怠け狐に傾国の美女とか無理ですから! 妖狐後宮演義

福留しゅん

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1巻

1-3

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 水を少し飲む程度の休憩を挟んで私達二人は仕える主を紹介された。新たな主もまた今日無理やり連れてこられて『上』と見なされ、妃となってしまった犠牲者らしい。一目で分かる愛くるしい容姿をしているからか、妃としての地位はやや高めになったんだそうだ。

「あの。よろしく」

 いきなり側仕えを与えられて戸惑うばかりの彼女は私達に頭を下げてきた。控えていた女官らしき妙齢の女性に睨まれて慌てて背筋を正し、逆に私達が勢い良くこうべを垂れる。

「私は妺、とお呼びくださいませ」
「わたしは琬っていいます。これからお世話させてもらいます」
「わたしはエンです。こうして巡り合ったのも何かの縁。一緒に頑張りましょう」

 妃に我儘わがままを言われて馬車馬のようにこき使われるとでも思っていたのか、琬は安心して胸を撫でおろした。琰もまたどんな娘が割り当てられるのか心配だったらしい。二人はすぐに意気投合し、上司部下というより、これから待ち受ける苦難を乗り越える同志、といった風な関係を築く予感をさせた。
 それから私と琬は後宮全体の仕事を説明される。下女は基本的になんでもやらなければいけない。掃除炊事洗濯は当たり前で、宴が開かれるなら準備と後片付けを、それら後宮内の一般業務をこなした上で各々おのおのの妃に仕えることとなる。我儘わがまま娘に振り回されるか大人しい妃に可愛がられるかはもはや運でしかない、と説明する女官は苦笑していた。
 妃全員への食事を配膳し終えて私達はようやく夕食にありつけた。私も人の姿になっている以上何か食べないと生きていけないので、ありがたくいただく。残り物や妃の残飯でも村娘からしたら豪華な食事らしく、美味しいと驚く下女が続出した。

「だって農作物を育てる男手も取られちゃってますから、ろくなものを食べられないんです。なのにここは贅沢ぜいたくだなぁ、って」
「富はあるところにはある、というわけですか」
「でも、これならなんとかやっていけそうかなぁ……」

 琬の期待がこもった呟きは、多分今日連れてこられたばかりの下女一同で一致した認識なのでしょう。ただ、以前より後宮で働く先輩方は小さな希望を見出した琬に一切反応を示さない。濁った目は下に落ち、ただ作業のように黙々と食事を口に運ぶばかりだった。諦めと絶望、そんな彼女達の抱く嘆きをひしひしと感じた。
 夜。今日連れてこられた妃達が少し広めの部屋に集合させられた。なんでも大王のお渡りがあるんだとかで、急遽きゅうきょ私達も準備に追われた。具体的には大部屋に寝具を敷いて、香をき、各々おのおのの妃を美しくした。
 連れてきたその日に早速味見、それも全員一斉にとは。美しき妃を区別なく全員愛する、なんて建前たてまえじゃないに決まっている。既に何人も御子がいると聞いているし、絶対に自分の欲望を満たすためだけでしょうよ。

「いよいよね。大王様ってどんな方かしら?」
「国中から若い生娘きむすめを集めている時点でかなりの好色家だと思いますが」

 勿論嫌悪感は表に出さず、私は琰の問いかけに淡々と答えた。聞かれたら不敬だと騒がれかねないから声をひそめたけれど、周囲を窺うとどうも待ち遠しいと前向きな妃はごく少数のようだ。ちょっと安心する。

「あーあ。愛のある結婚は望めないかも、とは思ってたけれど、こうなるとはね。これなら親の言う通りにしないでもう少し自由にしても良かったのかなぁ」
「今日はお勤めに専念して、明日以降のことは明日に考えましょう」

