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【第三部|言葉の間にあるもの】
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秋の風が少しずつ色づきを帯びていた。
尚哉は、和水町行きのローカル線に揺られていた。
車窓から見える山並みは、東京の喧騒とは無縁の、穏やかで静謐な風景だった。
膝の上には、取材ノートと例の文庫本。
“言葉の余韻”──その力をテーマにした特集企画のため、
尚哉は「手紙文学」にまつわる資料展示を行っている図書館を取材しに来たのだった。
──本当に、自分が作りたいものってなんだろう。
編集プロダクションに入ってから数年。
商業主義と効率に追われる日々の中で、
尚哉の中にはずっと“言葉にならない澱”が溜まり続けていた。
ふと指先で文庫本をなぞる。
巻末のあの書き込み──
それだけが、今の自分を“どこかへ導こうとしている”ように思えた。
列車が最寄りの駅に滑り込み、彼は立ち上がった。
⸻
駅前の道を5分ほど歩いた先に、それはあった。
「町立和水図書館」
古い木造校舎を改修したというその建物は、外観からして“物語の気配”をまとっていた。
陽に照らされた木材の匂い、石畳の軋み、そして風が巻き上げる静かな音。
尚哉は扉を開けた。
次の瞬間、空気が変わった。
紙と木の匂い、微かに漂うインクの残香。
──そして、何よりも「音がない」。
いや、正確には“音にならない気配”だけがそこにあった。
尚哉は足音を忍ばせながら、展示エリアへ向かった。
図書館内は広すぎず、けれど余白を大事にした空間設計だった。
陽の光が窓から長く差し込み、木製の床に静かな影を落としていた。
展示棚の前に立ったとき、不意に視線を感じた。
振り返ると、受付カウンターの奥から、ひとりの女性が現れた。
柔らかな髪を肩にかけ、淡いベージュのワンピースにグレージュのカーディガン。
まるで、この空間そのものから現れたような佇まい。
──小田切 凜。
その瞬間、尚哉の中に“風が巻いたような感覚”が走った。
記憶とは呼べない、けれど明らかに懐かしい何か。
女性もまた尚哉に気づき、一瞬だけ動きを止めた。
ほんのわずか、目が合った。
けれど、どちらからも言葉は出なかった。
「……編集プロダクションの方ですか?」
静かな声。けれど、どこかで聞いたことのある響き。
尚哉はほんの少し遅れて、うなずいた。
「はい、藤井と申します。お世話になります。」
尚哉が名乗ると、凜はごく控えめに頷いた。
「ご案内しますね。展示は奥のギャラリーコーナーにあります。」
ふたりは静かな廊下を並んで歩いた。
距離は一歩ぶん。けれどその間には、まだ名もない何かが漂っていた。
展示スペースには、「手紙と記憶」と書かれたパネルが掲げられていた。
尚哉はその前で立ち止まり、展示棚の文庫本に目を向けた。
ふと、手に取った一冊。
──それは、自分が東京から持ってきた本と、まったく同じ装丁だった。
ページをめくる。
最後の見開きに、見覚えのある筆跡。
──「わたしも、そう思っていました。」
尚哉の鼓動が、ほんのわずかに跳ねた。
視界の端で、凜が小さく目を伏せたのがわかった。
けれど、誰も何も言わなかった。
ただ、静かな光と紙の匂いだけが、ふたりの間に落ちていた。
昼下がりの休憩室。
図書館スタッフたちが交代で昼食をとる、小さな談話スペース。
凜はカップに淹れた紅茶を両手で包み込みながら、窓の外を眺めていた。
風に揺れる銀杏の葉が、陽に透けてきらめいていた。
そこへ、同僚の繭が軽やかな足取りで入ってきた。
「ねえ凜さん。さっきの人、感じのいい人だったね~」
「……え?」
「ほら、さっき取材に来てた男性。藤井さんって言ってたよね?」
その瞬間、凜の手の中のカップがほんのわずかに揺れた。
──藤井。
その名前が、まるで心の奥の引き出しをノックしてくるようだった。
とっくに閉じたはずの、ひと夏の記憶。名前も知らなかった“彼”。
凜は何気ない顔を保とうとしながら、声を整えた。
「……うん。落ち着いた雰囲気の人だったね。」
「うんうん、ああいう人、手紙とか好きそう。企画のテーマぴったりじゃない?」
繭は無邪気に笑った。
凜は紅茶の温度が少しずつ冷めていくのを感じながら、
自分の中で“何かが静かに始まろうとしている”のを悟った。
「……藤井さん、か」
凜は小さくつぶやきながら、職員通路に出て、資料整理室へ戻っていった。
手帳を開こうとしたその手が、一瞬止まる。
あの展示棚。あの文庫本。
そして、巻末に記されていた“返事”。
──「わたしも、そう思っていました。」
誰にでも書けるような一文。けれど、あのときの“わたし”にしか書けなかった言葉。
そして──それに先立つ書き込み。
記憶の奥にある、少年の筆跡。
名前も知らず、顔もおぼろげなまま、文通を終えた“彼”。
藤井。尚哉。
今朝、ほんの少しだけ声を交わした“あの人”の名前が、
凜の中で静かに重なりはじめていた。
──まさか。偶然よ。世の中に藤井さんなんて、たくさんいる。
理性がそう告げても、胸の奥では別の声が響いていた。
──でも、もしそうだったら?
