39 / 44
第6章 桜の花の咲く頃に
1月30日(水) 晴れ 1
しおりを挟む
「芽衣ちゃん!」
北風の吹く夕暮れ。今日もパン屋さんに向かって急いで歩いていたら、思いがけない人に声をかけられた。
「芽衣ちゃんだよね?」
振り返ると、そこに立っていたのは、あの詩織さんだった。長かった髪が、ばっさりと短くなっている。こんなこと思ったら失礼かもしれないけど……前よりなんだか、かわいらしい。
「元気だった?」
「はい」
「これからさくらさんのお店に行くのかな?」
「そうです」
「私も! 一緒に行こう」
詩織さんがそう言って、嬉しそうに微笑む。
聞けば詩織さんは実家に用事があって、今この町に着いたばかりなのだそうだ。
「芽衣ちゃん、三年生だったのかぁ。もうすぐ受験?」
「はい」
「どこ受けるの?」
私が高校名を告げると、詩織さんはさらに明るい笑顔になった。
「そこ、私が卒業したとこだよ!」
「え、そうなんですか?」
「うん! そうかぁ、芽衣ちゃん、私の後輩になるのかぁ」
「……受かったらですけど」
「受かるよ! 絶対大丈夫!」
そう言って笑う、詩織さんを見つめる。
そうか。じゃあ詩織さんも、あの高校の制服を着てたんだ。制服を着て、学校帰りに、さくらさんのパン屋さんに寄ってたんだ。音羽くんが小学生だった頃。
「そういえば、音くんも私の後輩なんだよね」
そこまで言って、詩織さんは意味ありげな表情で私を見る。
「もしかして芽衣ちゃん。音くんに憧れて、同じ高校受けようとしたとか?」
私の頬が勝手に熱くなる。
いや、べつに、変な意味はないから。音羽くんの頑張ってる姿に憧れて、私も同じ高校に行きたいって思ったんだ。
そして私は考える。もしかして音羽くんも詩織さんに憧れて、あの学校を選んだのかな。それはちょっと、考えすぎかな……。
「あれ?」
坂道の途中で詩織さんが立ち止まる。
「あそこにいるの、音くんじゃない?」
詩織さんの視線の先を追いかけると、北風の吹く誰もいない公園のベンチに、音羽くんがひとりでぼんやりと座っていた。
「おーとくん!」
詩織さんに引っ張られて、ふたり一緒に音羽くんの前に立つ。一瞬驚いた顔をした音羽くんは、すぐに顔をしかめて、私たちの顔を見比べた。
「なんでいるの?」
「冷たいなぁ、その言い方。せっかく音くんに会いに来てあげたのに」
「嘘つけ。それになんだよ、その髪型」
「前のほうがよかった? 男ってみんなそう言うよね。長い方がよかったって」
詩織さんはくすくすと笑っている。
音羽くんは私たちから顔をそむけ、はあっと深くため息をつく。
どうしたんだろう、音羽くん。ここで何しているんだろう。いつもだったら、真っ直ぐ家に帰るはずなのに。
「もしかして音羽くん……またさくらさんと喧嘩したの?」
音羽くんはふてくされた表情でなにも答えようとしない。そんな音羽くんの顔をのぞきこむように、詩織さんが言う。
「え、さくらさんともめてるの? それで拗ねて、いじけて、こんなところにいるんだ? 子どもみたい」
「うるせぇな。ほっとけよ!」
音羽くんが怒った。けれど詩織さんは全く動じず、やっぱり笑っている。
さすがだな。六歳上のお姉さんには余裕がある。反対に音羽くんはますますイラついて、本当に子どもみたいだ。
「でもさ、いいんじゃないの? お母さんとは気が済むまでやりあえば。うちはそういうの、なかったからさ」
詩織さんが視線を遠くに向けてつぶやく。
「母のことはずっと恨んでいたくせに、私はその気持ちをぶつけることができなかった。ぶつけられないまま、亡くなっちゃった。でもさ、言いたいことは言っちゃえばよかったかななんて、今になっては思うんだよね」
ふっと笑った詩織さんが空を仰ぐ。空はゆっくりとオレンジ色に変わりはじめている。それを見上げる詩織さんの頬も、同じ色に染まっていく。
私はちらりと音羽くんを見た。うつむいていたはずの音羽くんが顔を上げて、そんな詩織さんの横顔を見ている。
胸が、きゅっと痛んだ。
「だからさ」
急に詩織さんが視線を下ろす。音羽くんはさりげなく目をそらしている。
「さくらさんとは、どんどん喧嘩してもいいと思うよ?」
「うるさいな。ほっとけって」
「でもこれだけは、忘れないで」
詩織さんは音羽くんを無視して続ける。
「さくらさんは誰よりも、音くんを大事にしてるよ?」
音羽くんは黙っていた。
ひゅうっと冷たい風が公園の中に吹き込み、詩織さんの短い髪がさらっと揺れた。
「さむっ、早くさくらさんのところに行こう」
詩織さんが私に笑いかける。
「ほら、音くんも、帰ろう? こんなところにいつまでもいたら、凍え死ぬよ?」
「……あとでいく」
「強情だね。じゃあ芽衣ちゃん、行こ? こんな子、ほっといて」
詩織さんが歩き出す。私はちらりと音羽くんを見てから、詩織さんのあとを追う。
「あ、そうだ」
