駄特有の軽やかな音が、右に走っていったと思うと、今度は左へ走っていった。
「おい、加減を済ませてないのだ。いきなり走ると、擦れて痛むぞ」
 井戸の周りを走っていたお天は、新十郎の方を見て足を止めた。それから足の竹の下駄を見て、首を横に振った。そしてまた、走り出した。あっという間の、その小さな背中は、隣の竹藪の奥へ消えていった。
「お天ちゃん、おーい」
 すると、新十郎の後ろで笑い声が起こった。振り返ると、洗濯物を抱えて井戸端に集まってきていたおかみさん連中だった。
「若先生、お天ちゃん、大喜びじゃない。しばらく戻ってこないかもね」
 お糸がお天の走り去った竹薮を見て、愉快そうに笑った。それから、新十郎を見て、言った。
「あんな楽しそうなお天ちゃん、久しぶりに見たわ。ありがとう、若先生。石頭の万作さんに代わって、あたしからお礼を言わせていただくわ」
「は、はあ」
 新十郎は、頭の後ろに手をやってうつむいた。
「また若先生、照れてるよ」
 おかみさん連中の笑い声が湧き起こった。新十郎は自分の家に退散した。
「あれまあ。また岩戸の奥だよ」
 外で高らかに響き渡るおかみさん連中の笑い声を聞きながら、新十郎は瓶から柄杓で水を汲み、一気に飲んだ。
「やれやれ。楽しい土地柄だ」
 新十郎は大きくため息をつき、部屋の片隅に作った作業場に戻り、竹細工の準備を始めた。その顔には、自然に笑みがもれ浮かんでいた。お天が楽しそうに駆けて行く姿が脳裏に浮かんでいた。
 温かくなった心が後押しをしたのか、新十郎は徳市からの頼まれ物に手を付けようという気になった。預かっている図面を開き、白竹を手に取った。今まで、何かが心に引っ掛かり、先延ばしにしてきていたのだ。じっと見詰めていると、やがて頭の中に、徳市の望んでいる菱四ツ目編み花籠が浮かんできた。
「よし」
 新十郎は、白竹を戻し、青竹を手にした。まずは青竹で、試作品を作ってみるつもりだった。竹細工の勘を完全に取り戻しておきたかった。茶室用の花篭などは、見た目に変化を持たせるため、普段は加工に適さないとされて除けられてしまう、節くれ立った竹を用いる。しかし徳市の図面では、籠の表に節を出さないように仕上げるようになっていた。
 青竹の荒割りをはじめた。まずは半分に、次に四分割、そして八分割。小割にしていくにつれて、新十郎は意識が集中していくのがわかった。どれほどその作業を繰り返しただろうか、腹の虫が鳴いて我に返った時には、必要に足る充分な細竹が出来ていた。
 次は「剥ぎ」という、一定の厚さにそろえる作業があった。形のいい籠を編むためには、材料の竹の幅と厚みが綺麗に揃っていなければならないのだ。
「まずは、ここまでにしておくか」
 竹と道具を仕舞い、大きく伸びをした時。
「若先生、開けますよ」
 お糸の声と同時に、戸が開けられた。慌てて身繕いをしながら、やはり早めに衝立を作るべきだと、新十郎は思った。
「根を詰めておられるのですか。時々はお日様に当たらないとお身体によくありませんよ」
 そう言いながら、お糸は持ってきたものを畳の上に広げ始めた。握り飯と、大根の漬物と、芋やらの煮物が並んだ。
「これは」
「なあにね、お天ちゃんの下駄のご苦労様賃みたいなものでしてね、若先生一人に苦労させておくわけにはいかないって、皆で話してましてね」
「好きでやっているのだ、苦労などではないぞ」
「そうおっしゃるとは思ってましたけど、ほら、お腹で虫が」
 煮物の匂いに反応し、うるさくなっている腹を押さえたが、手遅れだった。
「う、うう」
 お糸は楽しそうに新十郎の表情を窺いながら言った。
「どうぞ。またお天ちゃんに、何か作ってあげてくださいな。あんなに嬉しそうに」
 お糸は耳を傾ける仕草をした。新十郎も耳を澄ませた。
「若先生にも、聞こえるでしょう」
 お糸が何を言っているのかはすぐにわかった。長屋近くを駆けて行く、竹の下駄の軽い音が響いていた。
「まだ、走っているのか、お天ちゃんは」
「そうですよ。いじらしいじゃありませんか」
 新十郎は頷いた。
「そうですか。では、ありがたくこの昼餉、頂きます」
 お糸は、ごゆっくりどうぞ、と言って、出て行った。握り飯を齧りながら、新十郎は下駄の音を快く聞いた。昼餉を済ませ、図面を睨みながら竹の厚沢どれくらいにするか思案していた新十郎を、徳市が訪ねてきた。図面を広げている姿を見て、満面の笑みを浮かべた。
