遥香のはるかな海の歌

mitsuo

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 あっという間に一日が過ぎて、夜になった。
 いつもは眠っているような遅い時間。もちろん外を歩いている人は誰もいない。静まりかえった海ぞいの道には、遥香の足音と波の音だけが響いている。だけど空に上った大きな月のせいか、街灯の少ない町の中はやけに明るかった。
 竜宮へ旅立つ夜、お母さんはどんな気持ちでこの道を歩いたのだろう。そんなことを思いながら、遥香は手こぎボートのある浜辺のほうへ向かっていた。
「あれ?」
 だけど浜辺が見えてきた時、遥香の目には思いもよらない光景が映った。
 ちょうどボートのとめてある場所で、小さな光がゆれている。誰かがカンテラを持って立っているようだ。近づいてその正体が分かった時、遥香は大きな声で叫んでしまった。
「裕一!」
 カンテラの光に照らし出されている顔は、まぎれもなく裕一だった。遥香の声にふり向いた裕一は「よう」と言って片方の手を上げるが、表情は少し照れくさそうだ。
 今まで自分を無視していた裕一がなんでここにいるのだろう?しかもこんな日に…色々と不思議に思いながら、裕一に近づいていく。
 久しぶりに向かい合った裕一の最初の言葉は、遥香にとってますます意外だった。
「遥香、今までゴメン!」
 裕一はいきなりそう言って、遥香に頭を下げてきたのだ。今までとはまるで違う彼の態度に、遥香は目をぱちくりさせるしかなかった。
「ど、どういうこと?いやっ…ていうか、今までのはなんだったの?」
「それはあとでじっくり説明するよ。今はまず、それを運ばないといけないんだろう?」
 裕一の視線が、遥香がずっと抱えていたプラスチックのケースに向けられる。
「ミノリイシ、ちゃんと生まれたんだな」
 なんでもお見通しの裕一に驚きながらも、遥香は「うん」とうなずいた。
 そう。水槽の中のミノリイシはついさっき、無事にはじめての産卵を成功させたのだ。それを見届けた遥香は最初の課題をクリアしたことに喜ぶと、すぐに水の中に放たれたわずかな卵をケースに入れてここまで来たのだった。
「それじゃ、さっそく行こうぜ」
「あれ?裕一、海に出ても大丈夫なの?」
「今日は特別だよ。俺だっていちおう覚悟してここに来たんだ。さあ、早く乗って」
 裕一にせかされて遥香がボートに乗る。裕一はボートを波打ちぎわまで押し出すと、自分もそれに乗りこんだ。
 まだ不思議だったけれど、一人で出発するつもりだった遥香は正直ほっとしていた。
 裕一が全身を使ってオールをひとこぎするだけで、ボートはぐっと沖へ進む。久しぶりでも、裕一のこぐボートはやっぱり安心できると遥香は思った。
 だけどだいぶ岸を離れると、裕一はオールを動かすのをやめてしまった。
「どうしたの?」
「まあ見てなって」
 裕一はそう言うと、オールをボートの上に乗せてしまう。それでもボートは勝手に動き続けたので、遥香はびっくりして裕一を見た。
「ど、どういうこと?」
「潮の流れがいつもとちがうんだよ。ものすごく速い流れが湾に入りこんで、ぐるっとまわって岸に出て行こうとしているんだ。やっぱり、言い伝えは本当だったんだ」
 海を見下ろしながら、裕一がぽつりとつぶやく。そして状況が分かっていない遥香に説明した。
「遥香がさ、前に歌でミノリイシを光らせたことがあっただろう?その時に思い出した話があったんだよ。月浦の漁師の間ではずっと伝わっていた話で、俺も小さいころにお父さんから聞かされていたんだ」 
 どうやらそれが、今までの裕一の行動とも関係があるようだった。気になった遥香は前のめりになって裕一の声に真剣に耳をかたむける。