音羽くんに背中を向けたまま、突然詩織さんが立ち止まった。
「言い忘れてたけど……私、海外に行くことになったから」
「海外?」
思わず口に出した私の声と、音羽くんの声が重なった。
「うん。だからまた当分、さくらさんのパンは食べられないな」
「当分って?」
顔を上げた音羽くんが聞いた。
「三年か、五年か……それとももっとか……」
「なんで? なにしに行くんだよ?」
音羽くんが立ち上がる。詩織さんはゆっくりと振り返り、そして音羽くんの顔を見て、静かにつぶやいた。
「実はずっと前から、海外赴任の話をもらっててね」
「海外赴任?」
詩織さんがうなずく。
「やっと決めたの。自分で一歩、踏み出してみようって」
詩織さんは私たちの前で、穏やかに微笑んだ。
北風の吹く夕暮れ。今日もパン屋さんに向かって急いで歩いていたら、思いがけない人に声をかけられた。
「芽衣ちゃんだよね?」
振り返ると、そこに立っていたのは、あの詩織さんだった。長かった髪が、ばっさりと短くなっている。こんなこと思ったら失礼かもしれないけど……前よりなんだか、かわいらしい。
「元気だった?」
「はい」
「これからさくらさんのお店に行くのかな?」
「そうです」
「私も! 一緒に行こう」
詩織さんがそう言って、嬉しそうに微笑む。
聞けば詩織さんは実家に用事があって、今この町に着いたばかりなのだそうだ。
「芽衣ちゃん、三年生だったのかぁ。もうすぐ受験?」
「はい」
「どこ受けるの?」
私が高校名を告げると、詩織さんはさらに明るい笑顔になった。
「そこ、私が卒業したとこだよ!」
「え、そうなんですか?」
「うん! そうかぁ、芽衣ちゃん、私の後輩になるのかぁ」
「……受かったらですけど」
「受かるよ! 絶対大丈夫!」
そう言って笑う、詩織さんを見つめる。
そうか。じゃあ詩織さんも、あの高校の制服を着てたんだ。制服を着て、学校帰りに、さくらさんのパン屋さんに寄ってたんだ。音羽くんが小学生だった頃。
「そういえば、音くんも私の後輩なんだよね」
そこまで言って、詩織さんは意味ありげな表情で私を見る。
「もしかして芽衣ちゃん。音くんに憧れて、同じ高校受けようとしたとか?」
私の頬が勝手に熱くなる。
いや、べつに、変な意味はないから。音羽くんの頑張ってる姿に憧れて、私も同じ高校に行きたいって思ったんだ。
そして私は考える。もしかして音羽くんも詩織さんに憧れて、あの学校を選んだのかな。それはちょっと、考えすぎかな……。
「あれ?」
坂道の途中で詩織さんが立ち止まる。
「あそこにいるの、音くんじゃない?」
詩織さんの視線の先を追いかけると、北風の吹く誰もいない公園のベンチに、音羽くんがひとりでぼんやりと座っていた。
「おーとくん!」
詩織さんに引っ張られて、ふたり一緒に音羽くんの前に立つ。一瞬驚いた顔をした音羽くんは、すぐに顔をしかめて、私たちの顔を見比べた。
「なんでいるの?」
「冷たいなぁ、その言い方。せっかく音くんに会いに来てあげたのに」
「嘘つけ。それになんだよ、その髪型」
「前のほうがよかった? 男ってみんなそう言うよね。長い方がよかったって」
詩織さんはくすくすと笑っている。
音羽くんは私たちから顔をそむけ、はあっと深くため息をつく。
どうしたんだろう、音羽くん。ここで何しているんだろう。いつもだったら、真っ直ぐ家に帰るはずなのに。
「もしかして音羽くん……またさくらさんと喧嘩したの?」
音羽くんはふてくされた表情でなにも答えようとしない。そんな音羽くんの顔をのぞきこむように、詩織さんが言う。
「え、さくらさんともめてるの? それで拗ねて、いじけて、こんなところにいるんだ? 子どもみたい」
「うるせぇな。ほっとけよ!」
音羽くんが怒った。けれど詩織さんは全く動じず、やっぱり笑っている。
さすがだな。六歳上のお姉さんには余裕がある。反対に音羽くんはますますイラついて、本当に子どもみたいだ。
「でもさ、いいんじゃないの? お母さんとは気が済むまでやりあえば。うちはそういうの、なかったからさ」
詩織さんが視線を遠くに向けてつぶやく。
「母のことはずっと恨んでいたくせに、私はその気持ちをぶつけることができなかった。ぶつけられないまま、亡くなっちゃった。でもさ、言いたいことは言っちゃえばよかったかななんて、今になっては思うんだよね」
ふっと笑った詩織さんが空を仰ぐ。空はゆっくりとオレンジ色に変わりはじめている。それを見上げる詩織さんの頬も、同じ色に染まっていく。
私はちらりと音羽くんを見た。うつむいていたはずの音羽くんが顔を上げて、そんな詩織さんの横顔を見ている。
胸が、きゅっと痛んだ。
「だからさ」
急に詩織さんが視線を下ろす。音羽くんはさりげなく目をそらしている。
「さくらさんとは、どんどん喧嘩してもいいと思うよ?」
「うるさいな。ほっとけって」