「いよいよ始められますか。よろしくお願いいたします」
「いや、また、試しの青竹からです」
「それで結構でございます」
 徳市は荷を降ろしてから、新十郎に笑いながら言った。
「万作さんのところのお天坊が、長屋のその先で、わたくしに自慢げに下駄を見せてくれました。お見事な仕上がりでした」
「あ、ああ。履いていてくれるようで、私としても嬉しいのです」
「随分と気に入ってもらえたようでございますね。ほら、走る音がまた聞こえましたよ。木戸の方から駆けてきます」
 手を当てて耳に手を添える徳市の仕草に、新十郎は首の後ろに手をやりうつむいた。すると。竹下駄の音が、新十郎の戸口で止まった。障子にお天らしい子供の影が映っていた。
 徳市が新十郎を見た。新十郎は頷いた。では、と、徳市は戸を開いた。目の前の戸が開き、びっくりした顔のお天が立っていた。足にはしっかりと竹の下駄を履いていた。どこを駆けてきたのか、すでに泥だらけになっていた。
 新十郎は笑みを浮かべ、お天を招いた。お天は気兼ねしている風だったが、新十郎と一緒にいるのが、よく知っている徳市だったことで安心したのか、土間にゆっくりと入ってきた。
「どうだ、お天ちゃん。下駄におかしなところはないかな」
 お天は、大丈夫だというように、大きく頷き、一回、二回と、下駄を踏み鳴らして見せた。軽やかな音が部屋に響いた。
「よかったな、お天坊」
 徳市の言葉にも、お天は大きく頷いた。その嬉しそうな様子に、新十郎は作ってよかったと心から思った。
「下駄の調子がおかしかったらすぐに言いなさい。具合を見てあげよう。それと、他に何か欲しいものがあったら言ってくれ。竹で作れるものなら何でもいいから」
 お天は、何かを言いかけて止めた。視線を落とし、もじもじした。徳市が助け舟を出した。
「お天坊。この御侍さまはな、とてもお優しいし、とても竹の細工がお好きな方なのだよ。お天坊のために、得意の細工の腕を振りたがっていらっしゃるのだ。遠慮は要らないのだよ。言ってご覧な」
 お天は顔を上げると、徳市と新十郎の顔を交互に見た。そして思い切ったように、言った。
「笊が欲しい」
 新十郎が始めて聞いたお天の声だった。自分に話をしてくれた、欲しいものを言ってくれたということで、新十郎は嬉しくてたまらなくなった。
「そうか、笊か。どんな笊がいいのだ」
 お天は、両手を伸ばし、一生懸命に何かを掬い取るような仕草をした。徳市がすぐに気づいた。
「泥鰌か蜆採り、そうそう、お天坊は蜆を採って稼いでいるのでしたな」
 新十郎はなるほどと頷いた。お天が働けなくなった万作に代わり、小金を稼いでいるとは聞いていたが、蜆採りだったのだ。
「そうか。大変だな。その笊で川底を掬うのか」
 お天は頷いて言った。
「笊、大きいの。小さいのが欲しいの」
 新十郎は頷いた。
「よし。お天ちゃんの身体に合った笊を作ってやろう。まてよ。ところで、蜆採りの笊とは、どんな笊なのかな」
 お天は、表から石を拾ってくると、土間にそれらしい絵を描きはじめた。新十郎と徳市は、上から覗き込んだ。画力はありそうだったが、子供の絵だった。
「単純な盆笊や角笊ではないようだな」
 新十郎の言葉に、徳市は頷いた。
「片側の縁を泥の中を掬いやすいように切ってあります。土笊というものに似ていますが、目の詰み具合は、やはり実物を見ないことにはなんとも申せません」
 新十郎は唸った。お天の心配そうな視線に答えねば、と、頭を捻った。すると徳市が提案した。
「わたくし、今日はこれで店へ戻りますが、どうでしょう、武内様とお天坊と三人で、その笊を見せて貰いに行きませんか」
 新十郎は膝をとんと叩いた。
「百聞は一見にしかず、だな」
「そうでございます」
 難しい言葉がわからずにきょとんとしているお天に、徳市が言った。
「今、お天坊が使っているという大きな笊を見せてもらいたいのだ。お天坊を雇ってくれているところへ案内してはくれないか」
 お天は大きく頷いた。新十郎にも、お天の目がきらきらと輝いているのがわかった。腕に縒りをかけるぞ、と、心で誓った。お天が案内してくれたのは、長屋の裏から伸びる田の畦道だった。先を行く竹の下駄が、畦の土でかぽかぽと元気な音を立てていた。
「近道なのかな」
 田んぼの中の一本道で、人目を気にしておどおどしている新十郎に、後ろからついて来る徳市は、大きな荷を背負ったまま平然と笑って答えた。
「子供はこういう道を通るものですよ。たまにはよろしいでしょう」
