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匂い立つ香りは誰がためⅠ
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「名前を教えて」
羽琉矢の声音はどこまでも優しい。見ず知らずの男性の腕の中で、息を顰めて身動ぎひとつしない結愛の姿に、彼はほくそ笑む。
「河合結愛です」
「結愛ちゃん。可愛い名前だね。僕は綴木羽琉矢。覚えていて」
その言葉に結愛の体がビクリと動く。
綴木羽琉矢。
覚えていて、なんてとても残酷なことをいう。きっと二度と会うことのない人なのに。
今日の出来事なんて消し去ってしまいたいくらい、つらいことなのに。忘れてしまいたい人なのに、でも、きっと忘れられない。
結愛は無意識に縋りつくように手に力を入れる。
柔らかい体で強く抱きしめられて、羽琉矢は一瞬息をのんだ。
頬を胸に擦り付けるような仕草は、甘えられているようで、庇護欲を掻き立てられる。
「年はいくつ?」
「十八です」
「学生?」
「はい。今度大学生になります」
大学生か、よかった。高校生だったら、ちょっとまずいかなと思っていたけど。
このくらいでいいのかな?
結愛はずっと緊張している。
受け答えはしっかりしているが、張りつめた糸は緩まない。不安に駆られた気持ちを抱えていたら、決して心は開いてくれないだろう。
見たいのは笑顔、自分を見てくれる純粋な瞳。欲しいのは真っ直ぐな心。自分だけに許してくれる結愛自身。これは渇望だった。必ず手に入れる。そのために。
「あれ、冗談だから」
何食わぬ顔で軽い口調で言うと、羽琉矢は逃がさないように結愛の頭と背中を抱え込む。
「えっ?」
冗談って。急に何を言われたんだろう。
訳が分からず顔を上げようとしたが、結愛の体は羽琉矢に抱き押さえられて動けない。
「警察に通報するって言ったこと。ごめんね。あれ、ウソなんだよ」
「ウソ? 本当に?」
ウソなら、警察に連れて行かれない? 大丈夫なの? 許してくれるの?
「うん。僕だって警察の人間には会いたくないからね。通報なんてしないよ」
「本当に?」
「本当に、ホント。信じて」
半信半疑な声で、何度も確かめる結愛に羽琉矢は苦笑を浮かべた。
よかった。
これで両親に心配をかけなくてすむ。はあ、本当によかった。羽琉矢に捕まってからずっと生きた心地がしなかったから。
抱きしめた体から緊張が解けたのがわかった。
怒るかなって思ったのに、安心感の方が先にきたらしい。今まで騙されていたんだから怒ったっていいのに、今だってその気配はない。
無垢な心は時には危ういが、好ましくて、微笑ましくさえある。結愛への興味は尽きない。
無罪放免でいいんだよね。
もう帰ろう。
香りの正体はわからずじまいだったけど、もういい。
諦めよう。
ここはわたしがいていい場所じゃない。この腕の中がどんなに心地よいと思ってしまっても、この人はわたしには手が届かない人。夢を見るようにそばにいたいと思ってしまったとしても、自分とでは住む世界が違う。
結愛は現実に立ち返る。
「帰ります。すみませんでした」
結愛は、羽琉矢の腕からもがくように身体を動かした。だが羽琉矢の腕の力は緩まない。
ほら、やっぱり。
逃げるだろうなってことはわかっていたからね。隙をついてすり抜けていかれたらたまらない。それでも追いかけて捕まえるけれど。探す手間が面倒だ。
それよりも今、結愛の心を縫いとめてしまうほうがいい。
なぜ、離してくれないんだろう。警察の件は終わったはず。許してくれたんじゃなかったの?