「何年かに一度の決まった周期で、こうして月浦湾の近くの潮の流れが変わることがあるんだって。その潮のことを漁師の間では『霊送り(たまおくり)』って呼んでいたんだ。海で亡くなった月浦の人の魂が、この流れに乗って竜宮に送られるんだって。月浦の竜宮伝説に出てくる迷いこんだ船も、この潮に流されたんじゃないかって言われてる。でも俺は前から、その話は本当なんじゃないかって思い続けていたんだ。そしてあのミノリイシの光を見た時に、まさかと思ったんだ。蛍の光みたいに幻想的だし、このサンゴの産卵にも周期があるだろ?だからあのあと、俺なりに調べてみたんだよ。年配の漁師さんに話を聞いたり、遥香のおじさんに質問したりして」
「ええっ!私のお父さんに?」
 裕一の口から意外な名前が出てきたので、遥香は思いきり目を丸くする。 
「うん。この町で竜宮伝説に一番くわしい人っていったら遥香のおじさんだし、かなり早いうちに質問したんだ。ちょうど遥香がマリンパークに行ってたころに家に電話して。そしたらおじさんの方でもなにかあったみたいでさ、申しわけないくらい真剣になって竜宮伝説のことを教えてくれたよ。わざわざ大学から早く帰ってきて、図書館や資料館にまで通って情報を分かりやすくまとめてくれたんだ」
「そ、そうだったんだ…」
 今の話で、遥香は最近のお父さんの行動の理由をやっと知ることができた。お父さんが真剣に竜宮伝説のことを調べなおしていたのは、裕一にきちんとこの伝説のことを教えるためだったんだ。
 でも、そうすると別の疑問が出てくる。どうして裕一のために、お父さんはそこまで熱心になったのだろうか?そのことをたずねると、裕一の目つきが急にするどくなった。
「それは遥香、お前のためだよ」
「え、私?」
 自分の顔を指さす遥香の前で、裕一は大きくうなずいた。
「そこまで真剣になってくれるとは思わなかったし、俺も図書館でおじさんから話を聞いた時に『どうしてそこまでしてくれるんですか?』って質問したんだよ。そしたら急に暗い顔になって『もしかしたら遥香が、今度の大産卵でその竜宮へ行ってしまうかもしれないんだ』って言い出してさ。俺もびっくりしたよ。そして色々と話してくれたんだ」
 お父さんは遥香が急に水族館を手伝い、ミノリイシを育てるようになった一年以上も前からうすうす心配をしていたらしい。そして大産卵が近づいていた六月、急にお母さんのことを聞かれたことで、その不安がさらに大きくなっていたようだ。
 その気持ちが裕一への行動とどう結びついていたのだろう?裕一は「改めてこの伝説を調べることで、自分の気持ちを整理したかったんじゃないか」と言っていたし、遥香も昨日のお父さんの行動を思い出すとそんな気がした。
 だけどその話にショックを受けていたのは、裕一も同じだったらしい。
「俺が遥香をさけてしまったのも、そのせいだったんだ。もしもそれが本当だったらって思うと辛くてさ。だったらいっそミノリイシに卵を生んでほしくないって思ったけど、熱心にがんばってる遥香を見てたらとてもそんなこと言えないし…それから遥香の前に立つと、気分がもやもやしてどうしたら良いのか分からなくなっちゃったんだよ」
 だけど今朝になって裕一は、今年は沖まで出て卵を放さないといけないという話を知らされた。いつものように防波堤で船を眺めているところに遥香のお父さんが来て、わざわざ伝えてくれたのだ。その時のお父さんは覚悟を決めたような、すっきりした顔をしていたという。
 それを聞いた裕一は自分にも力になれることがあると知り、今日だけは海に出ないという誓いを破って遥香を待つことにしたのだった。
 そんな事情をすべて話し終えた裕一はもう一度「ごめん」と言って頭を下げた。
「大丈夫。嫌われたわけじゃないって分かって安心したよ。それどころか、裕一が私をそんなに大事に思ってくれてたんだって思ったら、すごく嬉しかった」
「そう?そりゃあ…良かった」 
 遥香の言葉を聞いた裕一はなぜか顔を赤くして、恥ずかしそうに下を向く。またまた今まで見たことのない裕一の反応を目にして、遥香は首をかしげた。
(ちょっと、お二人さん!)
