失われた記憶の先で、もう一度君と恋に落ちる。聖夜の教会で始まる、切ない恋物語。

久遠翠

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番外編「最初の一冊」

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(十歳の湊視点)
 病院の白い廊下は、消毒液の匂いがした。僕はそれが嫌いだった。お母さんに手を引かれながら、雫の病室の前に立つ。ドアを開けるのが、すごく怖かった。

 数日前、雫は事故に遭った。僕の目の前で。

 僕が意地悪なことを言ったからだ。引っ越すのが寂しくて素直になれなくて、「もう遊んでやらない」なんてひどいことを言った。泣き出した雫が道路に転がったボールを追いかけて、そこにトラックが来て……。

 思い出すだけで、心臓がぎゅっと縮む。

「湊、入るわよ」

 お母さんが、静かにドアを開けた。

 ベッドの上で、雫は上半身を起こしていた。頭に白い包帯を巻いている。顔色は少し悪いけど、見た目は元気そうだった。

「雫ちゃん、体調どう?」

 お母さんの言葉に、雫はこてんと首を傾げた。

「……はい、元気です。でも、あなたはどなたですか?」

 空気が、凍った。

 雫のお母さんが悲しそうな顔で言った。「この子はね、湊くんよ。覚えてない?」

 雫は僕の顔をじっと見た。そして、小さく首を横に振った。

「ごめんなさい。わかりません」

 頭を金槌で殴られたような衝撃だった。僕のことだけじゃない。事故のこと、それ以前のこと、全部忘れてしまったんだって、後から大人たちの話で知った。

 僕たちの約束も、忘れてしまったんだ。

『おとなになったら、毎年この教会で会おうね』

 そう言って小指を絡ませた時の、雫の笑顔。それも、全部。

 帰り道、僕は一言も喋らなかった。涙も出なかった。ただ、胸にぽっかりと大きな穴が空いてしまったみたいだった。僕のせいだ。僕が雫の大切な記憶を奪ってしまったんだ。

 自分の部屋に戻り、ベッドに突っ伏した。どうしようもない罪悪感と絶望感が、僕を押し潰していく。僕のせいで、雫の大切な記憶が……僕たちの約束が、消えてしまったんだ。

 それから数ヶ月、僕は抜け殻のようだった。そして、冬が来た。約束を交わした季節。事故以来、初めて迎えるクリスマス。その夜、僕は教会の前で一人で誰かを待っている夢を見た。

 雪が降っていて、すごく寒い。でも、僕はじっと待ち続けている。いつか、あの子が来てくれると信じて。

 目が覚めた時、頬が濡れていた。

 そうだ。終わってなんかいない。

 雫が忘れても、僕が覚えていればいい。僕が一人で約束を守るんだ。雫の記憶の代わりになるんだ。

 僕は机に向かい、新品のノートを開いた。

 鉛筆を握りしめ、来るはずのなかった約束の日付を記す。

『十二月二十五日。きょう、しずくはこなかった』

 これは僕の戦いだ。雫との約束を守り抜くという、たった一人の、長い長い戦いの始まり。

 僕は、毎年書き続ける。雫への手紙を。僕の想いを。

 いつか、彼女がこれを読む日が来ることを信じて。

 僕が全部覚えているから、大丈夫だよ、雫。

 最初の一冊。それは十歳の僕が立てた、世界で一番切なくて強い誓いだった。
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