恋の種 ~萌え出ずる若葉を待ちわびて~

きさらぎ

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ラッキーデーの残滓

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 書類を別の部署へと届け、通路を歩いていたところを、向かい側から歩いてくる見知った女性に声をかけられた。

「久しぶり、遥」

 水無月沙羅みなづきさら。同期の社員だ。わたしは経理課で、彼女は秘書課。華やかな外見にぴったりの部署。
 美人でスタイルもいいし、もちろん気が利いていて、有名大学出身で頭だっていい。
 緩やかにウェーブした髪を後ろに纏め、スカイグレーの色あいのスーツも、淡いグリーン系のスカーフをさり気なく使って地味さを和らげているし、デコルテあたりで輝くペンダントも上品で、さらに美貌を引き立てている感じ。センスがいい。女のわたしでも見惚れるくらいだ。

 特に秘書課は橘部長が直々に人選しているという噂があって、妥協を許さないらしい。
 毎年募集がかかるわけではないし、求人が少ない上に競争率も高い。秘書落ちで他の部署に回されるケースもあるらしく、採用されるということは、一種のステータスでもあり、女性の憧れの部署でもあるのだ。

 わたしたちのように百貨店のフロアーに出ない者は、内勤者と呼ばれていて制服がない。
 基本スーツだから毎日の服装には苦労する。一人暮らしのわたしにはそうそう洋服にお金をかけられないから、上手に着まわしていかなくてはならない。こんな時は制服が羨ましい。悩まなくていいし。つい先日だって、お気に入りのスーツをダメにしてしまったから、選択肢が一つ減ってしまった。あの時ぶつかりさえしなければ……

 うあっ! 最悪。嫌なことを思い出してしまった。
 はい、記憶から消して忘れよう。

 目の前には秘書課の華、沙羅がいるんだから、せめて目の保養をして心を慰めなきゃ。

「沙羅、元気してた?」

 わたしは気を取り直して明るく声をかけた。

「もちろんよ。まだ研修中だから覚えることはいっぱいで、気を抜けないけどね」

 沙羅は茶目っ気たっぷりで、片目を瞑って見せた。その飾らない性格がわたしは好きだった。
 同期だけど、秘書課と経理課では働いている階も違うから、会う機会はあまりないはずなんだけど。気付くと顔を会わせることが多くて、何がきっかけだったか忘れたけれど、いつの間にか話をするようになって、今では二人で飲みにも出かける気が置けない一番の友人になった。

「ちょうどよかった、聞きたいことがあったのよ。ちょっと時間ある?」

「まあ、五分か十分くらいなら」

 沙羅の言葉に返事をした。用事はすませた後だし、そのくらいの時間は許容範囲よね。わたしたちは階段横のフロアに移動した。そこには休憩用のベンチと自販機が設置されている。わたしはお金を持っていなかったから、沙羅がおごってくれた。やさしー。
 カップのコーヒーを手にして、二人でベンチに腰掛ける。

「ねぇ、ちょっと聞いたわよ」

 わたしがコーヒーを飲んでいると、沙羅の好奇心たっぷりな声がした。

「何をよ? 何かあったの?」

 聞いたって何をだろう? わたしには心当たりはない。それとも何か面白いことでもあったんだろうか?

「うあぁ。とぼけちゃって、結構噂になってるの、知らないの?」

「噂って?」

 何だろう? どんな噂か知らないけれど、わたしは聞いたことない。部署でも聞かないし。わたしは首を傾げるしかない。

「ホント、知らないんだ。知らぬは本人ばかりなりってやつ?」

 沙羅は意味ありげな顔をしてわたしを見た。何なのよ、いったい。

「わたしのことなの? 何かした?」

 覚えがない。

「とぼけちゃって。あなた今、時の人よ。何たって、《会議室スプラッター事件》《阿鼻叫喚な世界、気絶者続出、魔の会議室》って、この話題で持ちきりなんだから」

「はあ! 何なのそれ。ホラー映画の煽り文句みたいなのは」

 誇大広告みたいな大袈裟な沙羅の言葉に、わたしは叫ぶと同時に立ち上がった。
 その拍子にコーヒーが宙を舞った。
 うあっ、しまったと思った時には上手にコーヒーを避けていた。俊敏な運動神経のおかげで手にかかったくらいで被害はすんだけど。ちょっと熱かったけど。スーツも大丈夫。うん、よかった。
 その代わりに床の上に焦茶色の液体が散らばった。ごめんね、染みにならなきゃいいけど。

「何やってるのよ。ほら、これで拭いて」

 沙羅が素早くハンカチを出してくれた。

「ごめんね。沙羅は? コーヒーかからなかった?」

「大丈夫。ギリギリOKだったみたい」

 自分のスーツの袖やら足元とか一通り確かめて、にこと微笑んでくれた。
 よかった。やけどをさせちゃったりしたら、大変だもんね。大事なかったと聞いてほっとする。
 
「はい。これ使って?」

 もう一度、ハンカチを差し出してくれた。
 大ぶりの薔薇のデザインが目に入る。これ、ブランドものだよねー。見るからにお高そうだもん。綺麗なハンカチをコーヒーで汚してしまうのは忍びない。受け取るのを躊躇していたら、はたと思い出した。

「ありがとう。大丈夫。わたしも持っているから」

 自分のポケットから出したハンカチで手を拭った。こちらは自分のものでは、どこにでも売っているお手頃価格のものだから、汚れてもそんなに気にならないしね。
 よかった。今日はたまたま入れていたんだよね。これからはハンカチも必需品ね。

 沙羅はハンカチを仕舞うと、

「遙も意外とそそっかしいのね。気をつけなさいよ。それより何をそんなに驚いてるのよ。事件の張本人が。何があったのか詳しく教えなさいよ」

 目をらんらんと輝かせて、わたしの腕を肘で軽くつついた。

 心当たりはあれしかない。わたしは三日前の出来事を思い出していた。聞く限りでは、かなり誇張された噂になって飛び交っているらしい。


 早く忘れたいのに……

 こんなに後を引くとは思わなかった。 





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