 新十郎は、肩から力を抜いた。武家だと鯱(しゃちほこ)張る身ではないのだ、と自分に言い聞かせた。そう考え直して周囲を見ると、見事な風景が目に飛び込んできた。田植え前の水のない田には若草が萌え、農家の庭先には桃が見事な花をつけていた。鶯が鳴き、微かな風に竹林が煌めいている。
 自分の生まれ育った土地にも、似たような風景があったことを新十郎は思い出していた。この季節には、すべてが芽吹き、生きる力を甦らせていた。
 新十郎は深呼吸をした。理由もなく、気持ちが晴れ晴れとしてきた。不気味な剣鬼のことなど、どうでもよい気がしてきた。
 それより世の中には、もっと大切なことがあるのだ。大切にしなければならないことがあるのだ。発想の転換が、伊坂左内との仕合の後、鬱積していた何かを霧散させてくれた。
「これは、お天ちゃんのお陰かもしれないな」
 端から見ると珍妙な取り合わせであろう三人組は、すぐに亀戸天神の門前に着いた。お天の話によると、ここに住む花伝と呼ばれる男が蜆採りを取り仕切っているということだった。
「どうされました。お顔が、厳しくなられましたが」
 徳市に声をかけられ、新十郎は我に返った。顎を引いて答えた。
「花伝という差配、この辺りを縄張りとしているようだが、子供を集めて蜆採りをさせているそうではないか。どのような男かと、思ってな」
 子供をこき使って稼いでいるとすれば、碌な男ではないだろうと思っていた。ところが、徳市はにこやかに首を横に振った。
「わたくしの耳にいたしましている限りでは、よく出来た親分さんということですよ。御公儀のお仕事も任されておられるそうですし」
「十手持ちか」
 新十郎の頭の中には、十手持ちは犯罪者の仲間という意識があった。仲間の情報を売って、奉行所から金を貰っていると聞いていたからだった。ますます顔がこわばってくるのを、自分でも感じていた。
 一方、先頭を行くお天は、軽やかな音を響かせながら、新十郎の警戒など無用だと言いた気に歩いていた。畦を抜けると、亀戸天神のすぐ近くに出た。そこから少し先で、お天が立ち止まり、新十郎に振り返ると、前を指差した。そこには、間口は小さいながら、活気のある店があった。
「ここが花伝の店か。海の物に、乾物、箒に瀬戸物。万屋のようだな」
 お天は店の横の路地へ向かった。新十郎と徳市は、あとに続いた。路地に竹の下駄の音が響き渡った。路地の奥で尻っ端折りして作業をしていた数人の若衆が、下駄の音に気づいた。先頭のお天が、若衆に手を振った。
「お、こんな昼に珍しいじゃねえか、お天」
 にこやかにそう言った一人の若衆の目が新十郎を捉えると、鋭くなった。いぶかしむ目で値踏みを始めた。
「お侍様、どちらへ行かれます」
 新十郎は笑みを絶やさぬように気をつけながら答えた。
「お天に頼まれ事でしてね」
「そうなのかい、お天」
 若衆にお天は大きく頷いた。そして足を上げると、自慢げに竹の下駄を見せた。
「ほう、どこで手に入れたんだい」
 お天は新十郎の袖を掴んで言った。
「作ってもらった」
「この、お侍様に、かい」
 お天のにこやかな笑みに、若衆の表情が少しだけ和らいだ。その機を逃さずに、新十郎が言った。
「お天の使っている笊を見せて欲しいのです。どうやら大きすぎて使いにくいらしい。そこで、お天にあった笊とひとつ、作ってやろうと思いましてね」
 若衆は新十郎とは直接話をせずに、お天に聞いた。
「そうなのかい」
「うん」
 若衆は、まだ胡散臭げな視線のまま、新十郎を上目遣いで見た。それからお天に笑みを見せた。
「ここで待っていな。すぐに持ってくる」
 他の若衆に作業を続けるように指示すると、家の中に入っていった。花伝の店の裏口なのだろう。お天は新十郎の袖を掴んだまま、じっと待っていた。若衆は笊を手にして戻ってきた。それを新十郎ではなく、お天に渡した。
「ほら。お天たちがいつも使っている笊だ」
 お天は受け取った笊を、新十郎に差し出した。新十郎は笊を手にした。後ろから、それまで黙っていた徳市が覗き込んで、口を開いた。
「よく使い込まれていますな。土笊と同じと思ってよいようです。目もわかりました。なるほど、お天坊にはいささか大き過ぎますな」
 新十郎は、笊の網目をじっくりと観察し、その形を覚え込んだ。お天に返すと、言った。
「いつも使っているようにやってみてくれないか」
