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本編
本編ー15
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ゴブリン:四〇二体、ゴブリン・アーチャー:二四九体、ゴブリン・マジシャン:一六八体、ゴブリン・ソルジャー:八六体、ゴブリン・ナイト:五十体、ゴブリン・ジェネラル:七体、ゴブリン・キング:一体、ゴブリン・ロード:一体、合計九六四体。
積みに積み上げたゴブリン達の死体を前に、ゴブリン討伐を依頼してきた農村の村長や村民達は血の気を失い、腰を抜かし、中には気絶する者もいた。
まあ、それも当然か。子供だとか、一年生だとか、本当に大丈夫なのかだとか、好き勝手言っていたのに、数時間後にはゴブリン七五五体の死体を目の前に積み上げられたのだから、何も言えなくなってしまうだろう。
「ほ、本物か……?コレ」
「ニセモノなんじゃ」
「こんな数時間で出来るわけが」
「どっか別のとこで討伐したゴブリン連れて来たんじゃ」
聞こえて来る、声、声、声、声。
本人達は小さな声で話しているつもりらしいが、その実、声はかなりしっかりとナギト達の耳に届いている。ゴブリン達の死体を積み上げてなお、まだそこまで言えるのは、目の前の現実を信じられないからだろう、多分。
とは言っても、現実は現実。目の前にあるゴブリンの死体が、全てを物語っている。仮に別のところからゴブリンを連れてきて死体を増やしたとしても、説明がつかない数だから。
顔色の悪い村長達を前にして、ゴブリンの返り血で紫色に染まった自分の体と制服を見下ろすユヅキ。
水の精霊に頼んで自分達の体を、制服を綺麗にする事は出来る。
けれど、あえて綺麗にせずにゴブリン集落からこの農村まで帰って来た。どれだけの死闘だったのかと、わかりやすく見せる為だ。死体を積み上げても、制服が綺麗なままではきっとあの村長達は疑ってかかると、そう思ったから。ナギトの指示もあったけれど。
モンスターの返り血で体や服が汚れるのはいつもの事。だからこそ、今更気持ち悪いとは思わないけれどせめて臭いだけでも取れたなとは思う。
そんな事を思いながら、チラリ、横目でユヅキが盗み見るのは、隣に立つミナギの顔。
お世辞にも、顔色が良いとは言えない。胃袋が空っぽになるまで散々吐いた後なのだから、当然だろうが。
九六四体中の、八体。
それは、ミナギがトドメを刺して殺した、ゴブリンの数。
たかが八体。されど八体。それまでスライムしか斬った事のないミナギにとっては、八体でも十分重い数だった。
最初にミナギがゴブリンにトドメを刺した直後の顔を、覚えている。
衝撃。多分、一言でいうなら衝撃だ。
ネグロ・トルエノ・ティグレの牙と爪を素材にしたコラムビは、鋭い。皮膚を貫き、肉を切り裂きゴブリンを殺す感覚は、学園の食堂で出るステーキ肉を切るよりも軽かった筈だ。多分、しばらくミナギはステーキ肉が食べられなくなるだろう。ステーキ肉にナイフを入れた瞬間、ゴブリンを自分の手で刺した瞬間を思い出すから。
剣を使う冒険者は、皆通る道だ。勿論ユヅキも通った道で、少しの間肉料理が苦手になった。今はもう、慣れたけれど。
「お前等がどれだけ好き勝手言おうがどうでもイイ。けどな、俺達がコイツ等をやらなかったら、明日明後日にはこの村が消えてたが?俺等が近場のギルドに報告しても、ゴブリンの集落が発見されるかもわかんねぇしな。集落見付けても、これだけの数だ、冒険者集めるのにも、何日かかったかねぇ?ああでも、だからってわざわざ他のところからゴブリン引っ張って来て数稼ぐなんてたいぎいコトするわけナイから。っつーか、やるとしてもこの短時間で出来るか。ちったぁ頭使えバーカ」
反論の隙も与えず語るナギトに、やっぱり怒ってたと思うのは当然ユヅキ。
一年生だから、学生だからとバカにされる事は、よくある話。新人冒険者でも、新人だからを理由にバカにされるのと同じ。だからこそナギトも、最初に村に来た時は特に気にしていなかった。
それでも、今ここまでノンストップで思い切り毒を吐き続けるのは、ゴブリンの死体を積み重ねてもなお、好き勝手に言い続ける村長達に腹が立ったから。
あくまでもゴブリン集落壊滅は偶然を装った結果であって、本当なら今頃ゴブリン討伐数の報告をしている頃だ。シエロの送迎がない場合は、報告の為にギルドに向かっている道中か。どちらにしろ、集落を壊滅させていなければ、壊滅していたのはこの農村部の可能性が高いわけで。自分達が死んでいた可能性を、考えられないわけがないのに。
目の前に約千体のゴブリンの死体を積み重ねられた事で、思考が鈍っている可能性は、多少あるかもしれないけれど。
「とりあえず、ゆづとミナギはギルドが来るまでそこら辺で休んどけ。セラータ、アルバも、二人に付いてろ」
「はぁい」
「なぁん」
「うん。行こ、ミナギ君」
ナギトの声に頷き、ミナギの手を取ったユヅキがパタパタと駆け出す。向かったのは、農村の入り口の門を出て、少し離れた木の下の木陰。
静かだった。ナギトに指示を出された時も、ユヅキに手を掴まれて引っ張られても、肩にアルバが止まっても、頭にセラータが飛び乗って来ても、やっぱりミナギは静かだった。相変わらず顔色は悪く、掴んだ手も冷たいまま。
木陰に連れて来られても佇んでいて、心配そうに自分を見上げる五人の小さな精霊達が、ぽふぽふと地面を叩いているのを見てやっと、ミナギは腰を下ろした。
再度ミナギを見上げて、五人がそれぞれ顔を見合わせ、そして見上げるのはユヅキの顔。
≪ミナギどうしたの?≫
≪げんきない≫
≪おみずのんだらげんきでる?≫
≪ゴブリン、こわかった?≫
≪こわかったのかな≫
言葉が通じないのは、こう言う時もどかしい。どうしたのか、何を思っているのか、直接訪ねる事が出来ないから。途中で他人を介した言葉は、微妙な感情の機微が伝わりにくい。
人間と精霊の感覚は違う。感じ方も、考え方も、何もかも。
だからこそ五人の小さな精霊達も、ミナギが暗い理由を考えるが、ゴブリンが怖かったのかと若干考えがズレてしまっている。
自分の手でゴブリンを殺したあの衝撃がミナギの中にあって、消化出来ずにいると説明したところで、どこまで彼等が理解出来るか。
どうやって伝えたものかとユヅキが悩むのは、当然と言えた。
結局、正直にゴブリンを殺した事が原因だと伝えても、首を傾げて顔を見合わせるばかり。唯一伝わったのは、ゴブリンよりネグロ・トルエノ・ティグレの方が怖いから、怖かったんじゃないと言う事だけ。
とりあえずそれが伝われば良いだろう。こればっかりは感覚の違いだから。
「ユヅキ、さん」
「うん?なーに、ミナギくん」
やっと口を開いたミナギが、ユヅキの名を呼ぶ。重く、暗い声で。
対するユヅキの声は明るくて、いつも通り。ヘタにミナギを励ますよりも、いつも通りで対応するのが良いと、そう言う判断から。
いつも通り、そのいつも通りがミナギにとっては救いで、同時に――気持ち悪いと言ったら、ユヅキはどんな顔をするだろう。笑って許してくれそうな気はするけど、でも、それに甘えるのは違う気がして。
一度、出掛かった全ての言葉を、感情と共に呑み込む。
「いつ、慣れる?こう言うの」
「……うーん、わっかんない。でも、すぐに慣れなくてもいいと思う。だって、殺してるのは事実だし」
ストレートな言葉に、ぞわり、ミナギの肌が泡立つ。ゴブリンにコラムビを突き立てた時の、あの感覚が蘇る。胃を押し上げ、食道を駆け上がって来る吐き気を堪え切れず、片手で口を覆う。
幸か不幸か、胃が空っぽのせいで何も口から溢れて来なかった。
どうしても、思い出す。
トドメを刺そうとしてコラムビを振り上げた自分を見る、恐怖と絶望に染まったゴブリンの目を。言葉はわからなかったが、何かを必死に訴えていた。多分、止めてくれだとか、許してくれだとか、そんなところだろう。でも、その声を、目を振り払って、コラムビを振り下ろした。
ナギトやユヅキに手を下ろすように促されたわけじゃない。腕を掴まれて下ろされたわけじゃない。
間違いなく自分の意思で、殺した。
おかしな話だ。スライムを斬った時は殺したと言う感覚はなかったのに、それがゴブリンになったら急に罪悪感を覚えるなんて。
自分自身を気持ち悪いと思う日が来るなんて、思いもしなかった。
「でもね、あそこでミナギくんがゴブリンにトドメ刺してなかったら、アタシやナギトが攻撃されてたかもだよ?」
「それは……二人が気付いてなくても、アルバもセラータも居るんだから、攻撃される事はないんじゃないの……?逃げるのは……あるかも、だけど」