それともまだ何か足りないんだろうか。結愛の頭が混乱する。もう、帰りたい。帰らせて。
「あの、もう二度としませんから、離してください。お願いします」
許しを請う結愛の声を耳元で聞きながら、口の端をあげて羽琉矢は人の悪い笑みを浮かべる。
「お願い、聞いてくれるって言ったよね?」
身をかがめ耳元で囁いた。
艶を含んだ甘い声に結愛の全身に電流が走った。
この感覚を何と呼ぶのか分からない。
怖い。
本能が告げる。逃げた方がいい。今ならまだ間に合う。だが、抱きしめられた身体は身動きが取れない。
「お願い、聞いてくれるでしょ? 約束、したよね?」
じわじわと全身へと毒を染み渡らせるように、言葉に極上の蜜を塗ってもう一度囁いた。
籠の中の鳥。とうぶん、離してくれそうにない。
羽琉矢の声音はどこまでも優しい。見ず知らずの男性の腕の中で、息を顰めて身動ぎひとつしない結愛の姿に、彼はほくそ笑む。
「河合結愛です」
「結愛ちゃん。可愛い名前だね。僕は綴木羽琉矢。覚えていて」
その言葉に結愛の体がビクリと動く。
綴木羽琉矢。
覚えていて、なんてとても残酷なことをいう。きっと二度と会うことのない人なのに。
今日の出来事なんて消し去ってしまいたいくらい、つらいことなのに。忘れてしまいたい人なのに、でも、きっと忘れられない。
結愛は無意識に縋りつくように手に力を入れる。
柔らかい体で強く抱きしめられて、羽琉矢は一瞬息をのんだ。
頬を胸に擦り付けるような仕草は、甘えられているようで、庇護欲を掻き立てられる。
「年はいくつ?」
「十八です」
「学生?」
「はい。今度大学生になります」
大学生か、よかった。高校生だったら、ちょっとまずいかなと思っていたけど。
このくらいでいいのかな?
結愛はずっと緊張している。
受け答えはしっかりしているが、張りつめた糸は緩まない。不安に駆られた気持ちを抱えていたら、決して心は開いてくれないだろう。
見たいのは笑顔、自分を見てくれる純粋な瞳。欲しいのは真っ直ぐな心。自分だけに許してくれる結愛自身。これは渇望だった。必ず手に入れる。そのために。
「あれ、冗談だから」
何食わぬ顔で軽い口調で言うと、羽琉矢は逃がさないように結愛の頭と背中を抱え込む。
「えっ?」
冗談って。急に何を言われたんだろう。
訳が分からず顔を上げようとしたが、結愛の体は羽琉矢に抱き押さえられて動けない。
「警察に通報するって言ったこと。ごめんね。あれ、ウソなんだよ」
「ウソ? 本当に?」
ウソなら、警察に連れて行かれない? 大丈夫なの? 許してくれるの?
「うん。僕だって警察の人間には会いたくないからね。通報なんてしないよ」
「本当に?」
「本当に、ホント。信じて」
半信半疑な声で、何度も確かめる結愛に羽琉矢は苦笑を浮かべた。
よかった。
これで両親に心配をかけなくてすむ。はあ、本当によかった。羽琉矢に捕まってからずっと生きた心地がしなかったから。
抱きしめた体から緊張が解けたのがわかった。
怒るかなって思ったのに、安心感の方が先にきたらしい。今まで騙されていたんだから怒ったっていいのに、今だってその気配はない。
無垢な心は時には危ういが、好ましくて、微笑ましくさえある。結愛への興味は尽きない。
無罪放免でいいんだよね。
もう帰ろう。
香りの正体はわからずじまいだったけど、もういい。
諦めよう。
ここはわたしがいていい場所じゃない。この腕の中がどんなに心地よいと思ってしまっても、この人はわたしには手が届かない人。夢を見るようにそばにいたいと思ってしまったとしても、自分とでは住む世界が違う。
結愛は現実に立ち返る。
「帰ります。すみませんでした」
結愛は、羽琉矢の腕からもがくように身体を動かした。だが羽琉矢の腕の力は緩まない。
ほら、やっぱり。
逃げるだろうなってことはわかっていたからね。隙をついてすり抜けていかれたらたまらない。それでも追いかけて捕まえるけれど。探す手間が面倒だ。
それよりも今、結愛の心を縫いとめてしまうほうがいい。
なぜ、離してくれないんだろう。警察の件は終わったはず。許してくれたんじゃなかったの?
それともまだ何か足りないんだろうか。結愛の頭が混乱する。もう、帰りたい。帰らせて。
「あの、もう二度としませんから、離してください。お願いします」
許しを請う結愛の声を耳元で聞きながら、口の端をあげて羽琉矢は人の悪い笑みを浮かべる。
「お願い、聞いてくれるって言ったよね?」
身をかがめ耳元で囁いた。
艶を含んだ甘い声に結愛の全身に電流が走った。
この感覚を何と呼ぶのか分からない。
怖い。
本能が告げる。逃げた方がいい。今ならまだ間に合う。だが、抱きしめられた身体は身動きが取れない。
「お願い、聞いてくれるでしょ? 約束、したよね?」
じわじわと全身へと毒を染み渡らせるように、言葉に極上の蜜を塗ってもう一度囁いた。
籠の中の鳥。とうぶん、離してくれそうにない。
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