 お天は頷くと、笊を抱えた。それで川底を探るような真似をした。腰が入り、やり慣れている仕草が微笑ましく、同時に少しだけ哀しかった。
「わかった。そうだな、ふた回りほど小さい方が遣い勝手がよさそうだな。幅がこれくらいだ」
 お天の前に手を広げ、笊の外寸を示した。その手に、お天が手を添えた。皹と皹だらけの、小さな手だった。新十郎は、その手にこもっているお天の命に、胸が熱くなった。
「これくらいの大きさでいいか」
 お天は頷いた。
「よし、すぐに作ってやるからな」
 笊を返し、礼を述べて去っていく新十郎たちを、若衆は複雑な表情で見送っていた。

 亀戸天神の鳥居まで出ると、お天が、境内で遊んでから帰る、と言った。日中はいつもここで遊んでいる、とも言った。
「そうか、ここはお天の縄張りだったんだ」
 新十郎と徳市は、そこでお天と別れると、天神橋へ向かった。徳市が、笊を作るには、新十郎の家にある工芸用の竹ではなく、強靭で粘りのある根曲竹がよいと勧めたからだった。二人は天神橋から法恩寺橋と渡り、御竹蔵をぐるりと回って両国橋へ出た。広小路の小屋掛けの賑わいを横目に、真っ直ぐ駿河屋へ向かった。
 駿河屋は中堅どころの大きさで、店頭の萌黄色の暖簾が目印だった。その暖簾を潜り、店の横の商人口に回ると、徳市は奥に声を掛けた。すると店の者が全員で、元気な声で出迎えた。店の者にも愛されている徳市の人柄が偲ばれた。
 徳市が新十郎を紹介すると、奥から慌しく主人が出てきた。白髪混じりの頭を深々と下げた。徳市が勤め上げる店の主人だけあって、穏やかな中にも落ち着きが感じられた。
「徳市の方から、お噂はかねがね聞かせていただいております。先日は丸盆の籠を拝見させていただきました。見事なものでございました」
「いや、あれはまだ、勘を取り戻すための手慰み。売り物にはなりません」
「ええ、確かに、売り物にはまだなりません。しかし、作り手の心は窺えました。実はあの籠、我が家の奥で使わせて頂いております。重宝しております」
「そうですか。使っていただけるのが、一番嬉しいですから」
 そう言って、首の後ろに手を当てて視線を落とす新十郎を、駿河屋の主人は小さく頷きながら見詰めていた。さらに、奥へ通ってくれと言う主人に、新十郎はお願いをした。
「実は仔細があって、根曲竹を見せていただきたいのです」
 横から徳市が言い添えた。
「蜆採りの笊を作ろうとされておりまして。わたくしが根曲竹を見繕って差し上げるようと思います」
「蜆採り、ですか」
 不思議そうに尋ねる主人に、徳市はお天のあらましを掻い摘んで話して聞かせた。主人は頷きながら聞いていたが、最後ににっこりと笑った。胸の辺りに手を添えて言った。
「今日はよいお話をお聞かせいただきました。昨今、胸の苦しくなるような話が多くて辟易としておりましたが、このようなこの辺りの温かくなるお話、喜んでお受けさせていただきます」
 徳市は主人の許しを得ると、新十郎を裏手の竹置き場へ案内した。職人に渡すために仕入れた竹が限りなく仕舞われていた。
「根曲竹と申しましても、いろいろとございます。産地にもよるのですが、その強さ、日持ちのよさなどから、用途も色々でございます」
 新十郎は物珍しく、足を止めては竹を手に取った。故郷で扱っていたのは真竹か孟宗竹で、根曲竹は老人の突いている杖ぐらいしか記憶になかった。
「おお、これだ」
 新十郎が手に取ったのは、まさに見覚えのある、老人用の杖の形をしていた。加工される前のため、掘り出された姿のまま、ごつごつと節くれ立っていた。その名の通り、根元が曲がっているこの竹は、上下を逆様にすれば、持ち手のついた杖に早変わりした。老人は曲がっている箇所の具合で、手に馴染むものを選び、長さを調整して使うのだ。
 徳市は口を出さず、新十郎の選ぶに任せていた。笊に加工するのに適した長さ、肉厚の竹を探した。横から眺め、両手で力を加え、片手で振り回した。
 そのうち新十郎は、本来の目的と違う竹が気に入ってしまった。根曲竹ではあったが、根の部分が真っ直ぐに伸び、しかも緻密で重く、節は逆に軽かった。根の部分で地面を叩いてもびくともしない強さがありながら、適度にしなった。
「徳市さん。お天ちゃんの笊用とは違いますが、これを貰ってよろしいでしょうかな」
「よろしゅうございます。が、何にお使いなされますか」
「素振り用ですよ」
 毎日素振りに使っている木剣は、赤羽道場からの借り物だった。何時までも借りっ放しなのが気になり、適当に木の枝でも削って拵え、道場に返そうと思っていたのだ。
