揺らぎの交差点

ゆらぎ

文字の大きさ
1 / 6

【第一部|風の抜けた街】

しおりを挟む
六月の東京は、目を覚ますのが遅い。
朝七時を過ぎても、空はまだ眠っているような顔をしている。
雲は低く垂れ、街の色彩を薄め、遠くのビル群が水墨画のようにぼやけて見えた。

その朝の真ん中に、藤井尚哉は立っていた。
スーツの上から羽織った薄手のコートの裾が、風に揺れている。
歩道の端、濡れた街路樹の下に立ち止まり、彼はゆっくりと呼吸を整えていた。

地面には、まだ雨の名残が残っていた。
アスファルトはところどころ深く黒ずみ、水たまりには曇った空がうつっている。
尚哉はその水面を避けるように、慎重に一歩を踏み出す。
足音が、小さく響いた──濡れた靴底が、朝の静けさを一瞬だけ破った。

通勤途中の人々が、彼の横を黙って通り過ぎていく。
誰もが前を向き、何も見ていない。
イヤホンを耳に、コーヒーを手に、まるで台本通りに動く役者のように、決められたテンポで流れていく。

尚哉はそれを、遠い場所から見るような気持ちで眺めていた。
朝の街は動いている。けれど、自分だけがそこに属していないような──そんな、静かな疎外感。
目に映る全てが薄く、音も、匂いも、温度さえも、どこか“借り物”のように感じられる。

ふと、足元で何かが揺れた。
ポケットの中の文庫本だった。
指先でそっと触れれば、ページの角が少し折れている感触が伝わってくる。
この本を、なぜ今朝手に取ったのか。
棚の奥で埃をかぶっていたそれを、なぜ、今日だけ持ち歩こうと思ったのか──自分でもわからなかった。

ただ、何かが呼んでいたような気がした。
いや、そう思いたかっただけかもしれない。
それでも尚哉は、本をそっと握り直し、もう一歩、歩みを進めた。

通りを抜ける風が、背中を押した。
ほんのわずか──だが、それは確かに「押す」感触だった。
尚哉はわずかに肩をすくめ、振り返る。けれど、誰もいない。
風だったのだ、と気づいたとき、なぜか妙な既視感に囚われた。

──今の風は、どこか懐かしい匂いがした。

濡れたアスファルト、葉の裏に残った雨粒、ブロック塀に染み込んだ湿気の匂い。
それらに混じって、ごくわずかに紙のにおいがしたような気がした。
誰かが落とした便箋──そんな、無意味な想像が頭をよぎる。
尚哉は自分の想像力の唐突さに、思わず小さく息を吐いた。

けれど、笑えなかった。

文庫本。
それはまるで、“封印された何か”のように、彼のポケットに沈黙していた。
尚哉は立ち止まり、ゆっくりとそれを取り出す。
カバーは取れていて、背の文字は擦れ、紙はほんの少し黄色くなっていた。

指でページをめくる。
何度も読み返した形跡がある箇所──折り癖がつき、インクがやや滲んでいる。
巻末に、書き込みがあった。

けれど、その文字は今読んでも、誰の筆跡なのか、何を伝えたかったのかが思い出せない。
たしかに見覚えがあるはずなのに、意味が抜け落ちている。
それがかえって、何か大切なことが“そこ”にあったのではないか、という予感だけを残していく。

手の中で本が重く感じられた。
本来、紙の束に過ぎないものが、なぜこんなにも重く、こんなにも遠く感じるのか──
尚哉はその理由をまだ知らなかった。

けれどこの瞬間、彼の中で何かが“揺らぎ始めて”いた。

信号が青に変わった。

尚哉はその光に気づきながらも、数秒遅れて歩き出す。
周囲の足音はすでに動き出していたが、自分の時間だけが“半歩ずれて”いるように感じた。

交差点を渡る途中、彼はふと足を止めた。
ポケットに本を戻す動作の途中、再び風が吹いた。
さっきよりも少し強く、少し温かく、そしてどこか“知っている誰か”の手のようだった。

それはまるで、昔の記憶が自分の背中に触れてくるような──
あるいは、言いかけて呑み込んだ言葉が、時間を超えて響いてきたような──
そんな気配を持っていた。

そのときだった。
どこかのビルの上から、小さく風鈴の音が鳴った。

ひとつ、ちりん。
もうひとつ、ちりりん。
まるで言葉にならなかった何かが、音に変わって風に乗ってきたかのように。

尚哉は立ち止まったまま、音のする方を見上げた。
けれど空はまだ曇っていて、風鈴の姿も見えなかった。
ただ、その音だけが確かに耳に残り、胸の奥を撫でた。

──もしかして、自分は何かを忘れているのではないか。
──それは“思い出”ではなく、“返していない手紙”のようなものではないか。

そんな感覚が、胸の奥に小さな波紋を広げた。

彼は再び歩き出す。
何も変わらない東京の朝。けれど、
ほんの少しだけ、彼の足音が、昨日よりも深く地面に響いていた。

午後の光は、会議室の窓を淡く染めていた。
白いブラインドの隙間からこぼれる光が、資料の角を照らし、反射がテーブルの上でかすかに揺れている。

藤井尚哉は、会議室の長机の端に座り、手元の紙資料を静かにめくっていた。
指先が少し乾いていて、ページがうまく捉えられない。
──この乾きは、空調のせいか、それとも何か別の理由か。
そんなことを考えている時点で、すでに彼の意識はこの会議から逸れていた。