「きゃあっ!」
「うわっ!」
 急にボートの横からぬっと顔を出したメリーを見て、遥香と裕一は同時に叫ぶ。
「び、びっくりしたあ!こいつって、たまにマリンパークにいるイルカだよな?」
 言ったとたん、裕一の顔に豪快な水しぶきが飛んできた。
(だからぁ、私はイルカじゃないの!スナメリだってば!)
「この子はイルカによく似てるけど、スナメリっていう別の種類なの。まちがえるとこんなふうに怒るから、よく覚えておいて」
 裕一は遥香がすぐにメリーの通訳をしたのを聞いてまず驚き、次にメリーがうんうんと首をたてにふるのを見てさらに驚いた。
(仲良くお話もいいけど、遊びに行くわけじゃないんだからね?ほら、海の下を見て)
 カンテラの光を海にあててみると、すきとおった水の下には元山さんが話していたサカサクラゲやマンボウのほかにも、たくさんの魚やイカ、海ガメのシルエットまで見えた。みんな海流に乗りながら、ボートと同じ方向に泳いでいる。
 しかも、ボートが月浦湾を抜けて少ししたころだ。すぐ近くでゴオーッという大きな音が起こり、海からまっ黒い山のようなものがせり出してきた。
 大きな月の下に浮かび上がるそのシルエットは、一匹のクジラだった。ミンククジラという小型のクジラだが、大きさは一〇メートルに近い。二人を驚かせるには充分だった。
「たくさんの魚、イカに海亀、それにクジラ…すごいな。まるで海のパレードだ」
「うん。乙姫様が私のことを心配して、竜宮から送りこんでくれたんだって」
「へ、へえ…けっこう過保護な乙姫様なんだな」
 数もバリーションも必要以上な「お迎え役」の群れを目にして、裕一はすっかりあっ気に取られていた。クジラのお迎えまでは聞いていなかった遥香も、かくかくとうなずく。
「遥香はさ、その竜宮の乙姫様に会ったことってあるのか?」
「ないよ。だって乙姫様は、すごく遠くの海に住んでいるんだもの」
「そっか。そりゃそうだよなあ…でもさ、知らない遥香のためにここまでしてくれるって不思議じゃない?」
 確かにそうだと遥香も思う。だけどその理由は今もはっきりとは分からない。
 それくらい竜宮にはミノリイシが必要なのか。それとも、それくらい遥香を気にしてくれているのか…。もしも二番目のほうだったらと思うと、心の奥がぽっと温かくなる。会ったこともない乙姫様に、不思議と親しみを感じた。
 湾を出てからは、潮の流れはますます速くなっているようだった。流れにまかせるだけでボートはどんどん沖へと進み、あっという間に自分たちがどのあたりにいるのかも分からなくなってしまう。
 広い海の中をこんな小さなボートで進むなんて、かなり危険なことに違いない。だけど遥香は不安に思うどころか、いつもより落ち付いていた。
 下でたくさんの仲間が守ってくれているからだろうか?だけどこの安心感、それに遥香の胸をそっと包みこむような不思議な懐かしさは、それだけでは説明できないような気がした。
「なあ遥香、ミノリイシが卵を生むところ見れたのか?」
 オールをこぐ必要もなく、星空と海ばかりの景色にもさすがに飽きてきた裕一がたずねてきた。遥香がうなずくと、身を乗り出して「ミノリイシの産卵って、どういう感じなんだ?」とさらに質問してくる。
「すごくキレイだったよ。卵の入ったカプセルがポリプから飛び出して、すうっと水の中をのぼっていくの。まるで雪が空に向かって舞い上がっているみたいだった」 
 さっき見たばかりのミノリイシの産卵を思い出して、遥香はうっとりと目を細める。それくらい神秘的な光景だったのだ。
 それからもボートは海流に乗り、無限にも思われる大海原の中をたくさんの生き物と一緒に進み続けた。
 もう月浦どころか、日本からどれだけ離れたのか分からない…それくらい長い時間がたったころに、急にボートがぴたりと止まった。
「あれ、どうしたんだろう?」
 裕一はすぐにオールをこぎ始めたけれど、それでもボートは動かない。異常な状況に二人があわてていると、メリーがまた海の中から顔を出した。