「この竹の剣はよい。腰には竹光、素振りは竹剣、苗字も武内、竹尽くめ、だな。揃って縁起がよい」
 自分で言って自分で笑っている新十郎を、徳市は楽しそうに目を細めて見ていた。
 根曲竹の束を背負い、午後の傾いた日差しを浴びながら長屋に戻ると、木戸番が手招きした。困りましたという八の字眉毛になっていた。
「武内様、何をなされたんですか」
「何も。特にしていないが」
「花伝の親分さんが見えられています。井戸端でお糸さんたちとなにやら話し込んでいますよ」
「ほう、そうかい」
 若衆からお天の笊のやり取りを聞いてやってきたのに違いなかった。何か気に入らない点でもあったのだろうか。
 新十郎は口をへの字にし、井戸へ向かった。すぐにお糸の声が聞こえてきた。予想と違い、明るく楽しげな声だった。お糸は木戸の方向を向いていたので、すぐにやって来る新十郎に気づいた。
「あ、親分さん、噂をすればなんとやら。若先生、お客人ですよ」
 お糸と話をしていた花伝が振り返って新十郎を見た。
 花伝は、目は鷹、背中は蟹の男だった。周囲を鷹の眼光で威圧し、どれだけ叩かれても蟹の甲羅がはじき返す、そういう男に見えた。ただ、殺気はなかった。花伝は新十郎の正面に立つと、ちらりと背中の根曲竹に視線を走らせてから、軽く頭を下げた。新十郎もそれに合わせて、一礼した。
「私に何か御用とのことですが」
「へい。今日の昼、あっしのところへいらしたと若い者から聞きやした」
「ああ、そうです。若衆にお世話になりました。お礼を言って置いてください」
「いや、お客人にはそれぞれのもてなし方があるってえもんでござんしょう。ところがうちの若いのは、ちいっとばかり血の巡りが悪かったようで、お気に触られたのなら申し訳ごぜえやせん」
「何を気にするって、特にないな。笊はしっかりと見せてもらったし」
 新十郎は、花伝が昼間のことを捻じ込みに来たのではないとわかってほっとした。それでも花伝は顔にも甲羅をかぶっているように、その表情は喜んでいるのか怒っているのか、皆目わからなかった。
 新十郎は遠慮する花伝を家に招き入れた。表情に変化はなかったが、花伝は、所狭しと置かれた竹に驚いたようにも見えた。新十郎は土間の隅に、背負ってきた根曲竹を置いた。
「取り散らかっていますが気にしないで下さい」
「あっしはここで」
 花伝は框に腰を下ろすと、新十郎を見詰めた。
「お願ぇがあってまかりこしやした」
「お願い、ですか」
「へえ」
 花伝は根曲竹を見た。
「あれで、お天の笊をこしらえようってぇんですかい」
「そうだ。あの笊は、お天の身体には少々大きすぎるようでね」
「そこまで気が回りませんで。お天の話を聞いて、はっと気づいたってえ、体ぇたらくでして」
「あの竹を使って、早速、今日から、お天ちゃん用の蜆笊を作るつもりだ」
「そりゃあ、お天は喜びやす。そこで、お願ぇということになりやす」
「なんだろう」
「お天のような小ぃせぇ子が、他にも五人、いるんでさあ」
「そんなにいるのか」
「大きいのを入れると、今、全部で四十と三人。内、二十は天秤棒担ぎの売り子で、残りがお天みてえに採り方になりやす。まあ、朝は賑やかでごぜえやす」
「ほう」
 手広くやっているとは聞いていたが、それほど多くの子供を使っているとは知らなかった。花伝は無表情のまま、話を続けた。
「小ぃせぇ子にぁ、あの笊は大きい。お天にあった笊をこしらえていただけるんでしたら、ついでと言っちゃあ怒られやすが、五人の小ぃせぇ子の分も、一緒にこしらえちゃあくれませんか」
「なるほど」
 新十郎は、また根曲竹を取りに行かなきゃあならないな、と思った。するとすぐに察したらしく、花伝が根曲竹を指差して言った。
「必要な竹は、それと同じものを、若衆に言って買い付けさせ、ここにお届けいたしやす」
「そうか。それは助かる。私は駿河屋の徳市さんに言って買い付けています。その筋を通してくれたら助かります。私の名を出せば、徳市さんは万端整えてくれるでしょう」
「ああ、徳市さんには、以前もお世話になりやした。承知いたしやした」
 新十郎は最後に言い添えた。
「笊の代金は要らないから」
 はじめて、花伝が顔をしかめた。
「いけやせん。それじゃあ、申し訳が立ちやせん」
「代金分、お天ちゃんたちの面倒を任せた。お天ちゃんは幼いが、しっかりしたいい子だ。代金分は、あの子のために使ってやってくれ。頼みます」
