ニンゲン動物園

神乃マニ

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生き場がない

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 鳥、ライオン、象……どうやらこの動物園には、恐ろしい数の動物たちがいるようだ。入口の看板とは裏腹に、えらく殺風景な園内は、まるで煙たく濁った泥水のように見えてくる。
 か細い砂利道の両脇に並んだ、鈍く光る黒い檻。その中には人間をやめていった動物たちが囚われている。皆、全てを忘れたような、虚ろな目をしていた。何も映し出さない、ぼんやりとした眼差し。動物の種類は違うはずなのに、そのどれもかもが同じように見える。
 この妙な空間に迷い込んでからずっと思っていたが、なぜこの世界はこうも悲愴感に包まれているのだろう。もしかしたら、ありがとう、おはよう、いってきますなどの前向きな言葉よりも、すみません、さよなら、いらないなどの後ろ向きの言葉の方がこの世界では多く使われているのかもしれない。全てが平坦で、新しさを忘れてしまった場所。この世界には希望などまるで存在しないのだろう。
 私はつまらない美術品でも眺めるかのように、山下の後ろを追った。どうせこの先何を見たところで、同じようなものしかないのだ。とても退屈である。四方八方、どこを向いても見えてくるのは色彩のない、モノクロの世界。ここにいると、生きているのか死んでいるのか分からなくなる。
だがそんな予想とは裏腹に、しばらく歩くと、他とは違う檻を見つけた。黒いベールで覆われたその檻は動物を直接見ることは出来ず、中の動物の影だけが見えるというものだった。人間……いや、動物だ。狐?それとも虎だろうか?まるで昔話などに登場する、鵺のような化け物に見える。
 何にもなることはできず、結局どっちつかずの姿をしたこの化け物を見て私は、自分を見ているような気分になった。彩のような、個性を持つ人間にもなることもできず、何もない、空っぽな自分。世の中の普通に尺度を合わせて生きてきた自分。なんてつまらない生き方をしてきたのだろう。
 もしかしたら山下の言う通り、確かに逃げ出したいと顔に書いてあるのかもしれない。せぐりあげるかのように、急に涙が出てきた。意味なんて分らない。いや、意味なんてないはずなのに、はらりはらりと涙が零れおちる。ああ、こんなのだから、私は何者にもなれないのだろうか?結局は必死に磨いた努力もおべっかも、みんな大したものじゃなかったに違いない。
「ほんと、なんで人間というのはこうも面倒な生き物なんでしょうかね。出来る範囲は人それぞれだというのに、総て同じ物差しで測ろうとするなんて、全く可笑しな話ですよ」
 山下は私の様子を見て悟ったのか、諦観するようにそう告げた。するとその時、遠くでカラスが鳴いたような気がした。しわがれた声が、まるで動物園全体を包み込むように響きわたる。負の空気で、胸が押しつぶされそうだ。
「つまり、当たり前ができない奴は負け組み……そういうことか……」
 私はそう言うと、自分の右手の親指を強く噛んだ。別に気が狂った訳ではない。ただ、こうすることでこのやり場のない感情を拭いされる気がしたからだ。柔らかい肌を突き抜けた白い刃を伝って、暗赤色の液体がじんわりと流れ出す。だが、血をいくら体から雪ぎだしたところで、私が拭い去りたいものは一向に出ていく気配はない。
 彩も、こんな気持ちだったのだろうか?私が見えてなかっただけで、実は彩もこんな風に悩んでいたのかもしれない。
「……なにか、気付いたようですね。まあ、人生に逃げるも逃げないもないですよ。どう生きるかはあなた次第です。逃げたら負け、なんてことはありませんから」
「そんなもの、ですかねえ……」
 私は血まみれの唇で吐き出すように呟いた。無気力に言い放った言葉が梵鐘のように、耳殻の内側でこだまする。山下はそんな私の様子をよそに、手首に巻いた腕時計を見ながら次の言葉を続けた。
「ところで、感傷に浸っているところ悪いのですが、閉園時間が迫っているのでここで見学は終了ですね。急かすようで悪いのですが、どうです?決まりましたか?」
 私は山下のこの態度に少し腹立たしかったが、慣れてきたせいか、そこまで癪に障るほどでもなかった。泣きすぎて涙が枯れてしまうのと同じなのだろうか。自分の気持ちに諦めがついた私は、山下のことなどもうどうでもよかった。
 季節は春だというのに、頬を突き刺すような冷たい風が、動物園の入口の方から吹いてくる。私は決心したかのように親指の血を拭うと、風の吹く方向へ一歩踏み出した。別に気持ちが前向きになった訳でもないが、やはり今この場所に自分は居るべきではないと思ったからだ。
……もしかしたら彩は、このことに気付かせるため、私に手紙を送ってきたのかも知れない。
「やっぱり、何者になれなくても人間として生き直そうと思います。生きるのが下手でも、それなりに生きる方法くらいはあると思うので」
 私はそう告げると、今までとは違った足取りで歩きだした。入口と出口は同じだ。このまま進めば、またやり直すことができる。
「はあ……そうですか、残念です。でも、あなたがそれを正しいと思うなら、きっとそうなのでしょう。答えは一つだけとは限りませんからね」
 残念と口にしつつも全くその素振りを見せない山下はそう言うと、初めて会った時の、あのつかみどころのない笑みを浮かべて私の後ろ姿を見送った。そして、私が動物園から出たのを確認すると顎に手を当て、ぽつりと呟いた。
「さようなら、人間の美咲さん。せいぜい、化け物にならない未来を選んで下さいね……」
 山下の声に反応してか、檻の中で化け物がかなしげな鳴き声をあげた気がした。
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