凜は手帳を閉じ、呼吸を深く整えた。
何も確証はない。けれど、確かに“心がざわめいている”。
夕方、図書館の空気が一段落した頃。
凜はもう一度、展示棚の前に立っていた。
誰もいない閲覧室。
その静けさが、まるで“内面の沈黙”とリンクしているようだった。
彼女は一冊の文庫本をそっと手に取る。
──巻末のページ。
自分の筆跡。あの返事。
「わたしも、そう思っていました。」
ふと、その下に、誰かが小さく印をつけたような跡に気づく。
ごく薄い鉛筆の跡。たぶん、読んだ誰かが無意識に触れたのだろう。
──藤井 尚哉。
彼がこの本を開いた。そして、気づいたかもしれない。
でも、彼は何も言わなかった。
自分もまた、名乗らなかった。
その“均衡”の中に、奇妙なやすらぎがあった。
けれど同時に、ほんのかすかな“痛み”もあった。
──今、名乗ってしまえば。
──すべてが“昔話”になってしまうかもしれない。
だからこそ、まだ沈黙の中にいる。
けれど、凜の中ではすでに、“時間が再び動き始めていた”。
尚哉は再び、展示棚の前に立っていた。
取材メモもそこそこに、手が勝手に文庫本を選び取っていた。
あの、書き込みのある一冊。
──「わたしも、そう思っていました。」
その一文を読むたびに、胸の奥がかすかに疼く。
それは、決して痛みとは言えない。
けれど、何かが“触れられてはいけない場所”にそっと触れてくるようだった。
尚哉は文庫を開いたまま、そっと腰を下ろした。
図書館の木椅子の感触が、どこか懐かしかった。
「……これ、どこかで」
ぼそりと、無意識に声が漏れる。
あの頃──大学時代の夏合宿。
ある少女と、ほんの数度のやりとりだけで終わった文通。
その内容を、もう正確には覚えていない。
けれど“何かを伝えようとした記憶”だけが、今も微かに残っていた。
この一文。
もしかしたら、あのときのやりとりに関係があるとしたら──?
尚哉はページをめくりながら、
文字の背後にある“感情の層”を感じ取ろうとしていた。
──夏の日差し。
──麦茶のグラスの水滴。
──誰かと、本の感想を交わした薄明の時間。
そのときに交わされた手紙には、確かこんな言葉があった。
「言葉って、残るんですね。
心のなかに、ふっと灯るみたいに。」
その記憶と、今の文庫本の書き込みが重なる。
“わたしも、そう思っていました。”
──まさか。
いや、そんな偶然があるだろうか。
だが、思い出そうとすればするほど、尚哉の中で“あの時の光景”は鮮やかさを増していく。
少女の名前は覚えていない。顔も、ぼんやりしている。
けれど、やりとりの“空気”だけは、なぜかはっきりと残っていた。
彼はそっと文庫本を閉じ、胸に当てた。
──もしも、これはあのときの本だとしたら。
──あの書き込みは、“あの子”の返事だとしたら。
仮定は妄想に近い。けれど、その妄想が“心を熱くする”。
閉館のチャイムが鳴る少し前。
図書館内は夕方特有の琥珀色に包まれていた。
尚哉は受付に文庫本を返しに向かいながら、
その装丁や紙の質感を、名残惜しむように撫でていた。
「……何か、特別な本だったんですか?」
受付カウンターの奥から、凜の声がかかった。
尚哉は少し驚いて振り返り、笑みを浮かべた。
「ええ……。なんだか、昔のことを思い出しまして。」
「……昔?」
「学生の頃、少しだけ文通をしていた人がいたんです。
名前も住所も知らないまま、でもそのやりとりが今も不思議と残っていて。」
凜は微笑みを浮かべながら、返却処理を進めていた。
けれどその指先がほんの少しだけ震えていたことに、尚哉は気づかなかった。
「きっと、その人も、覚えていると思いますよ。」
「……だといいんですけど。」
そう言って尚哉は文庫本に目をやる。
返却スタンプが押されたその奥のページには、
今も“あの一文”が、変わらず静かに眠っていた。
翌日、尚哉は取材ノートの整理のため、町の喫茶店で静かな時間を過ごしていた。
和水町は小さな町だが、どこか“本の匂い”がする空気が漂っている。
駅前から少し離れた場所にある喫茶店「シルエット」は、古本が並ぶ棚が壁を彩っていた。
──落ち着くな。
店内のジャズとコーヒーの香りに包まれながら、尚哉はノートにペンを走らせた。
そのとき──背後から声がかかった。
「……あれ、尚哉?」
振り向くと、そこにいたのは大学時代の同期・橘 悠貴だった。
洒落た眼鏡にストールをかけ、手には文庫とスケッチブック。
昔と変わらず、どこか風変わりな空気を纏っていた。
「おまえ、なんでこんなとこに……!」
「仕事。こっちは?」
「俺も展示のスケッチ取りに来たとこ。……おまえがここにいるなんて、偶然すぎるわ」
テーブルの向かいに座った橘は、どこか懐かしそうに目を細めた。