 花伝は、じっと新十郎を見ていたが、やがて立ち上がると、深々と頭を下げた。長屋から出て行く花伝の後ろ姿を見送っていると、お糸が近寄ってきた。
「若先生、今度は笊だって」
「早耳、いや、立ち聞きしていたのか」
「嫌だ、立ち聞きなんて人聞きの悪い。この長屋の建て付け見れば、わかるでしょう、どこで何話してたって丸わかりさ」
「まあ、そうだが」
「でも、花伝の親分、いい男だよねえ。あの人のお陰で死なずに済んだっていう話、聞き飽きるくらい聞いてるわ」
「そうなのか」
「お天ちゃんみたいな、一人で食べていかなきゃいけない子供を雇って、相場より高い賃銀払ってやってるっていう話ですよ」
 新十郎は、十手持ちを誤解していたと、自らを恥じた。仕事に貴賎はないと言うではないか、と。すでに去った後で姿は見えなかったが、花伝の分厚い背中が消えていった木戸へ、新十郎は深々と一礼した。

 新十郎は、根曲竹の剣を竹丸と名づけ、朝夕の素振りを続けた。しっとりと手に馴染む竹丸は、そのしなりで、木剣よりも手首を強固に鍛え上げてくれる感触があった。
 新十郎の中では、武士として再び鋼の刀を帯びたいという気持ちと、この竹剣でもいいという気持ちとがせめぎ合っていた。鋼を捨てて竹を手にするということは、武士を捨て、この江戸の片隅で竹細工職人として生きていくという選択肢を選ぶことだった。
「それが自分に出来るのか」
 自信はなかった。自分は武士であるという矜持は、どうしても捨てることが出来なかった。
「こうして素振りをしている間は無理だろうな」
 夜明け前の井戸端で身体を拭きながら、新十郎はため息をついた。
「道は自ずから拓ける、とは言うが」
 その時、万作の家の戸が開いた。軽やかな竹の下駄が鳴り、お天が飛び出してきた。新十郎と目が合うと、にこりと笑った。手にした笊を抱えるようにして。
「無理をせず、頑張れよ」
「うん」
 頷いて、お天は裏の畦道へ駆けて行った。夜明け前の薄暗がりが、その姿をあっという間に包み込んだ。竹の下駄の音だけがしばらく響いていたが、それも遠くへ消えていった。
 新十郎は、お天の笑顔を思い返していた。笊を作って渡した時、お天は嬉しそうな顔で新十郎を見上げた。笊の縁の横回し部分に、「てん」と刻んだのを見せた。
「ほら。お天ちゃんの笊だ。これは、てん、と読むのだよ」
 その文字をお天はじっと見詰めていたが、やがて恐る恐る指を伸ばすと、ゆっくりと、大切そうになぞった。
「て、ん」
「そうだ。て、ん、だ」
「てんは、あたし」
 顔を上げると、お天は、にっこりと笑った。飛び切りの、素敵な笑顔だった。それからお天は、新十郎に会うといつも、笑顔を見せるようになった。それが新十郎には一番の報酬だった。
「さて、笊作りで後回しにした徳市さんの頼みの品に手をつけないと、さすがに、な」
 ところが、徳市の依頼には、また邪魔が入った。試しの青竹を畳の上に並べて、表面の具合を調整している時、外から叫び声が聞こえてきた。
「先生、おられますか」
 返事をするとすぐに戸が開き、見慣れない初老の男が飛び込んできた。伊助と名乗った白髪混じりの痩せたその男は、干上がった喉で、花伝の下で働いていると言った。新十郎は直ぐに気付の水を一口含ませた。
「落ち着いて話せ。どうした?」
「親分からの言付けで。すぐさま、亀戸の天神様へ、お願いします」
「何事だ?」
「立て篭もりが。乱心した侍で。子供たちが、連れて行かれた。お天という娘も、質にされちまって」
「お天が?」
 新十郎は立ち上がり、竹の刀を差し、竹丸を手に取った。
「どんな奴だ。手強いのか」
 伊助はおろおろしながら土間で足踏みをしていった。
「わしにはわからねえ。子供たちを守ろうとした若衆が、何人かやられた。お役人も呼んではいるが、親分は先生のお力が必要だと言っていなさる」
「すぐ行く。伊助は二軒奥の万作に伝えろ。お天ちゃんの父御だ」
「へい」
「万作は病気だ。心の臓に負担を与えぬように上手に伝えろ。それから、行くといっても絶対に、家から出すな。助けがいる時は長屋中のかみさん連中を呼び集めろ、いいな」
 それだけ言うと、新十郎は亀戸目指して、駆けた。駆け抜けた。
 この季節、亀戸天神は隣地の梅屋敷に梅見物に来た客の多くが亀戸天神の梅も見てから帰るため、人の流れが続き、境内には臨時に水茶屋が開いていた。