「可能性の話よぉ。もしぃ、ゆづが精霊術師じゃなかったらぁ?わたし達だってぇ、傍に居なかったらぁ、対応出来ないわよぉ?」
≪そーそー。そりゃ、未契約の精霊はそこら辺にたっくさん居るけど、だからって人間があぶなーい、助けなきゃー!なーんて行動する物好きは滅多に居ないって≫
「仮にそんな物好きだとしてもじゃ、敵を倒すだけの力があるかどうかも問題じゃしのう。ほれ、ミナギの傍に居るおチビ達が良い証拠じゃ。その子等は物好きじゃが、五人で力合わせて頑張ってもまだゴブリン一匹倒すのがせいぜいじゃろうて」
二人の会話に文字通り首を突っ込んで来たのは、アルバ、シエロ、グラールの統括大精霊トリオ。
まあシエロに関しては、ゴブリン集落壊滅後に姿を消していて、声だけ。グラールは本当についさっきまで居なかったのに、当然のようにすぐ脇に現れるのだから、数秒前まで抱えていた気持ち悪さや吐き気が吹っ飛んでしまった。ビックリしたせいで。
それをグラールが狙ったかどうかは、わからない。いつも音もなく現れるのだから、いつも通りと言えばいつも通りなのだけど。
突然現れたグラールに驚いたのは、五人の小さな精霊達も同じ。だがそれよりも、話の内容がわからず首を傾げてもいたが、ユヅキに通訳してもらった後は、何やら喧々囂々文句を言っているように見えた。
恐らく、自分達は物好きじゃないとか、自分達だってゴブリンを軽く倒せるだとか、そんなところ。
「ゴブリンに襲われた村がどうなるか、ミナギくんは知ってる?」
「えっ?あ、いや……知らない。本でなら、読んだけど……」
本はあくまでも本であり、実際の空気は感じられない。
特別な力を持った勇者と呼ばれる人が仲間と一緒に魔王を倒す、なんてよくある王道の物語でも、戦場の空気はとても表現出来ない。吐き気をもよおす程の濃い血の臭いも、無造作に転がる死体も、焦点を失った暗い瞳も、地面を塗り替える大量の血も。実際に戦場に立って初めて知るものばかり。
同様に、ゴブリン・パレードで轢き潰された村や町の惨状も、本物は、知らない。本物を知る機会がない事を祈る。なんて言ったら、ユヅキ達はどんな顔をするだろう。
「あの村なら多分、男の人は全滅。食糧は、家畜も一緒に持ち去られてる。あ、農具も武器に出来るからって持ち去られるかな。女の人は……女の子も?集落に連れ去られてる。で、アタシ達のゴブリン討伐数が異常だからって急遽編成された冒険者の大パーティが来た頃には…………うん、遅過ぎるかなぁ」
最後の言葉はあえて明確に語られなかった。口にするのも、憚られるから。ユヅキも女だ、さすがに語りたくないだろう。
ゴブリンに連れ去られた女性がどんな結末を辿るか、広く知られている話だから。
生きていたとしても、いっそ殺してくれと願う程の絶望を、何度も何度も刻み込まれた後だから。
「ミナギくんは、そうなるのを防いだんだよ。今は、そう思っておけばいいと思う。すぐには無理だと思うけど」
「…………わかった」
ユヅキの言いたい事はわかる、ミナギだって。何度も何度も、自分にそう言い聞かせているから。それでも、すぐには納得出来なくて、でも少しだけ、本当に少しだけ――心に重く圧し掛かっていたものが、消えた気がした。
自分で言い聞かせるのと他の誰かから言われるのとでは、また違うから。
それでも完全に消化出来たとは言い難く、完全に消化出来るまでは時間が掛かるだろう事は、ミナギ自身もなんとなく理解していた。
時間に解決してもらうしかない、こればっかりは。
≪あ、もうそろそろギルドのヤツ等着くから、もうちょっと待っててなー。んもー、色々準備とかあるのはわかってるけどさ、時間かかり過ぎなんだよー。ナギトがゴブリンの討伐数とかゴブリン集落の位置書いた紙くれてさ、それ出したらもう大騒ぎ。ぼくが風の統括大精霊だーって言っても信じなくってー、ちょぉーっとギルドの建物の中でつむじ風起こしてきちゃった!まっ、別にいーよねっ!信じないヤツが悪いんだしっ!ぼく悪くなーい!!≫
「……え、シエロ、今どこにいるの……」
≪え?普通にギルドの人間達運搬中。やーもー、高いとか怖いとか早いとかチョー騒ぐ騒ぐ。めんどくっさーい!あ、こう言う時か!ナギト風に言うとたいぎー!!≫
今日も今日とてお喋りシエロは元気だ。思わず、いつもより勢いはないものの、ミナギがツッコミを入れてしまうくらいに。
しかし、ギルド内でつむじ風を起こしたと言うが、それは大丈夫なのだろうか。否絶対大丈夫ではないけれど。だって空を司る風の統括大精霊のつむじ風だ。しかも、統括大精霊だと名乗って信じてもらえなかったとしたら、不機嫌さによって勢い割り増しになっている訳で。
あ、ギルド内がどうなっているか考えるの止めよ、怖い。
それよりも、流石は風の精霊だ。ギルド職員達を運びながら、こうしてすぐ傍らに居るような形で声を届けるなんて。
ナギトの方言を使って面倒臭いを言いかえる時の声が、物凄く楽しそうに聞こえたのは、多分絶対、気のせいではない。ほんの数秒前までは不機嫌だったのに、今は超ご機嫌。これが風の精霊の気質だと言えばそれまでだが、テンションの落差が激しい。
≪ってか腹立つのがさ、コイツ等ゴブリンの討伐数信じてない事だよ!!ユヅキもナギトもミナギもチョー頑張ったのにさ?『ウソをつくならもっと上手くつけ』とか言い出して、ぼくもうキレちゃった。もうゴブリンの死体の山の真ん中に落としてやろっかなー。面白そうじゃん?やっちゃおーっと!≫
さっきまでご機嫌だったのに、また不機嫌モードに逆戻り。シエロの機嫌が乱高下。
普段、ユヅキ達と会話している時はハイテンションになる事はあっても、ここまでテンションが下がる事は一度としてなかった。シエロはこれが普通だとグラールは語るが、流石にちょっと、かなり、否凄く、付いて行くのが難しいテンションの上がり方であり、下がり方だ。
約千体のゴブリンの死体の山の真ん中に落とされるなんて、いくらモンスターの死体を見てきているギルド職員だったとしても、トラウマになってしまうのではないだろうか。
とは言え、今のシエロはユヅキでもグラールでも止められないそうなので、職員達の心の平穏を祈っておこう。
◇ ◆ ◇
「うわ……。シエロ……コレは?」
「え、呼んで来いって言われたギルドの人間達」
「……埋まっとるんだが」
「アハハハハハハ!いー感じに埋まったよねー。まーいーじゃん、クッション代わりになってさ」
突如上空から響いて来た複数の悲鳴に、流石のナギトもビクッと肩を震わせた。しかも、そのまま悲鳴の主達は全員、一人残らずゴブリンの死体の山の真ん中辺りに墜落。足だけが見える状態で、文字通りゴブリンの死体の山に突き刺さっていた。
これにはナギトも珍しくドン引きしていて、一歩、ゴブリンの死体の山から離れる。
ナギトもまだゴブリンの返り血を拭っておらず、全身紫色の血まみれではあるが、流石に死体の山に突っ込むのは勘弁してほしい。あのナギトですらそうなら、村長達の反応は言わずもがな。ゴブリンの死体を見た時以上に蒼い顔をしていた。正直気持ち悪い。
唯一、気分爽快とばかりに大笑いしていたのは、言う間でもなくシエロ。テンションが高いせいか、シエロの周りでは風がびゅうびゅうと音を立てて吹いている。
「くっそ!!なんなんだ一体!!なんで僕がこんな目に遭わなければならないんだ!!」
「ひえええ……ご、ゴブリンの血が……」
「おえ……っ、くさい……っ」
ゴブリンの死体の山から次々と顔を出す人、人、人、合計七名。全員ギルドの職員らしいが、立派な制服はゴブリンの血に染まっていて、目も当てられない状態だ。死んでからそれなりに時間が経っている筈だが、まだ完全に血が固まる程の時間は経っていないらしい。
半泣きになっていたり、吐きそうになっていたりと、それぞれがそれぞれの反応を見せる中で、一人憤った様子を見せるのは、男性職員だ。
文句を言いながら死体の山からいち早く抜け出すと、怒りに釣り上げた目で周囲をぐるりと見回す。見回して、全身紫色に染まったナギトを黙視すると、カッと目を見開く。
えぇ、何怖いこの人。
「君か!ゴブリン約千体討伐なんてバカげた報告をして僕達をこんなところまで呼びつけたのは!!」
「バカげた報告?じゃあ今お前が踏み付けてんのはなんだよ」
無遠慮に指差し、大声で怒鳴りつけて来る男性職員に対して、ナギトは冷静に、彼の足元を指差し反論。
これには男性職員もぐっと言葉を詰まらせるしかなく、悔しそうな顔をして自分の足元を見下ろす。ゴブリンだけではない。パッと見ただけでも、装備からゴブリン・アーチャー、ゴブリン・ソルジャー、ゴブリン・ナイトと判断出来る死体もあって――何も言えなくなる。
百聞は一見に如かずとはよく言ったものだ。
