果実は甘露な香気を纏う

きさらぎ

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匂い立つ香りは誰がためⅢ

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「桃!」

 香ってきたのはこの匂い。
 香りだけでは解けなかった謎が、桃を見たら絡まった糸が難無くするすると解けていく。

 桃だった。

 意識をすると、強烈に甘ったるい香りが漂ってくる。

「もしかして、香りの正体は桃?」

 結愛のパッと明るくなった表情の先を追って、羽琉矢が聞いた。

「そうです。桃でした」

 結愛は大きく頷いた。

 桃か、桃。桃だったんだ。

 正体がわかってすっきりとした。

「桃の香りが家の外にもしていた?」

「はい。すごく甘くて、おいしそ……」

 そこまで言って口を押えた。

「こういう時は言っていいんだよ。とても美味しそうって、桃は喜ぶから」

 桃にも感情があるみたいに言われて、目をぱちくりとさせた。
 羽琉矢は呆けている結愛の手を引いて、桃の木のそばまで連れてきた。

 結愛の背より高い所にある濃紅色に熟れた桃は、今が食べ頃なんだろう。 香りはますます強くなる。彼女を取り巻くように、包むように。

「とても、美味しそう」

「うん。そうだね」

 素直に言葉を紡ぐ結愛に目を細めて、羽琉矢は手を伸ばして市販のものより小ぶりの桃をちぎって、彼女の目の前に差し出した。

「あげる」

「えっ?」

 結愛は差し出された桃と羽琉矢を交互に見つめた。

 あげると言われても、桃自体が欲しかったわけではない。香りの正体がわかればそれでよかった。目的は達したから満足していた。

「いえ。いいです。一つしかない貴重なもの、もらえません。えっと……綴木さんが」

「羽琉矢」

 結愛の言葉をかぶせるように羽琉矢の声が飛んだ。名字で呼ばれるのは嫌だったらしい。

「これは……羽琉矢さんのものですから」

「持ち主の僕が言うんだからもらって。それに桃は君に食べて欲しいみたいだから」

 結愛の手を取ると桃を握らせた。

 わたしに食べてもらいたいって、羽琉矢さんはさっきと同じ不思議なことをいう。
 結愛は桃を見下ろした。柔らかいと思っていたら、意外に果肉は固かった。

「じゃあ、半分ずつに……」

「結愛、食べてみて」

 半分ずつにしましょうと言おうとしたら、羽琉矢の言葉が遮った。
 僕の言うことを聞きなさいってことなんだろうか。
 さっきもだけれど、自分の意に反することには聞く耳を持たないのかもしれない。わがままな人だ。

 羽琉矢に対する印象が少しずつ積み重なっていく。

「ありがとうございます。大事に持って帰りますね」

 ここは彼の言葉に甘えることにした。

「誰が持って帰っていいって言ったの?」

「えっ!」

 だって、くれたんじゃなかったの? 

 羽琉矢の咎めるような表情に結愛は困惑した。

「ここで食べていって」

「……はい」

 ホントにわがまま。暴君様だ。
 それにこれは元々自分のものではないし、大人しく従っていた方がいいのかもしれない。

「それじゃ、包丁かナイフか貸してもらえますか?」

 食べろと言われて、まさか丸かじりするわけにもいかない。

「そのままで、どうぞ」

 そのまさかだった。
 この人、わたしをどうしたいんだろう。
 わからない。

 結愛はちょっと泣きそうになった。手に持っていた桃をじっと見つめた。
 桃の甘い香りが食欲をそそる。もぎたての桃を丸かじりするのは、一種の贅沢だと思うし美味しいだろう。
 でも、男性の前で口を開けて果物を食べるのは、かなり勇気がいる。しかも相手は初対面の男性。ちょっと無理。

「どうしたの? やっぱり切った方がいい?」 

 結愛は頷いた。
 よかった。わたしの気持ち分かってくれたみたい。
 丸かじりはしなくてすみそう。切ったら羽琉矢さんとも一緒に食べられるし、そのほうがいい。

 羽琉矢は結愛から桃を貰うとしばらく見ていた。
 刃物さえ持ってきてもらえば、自分で切るし、そう思って結愛が待っていると、

「これ、丸かじりした方が、絶対美味しいよ。だから、どうぞ」

 羽琉矢がもう一度手に握らせた。

 意地悪だ。

 結愛は恨めしそうに、上目づかいで羽琉矢を睨んだ。だが、羽琉矢はどこ吹く風といった体で澄ましている。今の状況を楽しんでいるみたいだった。

「お願い。食べてみて」

「お願いって?」

「聞いてくれるんでしょ? 僕のお願い。だから、食べて」

「お願い? これが羽琉矢さんのお願いなの?」

「そうだよ」

 羽琉矢の言葉にほっとしてほぅと息を吐いた。
 お願いって、どんなものかと身構えていたら、桃を食べること? 
 だったら恥ずかしいけどいいのかな。一口かじったら、食べたことになるよね。

 結愛って分かりやすい。すっかり油断しちゃって。
 お願いって一回だけだと思っているみたいだけど、僕は一回だなんて一言も言ってないからね。最初だから難易度を低くしたけど。

 楽しみだな。次はどんなお願いをしよう。

 結愛は羽琉矢が考えていることを知らない。

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