(ここが今夜の旅のゴールだよ。お疲れさま)
「え?私たち、竜宮の近くまで来ちゃったの?」 
(ううん。竜宮があるのはもっと遠い場所なんだけど、ここまで来ればミノリイシの卵が海流からはぐれることもないだろうからって。それにここなら乙姫様の力も届くんだ。ボートが止まっているのはそのおかげなんだよ)
 遥香と裕一はぴくりともしないボートを見つめ、それから驚いた顔をメリーに向けた。
「じゃあ、これって乙姫様がボートを止めてくれているってことなの?」  
(そういうこと。さあ遥香、ここからがあなたの仕事だよ)
 メリーの言葉にうなずいた遥香は、ケースをかかえて立ち上がる。
 大きな月と星空に照らされた海はおだやかで、とても静かだった。
(お願い、歌って) 
「うん」
 遥香は深く息を吸いこみ、もう一度あの歌を歌う。するとケースの中のミノリイシのカプセルが、小さなとうろうみたいにぼおっと輝きはじめた。今は卵がまだカプセルにおおわれているから、光がいつもよりぼんやりとして見えるようだ。
 しかし、遥香たちの前に起こった出来事はそれだけじゃなかった。遥香が歌いだしたとたんに、海原に光がぱあっと広がりだしたのだ。それは夜空の満天の星空よりもまぶしくて、すごく幻想的だった。海の中をのぞきこむと、そこにはたくさんのミノリイシの卵のカプセルが輝きながら浮かんでいる。それを見て、二人はまた目を丸くした。
「どうして?自然のミノリイシは、絶滅したんじゃなかったの?」
(野生のミノリイシは、絶滅なんてしてないよ!)
 そんな遥香の疑問を聞きつけて、海の中からメリーがにゅっと顔を出した。
(確かに月浦湾は人間に知られている中ではたった一つのミノリイシの生息地だったけれど、世界にはまだ見つかっていないミノリイシの暮らす場所があるんだ。色々なところで生まれたミノリイシのカプセルはこの海流で合流して、一緒に竜宮を目指すんだよ)
「そうだったんだ!」
 自然のミノリイシが世界のどこかで生きていると知り、嬉しくなった遥香は自然と笑顔になった。
(覚えておくといいよ。世界は人間が思っているよりもずっと広いんだ。しかも、そのほとんどが海なんだから!)
 メリーの言葉に遥香も大きくうなずき、今度はより多くのミノリイシたちのためにと一生懸命に心をこめて歌い始める。
 だからその時はまだ、遥香は自分に起きている不思議な現象に気がついていなかった。
「は、遥香…どうしたんだ?」
「え、なにが?」
「『なにが?』って…気付いてないのか?お前の顔、すごいことになってるぞ」
 裕一の表情は真剣だった。それを見てあわてて水に自分の姿をうつした遥香も、驚きに目をみはる。海面に浮かんだ少女の顔が、すぐには自分だと信じられないくらいだった。
 海面にうつる遥香の髪は水槽のミノリイシのようにピンク色に輝き、瞳の中でも小さな光が夜空の星のようにまたたいていた。
 自分の変化に驚く遥香だったけれど、お父さんから聞いた話を思い出してはっとする。お父さんはあの時「大産卵の夜のお母さんも、こうして髪と瞳が光っていた」と言っていた…。
(遥香…)
 その時だ。遥香は誰かに名前を呼ばれたような気がして、さっと顔を上げた。
 メリーでも裕一でもない。だけど遥香には、確かに聞いた覚えがある声だった。
 海の中では遥香が歌をやめたあとでもミノリイシのカプセルが光り続けている。彼らがゆっくりと流れていく方角から、あの声は聞こえてくるようだった。
 呼んでいる…そう直感した遥香は、すっと右足をふみ出した。
「おいっ!遥香!」
 遥香が右足をボートのへりに乗せたのを見て、裕一がびっくりした声をあげる。
「なにやってるんだよ!泳げないんだから、落ちたらどうするんだ?」
「そうだよね。でも、なんだろう…大丈夫みたいな気がするんだ。それにね、誰かが遠くから呼んでいるみたいなの」