自称風の統括大精霊と名乗るシエロが持ってきた報告書を読んだ時は、学生の、しかも一年生が誇張した過大報告のバカげた内容だと鼻で笑い、嘘を吐くならもっと上手く吐けとまで言って一蹴したのに、コレはなんだ。
まあ、声を出して噓吐きな報告だと言った直後、ギルド内部が半壊に追い込まれ、責任を取って今回の報告確認に向かう責任者に任命されたのだけど、この男性職員は。
「コイツさー、ナギト達のコトをさー、『ウソツキ』だの、『学生がちょーし乗ってる』だの、好きほーだい言ってくれちゃってさー?しかも!ぼくが風の統括大精霊だって言ったら、『統括大精霊はもっと荘厳で神聖な存在だ』とかなんだか語り始めちゃって?ナギト風に言えばぁ、バチクソキレ散らかしたよねっ!!」
ナギトの傍らをすいっと滑るように飛びながら、ギルドでの事を語り始めるシエロ。最後の方は怒りをこれでもかと込めてギロリと睨み付けるのだから、さっきまでナギトに食ってかかっていた男性職員は、ビクッと体を震わせる。
既にギルド内部を半壊に追い込んだ後だ、またあれを喰らうのではないかと怯えるのは至極当然。
見た目は一六か一七歳くらいの、ほぼ人間と変わらない姿。風属性に超特化した攻撃魔法士と言われた方が納得出来る程の。
だが、決定的に違う。魔法には詠唱が必要で、決まった力の形がある。ギルド内部を半壊させたあの力は、知る限りのどんな魔法とも違った。空を飛ぶ魔法も、現状存在しない、と、思う。
風が怒りの声を上げ、シエロの周りでぎゃんぎゃんと回転する。翡翠色の瞳が煌めき、何かのきっかけで即座に風が牙を剥く、まさに一触即発状態。
他のギルド職員が悲鳴を上げ、ナギトに食ってかかっていた男性職員に、謝れと怒鳴り付けている。表情がかなり緊迫しているように見えるのは多分、命の危険を感じているから。だって怒らせているのは人間ではなく、精霊。しかも、その属性の精霊の頂点に立つ統括大精霊なのだ。怯えて当然。
飛びながら、ナギトの肩に頬杖を突くシエロ。体勢的には頬杖を突いて床に寝転がるような姿だ。
けれど、ちゃんと気を付けているらしく、怒りで逆巻く風がナギトを傷付ける事はない。
「ねーナギトー、コイツ等どーする?どーしよっかー。もうちょい絞め上げてもいいよねー?」
頬杖を突いているのとは反対の手で、シエロが無遠慮にギルド職員達を指差す。それから親指と人差し指で、きゅっと何かを絞めるように動かせば、その手の周りで風が渦を巻く。
脅しではない。本当にやる。それを思い知っているギルド職員総勢六名は、ついに全力でナギトに食ってかかっていた男性職員を土下座させる。
いくら男であっても、男女混合六人に力づくで押さえ付けられれば、頭を下げるしかなくて。
「くっそ!!離せ!僕に触れるな!!」
「君さぁ!どんだけ迷惑かけてるかわかる?!」
「かかかか風の統括大精霊様を怒らせたらぁ!今度こそギルドが……いいえ、街が壊滅しちゃいますよぉぉぉぉ!!」
「マジふざけんな!お前マジでふざけんなよ!?」
「アンタのバカに巻き込まれたアタシ達の迷惑考えなさいよ!!」
「今回の件、本当に申し訳ありません!!」
「あの者にはギルドマスターからもきつく叱って頂きますので!ギルドサブマスターの私に免じてこの場はお許しくださいっ!!」
大変だなぁ、ギルドも。と言うのは、ナギトの心の声。と同時に、見るのはシエロだ。
今更だが、本当に今更だが、風の統括大精霊シエロは、本当は恐れられる存在なんだよな、としみじみ。否、シエロだけでなく、他の統括大精霊であるアルバも、セラータも、グラールも、残りの二人も、本当だったらナギト達が頭を下げる存在なのに。
魔剣の精霊であるヴェルメリオも一緒になって、実はまだ小さかった自分達の子育てをしてくれたなんて知ったら、彼等の常識は根底からひっくり返るかもしれない。
「シエロ、話進まないからストップ」
「えぇー?けどさぁ!」
「話早く進めさせてくんないと、俺達ゴブリンの血洗い流せないんだけど。ゆづも全身紫のまんまだけどイイのか?」
「それはちょー大変!!ゴブリンの血まみれのまんまなんてダメに決まってんじゃん!!んもー、早く言ってよそう言う事はぁ!早くキレイにしてー!!」
「ってコトで、その男はどうでもイイから、さっさと仕事してくれる?待つのたいぎい」
一触即発の空気が一瞬で霧散する。それこそ、肩透かしを食らったように、呆気なく。ぽかんとするギルド職員達には、流石に同情を禁じ得ない。
まあ、ナギトもシエロと出逢った頃は、幼い子供だったのもあって、そのテンションの乱高下っぷりに振り回された覚えはあるけれど。慣れって怖い、本当に。
ゴブリン達の死体を、とりあえず種類ごとにシエロに分けてもらい、最初に討伐したゴブリン十七体分の討伐証明である右耳も渡しておく。積み上げた死体の山と合わせると、合計で九八一体分か、よく倒したものだ。
仕事を終わらせたシエロと、ナギトの目が合う。
すっと無言で差し出した拳に、一瞬ぱちくりと瞬いた後、にかっとシエロは笑い、自分からも拳を出してグータッチ。続けて、ナギトの拳をシエロが上から打ち下ろし、今度は応えるようにナギトが下りて来たシエロの拳を打ち上げる。そして最後にもう一回グータッチをして終了。
「ぼくが他のチビ共呼んでコイツ等監視しとくから、ナギトは血をユヅキに洗い流してもらいなよー。水のチビ共がユヅキのトコで出番待ってるからさー」
「ん、頼んだ」
シエロの言葉を受け、軽く手を振って去って行くナギト。
これには、ギルドの職員達が勘弁してくれと震え上がる。少なくとも、この場で唯一シエロを宥める事が出来る人間が消えてしまうのは、正直怖過ぎる。待ってと叫びたいが、否実際叫んでいたのだが、声が発せられた瞬間、風にかき消されて消えて行く。当然、シエロが風で音をかき乱して消した結果だ。
遠ざかって行くナギトの背中を引き留めたいのは、ギルド職員だけでなく、村長達も。ゴブリンの死体の山に続き、物語に書き記されているような風の統括大精霊の登場に、腰を抜かしている者も多い。
本物だろうかと疑いたい気持ちはあるものの、ギルド職員達の怯えっぷりから、全て現実なのだと納得するしかなくて。
さっきまでぎゃんぎゃんと渦巻いていた風が、轟々と唸りを上げている。ほんの僅か、何かしらの不穏な行動を見せれば、即座に風で斬り裂かれる、そんな威圧が恐怖を呼び、村長達の体を支配する。
「ほーらほら、これ以上ユヅキたちを待たせないでよねー?あんまり待たせちゃうとー……まーたゴブリンの死体の山に突っ込んであげるからねー?」
満面笑顔で圧を掛けて来るシエロの言葉に、ギルド職員達は勿論、村長を含めた全員がひいいいっと悲鳴を上げる事になった。
◇ ◆ ◇
水の精霊達に頼んで、やっとゴブリンの血を洗い流してもらい、更にはアルバに体に異常が出ないようにと浄化までしてもらい、一安心。
ようやく息が吐けるとため息を吐きながら、早々にナギトは木の下で横になっていた。
両手両足をぐーっと大きく伸ばし、そして深いため息を吐いて頭の後ろで手を組み、目を閉じる。
「あ゛ぁー……バチクソたいぎかったぁ……!!」
「……ナギトさんでも『疲れた』って思うんだね」
「お前、俺をなんだと……」
「常識ズレズレ規格外魔法剣士」
「オイ」
横になったナギトの言葉から、恐らく今のは疲れと言う意味合いだろうと読んだミナギが呟く。聞き捨てならないとばかりにナギトが眉を顰めて睨んで来るが、ミナギもミナギで怯まず真正面から言い返す。
そんな二人のやり取りを楽しそうに笑うのはユヅキ、アルバだ。
グラールはまた姿を消した後で、セラータはナギトの肩の辺りで丸くなって寝ようとしている。さり気なく、ナギトの顔に木漏れ日の光が落ちて来ないように、黒い闇の屋根のようなものを創っている。
特にこれと言ってユヅキが指示した訳でもなく、ナギトが頼んだ訳でもないのに、当然のように闇の屋根を出しているのだから、この昼寝スタイルはよくやっている事がわかる。
人の事をとやかく言える立場でなくなっているが、そんな精霊の使い方はありなんだろうか。
「確認、どのくらいかかるかなぁ」
「わからん。けどまー……数多かったから、もう少しかかるだろ。これが討伐部隊組んでたら、誰が、どの種類のゴブリンを何体倒したかの報告受けて、総合して討伐数と照らし合わせて、なーんて作業が入るから、普通よりは早いと思うけどな」
「……同じ事何度も訊いてるけど、ホントーは一つのパーティでやる戦闘じゃないんだよね、今回の」
うん、と。同時に頷くナギト、ユヅキ、アルバ、セラータに、ドン引きしてしまうミナギは仕方ない筈だ、絶対、きっと。