「……つまり、“手紙”っていうテーマは、少し弱いんじゃないかと思うんですよね」

声が上がる。若い編集者のものだった。
尚哉は視線だけをそちらに向ける。
髪を整えたばかりのような青年が、資料に目を落としながら言葉を継いでいた。

「時代に合ってないというか……SNSとかチャット文化が主流になってる今、読者にピンと来ないんじゃないかなって」

──正論だった。
けれどその“正しさ”に、尚哉はかすかな抵抗感を覚える。

「ピンと来ない」という言葉。
それはつまり、“今の人たちにはもう届かない”という前提に立っている。
だが、何かが“届かない”とき、それは本当に“伝える側の責任”ではないのか──
そんな思考が、彼の胸の奥でぼんやりと膨らんでいく。

誰も尚哉には意見を求めていない。
けれど、彼の存在だけがこの会議室の空気に微妙なひずみを与えていた。
空調の音が、やけに大きく聞こえる。
まるでその機械音だけが、彼の感情を翻訳しているかのように。

「おまえ、“そういうの”こそ掘りたいんじゃなかったか?」

その声に、尚哉はわずかに視線を動かした。
橘佑樹が資料の束を指の背でトントンと整えながら、口元に皮肉げな笑みを浮かべていた。

「“弱い”テーマって、裏返せば“誰も触れたがらない”ってことでもある。
 それをちゃんと読ませられたら、それって逆に強い企画だよ」

橘の声は低く、会議室のざわつきの中でも不思議と通る。
尚哉は一言も返さず、ただ目を伏せたまま、資料の端に指を添えた。
橘は続ける。

「手紙って、基本“返事が来ない前提”で書かれてるだろ。
 そこが俺は好きだな。言葉を“送りっぱなしにする勇気”って、今の世の中にはあんまないだろ?」

“送りっぱなしにする勇気”。

その言葉に、尚哉の胸が微かにざわめいた。
何かを思い出しかけるような感覚──けれど、それが何かは掴めない。

「……実は、地方の図書館で“手紙の展示”やってるって話があってさ」
橘はスマートフォンを取り出し、画面を尚哉の方に向ける。
そこには、古びた展示棚に並ぶ手紙の写真があった。
手書きの封筒、淡い便箋、誰かの癖のある筆跡。

「読者と、本と、手紙をつなぐってコンセプトらしい。
 おまえ、こういうの、昔好きだったじゃん」

“昔”。
その言葉が、尚哉の脳裏に、濡れた文庫本の手触りを呼び起こした。
あのページの最後、誰かの書いた言葉。
あれもまた、“返事のない手紙”だったのかもしれない。

彼は何も言わず、ただ画面を見つめていた。
写真の中の便箋が、風に揺れているように見えた。

「で、その展示──取材、行ってこいよ」

橘が、さも当然のように言った。
その声には命令でも依頼でもない、不思議な“促し”のような響きがあった。

尚哉は顔を上げる。

「……俺が?」

「そう。編集長も乗り気だったしな。
 どうせ最近、現場に出たがってたろ。ちょうどいいんじゃないか?」

橘はそう言って、ふっと目を細めた。
まるで何かを見透かすような、その視線が心地悪い。

尚哉はもう一度、スマートフォンの画面を見た。
そこに映る古びた木製の展示棚。封筒に貼られた切手、インクのにじみ、かすれた宛名。

それらは不思議と、彼の中のどこかと共鳴していた。
それが“どこ”なのかは、まだわからなかったが──

「わかった。行くよ」

その言葉を口にした瞬間、
ポケットの中の文庫本が、何かを応えるように微かに動いた気がした。

橘は軽く頷き、資料をまとめ始める。
他の編集者たちが談笑しながら席を立つ中、尚哉はひとり、机に手を置いたまま座り続けた。

窓の外では、雲が少しずつ切れ始めていた。
淡い陽が射し始め、ビルのガラスに光が跳ね返る。

尚哉は立ち上がり、胸ポケットの文庫本にそっと触れた。

──あの書き込みは、誰だったのか。
──そして、なぜ今、それを持っているのか。

彼の中で、まだ言葉にならない問いが、ゆっくりと形を成しつつあった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

初恋だったお兄様から好きだと言われ失恋した私の出会いがあるまでの日

クロユキ
恋愛
隣に住む私より一つ年上のお兄さんは、優しくて肩まで伸ばした金色の髪の毛を結ぶその姿は王子様のようで私には初恋の人でもあった。 いつも学園が休みの日には、お茶をしてお喋りをして…勉強を教えてくれるお兄さんから好きだと言われて信じられない私は泣きながら喜んだ…でもその好きは恋人の好きではなかった…… 誤字脱字がありますが、読んでもらえたら嬉しいです。 更新が不定期ですが、よろしくお願いします。

黒瀬部長は部下を溺愛したい

桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。 人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど! 好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。 部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。 スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。

盗み聞き

凛子
恋愛
あ、そういうこと。

幸せの見つけ方〜幼馴染は御曹司〜

葉月 まい
恋愛
近すぎて遠い存在 一緒にいるのに 言えない言葉 すれ違い、通り過ぎる二人の想いは いつか重なるのだろうか… 心に秘めた想いを いつか伝えてもいいのだろうか… 遠回りする幼馴染二人の恋の行方は? 幼い頃からいつも一緒にいた 幼馴染の朱里と瑛。 瑛は自分の辛い境遇に巻き込むまいと、 朱里を遠ざけようとする。 そうとは知らず、朱里は寂しさを抱えて… ・*:.。. ♡ 登場人物 ♡.。.:*・ 栗田 朱里(21歳)… 大学生 桐生 瑛(21歳)… 大学生 桐生ホールディングス 御曹司

処理中です...