堕落夫とは本日限りで離縁致します

遠野エン

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転生令嬢は結局何もしなかった

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エリナに話しかけることも、侮辱することも、教科書を隠すことも、薬草実習で毒草と入れ替えることもしなかった。

教室でエリナが転びそうになっても、手を差し伸べることも突き飛ばすこともしない。ただ、自分のページから目を離さず、静かに本をめくる。

寮でエリナが涙ながらに「婚約者様が……」と愚痴るのを聞きつけても、耳を澄ますこともしなければ、慰めの言葉を挟み込むこともしない。通り過ぎる足音をただ通り過ぎさせるだけ。

アルベルトがエリナを庇うかのようにマリアンヌを睨みつける日々が続いたが、彼女は特に弁解も、皮肉のひとつすら返さなかった。ただ、少し眠そうな目で彼を見返すだけ。

周囲の令嬢たちは奇妙な居心地の悪さを覚えた。

悪口を吹き込もうとする者は、マリアンヌが興味なさげに紅茶を飲みながら「そう」とだけ言って話を切るので、長々と焚きつけることができない。側近たちが「マリアンヌ様がこんなことを!」と誇張した噂を流そうとしても、目撃者がいないため話はすぐに尻すぼみになった。

とはいえ、物語の「主役」を自認する者たちはそんな違和感を都合よく解釈した。

「陰湿な女だ。表には出さないが、裏で何かしているに違いない」「婚約者から冷遇されているくせに、まったく抗おうとしない。腹が読めなさすぎる」

そして、何もしていないマリアンヌの「影」を、彼ら自身の恐怖や後ろ暗さで勝手に膨らませていった。



学園二年の冬。

本来の筋書きでは、この頃にはマリアンヌの悪行リストが山のように積み上がっているはずだった。

ところが実際はどれもこれも証拠のない「噂」の域を出ない。

書庫でエリナの教本が破られていた事件では、当のエリナが「これは落として自分で踏んでしまっただけ」と泣きながら説明した。薬草実習の毒草混入騒ぎでは監督教員が「そもそも毒草は保管室から出されていない」と記録を示し、一日でうやむやになった。

ある日、エリナは親友の一人に涙ながらに打ち明ける。

「私……マリアンヌ様に何もされていないんです。本当に、何も……優しくもされていないけれど、意地悪もされていなくて……」
「でも、婚約者様は? 殿下はマリアンヌ様が陰であなたを虐めていると……」
「殿下はそう思っておられるみたい。でも……私にはそれを肯定する勇気が出ないんです」

彼女は誰よりも知っていた。マリアンヌはいつでも「何もしない」。

助けてくれることもないが傷つけることもない。視線が合えば礼儀正しい微笑みを返すが、その笑みに感情らしきものはほとんど含まれていない。それは氷でも炎でもなく、ただ「温度がない」。

その不在の温度がエリナにとっては何より恐ろしかった。

なぜなら彼女の心の中には別の温度があったから。

エリナは貧民街から聖属性魔力を買われて王都に引き取られ、「聖女」として育てられた少女だった。救いの象徴として持ち上げられ、神殿や貴族たちから期待と崇拝を向けられる一方、同じ出自の友を簡単に切り捨ててきた自覚がある。

言い寄る貴族子息たちをさりげなく利用し、取り巻き同士を争わせて自分に都合の良い人間だけを残し、見捨てた人間がどんな顔をして消えていったか――それらをエリナは忘れていない。

本当は自分こそが一番「悪役」的な立ち回りをしているのではないか、その不安がマリアンヌの「無関心さ」によって静かに浮き彫りにされていく。

(あの人は私を見ていない。それなのに、私だけがあの人を「悪役」に仕立て上げようとしている)

エリナは自分の心の醜さを知っていた。だからこそ、この物語が用意した「悪役令嬢」という役を彼女はマリアンヌに押し付けたかった。

……がマリアンヌはその役を受け取ろうともしない。

ただ黙って、自分の席に座り、自分の本を読んでいる。

――何もしない。

その事実はエリナにとって、誰かに呪詛を吐くよりもよほど耐え難い拷問だった。
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