「で、なに? 編集の仕事?」
コーヒーをすすりながら、橘が訊ねた。
「そう。……文芸系の企画で、図書館の展示取材に来てる。」
「へぇ、らしいな、おまえ。」
「“らしい”って、どういう意味だよ。」
「昔から、そういう“言葉の余白”とか、気にするやつだっただろ。
俺は絵、尚哉は言葉。根っこは似てた。」
尚哉は苦笑しながら、視線を窓の外にやった。
──言葉の余白。
その響きに、昨日の展示棚での感覚が重なる。
「なあ、尚哉。偶然って、信じる?」
橘の問いに、尚哉は首をかしげた。
「偶然……? まあ、たいていは偶然ってことで済ませてる気がするけど。」
「でも、“あのとき”の誰かと、“今”また会うようなことがあったら?」
「……さあな。」
けれど、尚哉の中に、昨日の図書館で出会った女性の“横顔”がよぎっていた。
「おまえさ、昔、誰かと文通してなかった?」
橘の言葉に、尚哉は思わず顔を上げた。
「……なんでそれを?」
「いや、思い出したんだよ。
確か合宿の帰りに、そんな話を聞いた気がしてさ。
“名前も知らないけど、やりとりが心に残った”って。」
尚哉はしばらく黙ったまま、カップの中を見つめていた。
「……そうかもな。あれ、どこまで話したっけ。」
「名前も知らないってとこまで。
で、返事も来たかどうか分かんないって言ってた。」
「返事は……来てたのかもしれない。」
「ん?」
「いや、最近、似たような書き込みを見つけてさ。
展示されてた文庫本の最後のページに、返事のような一文があって……」
橘は目を細めて笑った。
「それ、偶然じゃないかもよ?」
「……だとしたら。」
「だとしたら?」
「まだ、言葉にできない。」
尚哉はゆっくりと息を吐いた。
“偶然”と“再会”──
そのどちらとも言えない揺らぎが、心の奥で波紋を広げていた。
その夜、凜は久しぶりに実家を訪れていた。
山裾に建つ古い一軒家。
図書館からそう遠くない距離にありながら、周囲の静けさはまるで別世界のようだった。
母・小田切千景は、変わらず落ち着いた所作で夕食の準備を進めていた。
凜はダイニングテーブルの端で、お茶を注ぎながらその様子を見ていた。
「……最近、落ち着いてる? 図書館のほう。」
千景がふと尋ねた。
「うん。展示の入れ替えでちょっとバタついてるけど、穏やか。」
「取材の人が来てるって聞いたけど、どう?」
凜は少しだけ返答に間を置いた。
「……真面目な人。静かだけど、なんとなく、言葉を大事にしてる感じ。」
「そう。」
千景はその言葉に、小さく頷いた。
そして、しばらく沈黙のあと──
ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば。昔、あなたが誰かと手紙をやりとりしてたこと、あったわね。」
凜の手が、湯呑みの縁でそっと止まった。
「……覚えてるの?」
凜が静かに訊ねると、千景は微笑を浮かべた。
「ええ。あの年の夏だったわね。
あなた、図書館の合宿に行ったあと、ずっと机に向かって便箋を折っていた。」
「……一回だけ。手紙を出したの。」
「そう。返事は……来なかったのよね?」
凜はゆっくりと首を横に振った。
「ううん。返事は……あった。たぶん。でも、宛先はなかったの。
図書館経由で届いた一通。名前もなくて、ただ“読んでくれてありがとう”って。」
千景は静かに頷いた。
「それでも、あの頃のあなたは、嬉しそうだった。
名前も住所もない手紙に、ちゃんと“返事”を返そうとしてた。」
「……そうだったかな。」
「でも、結局、出さなかったのよね。
“どこに送ればいいのか分からない”って。」
凜はふと立ち上がり、古い本棚の引き出しを開けた。
そこには、今もひとつだけ封を切られていない封筒が残されていた。
淡い青の縁取り。
宛名のないまま、ただ“誰かへ”と書かれた封筒。
それは、あの夏の日の、声にならなかった“返事”。
凜はその封筒を手に取り、指で縁をなぞった。
開封された形跡のないその手紙は、時を止めたまま、そこにいた。
紙はわずかに焼け、けれど中身はきっと──あのときのまま。
「出そうと思って……でも、何度もやめたの。
届かないって分かってたから。」
千景は何も言わず、静かに娘の隣に立っていた。
「でも、今になって──あの人の名前を聞いたの。
“藤井”って。」
「……それが、あの人?」
「……わからない。まだ、わからない。
でも、心のどこかで、ずっと“返事”を待ってた気がする。」
風が障子をかすかに鳴らした。
千景は娘の肩にそっと手を置き、ただ一言だけ告げた。
「だったら、今度は、あなたの番じゃない?」
凜は封筒を見つめたまま、ゆっくりと頷いた。
時間が動き出した──
そう感じたのは、この瞬間だった。
