揺らぎの交差点

ゆらぎ

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【第四部|雨の中の言葉】

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雨音が、屋根のトタンをやわらかく叩いていた。

図書館研修の最終日。
山間の町にある合宿施設は、どこか“時間の止まった場所”のようだった。

凜はひとり、研修棟の隅にある静かな談話室にいた。
窓の外は灰色の空。雨に濡れた木々が、風に揺れている。

手元には、便箋と封筒。
薄い水色の縁取りが、少しだけ季節を感じさせる。

──彼に、返事を書こう。

展示されていた文庫本の中に、ひときわ印象的な書き込みがあった。
それは、何かを読んで“心が動いた”ことを、静かに語るような文章だった。

そして、その感想文に導かれるように、凜は“誰か”に手紙を書くことになった。

「……名前も住所も分からないけど。」

それでも、書かずにはいられなかった。

雨の匂い。
紙の手触り。
ペン先が走る音──

凜は言葉を編むようにして、便箋に想いを重ねていった。

 ──拝啓、あなたへ。

凜の筆跡は、少しだけ緊張していた。
でも、一文字ずつが丁寧で、言葉を包むように優しかった。

 あの本の巻末に、あなたの書き込みを見つけました。
 私は、初めて“感想”というものを読んで泣きそうになりました。

 誰かの心の動きが、こんなにも静かに伝わってくるなんて、
 知らなかったからです。

 ──ありがとう。

その言葉を書いたとき、凜の胸がふわりと温かくなった。

 私はあなたが誰なのか、何も知りません。
 けれど、あなたの言葉は、ちゃんと届きました。

 もし、ほんの少しでも、あなたがまた何かを書いてくれたら、
 私はまた、それを読みに来ます。

 あなたがこの町を離れても、
 この図書館に来られなくなっても、
 私はずっと、ここにいます。

雨が窓を伝い、雫の筋がガラスに細く広がった。

 ──それは、誰かを待つということではなくて。
  ただ、誰かの言葉を覚えているということなのだと、思います。

手紙を書き終えた凜は、ゆっくりとペンを置いた。

便箋の上には、たった数段の文章。
けれど、それは彼女が今までの人生で書いたどんな言葉よりも、
“心の深い場所”から引き出されたものだった。

封筒を手に取り、宛名を書こうとして、ふと手が止まる。

──名前も、住所も、知らない。

差出人欄も、空白のまま。
その封筒は、まるで“どこにも届かない手紙”の象徴のようだった。

凜は立ち上がり、文庫本を手に取った。

──あの書き込みがあったページ。

巻末の余白に、そっと、自分の返事を一文だけ記した。

 「わたしも、そう思っていました。」

それは手紙そのものではなかったけれど、
それでも彼女の“返事”は、たしかにそこに刻まれた。

封をしたままの手紙は、そのまま鞄の奥にしまわれた。

どこにも送られないまま、
ただ凜の中に、静かに残された。

外ではまだ雨が降っていた。

その音が、まるで言葉たちの代わりに、
彼女の想いを運んでくれるような気がした。

九年前の夏、尚哉は文芸サークルの合宿で和水町を訪れていた。

当時の彼は、文章への熱が少しずつ冷めはじめ、
それでも“言葉”というものにどこか希望を残していた時期だった。

図書館での共同研修は、合宿の一環として組まれていた。
参加者は皆、町の図書館に配属され、展示物の感想や分類作業を体験した。

尚哉はそこで、一冊の文庫本を手に取った。

特別な理由はなかった。
けれどその本の最後に、自分が感じた想いを書き記した。

 ──「物語の終わりは、時々、誰かの始まりになるのかもしれない。」

その言葉は、自分に宛てたものだった気もするし、
誰かに届いてほしかった願いのようでもあった。

本を棚に戻すとき、彼はふと、向かい側の書架で作業する少女に目を留めた。