統括大精霊のアルバとセラータはともかくとして、一応学内認定ランクでSランクを取ったとは言え、まだ一年のナギトとユヅキが平然とあのゴブリン達をなぎ倒したのは、まだちょっと信じられない。実際に現場を見ていたけれど。
けれど、ナギトとユヅキにとっては、慣れた光景ではあった。
自分達だけで戦うのは、これが初めてだったが。
指定災害変異超獣ハンターである両親達に連れられてゴブリン・パレード秒読みのゴブリン集落に飛び込んだのは、確か三度目だったか。
とは言っても、基本的には遠距離からナギトの父親であるルニの規格外魔法と、母親であるウィーダの魔法銃の弾丸――威力的には爆弾レベルだが――を同時に何発も撃ち込んで大幅に数を減らしてから、突撃するのがいつもの手順。
魔法銃士であるウィーダですら、嬉々としてゴブリンの群れに飛び込んで行くのだから変な話だ。
まあ、長銃と短銃を扱う特殊な魔法銃士で、多少の接近戦はお手の物。ゴブリン・ナイトであっても、引けを取らないが。
「けど、シエロ達の協力があってこそだからなぁ。あれだけの矢を闇魔法で防ぐの簡単じゃナイナイ」
「避けるのなんて絶対出来ないもんね。風属性の補助魔法士に速度アップの補助かけてもらっても、避けられないと思う」
「えーっと……地属性の魔法で壁を作ってもらう……ロカ・ムゥロ、だっけ、それは?ロカ・ムゥロの陰に隠れて矢がなくなるまで待機とか」
「ゴブリンは知恵つけてるから、それやってる間にゴブリン・ライダーに回り込まれる可能性が高いな。ゴブリン・マジシャンなら、ロカ・ムゥロで創った岩の壁が防げない真上から魔法落として来る可能性ある」
ミナギの案は、経験則から来るナギトの言葉に一つ一つ潰されて行く。だが、嫌味はない。浅知恵だと嗤う訳ではなく、その場合はこう、と納得出来る説明で。嗚呼成る程とミナギも納得出来る話。
だがそうなると、別の疑問が浮かんで来る。
本当にゴブリンは、そこまで色々な対応が出来るくらい、知恵がつくのだろうか、と。
まあ実際に訊けば、知恵が付くからたいぎいんだよ、と断言されるのだろう。きっと、多分。
知恵がなければ魔法を使えない。知恵がなければ他のモンスターを騎乗するなんて思いつかない。他のモンスターを飼い慣らす知識はつかない。罠を作ったり、待ち伏せや挟み撃ちしたりと、そんな作戦は思い付かない。偶然だったとしても、全てが偶然だったとしても、そんな偶然が連続して起きる訳はなくて。
そう考えると、確かにゴブリンは厄介な相手なのかもしれないと思う。
「…………今回、ゴブリン・パレードを止められたのは、いいこと。ゴブリンを殺したのも……いい、こと……だよね?」
「刺激は強かったかもだけどな。お疲れミナギ」
「帰ったら、ごほうびにナギトに何か奢ってもらおうね」
「わたしもぉ、いいかしらぁ?」
「なーお」
≪あっ、ぼくもぼくもー!≫
「我も頼もうか」
ユヅキの言葉をきっかけに、アルバ、セラータが出て来るところまではまだ良い。問題は、シエロとグラールだ。
倒したゴブリンの集計をするギルド職員達を監視している筈のシエロは、いつも通り聞き耳を立てていて。数瞬前まで姿を消していたグラールは、手の平の上での会話を見ていたと、つまりはそう言う事。
否まあ、今回ゴブリン集落を潰す為に協力してもらったのだから、お礼をするのは別に構わないけれど。なんとなくタイミングが悪い。いつもの事だけど。いつもの事なのだけど。
「ハァ……学園帰ったら奢るから、各自考えとけ。ただし、一人一つな!他に協力してくれた精霊もいるけど、そいつらは代表して三つまで。シエロとグラールの分とは別で」
瞬間、わーいと諸手を上げて喜ぶ一同。
ミナギだけは本当に良いのかなと躊躇っていたが、そこはもう慣れたもの。まあ良いかと気持ちを切り替える事で、自分の意識を変えておいた。
だからと言って高額な物を頼むつもりはないし、せいぜい食事のおかず一品だったり、欲張っても学生寮で使う部屋着用の服だったり、その程度。その程度、だけども。
こう言う時に、まだ躊躇いはあるけれど、それでもご褒美に何を貰おうかと考えられるようになったのは、ミナギ自身も気付いていない意識の変化。
少し前までのミナギであれば、考える事すら出来なかった話。
おかず一品でも、部屋着一着だとしても、強引に押し付けられてやっと手に取るくらいだったから。
ごほうびに貰うものをあれこれ考えているうちに時間は過ぎて、討伐したゴブリンの集計が完了したと、ギルドの職員が村の入り口で待っていたナギト達の元に駆け寄って来た。討伐個体数に間違いはなく、監視していたシエロがどうやってどう倒したかと言う証言内容と死体の状態から、嘘偽りなしと判断された。
まあ、シエロがわざわざ嘘を吐く必要がないのだから、当然と言えば当然だけども。
流石に結果を目の前にして、ナギト達を嘘吐きだの、学生が調子に乗っていると鼻で笑っていたギルドの男性職員も沈黙するしかなく。
ギルドを代表して来たギルドのサブマスターからは、厳正な罰が下る事が伝えられたが、もう反論する事はなかった。
本来ならこう言う場合はギルドマスターが対応するのだが、あいにくと別のギルドマスターとの会議があって不在だったらしい。
「ギルドマスターから、後日正式な謝罪が行くと思います。よろしくお願いします……!!」
「それならいーけどー、本当に!ちゃんと対応してくれるのー?」
再度頭を下げるギルドのサブマスターの女性に対して、念押しをするのはナギト――ではなくシエロだ。わかりやすくギルドの職員達の周りで風を起こし、念押しと言うよりも脅しをかけているようにも見える。
いつもならシエロを宥めに入っているユヅキだが、今回ばかりは話が別。ナギトから少し離れた後方で、ミナギと共にじっとやり取りを見守っていた。
シエロに睨まれ、風で脅され、半泣きになりながらギルドのサブマスターを筆頭にしたギルド職員達は何度も頷く。
そんなやり取りを横目に、ナギトはため息を吐いながら自分のレッグバッグタイプのマジックバッグへと手を伸ばす。あまり使いたくなかったんだけどな、なんて小さく呟きつつ。けれどこれは必要な事だからと自分に言い聞かせる。
「コレなーんだ」
言いながらナギトが見せるのは、レッグバッグから取り出した何か――五センチほどの大きさのオーロラ色の特殊な魔鉱石で出来たタリスマンのブローチ。魔鉱石の中には特殊な刻印がされており、どの角度から見てもその刻印が見えるようになっていた。
なんだろうと首を傾げるミナギの横で、ユヅキは珍しく意地悪な笑みを浮かべていた。
いつもならここでどうしたのと問い掛けているところだが、数秒の間を開けてさぁっと顔色を変えたギルド職員達に、何事かと驚き目を見開く。
「え、あ、あの、そそ、それは、もしかして……」
「あぁ、知ってる?うちの魔法印章」
にこっと。ナギトらしくない、どちらかと言えばユヅキがよくやるにっこり笑顔をナギト浮かべる。が、ナギトらしくないからこそ、なんとも言えない圧がある。
これなら普通に睨まれた方がマシだとすら、思える程に。
魔法印章と言う言葉に、本当にあったんだと瞬くのはミナギ。
【魔法印章】
多数の功績、もしくは実績を重ねた後、大陸王家による審査とギルド本部監査を受けた後、両方の組織の承認を受けて初めて発行される特殊な印章だ。刻印される魔法印章は勿論それぞれ違っていて、知る者が見れば、それがどの家を示すものかすぐにわかると言う。
複数の魔鉱石を組み合わせて作られた、複製不可能な複雑な魔法具でもあり、複数の資格のある魔研技師が少しずつ作る為、作成方法は秘伝とされていると聞く。
持っているだけで貴族とはまた別の一定の権威と権力を示すと同時に、身元を保証するものでもある。
発行された本人、もしくは直系の子供のみが受け継ぐ事が可能ではあるが、重大な過失を犯した、あるいは問題を起こした場合は即没収される厳しい条件があるものだ。
魔法印章の刻印から、自分達が誰を相手にしているのか理解したらしい。ずっと威勢良くナギトに食ってかかっていた男性職員も、ついには顔面蒼白になって震え始めて。ここでもっと追い詰める事は可能だ、ナギトには。
嘘を吐いていると言われ、学生が調子に乗っているとまで言われたのは事実。もう一度、確認の名目で彼の発言を訪ねるのは、流石に意地悪過ぎる気がして。
後はよろしく、そう言い残して、踵を返す。
「よっし、帰るぞお前等ー」
「うん」
「はーい!シエロ、よろしくーっ!」
ナギトの声を受け、ミナギが頷き、元気に片手を挙げてユヅキが答える。そして、ユヅキの声に応え、姿を消したままのシエロが、この農村に来た時と同じようにナギト達の体を一つの大きな風の球で包み、ふわりと宙に浮かばせる。
勿論、アルバ、セラータと、五人の小さな精霊達も一緒に。