図書館の閉館後、凜は一人、展示スペースに戻っていた。
夜の館内は昼間と違って、どこか“言葉を失った空間”に感じられた。
照明は落とされ、足元に淡い間接光だけが灯っている。
その光の中で、展示棚がまるで“記憶のアーカイブ”のように浮かび上がる。
凜はゆっくりと歩き、文庫本の前で立ち止まった。
──あの一冊。
彼女は手を伸ばすと、まるで大切な記憶を抱き起こすように、
その文庫本をそっと持ち上げた。
ページをめくる。
まるで時間を巻き戻すように、指先で紙の感触をたどる。
そして、たどり着く。
巻末の、あの一文へ。
──「わたしも、そう思っていました。」
その文字列を目にした瞬間、凜の中の何かが、音もなく鳴った。
筆跡。
言葉の選び方。
わずかな余白と、書かれた角度。
それらすべてが、かつて自分が受け取った“あの手紙”と、
ぴたりと重なっていた。
──あの時、文通で受け取った一通。
──宛名のない、でもたしかに誰かが書いた言葉。
「読んでくれて、ありがとう。
あなたの感想で、物語がひとつ終わって、また始まった気がします。」
その文章のリズム、温度、揺らぎ──
凜は胸の奥で、はっきりとそれを思い出していた。
──これは、あの人。
──“藤井尚哉”の言葉。
けれど、彼女はページを閉じ、深く息をついた。
まだ、名乗らない。
まだ、名前を呼ばない。
沈黙のなかで、もう少しだけこの“ゆらぎ”に身をゆだねていたかった。
凜は文庫本をそっと元の場所に戻した。
指先はほんのわずかに震えていたが、
顔には、どこか凪のような静けさが宿っていた。
展示棚の前に、しばらく立ち尽くす。
図書館内に響くのは、時計の針が刻む音だけ。
──あの夏の日。
──ほんの一度の、名もなき文通。
──忘れたと思っていた声が、今、確かにここにある。
凜は心の中で言った。
──あなたに返事を出せなかった私へ。
──ずっと、忘れなかった私へ。
そして、誰にも聞こえない声で、
誰の名前でもない“誰か”に向かって、微かに微笑んだ。
それは、たった一人だけが気づくための、
沈黙の挨拶だった。
朝の光が、窓辺のカーテン越しにやわらかく差し込んでいた。
尚哉は駅近くの宿を出ると、再び町立和水図書館へと向かっていた。
昨日の展示メモの補足を取るという名目だったが、
実際には──もう一度、あの空気に触れてみたかった。
図書館の入口に立った瞬間、ふわりと木の匂いと紙の気配が迎えてくる。
まるで昨日と何も変わらぬような朝。
カウンターの向こうに、彼女はいた。
凜はすぐに気づいたわけではなかった。
ただ、ふと顔を上げた瞬間、視線が交差した。
「あ……おはようございます。」
凜の声は、昨日よりもほんの少し柔らかかった。
「おはようございます。昨日はありがとうございました。」
尚哉もまた、どこか“気づかないふり”を纏っていた。
名乗らないままのやりとり。
けれど、そこにある空気は、確かに“再会”だった。
「展示、もう一度見ても大丈夫ですか?」
尚哉の問いに、凜は小さく頷いた。
「もちろん。まだ開館直後なので、空いていますよ。」
ふたりの間に流れる言葉は、どこか慎重で、けれど優しい。
お互いが“何か”を知っている気がしながら、
それを声に出さないまま、そっと包み込んでいるような。
「……あの本、気に入ってらっしゃいましたね。」
凜が、少しだけ目を伏せて言った。
「ええ。不思議と惹かれました。
昔、似たような言葉を──誰かに言われた気がして。」
その言葉に、凜の目が一瞬だけ揺れる。
けれど、すぐに微笑みに戻る。
「そういう本、ありますよね。
言葉が、自分の記憶と重なってしまうような。」
「……はい。」
尚哉もまた、確かに微笑んでいた。
名乗らず、問わず、答えない。
けれど、その沈黙が“真実を知る者同士の距離”を縮めていた。
尚哉は展示棚の前に立ち、昨日と同じ一冊を手に取った。
「何度見ても、ここに引き寄せられてしまいます。」
「……言葉って、不思議ですね。」
凜の声は、どこか祈るように静かだった。
「書いたときには何も起きないのに、
誰かに読まれたときに、ようやく意味を持つ。」
「──だから、手紙って、特別なんでしょうね。」
ふたりはそれ以上、何も言わなかった。
けれど、言葉にならない言葉たちが、
その場を満たしていた。
図書館の時計が、静かに午前十時を告げる。
尚哉は本を戻すと、もう一度だけ振り返って言った。
「……また、来ます。」
「……お待ちしています。」
名前を呼ばないまま、
その朝のやりとりは終わった。
けれど、ふたりの胸の中では──
もう“始まっていた”。
尚哉は、和水町行きのローカル線に揺られていた。
車窓から見える山並みは、東京の喧騒とは無縁の、穏やかで静謐な風景だった。