 遠くを向いたままこたえる遥香を見て、裕一はますます不安そうな表情を浮かべる。裕一も聞いていたのだろう。遥香のお母さんもこうして海に入り、二度と戻って来なかったことを。
「大丈夫。私、絶対に帰ってくるから」
 ふり返った遥香はそう言うと、裕一ににっこりと笑いかける。
「家を出る時に、お父さんにもそう言ったの。だから見送りにも来なくて大丈夫だって」
 必ず帰るから。その言葉をもう一度くり返すと、遥香は左足をボートの外へふみ出し、海に飛びこんだ。
 海に入った瞬間、遥香の全身をピンク色の光が包みこむ。その光に守られているからなのか、濡れているような感覚も寒さもない。それどころか、もぐっているのに少しも苦しいと思わない。水の中にいるという恐怖が、ここでは少しも感じなかった。
 大海原の真ん中にいるのかと思いきや、遥香たちのボートが浮かんでいたのは水深が一〇メートルにもならないくらいの、それほど深くない海の上だった。遥香の体はまっすぐ沈んでいき、静かに海底におり立った。
 遠くに目をこらしてみると、ミノリイシの光で照らされた海底はどこまでも真っ白な砂に覆われていた。遥香の知っている海とは、明らかに何かが違っているような気がする。
 遥香の頭上にはお迎え役をつとめてくれたたくさんの生き物たちがその場にとどまってくれている。普通なら絶対に見ることができない生き物の共演に目を奪われていると、彼らの間をぬってメリーが近づいてきた。
(遥香、みんなはそろそろ帰るから。お礼を言って)
(分かった。えっと…みなさん、今日はどうもありがとうございました)
 遥香がていねいにお礼を言って頭を下げると、お迎え役の生き物たちはそれぞれ胸ビレや尾ビレを動かしたりして返事をする。
 それからすぐに、彼らの体がぼおっと輝きはじめた。蛍光色の緑に黄色、青…それぞれの色は違うけれど、その淡い感じはミノリイシによく似ている。彼らはあっという間に光の粒へと姿を変えてしまい、ミノリイシの卵たちと同じ方角へ消えていった。
(ここにいたお迎え役たちはみんな、竜宮に暮らしている生き物の魂だったんだよ。今日のために、特別に月浦まできてくれたんだ) 
(へえ…そうだったんだ) 
 見送るように、彼らの消えていった先をしばらくながめていた遥香。だけどふと、自分の体にまた不思議な現象が起こっていることに気がついた。
(ねえメリー。私、さっきから水の中で口も開けていないのに、普通にメリーとお話してるよね?)
(それは遥香が心で私たちと会話ができるようになったからだよ。ミノリイシの大産卵と一緒に、遥香の中に眠っていた能力もどんどん開花していってるんだ)
(そうなんだ…それって私が、お母さんに近づいているってことなのかな)
(そういうことかもね。さあ遥香、いよいよだよ。ミノリイシを海にはなって)
 遥香はこくりとうなずくと、ケースのふたを開いて上にかかげた。
 マリンパークで生まれたミノリイシのカプセルはケースを離れ、海面を流れる仲間たちに近づいていった。遥香は彼らのために、今度は心の声で歌をおくった。この歌を心に抱いて、無事に竜宮へたどりつけるようにと願って。
 するとその歌にこたえるように、昇っていたミノリイシのカプセルが急にはじけた。中からは一〇個ほどの卵が飛び出し、海の中に強い光を放つ。
 それからは遥香の歌に誘われるように、海面を流れていたカプセルからも次々と卵が飛び出していった。あっという間に遥香の上は無数の光に彩られて、満天の星空よりも強く美しい光が海底にふりそそぐ。遥香にはその光が、前にメリーが話していたミノリイシたちの「生きようとする心」が目覚める瞬間のように見えた。
(遥香)
 光の下で歌い続ける遥香の耳に…というよりも心の中に、再び誰かが呼ぶ声が聞こえてきた。
 水の中にいるせいなのか、さっきよりもクリアに聞こえる。おかげで今度はその声の主が誰なのか、はっきりと分かった。遥香は歌を止めて、心の中で思い切り叫んだ。
(お母さん!)