やっと帰れる。の心の声は、一体誰のものか。ナギトか、ユヅキか、ミナギか、アルバか、セラータか、もしくは全員か。
「ナギト、魔法印章使うの嫌いなのに使っちゃったね」
「んー。サスガに腹立った、バチクソたいぎい」
ハァ、と吐き出した途端に足元を転がるような重いため息を吐き出すナギトの顔は、心底うんざりしたと言わんばかりの表情に彩られていて。
表情から、魔法印章を使いたくなかったのは本当らしいとミナギも察する事が出来た。
理由までは、流石にわからなかったけれど。
なんとなく予想出来るのは、家名を振りかざすのが嫌いだから、と言う事くらい。
けれど、アクオーツなんて家名は聞き覚えがない。
魔法印章を手に入れるには、もっと広く知られている名前だろうに。
何か言いたそうな空気を察したのか、ふ、と短く息を吐くようにナギトが笑う。
そして語ったのは、アクオーツは母親の苗字だと言う事。
「うちの苗字、有名過ぎんだよ。その名字だけで、色んなヤツが寄って来るし、俺の研究も名字だけである程度評価されそうだから、それでアクオーツを使えって言われてんの」
「それで、えっと……苗字は隠すから、もし面倒事に巻き込まれたら家の魔法印章使うといいよーって、ナギトパパが家の魔法印章くれたんだって」
「親父は指定災害変異超獣ハンターの印章があるから使わんらしい」
そんな簡単に魔法印章を渡して良いものだろうかとも思うが、まあそこはナギトとナギトの家族の感覚だろう、ミナギには理解は難しい。理解出来るのは多分、ユヅキくらいだ。
本当に感覚が違い過ぎる、なんて。出逢った頃から何度も抱いている感想を、また抱える。
まあだからと言って、自分の感覚も世間一般の言う普通の感覚とは違うだろうなと、ミナギも思って居るけれど。
「ナギト、次のクエスト受けるのいつになる?」
「ん-?ん-……ひとまず今回のパレードとギルドの処分報告が来るまでは、しばらく待機かな。簡単のなら受けられるかもしれんけど。なんで?」
軽く首を傾げて自分を見下ろすナギトに、無言の笑顔でユヅキは答える。
何か面白いものを見付けた、新しいおもちゃを見付けた子供のようなその笑顔に、嫌な予感を覚えるのは、当然ナギトで。
ミナギの頭の上でお座りしているセラータを、じっと見つめる。
「セラータ、お前だけが頼りだから。コイツが何かやらかしそうになったら止めろよ。絶対止めろよ。イイな?頼んだぞ?頼んだからな?」
「なーんでアタシが何かやらかす前提なのー?」
「あぁらぁ、どうしてぇ、セラータだけに言うのぉ?」
≪そうだよナギトー、ぼくもいんじゃん!≫
強く念押しするナギトの言葉を受け、反応するのはセラータ――ではなく、ユヅキ、アルバ、シエロ。
ユヅキは疑問を、アルバとシエロは不満を述べるが、真顔でナギトは断言する。
「そう言うトコだわ、このイタズラ大好きトリオがっ!!」
ナギトの大音声に、だがしかし悪戯大好きトリオと呼ばれたユヅキはにこぱっと笑い、アルバは器用に肩を竦めて見せ、シエロは風の中でケラケラと笑っていた。
積みに積み上げたゴブリン達の死体を前に、ゴブリン討伐を依頼してきた農村の村長や村民達は血の気を失い、腰を抜かし、中には気絶する者もいた。
まあ、それも当然か。子供だとか、一年生だとか、本当に大丈夫なのかだとか、好き勝手言っていたのに、数時間後にはゴブリン七五五体の死体を目の前に積み上げられたのだから、何も言えなくなってしまうだろう。
「ほ、本物か……?コレ」
「ニセモノなんじゃ」
「こんな数時間で出来るわけが」
「どっか別のとこで討伐したゴブリン連れて来たんじゃ」
聞こえて来る、声、声、声、声。
本人達は小さな声で話しているつもりらしいが、その実、声はかなりしっかりとナギト達の耳に届いている。ゴブリン達の死体を積み上げてなお、まだそこまで言えるのは、目の前の現実を信じられないからだろう、多分。
とは言っても、現実は現実。目の前にあるゴブリンの死体が、全てを物語っている。仮に別のところからゴブリンを連れてきて死体を増やしたとしても、説明がつかない数だから。
顔色の悪い村長達を前にして、ゴブリンの返り血で紫色に染まった自分の体と制服を見下ろすユヅキ。
水の精霊に頼んで自分達の体を、制服を綺麗にする事は出来る。
けれど、あえて綺麗にせずにゴブリン集落からこの農村まで帰って来た。どれだけの死闘だったのかと、わかりやすく見せる為だ。死体を積み上げても、制服が綺麗なままではきっとあの村長達は疑ってかかると、そう思ったから。ナギトの指示もあったけれど。
モンスターの返り血で体や服が汚れるのはいつもの事。だからこそ、今更気持ち悪いとは思わないけれどせめて臭いだけでも取れたなとは思う。
そんな事を思いながら、チラリ、横目でユヅキが盗み見るのは、隣に立つミナギの顔。
お世辞にも、顔色が良いとは言えない。胃袋が空っぽになるまで散々吐いた後なのだから、当然だろうが。
九六四体中の、八体。
それは、ミナギがトドメを刺して殺した、ゴブリンの数。
たかが八体。されど八体。それまでスライムしか斬った事のないミナギにとっては、八体でも十分重い数だった。
最初にミナギがゴブリンにトドメを刺した直後の顔を、覚えている。
衝撃。多分、一言でいうなら衝撃だ。
ネグロ・トルエノ・ティグレの牙と爪を素材にしたコラムビは、鋭い。皮膚を貫き、肉を切り裂きゴブリンを殺す感覚は、学園の食堂で出るステーキ肉を切るよりも軽かった筈だ。多分、しばらくミナギはステーキ肉が食べられなくなるだろう。ステーキ肉にナイフを入れた瞬間、ゴブリンを自分の手で刺した瞬間を思い出すから。
剣を使う冒険者は、皆通る道だ。勿論ユヅキも通った道で、少しの間肉料理が苦手になった。今はもう、慣れたけれど。
「お前等がどれだけ好き勝手言おうがどうでもイイ。けどな、俺達がコイツ等をやらなかったら、明日明後日にはこの村が消えてたが?俺等が近場のギルドに報告しても、ゴブリンの集落が発見されるかもわかんねぇしな。集落見付けても、これだけの数だ、冒険者集めるのにも、何日かかったかねぇ?ああでも、だからってわざわざ他のところからゴブリン引っ張って来て数稼ぐなんてたいぎいコトするわけナイから。っつーか、やるとしてもこの短時間で出来るか。ちったぁ頭使えバーカ」
反論の隙も与えず語るナギトに、やっぱり怒ってたと思うのは当然ユヅキ。
一年生だから、学生だからとバカにされる事は、よくある話。新人冒険者でも、新人だからを理由にバカにされるのと同じ。だからこそナギトも、最初に村に来た時は特に気にしていなかった。
それでも、今ここまでノンストップで思い切り毒を吐き続けるのは、ゴブリンの死体を積み重ねてもなお、好き勝手に言い続ける村長達に腹が立ったから。
あくまでもゴブリン集落壊滅は偶然を装った結果であって、本当なら今頃ゴブリン討伐数の報告をしている頃だ。シエロの送迎がない場合は、報告の為にギルドに向かっている道中か。どちらにしろ、集落を壊滅させていなければ、壊滅していたのはこの農村部の可能性が高いわけで。自分達が死んでいた可能性を、考えられないわけがないのに。
目の前に約千体のゴブリンの死体を積み重ねられた事で、思考が鈍っている可能性は、多少あるかもしれないけれど。
「とりあえず、ゆづとミナギはギルドが来るまでそこら辺で休んどけ。セラータ、アルバも、二人に付いてろ」
「はぁい」
「なぁん」
「うん。行こ、ミナギ君」
ナギトの声に頷き、ミナギの手を取ったユヅキがパタパタと駆け出す。向かったのは、農村の入り口の門を出て、少し離れた木の下の木陰。
静かだった。ナギトに指示を出された時も、ユヅキに手を掴まれて引っ張られても、肩にアルバが止まっても、頭にセラータが飛び乗って来ても、やっぱりミナギは静かだった。相変わらず顔色は悪く、掴んだ手も冷たいまま。
木陰に連れて来られても佇んでいて、心配そうに自分を見上げる五人の小さな精霊達が、ぽふぽふと地面を叩いているのを見てやっと、ミナギは腰を下ろした。
再度ミナギを見上げて、五人がそれぞれ顔を見合わせ、そして見上げるのはユヅキの顔。
≪ミナギどうしたの?≫
≪げんきない≫
≪おみずのんだらげんきでる?≫
≪ゴブリン、こわかった?≫
≪こわかったのかな≫
言葉が通じないのは、こう言う時もどかしい。どうしたのか、何を思っているのか、直接訪ねる事が出来ないから。途中で他人を介した言葉は、微妙な感情の機微が伝わりにくい。
人間と精霊の感覚は違う。感じ方も、考え方も、何もかも。
だからこそ五人の小さな精霊達も、ミナギが暗い理由を考えるが、ゴブリンが怖かったのかと若干考えがズレてしまっている。
自分の手でゴブリンを殺したあの衝撃がミナギの中にあって、消化出来ずにいると説明したところで、どこまで彼等が理解出来るか。