 軽く言い放った琰だけど、化粧を施す前の彼女の顔は青く、唇は白かった。今もまだ震える身体を必死になって抑え込んでいるようだ。生贄いけにえに捧げられようとしている彼女に対し、下女に過ぎない私はただ後ろに控えて見守ることしか出来ない。
 そんな感じに時間を潰していたら、いよいよ大王がおなりになった。
 成程、体格はいいし背も高く、物腰も立派だ。顔つきは威厳と自信に満ち溢れていて、放たれる雄々しさも申し分ない。緩んだ表情と出っ張ったお腹を隠さない下品な中年男が姿を見せると想像していただけに、少々意外だった。ただなんと言うか、彼は私が一番嫌いな奴だと断言しておく。その目は人を人として見ずに全て我が物とすることばかり考えていそうな、欲まみれのろくでなしのものだったから。
 大王は集められた新入りの妃達を頭からつま先までじっくりと眺めていく。昼頃の役人共から身体を見られた際の視線を遥かにしのぐ気持ち悪さ。視姦、という言葉が相応ふさわしい。舌なめずりをされて思わず悲鳴を上げてしまう妃もいたけれど、心中お察しする。
 そして『上の中』と判定された娘の前で足が止まり、突然彼女を組み伏せて襲いかかった。妃がいくら悲鳴を上げても誰も助けようとはしない。他の妃達は絶望に染まった表情で成り行きを眺めるしかない。この部屋の支配者たる大王に目を離すことは許さんと命じられたかのように。
 大王は妃の衣服を乱暴にがし、そして――
 他の新入りの妃が犠牲になる中、待機する琰の眼差しが涙ながらに訴えていた。助けて、と。琬もいたたまれない様子で私を窺ってくるけれど、現時点で私にやれることはない。
 大王をこの場で始末するのは簡単よ。でも下準備も無しに強行したら後に残るのは混乱だけだ。夏国を完膚かんぷなきまでに滅ぼすまでに更に多くの犠牲が生まれる。もう少し情勢を見極めてからじゃないと迂闊うかつに動けやしない。
 助けを求める初々ういういしき妃達の声に耳を塞ぎ、下女達は部屋の片隅で嵐が過ぎ去るのを待つ。中には呼吸を荒くして気絶しそうになっている娘もいて、苦痛でしかなかった。私もあまりにも不快なせいで、握りしめた手のひらに自分の爪の跡がしっかり残ってしまった。
 しばらく待機していたら、大王が衣服を正した後、護衛を引き連れてその場を後にしていく。顔を見られないよう大王が立ち去るまでこうべを垂れ続け、背中が見えなくなってからすぐに後片付けに入る。

「これは、酷い……」

 部屋の中は地獄絵図が広がっていた。
 大勢いたうら若き妃達は残らずその場に倒れていた。茫然自失ぼうぜんじしつする者、無表情で涙を流す者、痛いと呟き続ける者、痙攣けいれんを起こす者など、誰も彼もが悲惨な状態に陥っていた。
 犠牲になった妃達の身体を拭き、寝具を整え直し、空気を入れ替え、就寝の準備が整ったところで寝かせる……なんて、こんな惨状で円滑にいくわけがなかった。それでも下女達は必死に取り組んだ。仕事だからではなく、伸ばされた救いを求める手を我が身可愛さで振り払った負い目から、そして純粋に妃達を案じて。
 私と琬も琰の世話をする。彼女もまた目がうつろで放心状態。琬が気分を紛らわすために色々と話しかけるけれど、琰は生返事をするのが精一杯だった。そんな琰に琬は辛そうに顔をゆがめて拳を強く握りしめる。

「いくら天子様だからって、こんなの酷すぎます……なんでも許されると思ってるんでしょうか……?」
「思っているからこそ民をぞんざいに扱うのでしょうね。ところで私はてっきり大王様は一晩中楽しむかと思っていたのですが、案外終わらせるの早かったですねえ」
「……わたし達だと物足りないからって、別の妃のところに」

 琰が抑揚無く呟いた一言に私と琬は顔を見合わせた。
 ああ、成程。新人共はひとまず味見程度で済ませ、お楽しみはこれからだ、ってやつですか。今からあの野獣に抱かれる妃はご苦労様です。
 後片付けを終えた私と琬は左右から琰を抱きかかえ、彼女の部屋に連れて帰ることにした。他の下女達も各々おのおの仕える妃を連れ帰っていく。気絶した妃を含めて大王が好き勝手した大部屋には誰も残らなかったのが、今晩の出来事が与えた深い傷を如実に物語っていた。
 琰を連れて帰った私達は自分達の部屋に戻ろうとして……彼女に袖を掴まれた。何を、と聞く前に彼女の手が震えていることに気付く。琰は涙目で何かを言おうとするも、顎も震えていて声にならなかった。

「もう、しょうがないですね。琰様ったら」

 私は琰の手を両手で包み、そのまま寝具の中にもぐり込んだ。

「寂しいのであればこの私が添い寝して差し上げます」

 私が手招きすると琰は最初のうち呆気に取られてたものの、すぐに涙をこぼして私の横に寝転んだ。琬も同じように布団の反対側にもぐり込んで、私達で琰を挟む形になる。少しでも彼女が落ち着けるよう、なるべく身体を密着させて。

「あ、ありがとう……目を瞑るとアイツがわたしを襲ってくる姿を思い出して……」
「犬に噛みつかれたと思えばよろしい。なんなら私が舐めて差し上げましてよ。きっとご満足いただけるかと」
「何言ってるのよ、馬鹿……」

 そのかいもあって私達は日の出間際までぐっすりと眠れたのだった。
 むしろ危うく寝坊して大目玉を食らうところだった。
 ちなみに大王はあの後複数もの妃と関係を持ち、最後はお気に入りの寵姫のところで寝たとのこと。身体がいくつあってももたない、とは普段から大王に抱かれる妃の弁だったりする。そりゃこれだけ大人数の妃が必要だわ、と妙に納得してしまった。

「早く王太子殿下に譲位していただけたら……」
「しっ! 馬鹿、声が大きいわよ……!」

 後宮にいる人の何人かは次に期待しているらしく、たまにこういった願望が耳に入ってきた。普段後宮に入れる異性は男の証を切り取られた、所謂いわゆる宦官かんがんを除けば大王または幼少の王子王女ぐらい。噂される希望の光らしい王太子がどんな人なのかさっぱりだ。
 んー。王太子がまともだったら今の大王には退場願ってまつりごとを正してもらえるかもしれない。でも腐った土台はいくら修復しても焼け石に水だし、新たな国を一から打ち立てた方が手っ取り早そうだ。

「どうしよう、妺、琬……また陛下のお渡りがあるかもしれないなんて……」

 琰は自分を抱き締めて身を震わせる。琰にとって昨晩の初夜は苦痛を通り越して心的外傷になってしまったらしい。可愛らしい顔も青ざめて唇が白いと台無しだ。琬もまた事後の状況を思い出したのか、悪夢を振り払うように顔を左右に振る。

「ふむ。そんな琰様には私めが秘策を授けましょう」
「ほ、本当……!?」

 私は頭の中で筋書きを立て、どのように物事を進めれば良いかを検討し、結論として目の前で恐怖に怯える妃を利用することにした。すがるように希望の眼差しを向けてくる琰に見えないよう、静かに怒りをたたえながら。


   ■■■


「酷いな……」
「ええ。出発前より浮浪者が増えているように見受けられます」

 やしろへの参拝から戻ってきた癸は、護衛の兵士や側近達と共に王都の大通りを進む。道中の町や村を視察した彼ら一行は末喜より一週間ほど遅れての到着となった。あれから末喜と会っていない癸だったが、彼女がここに来ていることは帰路で報告を受けた人狩りの部隊が退しりぞけられた異変からも確信していた。
 癸は出発時の記憶と今の光景を照らし合わせ、街から更に活気が失われていることに気付く。日々同じ環境で過ごしていたら見落としそうな少しずつの衰退。しかし長期間不在にしていた彼は事態がより深刻化していると実感した。

「やはりあの方には早急に退いていただいた方が世のためだな」
「しっ。どこで聞き耳を立てられているか分かりません。愚痴ぐちは後で聞きますから」
「そうだったな。迂闊うかつだった、すまない」
「まだ大王様に睨まれていませんから、最後まで慎重に事を進めましょうよ」