「でもこれだけは、忘れないで」
詩織さんは音羽くんを無視して続ける。
「さくらさんは誰よりも、音くんを大事にしてるよ?」
音羽くんは黙っていた。
ひゅうっと冷たい風が公園の中に吹き込み、詩織さんの短い髪がさらっと揺れた。
「さむっ、早くさくらさんのところに行こう」
詩織さんが私に笑いかける。
「ほら、音くんも、帰ろう? こんなところにいつまでもいたら、凍え死ぬよ?」
「……あとでいく」
「強情だね。じゃあ芽衣ちゃん、行こ? こんな子、ほっといて」
詩織さんが歩き出す。私はちらりと音羽くんを見てから、詩織さんのあとを追う。
「あ、そうだ」
音羽くんに背中を向けたまま、突然詩織さんが立ち止まった。
「言い忘れてたけど……私、海外に行くことになったから」
「海外?」
思わず口に出した私の声と、音羽くんの声が重なった。
「うん。だからまた当分、さくらさんのパンは食べられないな」
「当分って?」
顔を上げた音羽くんが聞いた。
「三年か、五年か……それとももっとか……」
「なんで? なにしに行くんだよ?」
音羽くんが立ち上がる。詩織さんはゆっくりと振り返り、そして音羽くんの顔を見て、静かにつぶやいた。
「実はずっと前から、海外赴任の話をもらっててね」
「海外赴任?」
詩織さんがうなずく。
「やっと決めたの。自分で一歩、踏み出してみようって」
詩織さんは私たちの前で、穏やかに微笑んだ。
10
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
お兄ちゃんはお兄ちゃんだけど、お兄ちゃんなのにお兄ちゃんじゃない!?
すずなり。
恋愛
幼いころ、母に施設に預けられた鈴(すず)。
お母さん「病気を治して迎えにくるから待ってて?」
その母は・・迎えにくることは無かった。
代わりに迎えに来た『父』と『兄』。
私の引き取り先は『本当の家』だった。
お父さん「鈴の家だよ?」
鈴「私・・一緒に暮らしていいんでしょうか・・。」
新しい家で始まる生活。
でも私は・・・お母さんの病気の遺伝子を受け継いでる・・・。
鈴「うぁ・・・・。」
兄「鈴!?」
倒れることが多くなっていく日々・・・。
そんな中でも『恋』は私の都合なんて考えてくれない。
『もう・・妹にみれない・・・。』
『お兄ちゃん・・・。』
「お前のこと、施設にいたころから好きだった・・・!」
「ーーーーっ!」
※本編には病名や治療法、薬などいろいろ出てきますが、全て想像の世界のお話です。現実世界とは一切関係ありません。
※コメントや感想などは受け付けることはできません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
※孤児、脱字などチェックはしてますが漏れもあります。ご容赦ください。
※表現不足なども重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけたら幸いです。(それはもう『へぇー・・』ぐらいに。)
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
天才天然天使様こと『三天美女』の汐崎真凜に勝手に婚姻届を出され、いつの間にか天使の旦那になったのだが...。【動画投稿】
田中又雄
恋愛
18の誕生日を迎えたその翌日のこと。
俺は分籍届を出すべく役所に来ていた...のだが。
「えっと...結論から申し上げますと...こちらの手続きは不要ですね」「...え?どういうことですか?」「昨日、婚姻届を出されているので親御様とは別の戸籍が作られていますので...」「...はい?」
そうやら俺は知らないうちに結婚していたようだった。
「あの...相手の人の名前は?」
「...汐崎真凛様...という方ですね」
その名前には心当たりがあった。
天才的な頭脳、マイペースで天然な性格、天使のような見た目から『三天美女』なんて呼ばれているうちの高校のアイドル的存在。
こうして俺は天使との-1日婚がスタートしたのだった。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ヤクザに医官はおりません
ユーリ(佐伯瑠璃)
ライト文芸
彼は私の知らない組織の人間でした
会社の飲み会の隣の席のグループが怪しい。
シャバだの、残弾なしだの、会話が物騒すぎる。刈り上げ、角刈り、丸刈り、眉毛シャキーン。
無駄にムキムキした体に、堅い言葉遣い。
反社会組織の集まりか!
ヤ◯ザに見初められたら逃げられない?
勘違いから始まる異文化交流のお話です。
※もちろんフィクションです。
小説家になろう、カクヨムに投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる