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溶けゆく氷の仮面
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ウィリアムは、迷うことなく王宮の回廊を歩み進めていた。向かう先は、婚儀以来、指折り数えるほどしか訪れていない「夫婦の寝室」だ。重厚な扉を前にして、彼は一度だけ深く息を吐き、静かにノブに手をかけた。
その頃、ヴィクトリアは寝室のバルコニーに立ち、城下を見下ろしていた。夜風は心地よいはずなのに、彼女の胸中では、正体のわからない不安が渦巻いていた。
⋯しっかりしなさい、ヴィクトリア。あなたは生まれながらの王女。つまらない感情に流されてはだめよ。あなたはよくやってきたわ。それはこれまでも、そしてこれからも。リラ王女として完璧に生きてきた。そして、サザン王国の王太子妃としても……
自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど、心の中のざわめきは増していく。眼下に広がる城下の明かりが、まるで彼女の迷いそのもののように、緩やかに、そして弱々しく揺れていた。
「ヴィクトリア」
突如、背後の部屋の中から聞き慣れた声が響いた。
その瞬間、ヴィクトリアの心臓が跳ねる。彼女は揺れ動く心を必死に抑え込み、平静を装ってゆっくりと部屋の中へ足を踏み入れた。
「……どうされました。このような時間に」
声が震えないよう、細心の注意を払う。氷の仮面はまだ、辛うじてその形を保っていた。
「どうかしなければ、来てはだめなのかな? ここは、我々二人の部屋だよ」
ウィリアムはソファーに腰掛け、月光を背に受けて座っていた。驚くのも無理はない。形式上の夫婦を貫いてきたこれまで、彼がこんな時間にこの部屋を訪れ、ましてやこんな台詞を口にするなど、ヴィクトリアにとっては天変地異に等しい出来事だった。
「そんなに驚くことはないよ。確かに私は婚儀以来、ここへ頻繁に通ってはいなかったけれど……よくある物語のように、妻をないがしろにしたり、『お前を愛するつもりはない』なんて言った覚えもないよ?」
それは確かにその通りだった。ウィリアムは冷酷な政略結婚の常套句を口にしたことは一度もない。だが、言葉にせずとも、二人の間には見えない壁があったはずだ。ヴィクトリアはその矛盾を指摘したかったが、言葉にすることができなかった。
なぜなら、ただ彼がそこに居るというだけで、胸を締め付けていた不安がすっと軽くなっていくのを感じていたからだ。
「ヴィクトリア。私は、ようやく君と向き合うことができるようになった。だからこそ、君が誰の隣にいるべきなのか。誰の隣が一番心地よいのかを分からせるために、急いで来たんだけど……お邪魔だったかな?」
ウィリアムが少しだけ首を傾げて微笑む。
⋯まずいわ。表情が、溶けてしまいそう
ヴィクトリアは必死に顔を伏せ、溢れ出そうになる感情を食い止める。だが、ウィリアムは彼女の逡巡さえも楽しむかのように、さらに言葉を重ねた。
「我々は夫婦だよ。そんなつまらない仮面は、この場所にはふさわしくない。私は、素のままの君と向き合いたいんだ。君の隣にいる権利を持っているのは、他の誰でもない、私なのだから」
「……っ」
なぜだかわからない。ヴィクトリアの瞳から、大粒の涙が止めどなく流れ落ちていった。
⋯どうして? どうしたのかしら、私。完璧な王女でいなければいけないのに……
困惑し、涙を拭うことさえ忘れて立ち尽くすヴィクトリア。そんな彼女の震える肩を、ウィリアムは逃がさない。彼はゆっくりと立ち上がり、彼女の至近距離まで歩み寄ると、その華奢な体を優しく己の胸の中へと抱き込んだ。
冷たい氷の仮面が、彼の熱で音を立てて崩れ去っていく。ヴィクトリアは、ウィリアムの胸元でただ子供のように泣きじゃくることしかできなかった。