 癸の側近、終古ジョングゥは主君への叛意はんいとも取れる発言をした主をたしなめる。癸は口をつぐんだものの反省した様子は見せなかった。そんな主を部下達も咎めはせず、以降は沈黙だけが漂う視察となった。


 宮廷に戻って早々、癸は大王より呼び出しを受けた。旅の荷物を自分の屋敷で降ろした彼はすぐさま馳せ参じる。向かった先は謁見の間。広い空間の中には大王と王妃と癸、そして大王を警護する近衛兵が点在するのみだった。
 癸は大王から一定の距離をおいてひざまずき、こうべを垂れる。うやうやしい動作に大王は満足そうに顎を撫でる。隣の王妃は全く反応を示さず、それどころか癸にも視線を合わせようとせず、ただ遠くを見つめるのみだった。

「履癸、ただいま戻りました」
「うむ。天への参拝は我々の義務だ。とどこおりなく済んだか?」
「はい。この国のますますの繁栄を願ってまいりました」
「ああ、良い。お前が何を天に祈ろうがもはや関係無い。地上をべているのはこの余なのだから。天には黙って見ていろとでも伝えてくれば良かったろうに」

 大王は面倒くさそうに体勢を崩す。しかしそのみっともなさを咎める者はこの場に誰一人としていない。何故なら彼こそがこの国の頂点なのだから。たとえ実際には黒でも大王が白と言えば白となるのだ。
 癸はやしろで天の遣いと出会ったことは完全に伏せることにした。むしろ彼は他の誰にも末喜の存在を明かしていない。彼女の天より与えられた使命が何にせよ、ここでおおやけにすれば彼女がやりづらくなるだけだから、という配慮もあったが、単純に彼が末喜のことを他の誰にも知られたくないという独占欲もあった。

「それで大王様、ご用件は?」
「いや、無い。引き続き余の邪魔になる真似さえしなければ好きにしろ」
「ありがたいお言葉でございます」
「以上だ。下がれ」

 その程度なら何も呼び出したりせずとも良かったのに、と癸は内心で舌打ちをしながらその場を後にしようとする。
 ふと振り返ったのは単なる気まぐれからだった。近衛兵に付き添われて謁見の間から去る途中の大王と王妃は、外でこうべを垂れて待機していた女に対して親しげに声をかけた。その者もまた大王にねぎらいの言葉を送る。癸にとっては耳を澄ませてようやく聞き取れるほどの音量だったが、砂糖菓子のようにとても甘ったるい声だった。
 絶世の美女。彼女を説明する際、それ以外の言葉は要らないだろう。
 男女問わず目を引く美貌。大胆かつ下品にならない程度に着飾った彼女は輝かんばかりで、大王や王妃をしのぐ存在感を放っていた。仕草一つ取っても蠱惑的こわくてきで、視線を向けられれば自然に鼓動が高鳴るほど。その声はいかなる楽器の演奏や鳥の鳴き声もかすむほどに耳に残り、鼻をくすぐる匂いはどんな花の蜜よりも脳を溶かす。
 美女は大王へとしなだれ、大王は鼻の下を伸ばして美女の腰を抱く。王妃はそれをやっかむどころか恍惚こうこつの表情を浮かべて眺めるだけ。美女は猫を甘やかすように王妃の頬と喉元を撫で回す。

(まるで影の支配者だな。いや、実際その通りなのだが)

 憮然ぶぜんとした表情でそうした異常な光景を眺める癸は、ふとその美女と目が合ってしまった。美女も癸に気付いたようで、彼に向けて微笑む。それは大王に向ける誘惑の顔とは異なり、その在り方からは想像も出来ないほど慈愛に満ちたものだった。そして遠くて聞こえなかったが、彼女は癸に語りかけていた。「おかえりなさい」と。
 癸は早々に視線を外して苛立ち紛れに大股で歩んでいく。これ以上は不満が爆発してしまいそうだから。後に耳に入ってきた噂によれば、その時の癸はとても声をかけられないほど憤怒に満ちた形相だった、とのことだ。
 自分の部屋に戻った癸は寝具に寝転がって、一旦頭を冷やすことにした。彼の帰りを待っていた側近の終古は軽くため息を吐いてから椅子に座って、横になる癸を見つめる。