膝の上には、取材ノートと例の文庫本。
“言葉の余韻”──その力をテーマにした特集企画のため、
尚哉は「手紙文学」にまつわる資料展示を行っている図書館を取材しに来たのだった。
──本当に、自分が作りたいものってなんだろう。
編集プロダクションに入ってから数年。
商業主義と効率に追われる日々の中で、
尚哉の中にはずっと“言葉にならない澱”が溜まり続けていた。
ふと指先で文庫本をなぞる。
巻末のあの書き込み──
それだけが、今の自分を“どこかへ導こうとしている”ように思えた。
列車が最寄りの駅に滑り込み、彼は立ち上がった。
⸻
駅前の道を5分ほど歩いた先に、それはあった。
「町立和水図書館」
古い木造校舎を改修したというその建物は、外観からして“物語の気配”をまとっていた。
陽に照らされた木材の匂い、石畳の軋み、そして風が巻き上げる静かな音。
尚哉は扉を開けた。
次の瞬間、空気が変わった。
紙と木の匂い、微かに漂うインクの残香。
──そして、何よりも「音がない」。
いや、正確には“音にならない気配”だけがそこにあった。
尚哉は足音を忍ばせながら、展示エリアへ向かった。
図書館内は広すぎず、けれど余白を大事にした空間設計だった。
陽の光が窓から長く差し込み、木製の床に静かな影を落としていた。
展示棚の前に立ったとき、不意に視線を感じた。
振り返ると、受付カウンターの奥から、ひとりの女性が現れた。
柔らかな髪を肩にかけ、淡いベージュのワンピースにグレージュのカーディガン。
まるで、この空間そのものから現れたような佇まい。
──小田切 凜。
その瞬間、尚哉の中に“風が巻いたような感覚”が走った。
記憶とは呼べない、けれど明らかに懐かしい何か。
女性もまた尚哉に気づき、一瞬だけ動きを止めた。
ほんのわずか、目が合った。
けれど、どちらからも言葉は出なかった。
「……編集プロダクションの方ですか?」
静かな声。けれど、どこかで聞いたことのある響き。
尚哉はほんの少し遅れて、うなずいた。
「はい、藤井と申します。お世話になります。」
尚哉が名乗ると、凜はごく控えめに頷いた。
「ご案内しますね。展示は奥のギャラリーコーナーにあります。」
ふたりは静かな廊下を並んで歩いた。
距離は一歩ぶん。けれどその間には、まだ名もない何かが漂っていた。
展示スペースには、「手紙と記憶」と書かれたパネルが掲げられていた。
尚哉はその前で立ち止まり、展示棚の文庫本に目を向けた。
ふと、手に取った一冊。
──それは、自分が東京から持ってきた本と、まったく同じ装丁だった。
ページをめくる。
最後の見開きに、見覚えのある筆跡。
──「わたしも、そう思っていました。」
尚哉の鼓動が、ほんのわずかに跳ねた。
視界の端で、凜が小さく目を伏せたのがわかった。
けれど、誰も何も言わなかった。
ただ、静かな光と紙の匂いだけが、ふたりの間に落ちていた。
昼下がりの休憩室。
図書館スタッフたちが交代で昼食をとる、小さな談話スペース。
凜はカップに淹れた紅茶を両手で包み込みながら、窓の外を眺めていた。
風に揺れる銀杏の葉が、陽に透けてきらめいていた。
そこへ、同僚の繭が軽やかな足取りで入ってきた。
「ねえ凜さん。さっきの人、感じのいい人だったね~」
「……え?」
「ほら、さっき取材に来てた男性。藤井さんって言ってたよね?」
その瞬間、凜の手の中のカップがほんのわずかに揺れた。
──藤井。
その名前が、まるで心の奥の引き出しをノックしてくるようだった。
とっくに閉じたはずの、ひと夏の記憶。名前も知らなかった“彼”。
凜は何気ない顔を保とうとしながら、声を整えた。
「……うん。落ち着いた雰囲気の人だったね。」
「うんうん、ああいう人、手紙とか好きそう。企画のテーマぴったりじゃない?」
繭は無邪気に笑った。
凜は紅茶の温度が少しずつ冷めていくのを感じながら、
自分の中で“何かが静かに始まろうとしている”のを悟った。
「……藤井さん、か」
凜は小さくつぶやきながら、職員通路に出て、資料整理室へ戻っていった。
手帳を開こうとしたその手が、一瞬止まる。
あの展示棚。あの文庫本。
そして、巻末に記されていた“返事”。
──「わたしも、そう思っていました。」
誰にでも書けるような一文。けれど、あのときの“わたし”にしか書けなかった言葉。
そして──それに先立つ書き込み。
記憶の奥にある、少年の筆跡。
名前も知らず、顔もおぼろげなまま、文通を終えた“彼”。
藤井。尚哉。
今朝、ほんの少しだけ声を交わした“あの人”の名前が、
凜の中で静かに重なりはじめていた。
──まさか。偶然よ。世の中に藤井さんなんて、たくさんいる。
理性がそう告げても、胸の奥では別の声が響いていた。
──でも、もしそうだったら?