どうやって伝えたものかとユヅキが悩むのは、当然と言えた。
結局、正直にゴブリンを殺した事が原因だと伝えても、首を傾げて顔を見合わせるばかり。唯一伝わったのは、ゴブリンよりネグロ・トルエノ・ティグレの方が怖いから、怖かったんじゃないと言う事だけ。
とりあえずそれが伝われば良いだろう。こればっかりは感覚の違いだから。
「ユヅキ、さん」
「うん?なーに、ミナギくん」
やっと口を開いたミナギが、ユヅキの名を呼ぶ。重く、暗い声で。
対するユヅキの声は明るくて、いつも通り。ヘタにミナギを励ますよりも、いつも通りで対応するのが良いと、そう言う判断から。
いつも通り、そのいつも通りがミナギにとっては救いで、同時に――気持ち悪いと言ったら、ユヅキはどんな顔をするだろう。笑って許してくれそうな気はするけど、でも、それに甘えるのは違う気がして。
一度、出掛かった全ての言葉を、感情と共に呑み込む。
「いつ、慣れる?こう言うの」
「……うーん、わっかんない。でも、すぐに慣れなくてもいいと思う。だって、殺してるのは事実だし」
ストレートな言葉に、ぞわり、ミナギの肌が泡立つ。ゴブリンにコラムビを突き立てた時の、あの感覚が蘇る。胃を押し上げ、食道を駆け上がって来る吐き気を堪え切れず、片手で口を覆う。
幸か不幸か、胃が空っぽのせいで何も口から溢れて来なかった。
どうしても、思い出す。
トドメを刺そうとしてコラムビを振り上げた自分を見る、恐怖と絶望に染まったゴブリンの目を。言葉はわからなかったが、何かを必死に訴えていた。多分、止めてくれだとか、許してくれだとか、そんなところだろう。でも、その声を、目を振り払って、コラムビを振り下ろした。
ナギトやユヅキに手を下ろすように促されたわけじゃない。腕を掴まれて下ろされたわけじゃない。
間違いなく自分の意思で、殺した。
おかしな話だ。スライムを斬った時は殺したと言う感覚はなかったのに、それがゴブリンになったら急に罪悪感を覚えるなんて。
自分自身を気持ち悪いと思う日が来るなんて、思いもしなかった。
「でもね、あそこでミナギくんがゴブリンにトドメ刺してなかったら、アタシやナギトが攻撃されてたかもだよ?」
「それは……二人が気付いてなくても、アルバもセラータも居るんだから、攻撃される事はないんじゃないの……?逃げるのは……あるかも、だけど」
「可能性の話よぉ。もしぃ、ゆづが精霊術師じゃなかったらぁ?わたし達だってぇ、傍に居なかったらぁ、対応出来ないわよぉ?」
≪そーそー。そりゃ、未契約の精霊はそこら辺にたっくさん居るけど、だからって人間があぶなーい、助けなきゃー!なーんて行動する物好きは滅多に居ないって≫
「仮にそんな物好きだとしてもじゃ、敵を倒すだけの力があるかどうかも問題じゃしのう。ほれ、ミナギの傍に居るおチビ達が良い証拠じゃ。その子等は物好きじゃが、五人で力合わせて頑張ってもまだゴブリン一匹倒すのがせいぜいじゃろうて」
二人の会話に文字通り首を突っ込んで来たのは、アルバ、シエロ、グラールの統括大精霊トリオ。
まあシエロに関しては、ゴブリン集落壊滅後に姿を消していて、声だけ。グラールは本当についさっきまで居なかったのに、当然のようにすぐ脇に現れるのだから、数秒前まで抱えていた気持ち悪さや吐き気が吹っ飛んでしまった。ビックリしたせいで。
それをグラールが狙ったかどうかは、わからない。いつも音もなく現れるのだから、いつも通りと言えばいつも通りなのだけど。
突然現れたグラールに驚いたのは、五人の小さな精霊達も同じ。だがそれよりも、話の内容がわからず首を傾げてもいたが、ユヅキに通訳してもらった後は、何やら喧々囂々文句を言っているように見えた。
恐らく、自分達は物好きじゃないとか、自分達だってゴブリンを軽く倒せるだとか、そんなところ。
「ゴブリンに襲われた村がどうなるか、ミナギくんは知ってる?」
「えっ?あ、いや……知らない。本でなら、読んだけど……」
本はあくまでも本であり、実際の空気は感じられない。
特別な力を持った勇者と呼ばれる人が仲間と一緒に魔王を倒す、なんてよくある王道の物語でも、戦場の空気はとても表現出来ない。吐き気をもよおす程の濃い血の臭いも、無造作に転がる死体も、焦点を失った暗い瞳も、地面を塗り替える大量の血も。実際に戦場に立って初めて知るものばかり。
同様に、ゴブリン・パレードで轢き潰された村や町の惨状も、本物は、知らない。本物を知る機会がない事を祈る。なんて言ったら、ユヅキ達はどんな顔をするだろう。
「あの村なら多分、男の人は全滅。食糧は、家畜も一緒に持ち去られてる。あ、農具も武器に出来るからって持ち去られるかな。女の人は……女の子も?集落に連れ去られてる。で、アタシ達のゴブリン討伐数が異常だからって急遽編成された冒険者の大パーティが来た頃には…………うん、遅過ぎるかなぁ」
最後の言葉はあえて明確に語られなかった。口にするのも、憚られるから。ユヅキも女だ、さすがに語りたくないだろう。
ゴブリンに連れ去られた女性がどんな結末を辿るか、広く知られている話だから。
生きていたとしても、いっそ殺してくれと願う程の絶望を、何度も何度も刻み込まれた後だから。
「ミナギくんは、そうなるのを防いだんだよ。今は、そう思っておけばいいと思う。すぐには無理だと思うけど」
「…………わかった」
ユヅキの言いたい事はわかる、ミナギだって。何度も何度も、自分にそう言い聞かせているから。それでも、すぐには納得出来なくて、でも少しだけ、本当に少しだけ――心に重く圧し掛かっていたものが、消えた気がした。
自分で言い聞かせるのと他の誰かから言われるのとでは、また違うから。
それでも完全に消化出来たとは言い難く、完全に消化出来るまでは時間が掛かるだろう事は、ミナギ自身もなんとなく理解していた。
時間に解決してもらうしかない、こればっかりは。
≪あ、もうそろそろギルドのヤツ等着くから、もうちょっと待っててなー。んもー、色々準備とかあるのはわかってるけどさ、時間かかり過ぎなんだよー。ナギトがゴブリンの討伐数とかゴブリン集落の位置書いた紙くれてさ、それ出したらもう大騒ぎ。ぼくが風の統括大精霊だーって言っても信じなくってー、ちょぉーっとギルドの建物の中でつむじ風起こしてきちゃった!まっ、別にいーよねっ!信じないヤツが悪いんだしっ!ぼく悪くなーい!!≫
「……え、シエロ、今どこにいるの……」
≪え?普通にギルドの人間達運搬中。やーもー、高いとか怖いとか早いとかチョー騒ぐ騒ぐ。めんどくっさーい!あ、こう言う時か!ナギト風に言うとたいぎー!!≫
今日も今日とてお喋りシエロは元気だ。思わず、いつもより勢いはないものの、ミナギがツッコミを入れてしまうくらいに。
しかし、ギルド内でつむじ風を起こしたと言うが、それは大丈夫なのだろうか。否絶対大丈夫ではないけれど。だって空を司る風の統括大精霊のつむじ風だ。しかも、統括大精霊だと名乗って信じてもらえなかったとしたら、不機嫌さによって勢い割り増しになっている訳で。
あ、ギルド内がどうなっているか考えるの止めよ、怖い。
それよりも、流石は風の精霊だ。ギルド職員達を運びながら、こうしてすぐ傍らに居るような形で声を届けるなんて。
ナギトの方言を使って面倒臭いを言いかえる時の声が、物凄く楽しそうに聞こえたのは、多分絶対、気のせいではない。ほんの数秒前までは不機嫌だったのに、今は超ご機嫌。これが風の精霊の気質だと言えばそれまでだが、テンションの落差が激しい。
≪ってか腹立つのがさ、コイツ等ゴブリンの討伐数信じてない事だよ!!ユヅキもナギトもミナギもチョー頑張ったのにさ?『ウソをつくならもっと上手くつけ』とか言い出して、ぼくもうキレちゃった。もうゴブリンの死体の山の真ん中に落としてやろっかなー。面白そうじゃん?やっちゃおーっと!≫
さっきまでご機嫌だったのに、また不機嫌モードに逆戻り。シエロの機嫌が乱高下。
普段、ユヅキ達と会話している時はハイテンションになる事はあっても、ここまでテンションが下がる事は一度としてなかった。シエロはこれが普通だとグラールは語るが、流石にちょっと、かなり、否凄く、付いて行くのが難しいテンションの上がり方であり、下がり方だ。
約千体のゴブリンの死体の山の真ん中に落とされるなんて、いくらモンスターの死体を見てきているギルド職員だったとしても、トラウマになってしまうのではないだろうか。
とは言え、今のシエロはユヅキでもグラールでも止められないそうなので、職員達の心の平穏を祈っておこう。
◇ ◆ ◇
「うわ……。シエロ……コレは?」
「え、呼んで来いって言われたギルドの人間達」
「……埋まっとるんだが」