「で、偉大なる大王様は長旅をた貴方様にどんなねぎらいの言葉を?」
「あの方が俺をねぎらうとでも思ってるのか? 冗談でも止めてもらいたいものだ」
「じゃあ、どんな調子だった?」
「……悲しいことにこれまでと同じだったよ」

 政治をおろそかにして酒や女、金銀財宝に溺れ、民をしいたげる。文官も武官もそんな大王に揉み手で擦り寄って腐敗が横行する。これ以上の危機的状況は放置できない、と提出される改革案はことごとく握り潰される。夏国は滅びへ向けて一直線に進むばかりだった。
 終古を始めとする癸の部下は確信していた。もはや一刻の猶予ゆうよも無く今の大王には退いてもらわねば、と。
 そのためにまだ夏国を諦めていない同志達と密かに連絡を取り合ってきた。勿論、大王に釘を刺された通り、表向きは目障りにならない規模に抑えながら。

「殿下。お帰りなさいませ。不在の間の出来事をご報告いたします」
龍逢ロンフェンか。頼む」

 癸がやしろに足を運んでいる間、もう一人の側近である龍逢に留守中のことを任せていた。彼は終古共々あまり政治にけていない癸を補佐している。癸は二人の側近を信頼しているが、あまり依存しすぎれば痛い目を見る、と密かに自分との間に線を引いている。無論、そのことを両名には悟られていない。
 龍逢から告げられたのは宮廷、そして王都の現状。全く改善のきざしが無いどころか、更に衰退へと進んでいることは明らかだった。ここから巻き返して立ち直れるのか?と方々ほうぼうから不安の声が上がっている、という話だった。

「もはや地方の末端には中央の影響力が及ばなくなっているようです」
「求心力を失ってる、ってことか。予想以上に事態は悪化しているようだな」
「一刻の猶予ゆうよもありません。多少の強硬策に打って出ても今の殿下であれば皆も付き従うことでしょう。なにとぞ、天誅をお下しくださいませ」
「それでもならぬ。確かに大王様だけに消えてもらうのは簡単だが、あの方に擦り寄る佞臣ねいしん共の勢力は根強い。迂闊うかつに立ち上がれば他の王位継承者を担ぎ出され、華の地を二分する戦争の始まりだ」

 おそらく癸が踏み切れないのは今の大王亡き後の治世をどうするのか、で悩んでいるからだ、と終古は推測していた。頭がげ替わるだけの凶行に大義は無い。腐敗を正して民を苦しめない政治を行うことこそ本懐ほんかいなのだから。
 夏国の立て直し。それが癸につどう者達の悲願であり、成し遂げなければならない使命である。天が完全に見放す前に暗君を退かせ、癸を旗頭にして復興させる。自分達、そして癸にならそれが可能だという確信もある。
 だが、一同は知らない。癸はそれとは全く別の選択をしようとしている、などとは。

「やはり、もはや内側からはどうしようもない、か」
「殿下、今何かおっしゃいましたか?」
「頭が痛いものだ、と愚痴ぐちを漏らしただけだ」

 癸はふところから竹の札を取り出した。それは彼宛に届けられていた文で、簡潔な現状報告と雑談が隙間なく記されていた。その内容に目を通し、癸は満足げに頬を緩めた後、丁寧にふところにしまい直す。
 それは夏国を構成する方国の一つ、しょうより届けられたもの。かの国は既に周辺諸国との関係を良好にし、税は民を苦しめない程度に抑え、経済を発展させているそうな。今は地方の有力国に収まっているが、いずれは盟主国である夏を超すのでは、とまで噂されていた。
 文の送り主の姓はズゥ、名をルゥタンとも呼ばれる男で、癸の友人である。そして、癸の真の目的を知る数少ない存在の一人で、その目的を実行に移す者だ。

(悪いがみんな。もう俺はこんな国など滅んだ方がいいと考えているんだ)

 癸は目の前で繰り広げられる光景、側近達の談議を漠然と眺める。密談自体はもはや無意味で無価値だと冷めてはいたものの、彼らが優秀な人材であることには変わりない。歴史の転換点を迎えて彼らを切り捨てずどう次に繋げるか。それを密かに検討し続けるのだった。