凜は手帳を閉じ、呼吸を深く整えた。
何も確証はない。けれど、確かに“心がざわめいている”。
夕方、図書館の空気が一段落した頃。
凜はもう一度、展示棚の前に立っていた。
誰もいない閲覧室。
その静けさが、まるで“内面の沈黙”とリンクしているようだった。
彼女は一冊の文庫本をそっと手に取る。
──巻末のページ。
自分の筆跡。あの返事。
「わたしも、そう思っていました。」
ふと、その下に、誰かが小さく印をつけたような跡に気づく。
ごく薄い鉛筆の跡。たぶん、読んだ誰かが無意識に触れたのだろう。
──藤井 尚哉。
彼がこの本を開いた。そして、気づいたかもしれない。
でも、彼は何も言わなかった。
自分もまた、名乗らなかった。
その“均衡”の中に、奇妙なやすらぎがあった。
けれど同時に、ほんのかすかな“痛み”もあった。
──今、名乗ってしまえば。
──すべてが“昔話”になってしまうかもしれない。
だからこそ、まだ沈黙の中にいる。
けれど、凜の中ではすでに、“時間が再び動き始めていた”。
尚哉は再び、展示棚の前に立っていた。
取材メモもそこそこに、手が勝手に文庫本を選び取っていた。
あの、書き込みのある一冊。
──「わたしも、そう思っていました。」
その一文を読むたびに、胸の奥がかすかに疼く。
それは、決して痛みとは言えない。
けれど、何かが“触れられてはいけない場所”にそっと触れてくるようだった。
尚哉は文庫を開いたまま、そっと腰を下ろした。
図書館の木椅子の感触が、どこか懐かしかった。
「……これ、どこかで」
ぼそりと、無意識に声が漏れる。
あの頃──大学時代の夏合宿。
ある少女と、ほんの数度のやりとりだけで終わった文通。
その内容を、もう正確には覚えていない。
けれど“何かを伝えようとした記憶”だけが、今も微かに残っていた。
この一文。
もしかしたら、あのときのやりとりに関係があるとしたら──?
尚哉はページをめくりながら、
文字の背後にある“感情の層”を感じ取ろうとしていた。
──夏の日差し。
──麦茶のグラスの水滴。
──誰かと、本の感想を交わした薄明の時間。
そのときに交わされた手紙には、確かこんな言葉があった。
「言葉って、残るんですね。
心のなかに、ふっと灯るみたいに。」
その記憶と、今の文庫本の書き込みが重なる。
“わたしも、そう思っていました。”
──まさか。
いや、そんな偶然があるだろうか。
だが、思い出そうとすればするほど、尚哉の中で“あの時の光景”は鮮やかさを増していく。
少女の名前は覚えていない。顔も、ぼんやりしている。
けれど、やりとりの“空気”だけは、なぜかはっきりと残っていた。
彼はそっと文庫本を閉じ、胸に当てた。
──もしも、これはあのときの本だとしたら。
──あの書き込みは、“あの子”の返事だとしたら。
仮定は妄想に近い。けれど、その妄想が“心を熱くする”。
閉館のチャイムが鳴る少し前。
図書館内は夕方特有の琥珀色に包まれていた。
尚哉は受付に文庫本を返しに向かいながら、
その装丁や紙の質感を、名残惜しむように撫でていた。
「……何か、特別な本だったんですか?」
受付カウンターの奥から、凜の声がかかった。
尚哉は少し驚いて振り返り、笑みを浮かべた。
「ええ……。なんだか、昔のことを思い出しまして。」
「……昔?」
「学生の頃、少しだけ文通をしていた人がいたんです。
名前も住所も知らないまま、でもそのやりとりが今も不思議と残っていて。」
凜は微笑みを浮かべながら、返却処理を進めていた。
けれどその指先がほんの少しだけ震えていたことに、尚哉は気づかなかった。
「きっと、その人も、覚えていると思いますよ。」
「……だといいんですけど。」
そう言って尚哉は文庫本に目をやる。
返却スタンプが押されたその奥のページには、
今も“あの一文”が、変わらず静かに眠っていた。
翌日、尚哉は取材ノートの整理のため、町の喫茶店で静かな時間を過ごしていた。
和水町は小さな町だが、どこか“本の匂い”がする空気が漂っている。
駅前から少し離れた場所にある喫茶店「シルエット」は、古本が並ぶ棚が壁を彩っていた。
──落ち着くな。
店内のジャズとコーヒーの香りに包まれながら、尚哉はノートにペンを走らせた。
そのとき──背後から声がかかった。
「……あれ、尚哉?」
振り向くと、そこにいたのは大学時代の同期・橘 悠貴だった。
洒落た眼鏡にストールをかけ、手には文庫とスケッチブック。
昔と変わらず、どこか風変わりな空気を纏っていた。
「おまえ、なんでこんなとこに……!」
「仕事。こっちは?」
「俺も展示のスケッチ取りに来たとこ。……おまえがここにいるなんて、偶然すぎるわ」
テーブルの向かいに座った橘は、どこか懐かしそうに目を細めた。