(良かった!遥香、気付いてくれたのね)
 遥香に呼ばれると、かえってくる声も高く弾んだ。それはまちがいなく、家で一緒にお話をしている時のお母さんの声。遥香の心の中は懐かしさと驚きでいっぱいになった。
(お母さん、近くにいるの?会いたいよ!)
(ごめんね。私は遥香のいる場所とはすごく離れたところにいるの。そこには声や力を届けるのが精一杯で、今すぐ会いにいくことはできないのよ)
 それを聞いた遥香はがっくりと肩を落とす。だけどすぐに何かに気がついた遥香は(え?)と驚いた声を出して、遠くを見た。
(お母さんがここまで力を届けてくれているの?じゃあ、上でボートを止めてくれているのもお母さん?)
(ええ、そうよ)
 さっきのメリーの言葉を思い出す。遥香はもしかしてと思い、お母さんにたずねた。
(それじゃあ、乙姫様っていうのはひょっとして…お母さんのこと?)
(うん)
(えええっ?)
(あれえ?遥香、知っているんじゃなかったの?)
 遥香が激しく驚いていると、近くで話を聞いていたメリーが口をはさんできた。
(昨日私がその話をしようとしたら、遥香は「もう知ってる」って言ってたよね?)
 確かにそうだけど、遥香がお父さんから聞いていたのはお母さんが自分から竜宮に行ってしまったことまでだ。まさかお母さんが乙姫様だとまでは思ってもみなかった。 
 でも、それを聞いてなるほどと納得したこともある。この場所へ近づくうちに懐かしい気持ちになっていったのは、お母さんを強く感じるようになっていたからだったんだと。
 それに、やけにたくさんのお迎え役を月浦に呼んでくれた理由も分かった。遥香がくすっと笑うと、お母さんが(急にどうしたの?)と聞いてきた。
(ごめんね。私のお友達に梨華ちゃんっていう子がいるんだけど、その子のお母さんのこを思い出したの。すごく過保護なお母さんなんだけど、私のお母さんも同じなんだなあって思ったら、おかしくなっちゃった)
(あら?お母さん、そんなに過保護だったかしら)
 お母さんが竜宮できょとんとしている姿が、はっきりと想像できそうな声だった。こんなお母さんが今はすごくえらい乙姫様だと思うと、なんだかおもしろくなってくる。
 それから遥香は夢中になって、短い時間のうちにお母さんに色々なことを伝えた。元山さんも元気で、相変わらず一人でマリンパークの生き物を守っているということ。山の上に大きなお屋敷ができて、そこに暮らしているのがさっき話した梨華ちゃんの家族だということ。そして、お父さんが寂しがっていたということ…お母さんはそんな遥香の話の一つ一つに返事をしてくれたけど、お父さんの話だけは黙りこんだきりだった。
(だからさ、お母さん…私は月浦に帰らないといけないの。あそこにはお友達もいるし、お父さんも一人ぼっちにしたくないから)
(そうだよね。大丈夫、今日は遥香を竜宮へ連れて行くために呼んだわけじゃないの。ミノリイシの卵もしっかり運んでもらったし…それにね、実はわざわざここへ来てもらったのは、遥香の中にある力を開花させてほしかったからでもあるのよ。遥香にはその力で、月浦のミノリイシをよみがえらせるためにもっとがんばってほしいの)
(そうだったんだ。分かった!私、がんばるね)
 お母さんの言葉に、遥香は力強く返事をした。それを聞いたお母さんの優しげな笑い声が、静かな海の中に響いている。
 それから遥香はミノリイシの卵たちのために、力いっぱい歌い続けた。天の川のようにきらめく海流の下では、時間の流れもめまぐるしいように思えた。
 やがて最後の卵の光が見えなくなると、遥香の足がふっと海底をはなれた。ここを去る時が来たらしい。水面へゆっくりと昇りはじめた遥香の心の中に、再びお母さんが語りかけてくる。
(今日はありがとう。お話できて嬉しかったわ。それに…お父さんのこと、よろしくね) 
(うん。ねえお母さん、また会えるかな?)
(会えるよ。それに遥香、寂しくなったら思い出してね。遥香はいつも一人じゃない。だって海では、すべての命は…)
 つながっているんだから。お母さんの最後の声は、すっかり暗くなった海の中へ消えていくようだった。
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