 その賑わいからひとつ離れた林の中に、亀戸天神で下働きをしている作男の作業用の小屋があった。天神祭りの時でも人の来ない、寂しげな場所のはずだった。しかし今、雰囲気が一変していた。花伝の若衆らしき者たちが、刺股や袖絡を手にして走り、遠巻きにした大勢の人が、口々に何かを言い合いながら集まっていた。
 人垣を掻き分けてみると、先日、花伝の裏口で見かけた若い男が、首筋を真っ赤な血に染めて、力のない呻き声をあげていた。斬った者の腕の凄さが一目でわかる見事な斬り口だった。この傷では、もう、助からないだろうと見えた。
「武内新十郎という。花伝の親分さんに呼ばれてきた。親分さんはどこだ」
 新十郎の言葉に、男が一人、伝えてくるといって走り出した。その横で、瀕死の男を介抱している男が、新十郎を見上げて、忌々しげに言った。
「侍と言い争いになった。二人ほど斬られたって騒ぎになって、店から大勢駆けつけたら、ここで遊んでた子供を攫っていきやがった。こいつは、子供を守ろうとして斬られたんだ」
「どんなやつだ、その侍は」
「幽霊みたいな気味の悪い男だった。力自慢がかかっていったが、いきなり脚を斬り落とされた」
 新十郎の脳裏に、伊坂左内が浮かんだ。思わず握り締めた手に、力がこもった。
 新十郎は野次馬を押し退けて、作業小屋に向かった。また一人、花伝の若衆らしき男が血に染まって倒れているのを、二、三人が介抱していた。新十郎は、それにはちらりと目をやっただけで、そのまま作業小屋の前に出た。
 伊坂左内は、お天を始め、攫った子を人質にしてその煤けた建物に立て籠もっている。取り囲んだ野次馬は、口々に、「刀を捨てて出てこい」、「子供に罪はない。放してやれ」、などと叫んでいたが、作業小屋の中からは、返事もなく、子供の泣き声すらも聞こえなかった。周囲の騒ぎを断ち切るような、重たく冷たい沈黙が垂れ込めていた。
 新十郎の脇に、足音もなく男が現れた。花伝だった。伏せた顔と甲羅のような背中が、静かな怒りに燃えていた。
「申し訳ございやせん。近寄れば子供を殺すと言ったきり、黙りこくったままで。お天坊はまだ、あの中に」
「私に、話をさせてくれませんか。中の侍に、心当たりがあります」
 花伝に、異存はなかった。新十郎は皆を下がらせると、一人で作業小屋の前に進み出た。
「先日、赤羽道場でお手合わせをした武内新十郎だ。その中にいるのは、伊坂左内殿であろうか」
 返事はなかったが、中で蠢く気配があった。
「二人だけで話がしたい。まず、子供を、放していただきたい」
 返事はなかった。沈黙が流れた。しかし新十郎は、静かに、じっと、作業小屋の前で待った。やがて。
 軋んだ音を立てて、作業小屋の扉がゆっくりと開いた。全身に返り血を浴び、一層、幽鬼のごとき姿になった伊坂左内が現われた。背後から、子供がまろび出てきた。その中に、お天の姿もあった。新十郎を見上げ、元気だと言いたいのか大きく頷いた。
 その時、野次馬の中から、何事か叫びながらよろめき出てきた人影があった。
 万作だった。長屋に留めておくことは出来なかったらしかった。両脇を伊助とお糸が支えていた。万作は、震える足で立ち、お天の名を繰り返し叫んだ。
 お天は、大きく手を広げている万作の手の中に、迷うことなく飛び込んでいった。伊坂左内は、右手の血に塗れた刀を用心深く構えたまま、大泣きし始めた万作を、じっと見つめていた。伊坂左内の瞳の奥に、淋しそうな、それでいて羨ましそうな複雑な影が過ぎったのを、新十郎は気づいた。
 その時、まわりの者たちが、人質がいなくなった伊坂左内に、一斉に飛び掛かろうとした。それに気づいた新十郎は、振り返ると、「お下がりくだされい」と、一喝した。皆の足が、思わず止まった。
「話をすると約束した。ここは私に免じて、さあ、お下がりくだされい」
 新十郎の肝の入った言葉に頷いた花伝が、若衆に命じ、野次馬を後ろへと下げた。それを確認してから、新十郎は、伊坂左内に向き直った。
「やはりあなたでしたか。なにがあったのかは知りません。ただ、あなたが子供を放してくれたことが私は嬉しい」
 伊坂左内は新十郎を見ると、静かに刀を構え直した。そして、かすれた声で、言った。
「主人を持たぬ侍ほど、惨めなものはない。お主も、そう思うだろう。主人を持たぬだけで、下衆どもにまで馬鹿にされ、蔑まれる」
「私は、そうは思わない」
「なぜだ。お主もその腕を持ちながら、潮臭いこの土地で朽ちていくのか。それでいいのか。悔しくはないのか。武士としての矜持は、ないのか」