「で、なに? 編集の仕事?」
コーヒーをすすりながら、橘が訊ねた。
「そう。……文芸系の企画で、図書館の展示取材に来てる。」
「へぇ、らしいな、おまえ。」
「“らしい”って、どういう意味だよ。」
「昔から、そういう“言葉の余白”とか、気にするやつだっただろ。
俺は絵、尚哉は言葉。根っこは似てた。」
尚哉は苦笑しながら、視線を窓の外にやった。
──言葉の余白。
その響きに、昨日の展示棚での感覚が重なる。
「なあ、尚哉。偶然って、信じる?」
橘の問いに、尚哉は首をかしげた。
「偶然……? まあ、たいていは偶然ってことで済ませてる気がするけど。」
「でも、“あのとき”の誰かと、“今”また会うようなことがあったら?」
「……さあな。」
けれど、尚哉の中に、昨日の図書館で出会った女性の“横顔”がよぎっていた。
「おまえさ、昔、誰かと文通してなかった?」
橘の言葉に、尚哉は思わず顔を上げた。
「……なんでそれを?」
「いや、思い出したんだよ。
確か合宿の帰りに、そんな話を聞いた気がしてさ。
“名前も知らないけど、やりとりが心に残った”って。」
尚哉はしばらく黙ったまま、カップの中を見つめていた。
「……そうかもな。あれ、どこまで話したっけ。」
「名前も知らないってとこまで。
で、返事も来たかどうか分かんないって言ってた。」
「返事は……来てたのかもしれない。」
「ん?」
「いや、最近、似たような書き込みを見つけてさ。
展示されてた文庫本の最後のページに、返事のような一文があって……」
橘は目を細めて笑った。
「それ、偶然じゃないかもよ?」
「……だとしたら。」
「だとしたら?」
「まだ、言葉にできない。」
尚哉はゆっくりと息を吐いた。
“偶然”と“再会”──
そのどちらとも言えない揺らぎが、心の奥で波紋を広げていた。
その夜、凜は久しぶりに実家を訪れていた。
山裾に建つ古い一軒家。
図書館からそう遠くない距離にありながら、周囲の静けさはまるで別世界のようだった。
母・小田切千景は、変わらず落ち着いた所作で夕食の準備を進めていた。
凜はダイニングテーブルの端で、お茶を注ぎながらその様子を見ていた。
「……最近、落ち着いてる? 図書館のほう。」
千景がふと尋ねた。
「うん。展示の入れ替えでちょっとバタついてるけど、穏やか。」
「取材の人が来てるって聞いたけど、どう?」
凜は少しだけ返答に間を置いた。
「……真面目な人。静かだけど、なんとなく、言葉を大事にしてる感じ。」
「そう。」
千景はその言葉に、小さく頷いた。
そして、しばらく沈黙のあと──
ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば。昔、あなたが誰かと手紙をやりとりしてたこと、あったわね。」
凜の手が、湯呑みの縁でそっと止まった。
「……覚えてるの?」
凜が静かに訊ねると、千景は微笑を浮かべた。
「ええ。あの年の夏だったわね。
あなた、図書館の合宿に行ったあと、ずっと机に向かって便箋を折っていた。」
「……一回だけ。手紙を出したの。」
「そう。返事は……来なかったのよね?」
凜はゆっくりと首を横に振った。
「ううん。返事は……あった。たぶん。でも、宛先はなかったの。
図書館経由で届いた一通。名前もなくて、ただ“読んでくれてありがとう”って。」
千景は静かに頷いた。
「それでも、あの頃のあなたは、嬉しそうだった。
名前も住所もない手紙に、ちゃんと“返事”を返そうとしてた。」
「……そうだったかな。」
「でも、結局、出さなかったのよね。
“どこに送ればいいのか分からない”って。」
凜はふと立ち上がり、古い本棚の引き出しを開けた。
そこには、今もひとつだけ封を切られていない封筒が残されていた。
淡い青の縁取り。
宛名のないまま、ただ“誰かへ”と書かれた封筒。
それは、あの夏の日の、声にならなかった“返事”。
凜はその封筒を手に取り、指で縁をなぞった。
開封された形跡のないその手紙は、時を止めたまま、そこにいた。
紙はわずかに焼け、けれど中身はきっと──あのときのまま。
「出そうと思って……でも、何度もやめたの。
届かないって分かってたから。」
千景は何も言わず、静かに娘の隣に立っていた。
「でも、今になって──あの人の名前を聞いたの。
“藤井”って。」
「……それが、あの人?」
「……わからない。まだ、わからない。
でも、心のどこかで、ずっと“返事”を待ってた気がする。」
風が障子をかすかに鳴らした。
千景は娘の肩にそっと手を置き、ただ一言だけ告げた。
「だったら、今度は、あなたの番じゃない?」
凜は封筒を見つめたまま、ゆっくりと頷いた。
時間が動き出した──
そう感じたのは、この瞬間だった。