「アハハハハハハ!いー感じに埋まったよねー。まーいーじゃん、クッション代わりになってさ」
突如上空から響いて来た複数の悲鳴に、流石のナギトもビクッと肩を震わせた。しかも、そのまま悲鳴の主達は全員、一人残らずゴブリンの死体の山の真ん中辺りに墜落。足だけが見える状態で、文字通りゴブリンの死体の山に突き刺さっていた。
これにはナギトも珍しくドン引きしていて、一歩、ゴブリンの死体の山から離れる。
ナギトもまだゴブリンの返り血を拭っておらず、全身紫色の血まみれではあるが、流石に死体の山に突っ込むのは勘弁してほしい。あのナギトですらそうなら、村長達の反応は言わずもがな。ゴブリンの死体を見た時以上に蒼い顔をしていた。正直気持ち悪い。
唯一、気分爽快とばかりに大笑いしていたのは、言う間でもなくシエロ。テンションが高いせいか、シエロの周りでは風がびゅうびゅうと音を立てて吹いている。
「くっそ!!なんなんだ一体!!なんで僕がこんな目に遭わなければならないんだ!!」
「ひえええ……ご、ゴブリンの血が……」
「おえ……っ、くさい……っ」
ゴブリンの死体の山から次々と顔を出す人、人、人、合計七名。全員ギルドの職員らしいが、立派な制服はゴブリンの血に染まっていて、目も当てられない状態だ。死んでからそれなりに時間が経っている筈だが、まだ完全に血が固まる程の時間は経っていないらしい。
半泣きになっていたり、吐きそうになっていたりと、それぞれがそれぞれの反応を見せる中で、一人憤った様子を見せるのは、男性職員だ。
文句を言いながら死体の山からいち早く抜け出すと、怒りに釣り上げた目で周囲をぐるりと見回す。見回して、全身紫色に染まったナギトを黙視すると、カッと目を見開く。
えぇ、何怖いこの人。
「君か!ゴブリン約千体討伐なんてバカげた報告をして僕達をこんなところまで呼びつけたのは!!」
「バカげた報告?じゃあ今お前が踏み付けてんのはなんだよ」
無遠慮に指差し、大声で怒鳴りつけて来る男性職員に対して、ナギトは冷静に、彼の足元を指差し反論。
これには男性職員もぐっと言葉を詰まらせるしかなく、悔しそうな顔をして自分の足元を見下ろす。ゴブリンだけではない。パッと見ただけでも、装備からゴブリン・アーチャー、ゴブリン・ソルジャー、ゴブリン・ナイトと判断出来る死体もあって――何も言えなくなる。
百聞は一見に如かずとはよく言ったものだ。
自称風の統括大精霊と名乗るシエロが持ってきた報告書を読んだ時は、学生の、しかも一年生が誇張した過大報告のバカげた内容だと鼻で笑い、嘘を吐くならもっと上手く吐けとまで言って一蹴したのに、コレはなんだ。
まあ、声を出して噓吐きな報告だと言った直後、ギルド内部が半壊に追い込まれ、責任を取って今回の報告確認に向かう責任者に任命されたのだけど、この男性職員は。
「コイツさー、ナギト達のコトをさー、『ウソツキ』だの、『学生がちょーし乗ってる』だの、好きほーだい言ってくれちゃってさー?しかも!ぼくが風の統括大精霊だって言ったら、『統括大精霊はもっと荘厳で神聖な存在だ』とかなんだか語り始めちゃって?ナギト風に言えばぁ、バチクソキレ散らかしたよねっ!!」
ナギトの傍らをすいっと滑るように飛びながら、ギルドでの事を語り始めるシエロ。最後の方は怒りをこれでもかと込めてギロリと睨み付けるのだから、さっきまでナギトに食ってかかっていた男性職員は、ビクッと体を震わせる。
既にギルド内部を半壊に追い込んだ後だ、またあれを喰らうのではないかと怯えるのは至極当然。
見た目は一六か一七歳くらいの、ほぼ人間と変わらない姿。風属性に超特化した攻撃魔法士と言われた方が納得出来る程の。
だが、決定的に違う。魔法には詠唱が必要で、決まった力の形がある。ギルド内部を半壊させたあの力は、知る限りのどんな魔法とも違った。空を飛ぶ魔法も、現状存在しない、と、思う。
風が怒りの声を上げ、シエロの周りでぎゃんぎゃんと回転する。翡翠色の瞳が煌めき、何かのきっかけで即座に風が牙を剥く、まさに一触即発状態。
他のギルド職員が悲鳴を上げ、ナギトに食ってかかっていた男性職員に、謝れと怒鳴り付けている。表情がかなり緊迫しているように見えるのは多分、命の危険を感じているから。だって怒らせているのは人間ではなく、精霊。しかも、その属性の精霊の頂点に立つ統括大精霊なのだ。怯えて当然。
飛びながら、ナギトの肩に頬杖を突くシエロ。体勢的には頬杖を突いて床に寝転がるような姿だ。
けれど、ちゃんと気を付けているらしく、怒りで逆巻く風がナギトを傷付ける事はない。
「ねーナギトー、コイツ等どーする?どーしよっかー。もうちょい絞め上げてもいいよねー?」
頬杖を突いているのとは反対の手で、シエロが無遠慮にギルド職員達を指差す。それから親指と人差し指で、きゅっと何かを絞めるように動かせば、その手の周りで風が渦を巻く。
脅しではない。本当にやる。それを思い知っているギルド職員総勢六名は、ついに全力でナギトに食ってかかっていた男性職員を土下座させる。
いくら男であっても、男女混合六人に力づくで押さえ付けられれば、頭を下げるしかなくて。
「くっそ!!離せ!僕に触れるな!!」
「君さぁ!どんだけ迷惑かけてるかわかる?!」
「かかかか風の統括大精霊様を怒らせたらぁ!今度こそギルドが……いいえ、街が壊滅しちゃいますよぉぉぉぉ!!」
「マジふざけんな!お前マジでふざけんなよ!?」
「アンタのバカに巻き込まれたアタシ達の迷惑考えなさいよ!!」
「今回の件、本当に申し訳ありません!!」
「あの者にはギルドマスターからもきつく叱って頂きますので!ギルドサブマスターの私に免じてこの場はお許しくださいっ!!」
大変だなぁ、ギルドも。と言うのは、ナギトの心の声。と同時に、見るのはシエロだ。
今更だが、本当に今更だが、風の統括大精霊シエロは、本当は恐れられる存在なんだよな、としみじみ。否、シエロだけでなく、他の統括大精霊であるアルバも、セラータも、グラールも、残りの二人も、本当だったらナギト達が頭を下げる存在なのに。
魔剣の精霊であるヴェルメリオも一緒になって、実はまだ小さかった自分達の子育てをしてくれたなんて知ったら、彼等の常識は根底からひっくり返るかもしれない。
「シエロ、話進まないからストップ」
「えぇー?けどさぁ!」
「話早く進めさせてくんないと、俺達ゴブリンの血洗い流せないんだけど。ゆづも全身紫のまんまだけどイイのか?」
「それはちょー大変!!ゴブリンの血まみれのまんまなんてダメに決まってんじゃん!!んもー、早く言ってよそう言う事はぁ!早くキレイにしてー!!」
「ってコトで、その男はどうでもイイから、さっさと仕事してくれる?待つのたいぎい」
一触即発の空気が一瞬で霧散する。それこそ、肩透かしを食らったように、呆気なく。ぽかんとするギルド職員達には、流石に同情を禁じ得ない。
まあ、ナギトもシエロと出逢った頃は、幼い子供だったのもあって、そのテンションの乱高下っぷりに振り回された覚えはあるけれど。慣れって怖い、本当に。
ゴブリン達の死体を、とりあえず種類ごとにシエロに分けてもらい、最初に討伐したゴブリン十七体分の討伐証明である右耳も渡しておく。積み上げた死体の山と合わせると、合計で九八一体分か、よく倒したものだ。
仕事を終わらせたシエロと、ナギトの目が合う。
すっと無言で差し出した拳に、一瞬ぱちくりと瞬いた後、にかっとシエロは笑い、自分からも拳を出してグータッチ。続けて、ナギトの拳をシエロが上から打ち下ろし、今度は応えるようにナギトが下りて来たシエロの拳を打ち上げる。そして最後にもう一回グータッチをして終了。
「ぼくが他のチビ共呼んでコイツ等監視しとくから、ナギトは血をユヅキに洗い流してもらいなよー。水のチビ共がユヅキのトコで出番待ってるからさー」
「ん、頼んだ」
シエロの言葉を受け、軽く手を振って去って行くナギト。
これには、ギルドの職員達が勘弁してくれと震え上がる。少なくとも、この場で唯一シエロを宥める事が出来る人間が消えてしまうのは、正直怖過ぎる。待ってと叫びたいが、否実際叫んでいたのだが、声が発せられた瞬間、風にかき消されて消えて行く。当然、シエロが風で音をかき乱して消した結果だ。
遠ざかって行くナギトの背中を引き留めたいのは、ギルド職員だけでなく、村長達も。ゴブリンの死体の山に続き、物語に書き記されているような風の統括大精霊の登場に、腰を抜かしている者も多い。
本物だろうかと疑いたい気持ちはあるものの、ギルド職員達の怯えっぷりから、全て現実なのだと納得するしかなくて。
さっきまでぎゃんぎゃんと渦巻いていた風が、轟々と唸りを上げている。ほんの僅か、何かしらの不穏な行動を見せれば、即座に風で斬り裂かれる、そんな威圧が恐怖を呼び、村長達の体を支配する。