それは、長い間ひとりで背負い続けてきた「完璧」という名の重荷から、彼女がようやく解放された瞬間だった。
その頃、ヴィクトリアは寝室のバルコニーに立ち、城下を見下ろしていた。夜風は心地よいはずなのに、彼女の胸中では、正体のわからない不安が渦巻いていた。
⋯しっかりしなさい、ヴィクトリア。あなたは生まれながらの王女。つまらない感情に流されてはだめよ。あなたはよくやってきたわ。それはこれまでも、そしてこれからも。リラ王女として完璧に生きてきた。そして、サザン王国の王太子妃としても……
自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど、心の中のざわめきは増していく。眼下に広がる城下の明かりが、まるで彼女の迷いそのもののように、緩やかに、そして弱々しく揺れていた。
「ヴィクトリア」
突如、背後の部屋の中から聞き慣れた声が響いた。
その瞬間、ヴィクトリアの心臓が跳ねる。彼女は揺れ動く心を必死に抑え込み、平静を装ってゆっくりと部屋の中へ足を踏み入れた。
「……どうされました。このような時間に」
声が震えないよう、細心の注意を払う。氷の仮面はまだ、辛うじてその形を保っていた。
「どうかしなければ、来てはだめなのかな? ここは、我々二人の部屋だよ」
ウィリアムはソファーに腰掛け、月光を背に受けて座っていた。驚くのも無理はない。形式上の夫婦を貫いてきたこれまで、彼がこんな時間にこの部屋を訪れ、ましてやこんな台詞を口にするなど、ヴィクトリアにとっては天変地異に等しい出来事だった。
「そんなに驚くことはないよ。確かに私は婚儀以来、ここへ頻繁に通ってはいなかったけれど……よくある物語のように、妻をないがしろにしたり、『お前を愛するつもりはない』なんて言った覚えもないよ?」
それは確かにその通りだった。ウィリアムは冷酷な政略結婚の常套句を口にしたことは一度もない。だが、言葉にせずとも、二人の間には見えない壁があったはずだ。ヴィクトリアはその矛盾を指摘したかったが、言葉にすることができなかった。
なぜなら、ただ彼がそこに居るというだけで、胸を締め付けていた不安がすっと軽くなっていくのを感じていたからだ。
「ヴィクトリア。私は、ようやく君と向き合うことができるようになった。だからこそ、君が誰の隣にいるべきなのか。誰の隣が一番心地よいのかを分からせるために、急いで来たんだけど……お邪魔だったかな?」
ウィリアムが少しだけ首を傾げて微笑む。
⋯まずいわ。表情が、溶けてしまいそう
ヴィクトリアは必死に顔を伏せ、溢れ出そうになる感情を食い止める。だが、ウィリアムは彼女の逡巡さえも楽しむかのように、さらに言葉を重ねた。
「我々は夫婦だよ。そんなつまらない仮面は、この場所にはふさわしくない。私は、素のままの君と向き合いたいんだ。君の隣にいる権利を持っているのは、他の誰でもない、私なのだから」
「……っ」
なぜだかわからない。ヴィクトリアの瞳から、大粒の涙が止めどなく流れ落ちていった。
⋯どうして? どうしたのかしら、私。完璧な王女でいなければいけないのに……
困惑し、涙を拭うことさえ忘れて立ち尽くすヴィクトリア。そんな彼女の震える肩を、ウィリアムは逃がさない。彼はゆっくりと立ち上がり、彼女の至近距離まで歩み寄ると、その華奢な体を優しく己の胸の中へと抱き込んだ。
冷たい氷の仮面が、彼の熱で音を立てて崩れ去っていく。ヴィクトリアは、ウィリアムの胸元でただ子供のように泣きじゃくることしかできなかった。
それは、長い間ひとりで背負い続けてきた「完璧」という名の重荷から、彼女がようやく解放された瞬間だった。
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