図書館の閉館後、凜は一人、展示スペースに戻っていた。
夜の館内は昼間と違って、どこか“言葉を失った空間”に感じられた。
照明は落とされ、足元に淡い間接光だけが灯っている。
その光の中で、展示棚がまるで“記憶のアーカイブ”のように浮かび上がる。
凜はゆっくりと歩き、文庫本の前で立ち止まった。
──あの一冊。
彼女は手を伸ばすと、まるで大切な記憶を抱き起こすように、
その文庫本をそっと持ち上げた。
ページをめくる。
まるで時間を巻き戻すように、指先で紙の感触をたどる。
そして、たどり着く。
巻末の、あの一文へ。
──「わたしも、そう思っていました。」
その文字列を目にした瞬間、凜の中の何かが、音もなく鳴った。
筆跡。
言葉の選び方。
わずかな余白と、書かれた角度。
それらすべてが、かつて自分が受け取った“あの手紙”と、
ぴたりと重なっていた。
──あの時、文通で受け取った一通。
──宛名のない、でもたしかに誰かが書いた言葉。
「読んでくれて、ありがとう。
あなたの感想で、物語がひとつ終わって、また始まった気がします。」
その文章のリズム、温度、揺らぎ──
凜は胸の奥で、はっきりとそれを思い出していた。
──これは、あの人。
──“藤井尚哉”の言葉。
けれど、彼女はページを閉じ、深く息をついた。
まだ、名乗らない。
まだ、名前を呼ばない。
沈黙のなかで、もう少しだけこの“ゆらぎ”に身をゆだねていたかった。
凜は文庫本をそっと元の場所に戻した。
指先はほんのわずかに震えていたが、
顔には、どこか凪のような静けさが宿っていた。
展示棚の前に、しばらく立ち尽くす。
図書館内に響くのは、時計の針が刻む音だけ。
──あの夏の日。
──ほんの一度の、名もなき文通。
──忘れたと思っていた声が、今、確かにここにある。
凜は心の中で言った。
──あなたに返事を出せなかった私へ。
──ずっと、忘れなかった私へ。
そして、誰にも聞こえない声で、
誰の名前でもない“誰か”に向かって、微かに微笑んだ。
それは、たった一人だけが気づくための、
沈黙の挨拶だった。
朝の光が、窓辺のカーテン越しにやわらかく差し込んでいた。
尚哉は駅近くの宿を出ると、再び町立和水図書館へと向かっていた。
昨日の展示メモの補足を取るという名目だったが、
実際には──もう一度、あの空気に触れてみたかった。
図書館の入口に立った瞬間、ふわりと木の匂いと紙の気配が迎えてくる。
まるで昨日と何も変わらぬような朝。
カウンターの向こうに、彼女はいた。
凜はすぐに気づいたわけではなかった。
ただ、ふと顔を上げた瞬間、視線が交差した。
「あ……おはようございます。」
凜の声は、昨日よりもほんの少し柔らかかった。
「おはようございます。昨日はありがとうございました。」
尚哉もまた、どこか“気づかないふり”を纏っていた。
名乗らないままのやりとり。
けれど、そこにある空気は、確かに“再会”だった。
「展示、もう一度見ても大丈夫ですか?」
尚哉の問いに、凜は小さく頷いた。
「もちろん。まだ開館直後なので、空いていますよ。」
ふたりの間に流れる言葉は、どこか慎重で、けれど優しい。
お互いが“何か”を知っている気がしながら、
それを声に出さないまま、そっと包み込んでいるような。
「……あの本、気に入ってらっしゃいましたね。」
凜が、少しだけ目を伏せて言った。
「ええ。不思議と惹かれました。
昔、似たような言葉を──誰かに言われた気がして。」
その言葉に、凜の目が一瞬だけ揺れる。
けれど、すぐに微笑みに戻る。
「そういう本、ありますよね。
言葉が、自分の記憶と重なってしまうような。」
「……はい。」
尚哉もまた、確かに微笑んでいた。
名乗らず、問わず、答えない。
けれど、その沈黙が“真実を知る者同士の距離”を縮めていた。
尚哉は展示棚の前に立ち、昨日と同じ一冊を手に取った。
「何度見ても、ここに引き寄せられてしまいます。」
「……言葉って、不思議ですね。」
凜の声は、どこか祈るように静かだった。
「書いたときには何も起きないのに、
誰かに読まれたときに、ようやく意味を持つ。」
「──だから、手紙って、特別なんでしょうね。」
ふたりはそれ以上、何も言わなかった。
けれど、言葉にならない言葉たちが、
その場を満たしていた。
図書館の時計が、静かに午前十時を告げる。
尚哉は本を戻すと、もう一度だけ振り返って言った。
「……また、来ます。」
「……お待ちしています。」
名前を呼ばないまま、
その朝のやりとりは終わった。
けれど、ふたりの胸の中では──
もう“始まっていた”。
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