小柄で、淡いベージュのカーディガン。
黒髪が肩に落ちていて、指先が本を撫でる動きがとても丁寧だった。

その背中だけが、記憶に残っている。

あの日の午後、図書館の空気は、
夏の終わり特有の静けさを湛えていた。

尚哉はその後、仲間たちと展示レポートのまとめ作業に戻ったが、
どこか心ここにあらずだった。

──あの少女は、誰だったのか。
──なぜ、あの一瞬だけ、記憶に焼きついたのか。

特別な会話も、視線の交差もなかった。
けれど尚哉は、あの背中に“言葉と同じ匂い”を感じていた。

合宿最終日、図書館を去る直前──
彼はもう一度だけ、展示棚の前に立った。

自分が書き込んだ文庫本をそっとめくる。

──そこに、何かが加えられていた。

最後のページ。
自分の言葉の下に、小さな文字で綴られた一文。

 「わたしも、そう思っていました。」

その筆跡を見た瞬間、尚哉の中に静かな震えが走った。

 ──わたしも、そう思っていました。

その言葉が、尚哉の胸に沁み込んでくる。

たった一行。
けれど、その一文には確かな温度があった。

名前も、署名も、ない。
誰が書いたか、まったく分からない。

けれど、それが自分への“返事”であることだけは、疑いようがなかった。

「……ありがとう。」

思わず、口の中でつぶやいた。

その瞬間、自分が“言葉で誰かと繋がった”という感覚が、
ほんの少しだけ、世界の色を変えた気がした。

それでも尚哉は──誰にもその気持ちを語らぬまま、
その町を、夏とともに離れた。

返事をくれた“誰か”の顔を知らぬまま。

けれどその一文だけが、長い時間の中で、
彼の記憶のいちばん柔らかい場所に、残り続けた。

その夜──

凜は実家の部屋に戻り、机の引き出しから再び封筒を取り出していた。

開封されないままの便箋。
ほんの少し紙が焼けているその封筒を、凜は両手で包み込むように持った。

一方──尚哉は宿のテーブルに、古い大学時代のノートを広げていた。

そこには当時の読書感想や、書きかけの短編の断片が並んでいる。
その端に、ふと挟まっていた薄い付箋。

 ──展示棚、書き込み(青い背表紙)

そのメモだけが、あの夏の図書館を思い出させる唯一の記録だった。

ふたりは、それぞれの夜のなかで、
“同じ記憶”をそっと撫でるようにたどっていた。

──「あなたは、どこにいますか。」

凜は、誰にともなく問いかけていた。

目の前にある封筒の中には、未完の言葉がいまも静かに眠っている。

“もしも、あのとき出していたら──”
その思いが、紙を透かして今の彼女の胸に降りてくる。

一方、尚哉はノートを閉じて、目を閉じた。

頭の奥に、ずっと消えない残響のように残っている一文がある。

──「わたしも、そう思っていました。」

名もない返事。
その言葉に、どれほど救われたか──
けれど、誰が書いたのか、いまだに答えを持たないまま。

凜も尚哉も、その夜、それぞれの静寂のなかで、
“声にならなかった会話”を、自分自身のなかで繰り返していた。

まるで、心の奥で文通が続いているように。

尚哉はベッドに横たわり、天井を見つめていた。

ふと、あの時の少女の背中が脳裏に浮かぶ。
本を撫でていた細い指先。
静かで、どこか祈るような気配を帯びた仕草。

──もしかすると。

いや、思い過ごしかもしれない。

そう自分に言い聞かせながらも、
尚哉の心には、ひとつの“予感”が静かに灯っていた。

その頃──

凜もまた、机に向かっていた。

手紙をしまい、文庫本をそっと重ねる。

そして目を閉じ、心のなかでひとつだけ名を呼ぶ。

まだ確証のない名前。
でも、なぜか“そうだ”と感じる響き。

ふたりは、まったく違う場所にいながら──
同じ夜、同じ祈りを、心のなかでささやいていた。

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