わたしたちはまだ、会っていない。

ゆらぎ

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第8章「削除したのは、わたし」

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第8章「削除したのは、わたし」

📘 Scene 8-1|澄乃、“私の投稿”を消していく

静かな深夜。スマホの画面だけが、薄暗い部屋を照らしている。
澄乃は息を詰めるように、鍵アカの「投稿履歴」ページを開いた。

そこには、過去数か月にわたって紡いできた詩——
たったひとつの声を頼りにした、文字たちの記録。

彼女は最初の投稿に触れる。
画面に現れた詩の一節をじっと見つめてから、迷うように「消去」ボタンを押した。

──削除を取り消すことはできません。

軽い確認に指が震える。それでも「OK」を選ぶ。

詩は、画面から溶けるように消えた。
だけど、その痕跡—記憶—は胸の奥に強く残る。

次の投稿。次の言葉。
すべて同じように消していく。
「わたし」の言葉を、世界から消していくように。

モノローグが、静かに紡がれる。

「誰にも見られなければ、そこに“あった”ことにできる。」

でも、それは本当ではない。
言葉はすでに誰かの目に触れ、誰かの心に揺れを起こしていた——
そう思うたびに、胸が痛む。

澄乃は最後の一行を消したあと、画面を閉じる。

無音の余韻が、部屋全体に広がる。

──“言葉”は残るのか、それとも、自分だけの中に消えるのか。

澄乃は息を吐いた。
そして、そっとスマホを伏せた。

📘 Scene 8-2|駿、“削除された側”の感覚

夜のコンビニ帰り。伏見駿は、無言のまま歩道を進んでいた。
イヤフォンからは何も流れていない。ただ耳をふさぐためだけのもの。
視線はスマホに落ちている。数日前までやり取りしていた、あるアカウントのDM欄が空白になっていた。

──“この投稿は削除されました”。

彼はその表示を何度も見たことがある。
過去にも、同じように突然“消された”記憶がある。

あの時、彼はある人と詩を送り合っていた。
名乗らず、問いかけず、ただ言葉のやりとりだけ。
でも、ある日を境に、その人のアカウントごと投稿がすべて消えた。

「見られたうえで、無視されることってさ…」
駿は小さく呟く。
「生きてるけど、殺されるみたいだよな…」

それは“存在しなかったこと”にされるような感覚だった。

言葉を返さなかった自分のせいなのか。
それとも、相手にとって自分の存在がもう不要だったのか。

画面に表示された「このアカウントは存在しません」の文字列が、今も網膜に焼きついている。

駿はスマホをポケットにしまう。
その夜、空を見上げる彼の目は、何も映さないまま、深い闇の中へと沈んでいった。

📘 Scene 8-3|慧、“わたしも気づけなかった”と打つ

花園慧はベッドに寝転びながら、スマホの画面をスクロールしていた。
誰かが鍵アカでRTしたポストが、タイムラインにひょっこり現れる。
その詩は、澄乃の投稿と酷似していた。リズムも、言葉の選び方も。

「……あれ?」と慧は口に出す。

既視感(デジャヴ)と、喉の奥に詰まった何か。
その詩、前にも読んだ気がする。もっと言えば、ずっと近くで──。

画面を何度も見返す。スクショを撮って、ギャラリーを遡る。
以前、何気なく保存したポストに、同じ表現があった。

慧はDMの画面を開いた。
澄乃との会話履歴。既読がつかないままのメッセージ。

新しい入力欄に指を置く。

──「前にも見た気がする。ごめん、気づけなかった」

けれど、それを送信することはできなかった。
画面を閉じる。DMは、打ちかけたまま消えない言葉で満たされていた。

慧の胸に広がるのは、“すれ違わせた”という重さ。
それは誰のせいでもない──けれど確かに、自分が“見ていなかった”事実だけは残った。

静かな夜、彼女はスマホを胸に置き、目を閉じた。

📘 Scene 8-4|凛太郎、“残ってしまった”スクリーンショット

凛太郎は久しぶりにスマホの写真フォルダを整理していた。
無数の講義資料のスクショや、メモ代わりの黒板写真。
そんな中に、一枚だけ異質な画像があった。

白い背景に、詩のような一節。
──「存在しないと信じることで、生き延びられる感情もある。」

それは、かつて凛太郎が高校時代に匿名アカウントで投稿したものだった。
誰にも見られないと思って書いた、ひとつの痛みの告白。

彼はそれを削除したはずだった。
もうとっくに、自分の中からも消したはずの言葉。

なのに、澄乃が最近書いた詩の中に、そっくりなフレーズがあった。
彼女は何も知らないはずだ。それでも──似ていた。

画面を見つめる彼の指が、震える。
その言葉は、誰かの中に生き延びてしまった。
自分が消したかった感情が、誰かの言葉として再構築されている。

“言葉は、消えないんだな……”

独りごちた声は、誰にも届かない。
でもそれでいいのかもしれない、とふと思う。

言葉が残ってしまったことに、はじめて救われる瞬間だった。

📘 Scene 8-5|“削除したのは、わたし”と打つ

澄乃はスマホの画面を見つめていた。
DMの下書き欄には、たった一行だけが打ち込まれている。

──「削除したのは、わたし」

その言葉が、自分のことを意味しているのか、
誰かに向けた告白なのか、彼女自身にもわからなかった。
ただ、この言葉だけが、自分の中に残っていた。

何を削除したのか。
言葉か、投稿か、関係か、それとも──感情そのものか。

指先が震える。
「送信」のボタンに触れそうになり、また引く。
送れば、何かが終わる気がして。
送らなければ、何も始まらない気がして。

ため息を一つ。
彼女はそのまま、下書きとして保存する。
送らない選択を、今は選ぶ。

スマホを伏せようとしたその瞬間、
通知が一つ、静かに灯った。

DM画面に「既読」のマーク。
だが、返信は──なかった。

“見られてしまった”。
けれど、“返されなかった”。

それが、どれほど残酷で、どれほど救いでもあるかを、
澄乃はただ、黙って知っていた。

──消したいと思った感情ほど、誰かに届いてしまう。
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