わたしたちはまだ、会っていない。

ゆらぎ

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第9章「“声”を聴いた日」

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 第9章「“声”を聴いた日」

📘 Scene 9‑1|澄乃、“その声”にふれる

──それは、ほんの何気ない昼下がりだった。

教室の窓際、午後の光が斜めに差し込んでいる。澄乃は窓枠にもたれかかるようにして、誰かの投稿をスクロールしていた。けれど、目の前にある文字はただの記号のようで、心には入ってこなかった。

そんなときだった。

「それ、俺も前に言ったことある」

突然、背後から声が降ってきた。低く、でも不思議と静かな響きを持ったその声に、澄乃の指が止まる。振り返ると、そこには伏見駿が立っていた。無表情で、けれどほんの少しだけ、目だけが何かを確かめるように揺れていた。

彼の言葉は、まさに──DMで交わしていた“あの文”と一致していた。

澄乃の喉が詰まった。視界が揺れたような気がした。

「あなたですよね?」

心の中で呟いたその言葉は、唇まで上ってきて、けれど声にはならなかった。ただその代わりに、手がスマホを握りしめていた。まるで、もう一度DMを送る準備でもしているように。

けれど澄乃はわかっていた。

──もう、文字じゃない。この人の声が、私に届いた。

駿は澄乃の反応をじっと見ていたが、何も言わなかった。ただ、彼の目の奥に、名前を呼ばれることへのかすかな怯えが宿っていた。

言葉が“正体”に変わる。

それが、どれだけ怖いことかを、ふたりは知っていた。

📘 Scene 9‑2|駿、“言葉になった自分”を聴く

教室がざわめく中、澄乃はそっと尋ねた。

「あなたの、言葉…好きでした」

駿の胸で、言葉がゆらりと波打つ。
彼の心臓が、その音に呼応した。

一瞬の沈黙。

──自分の言葉が、誰かの心に届いていたのだと。
それをリアルな声で聞くのは、駿にとって、世界が重くなるほどの「実在」だった。

彼は軽く息を吐き、目を細めた。

「俺…言葉、選びすぎたかもしれない。
でも、それが誰かの中で”生きてた”のは──嬉しいと思ってる。」

澄乃は微笑む。
短い、その瞬間さえ、駿にとっては確かな希望の音だった。

場面は変わり、同じ教室の片隅。
声になった詩が、安心と不安の間を漂う。

駿は初めて、自分の言葉が「存在証明」であり「誰かを救う力」があると感じたのだろう。
その感覚は、孤独を反転させるほど強烈だった。

📘 Scene 9‑3|凛太郎、妹の言葉に“かつての自分”を聴く

夜のアパート。
凛太郎は机に頬杖をつき、スマホを手にしていた。

澄乃の新しい詩がタイムラインに流れてくる。
短く、抑制され、それでも深く差し込んでくる言葉たち。

そのリズムに、彼は立ち尽くした。
──これ、俺が昔書いてた言葉の拍動だ。

記憶が開く。

高校生の自分が、夜更けにスマホのメモ帳に向かっていたこと。
誰かに届いてほしくて、でも届くのが怖くて、名前も伏せたまま綴った数行の詩。

「君の不安が、僕を生かした」
その一節が、澄乃の投稿に反響していた。

彼女は知らなかったはずだ。
凛太郎の書いた言葉も、文体も、存在も──でもなぜ。

「……澄乃、君は」

囁くように呟いて、凛太郎は微かに笑った。
「俺の言葉、生かしてくれてたんだな」

それは感謝でも、後悔でもなく、ただ静かに宿った確信だった。
言葉は死なない。誰かが覚えている限り。

📘 Scene 9‑4|慧、“わたしも聴いてた”と告白する

放課後の教室。
静まりかえった空間に、机を拭く澄乃の背中。

その後ろで、慧が立ち尽くしていた。
何かを言おうとして、言葉が出ない。

「……ねえ、澄乃」

その声に澄乃が振り返る。慧は、目を伏せたまま言った。

「鍵アカの人の詩、ずっと見てたの。なんか……すごく、好きだった」

澄乃の瞳がわずかに揺れる。
慧は続けた。

「最近、それが……澄乃の言葉だった気がして。違ってたらごめん。でも、たぶん、そうで……」

言葉がほどける。空気がほどける。
その隙間で、澄乃は小さく笑った。

「ありがとう、慧ちゃん」

それだけだった。
でも慧は、それだけで、何かが許された気がした。

──ずっと見ていた。
──あなたが書いた言葉を、私は聴いていた。

この瞬間、ふたりの間には言葉以上のものが届いていた。
無言の共鳴。名前を呼ばなくても、わかるということ。

📘 Scene 9‑5|“声”を聴いた日

帰宅後、澄乃はスマホを見ずに机に向かった。
明かりもつけず、カーテンも開けたまま。
その静けさは、まるで誰かの気配を待つようだった。

鞄からノートを取り出す。
いつも投稿用に下書きをしていた、小さな黒い罫線ノート。

開いたページに、ペンを走らせる。
音が、静寂を割る。

「声は、いつも届いていた」

それだけを書いて、ペンを置いた。
画面に打ち込まれることのなかった言葉。
投稿されなかった詩。

──けれど、それは確かに“返信”だった。

読まれなかった投稿に対する、静かな返事。
届いたときよりもずっと後に、遅れてきた応答。

ナレーションが、物語を結ぶ。

「それは、読まれなかったわたしの投稿への返信だった」

声は、画面の向こうからやってきたのではない。
声は、ずっとここにあった。
そして今、それを聴いたのは――わたしだった。

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