 新十郎は伊坂左内から視線をそらさずに首を横に振った。そして、笑みを見せた。
「人の生き様は、武士だけのものではないと気づきましたから。どう生きようと、私は私なのだと気づいたのです。今では腰のものも竹となりましたが、心には、一片の曇りもありません」
 伊坂左内は、視線を地面に落とした。そして、心の底から搾り出すような、哀しい声で言った。
「お主のように、生きられたら。そう生きる勇気があったなら、もっと違っていたのだろうな」
 二人の会話を聞いている野次馬の中に、先程まで立ち込めていた殺気立った雰囲気が、何ともいいようのない不思議な思いに吹き消されていった。伊坂左内が、静かに言った。
「武内氏、と申したな。最後に、一手の御指南を、お願い申しする。得物は、その竹の杖でよろしいのか」
「この、武士を捨てた私の杖で、あなたの太刀筋を砕いて見せます」
 伊坂左内が初めて、新十郎に深々と頭を垂れた。新十郎は、その真意を汲み取って、ゆっくりと竹丸を正眼に構えた。伊坂左内もあわせて、血塗れた刀を正眼に構えた。
 時が、止まり、燃えた。次の瞬間。
 伊坂左内が、身体ごとぶつかってくるのと、新十郎の竹丸の先が、ぐっと天に向かって伸びたように見えた。
 声は、無かった。伊坂左内の剣は逆袈裟に斬り上げられたが、新十郎は間合いを見切り、皮一枚でかわした。
 本筋が、次の一刀だとわかっていた。天に駆けた伊坂左内の剣先が返り、雷撃となって新十郎の脛に打ち込まれた。
 竹丸が大気を斬った。横笛のうら哀しい音色にも似た風斬り音を引き、伊坂左内の剛剣を上空から襲い掛かった。
 振り下ろした刀で大地を斬った伊坂左内は、そのままその場に崩れ落ちた。新十郎の竹丸は、始めの一撃で伊坂左内の手首を砕き、返す二撃目で、喉を突いていた。
 伊坂左内の太刀筋に勝てたのは、新十郎の得物が、軽くしなやかでありながら緻密で堅い根曲がり竹の杖であるゆえに、打ち込みが鋼より鋭く、返しも軽快に扱えるためだった。伊坂左内もそれを悟っただろうと、新十郎にはわかっていた。武士の鋼が、武士を捨てた竹に負けたのだということを。
 崩れ落ちた伊坂左内に花伝たちが飛び掛かった。あっという間に高手小手に縛り上げていた。見事な縄術だった。
 さらに見事なことに、花伝は若衆を一喝し、身内をやられた怒りを無抵抗の伊坂左内にぶつけることは許さなかった。
 新十郎は、花伝が場を収め、深深とお辞儀をしてから後始末を始める様子を見つめていた。
「お見事でございました」
 新十郎の背中に声がかかった。徳市だった。
「さすが、お強い。竹の細工をお願いしていることが罪深いような気がしてまいりました」
 新十郎は、笑みを浮かべて答えた。
「私の生きる喜びであり糧であるものを取り上げないでください。ご注文の品は、近日中に作り上げます」
「それでは、楽しみにお待ち申し上げます」
 新十郎は決めていた。野次馬が去ってもなお、お天を抱きしめて泣き続けている万作の姿を見て。
「なあ、徳市さん。あの細工の代金があれば、万作さんをいい医者に見せることが出来ると思うんだ」
 徳市は、目を細め、何度も頷いていた。
 万作に付き添っているお糸が、新十郎を大声で呼んでいた。その隣で、お天が、新十郎に両手を伸ばし、素晴らしい笑顔を浮かべて、招いていた。


[了]
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感想 4

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みんなの感想(4件)

kooya
2025.02.05 kooya

読み終えてこれ程感動と健やかな気持ちになった作品は最近では2作目です。かずえさん作の"二人暮らし"同様に読み終えてしまうのが悲しくなります。素晴らしい物語を有り難うございました。

解除
滝久礼都
2024.08.17 滝久礼都

しみじみとした趣を感じる作品だと感心しました。
もう少し、行間に間合いを入れられたら、読みやすくなるのではないかなと思います。
時代や、人物の背景なども素敵です。また、時代もの書いていただきたいです。

解除
かきのはなぶさ

楽しんで読めた。kaki

解除

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