   □□□


 妃ではない下女は後宮から外に出られる。とはいえさすがに正当な理由無しで許されるほど甘くはない。主のお使いで買い出しに出かける場合が多いのだけれど、希少な例としては妃が気遣って下女に家族とのひと時を送らせたこともあるそうな。
 で、私と琬は久しぶりとなる自由な時間を満喫まんきつするため、外に出かけていた。一応名目上は妃よりお使いを命じられて。
 琬達と共に後宮入りしてからそれなりの月日が経過している。夜になると家族を恋しがってすすり泣いていた彼女も健気けなげに頑張っており、私もまた意気込みを新たにした次第だ。彼女達のような犠牲者をこれ以上増やさないようにするにはどうすればよいか、と思考を巡らせながら。

「このまま逃げ出すことは出来るんでしょうか……?」
「以前試した下女は捕まって打ち首になったらしいですよ。それに下女が仕えていた妃も連帯責任を負わされてむち打ち刑となり、挙句の果てに冷宮行きになったとか」
「駄目、ですよねやっぱり……」
「ま、やりようはいくらでもあると思うんですよね。役人に賄賂わいろを握らせるとか」

 何軒目かのお店を回った後、私達が休憩がてら弁当を食べていたら、人ごみの向こうに見知った顔を目撃した。揉め事なのか、見知った顔が役人の腕を後ろからひねり上げて取り押さえている。その側には身体を震わせる女性と子供がいる。察するに、横暴を働いた役人を見かねて止めたようだ。こんな混沌こんとんとした世でも正義感を表に出す人がいるとはね。感心感心。
 ところが、何を思ったのか、その知り合いは役人を上役らしき者に引き渡すと、一直線にこちらへと歩み寄ってきて、あろうことか私の隣に座ったじゃないの。突然の来襲に琬は戸惑いと恐怖を覚えた様子だし、慌てて追いかけてくる彼の連れは息を切らしている。

「末喜よ。また会ったな」

 その知り合い、癸は気軽に私へと挨拶を送ってくる。

「どちら様ですか? 初対面ですし、人違いをなさっておいでかと」
「そうか、その姿では初めまして、と言うべきか」

 やはり。どうやら癸は外見とは違う何かで私を判断しているようね。何せ今の私はこの前、町娘として会った時とも全く違う姿をしている。その上で彼は私が末喜だと確信しているもの。注意深く観察していれば仕草や癖で気付かれるかもしれないけれど、遠くから一発でバレるのはさすがにおかしい。

「で、今の名はなんという?」
「……妺、と呼んでいただければ」
「成程。では妺、改めてよろしく」

 もはや否定するのも無意味だと悟った私は諦めて自分の愛称を口にする。癸が満足した様子でほがらかに笑いながらこちらに手を差し伸べてきたので、私達は握手した。まだ三回目なのに随分と馴れ馴れしいこと。

「で、そろそろまるっきり外見が違う私を見分けられる理由を教えていただいても?」
「ああ。言っていなかったか。俺は他の人と見える景色が違うのだ、とな」
「はあ。つまり?」
「俺には人の魂魄こんぱくの色が見えるらしいのだ」

 魂魄こんぱく! それなら姿だけを変化させる私を一発で見破れるわけだ。彼は上っ面ではなく内面を見て妖狐と町娘、そして下女として全く姿を変えている私を同一人物だと断定したのか。
 まさか癸にそんな特技があるとは思っていなかった。逆に言えばそうした異能をもちいてでなければ私の正体を看破出来ないってことで、自分の変化の術に落ち度があるわけじゃないってことだ。内心でほっと胸を撫でおろしたのは内緒よ。

「あの、妺。こちらの方々は……?」
「すみません。彼は癸、王都から少し離れた町で知り合いました」

 しまった。私達ばかり盛り上がってしまった。困惑する琬が恐る恐る私に尋ねてきて初めて失態に気付く。二人は私が紹介するとお辞儀をする。で、癸は必要無いのに私と出会った経緯を琬に語って聞かせた。


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