「ほーらほら、これ以上ユヅキたちを待たせないでよねー?あんまり待たせちゃうとー……まーたゴブリンの死体の山に突っ込んであげるからねー?」
満面笑顔で圧を掛けて来るシエロの言葉に、ギルド職員達は勿論、村長を含めた全員がひいいいっと悲鳴を上げる事になった。
◇ ◆ ◇
水の精霊達に頼んで、やっとゴブリンの血を洗い流してもらい、更にはアルバに体に異常が出ないようにと浄化までしてもらい、一安心。
ようやく息が吐けるとため息を吐きながら、早々にナギトは木の下で横になっていた。
両手両足をぐーっと大きく伸ばし、そして深いため息を吐いて頭の後ろで手を組み、目を閉じる。
「あ゛ぁー……バチクソたいぎかったぁ……!!」
「……ナギトさんでも『疲れた』って思うんだね」
「お前、俺をなんだと……」
「常識ズレズレ規格外魔法剣士」
「オイ」
横になったナギトの言葉から、恐らく今のは疲れと言う意味合いだろうと読んだミナギが呟く。聞き捨てならないとばかりにナギトが眉を顰めて睨んで来るが、ミナギもミナギで怯まず真正面から言い返す。
そんな二人のやり取りを楽しそうに笑うのはユヅキ、アルバだ。
グラールはまた姿を消した後で、セラータはナギトの肩の辺りで丸くなって寝ようとしている。さり気なく、ナギトの顔に木漏れ日の光が落ちて来ないように、黒い闇の屋根のようなものを創っている。
特にこれと言ってユヅキが指示した訳でもなく、ナギトが頼んだ訳でもないのに、当然のように闇の屋根を出しているのだから、この昼寝スタイルはよくやっている事がわかる。
人の事をとやかく言える立場でなくなっているが、そんな精霊の使い方はありなんだろうか。
「確認、どのくらいかかるかなぁ」
「わからん。けどまー……数多かったから、もう少しかかるだろ。これが討伐部隊組んでたら、誰が、どの種類のゴブリンを何体倒したかの報告受けて、総合して討伐数と照らし合わせて、なーんて作業が入るから、普通よりは早いと思うけどな」
「……同じ事何度も訊いてるけど、ホントーは一つのパーティでやる戦闘じゃないんだよね、今回の」
うん、と。同時に頷くナギト、ユヅキ、アルバ、セラータに、ドン引きしてしまうミナギは仕方ない筈だ、絶対、きっと。
統括大精霊のアルバとセラータはともかくとして、一応学内認定ランクでSランクを取ったとは言え、まだ一年のナギトとユヅキが平然とあのゴブリン達をなぎ倒したのは、まだちょっと信じられない。実際に現場を見ていたけれど。
けれど、ナギトとユヅキにとっては、慣れた光景ではあった。
自分達だけで戦うのは、これが初めてだったが。
指定災害変異超獣ハンターである両親達に連れられてゴブリン・パレード秒読みのゴブリン集落に飛び込んだのは、確か三度目だったか。
とは言っても、基本的には遠距離からナギトの父親であるルニの規格外魔法と、母親であるウィーダの魔法銃の弾丸――威力的には爆弾レベルだが――を同時に何発も撃ち込んで大幅に数を減らしてから、突撃するのがいつもの手順。
魔法銃士であるウィーダですら、嬉々としてゴブリンの群れに飛び込んで行くのだから変な話だ。
まあ、長銃と短銃を扱う特殊な魔法銃士で、多少の接近戦はお手の物。ゴブリン・ナイトであっても、引けを取らないが。
「けど、シエロ達の協力があってこそだからなぁ。あれだけの矢を闇魔法で防ぐの簡単じゃナイナイ」
「避けるのなんて絶対出来ないもんね。風属性の補助魔法士に速度アップの補助かけてもらっても、避けられないと思う」
「えーっと……地属性の魔法で壁を作ってもらう……ロカ・ムゥロ、だっけ、それは?ロカ・ムゥロの陰に隠れて矢がなくなるまで待機とか」
「ゴブリンは知恵つけてるから、それやってる間にゴブリン・ライダーに回り込まれる可能性が高いな。ゴブリン・マジシャンなら、ロカ・ムゥロで創った岩の壁が防げない真上から魔法落として来る可能性ある」
ミナギの案は、経験則から来るナギトの言葉に一つ一つ潰されて行く。だが、嫌味はない。浅知恵だと嗤う訳ではなく、その場合はこう、と納得出来る説明で。嗚呼成る程とミナギも納得出来る話。
だがそうなると、別の疑問が浮かんで来る。
本当にゴブリンは、そこまで色々な対応が出来るくらい、知恵がつくのだろうか、と。
まあ実際に訊けば、知恵が付くからたいぎいんだよ、と断言されるのだろう。きっと、多分。
知恵がなければ魔法を使えない。知恵がなければ他のモンスターを騎乗するなんて思いつかない。他のモンスターを飼い慣らす知識はつかない。罠を作ったり、待ち伏せや挟み撃ちしたりと、そんな作戦は思い付かない。偶然だったとしても、全てが偶然だったとしても、そんな偶然が連続して起きる訳はなくて。
そう考えると、確かにゴブリンは厄介な相手なのかもしれないと思う。
「…………今回、ゴブリン・パレードを止められたのは、いいこと。ゴブリンを殺したのも……いい、こと……だよね?」
「刺激は強かったかもだけどな。お疲れミナギ」
「帰ったら、ごほうびにナギトに何か奢ってもらおうね」
「わたしもぉ、いいかしらぁ?」
「なーお」
≪あっ、ぼくもぼくもー!≫
「我も頼もうか」
ユヅキの言葉をきっかけに、アルバ、セラータが出て来るところまではまだ良い。問題は、シエロとグラールだ。
倒したゴブリンの集計をするギルド職員達を監視している筈のシエロは、いつも通り聞き耳を立てていて。数瞬前まで姿を消していたグラールは、手の平の上での会話を見ていたと、つまりはそう言う事。
否まあ、今回ゴブリン集落を潰す為に協力してもらったのだから、お礼をするのは別に構わないけれど。なんとなくタイミングが悪い。いつもの事だけど。いつもの事なのだけど。
「ハァ……学園帰ったら奢るから、各自考えとけ。ただし、一人一つな!他に協力してくれた精霊もいるけど、そいつらは代表して三つまで。シエロとグラールの分とは別で」
瞬間、わーいと諸手を上げて喜ぶ一同。
ミナギだけは本当に良いのかなと躊躇っていたが、そこはもう慣れたもの。まあ良いかと気持ちを切り替える事で、自分の意識を変えておいた。
だからと言って高額な物を頼むつもりはないし、せいぜい食事のおかず一品だったり、欲張っても学生寮で使う部屋着用の服だったり、その程度。その程度、だけども。
こう言う時に、まだ躊躇いはあるけれど、それでもご褒美に何を貰おうかと考えられるようになったのは、ミナギ自身も気付いていない意識の変化。
少し前までのミナギであれば、考える事すら出来なかった話。
おかず一品でも、部屋着一着だとしても、強引に押し付けられてやっと手に取るくらいだったから。
ごほうびに貰うものをあれこれ考えているうちに時間は過ぎて、討伐したゴブリンの集計が完了したと、ギルドの職員が村の入り口で待っていたナギト達の元に駆け寄って来た。討伐個体数に間違いはなく、監視していたシエロがどうやってどう倒したかと言う証言内容と死体の状態から、嘘偽りなしと判断された。
まあ、シエロがわざわざ嘘を吐く必要がないのだから、当然と言えば当然だけども。
流石に結果を目の前にして、ナギト達を嘘吐きだの、学生が調子に乗っていると鼻で笑っていたギルドの男性職員も沈黙するしかなく。
ギルドを代表して来たギルドのサブマスターからは、厳正な罰が下る事が伝えられたが、もう反論する事はなかった。
本来ならこう言う場合はギルドマスターが対応するのだが、あいにくと別のギルドマスターとの会議があって不在だったらしい。
「ギルドマスターから、後日正式な謝罪が行くと思います。よろしくお願いします……!!」
「それならいーけどー、本当に!ちゃんと対応してくれるのー?」
再度頭を下げるギルドのサブマスターの女性に対して、念押しをするのはナギト――ではなくシエロだ。わかりやすくギルドの職員達の周りで風を起こし、念押しと言うよりも脅しをかけているようにも見える。
いつもならシエロを宥めに入っているユヅキだが、今回ばかりは話が別。ナギトから少し離れた後方で、ミナギと共にじっとやり取りを見守っていた。
シエロに睨まれ、風で脅され、半泣きになりながらギルドのサブマスターを筆頭にしたギルド職員達は何度も頷く。
そんなやり取りを横目に、ナギトはため息を吐いながら自分のレッグバッグタイプのマジックバッグへと手を伸ばす。あまり使いたくなかったんだけどな、なんて小さく呟きつつ。けれどこれは必要な事だからと自分に言い聞かせる。
「コレなーんだ」
言いながらナギトが見せるのは、レッグバッグから取り出した何か――五センチほどの大きさのオーロラ色の特殊な魔鉱石で出来たタリスマンのブローチ。魔鉱石の中には特殊な刻印がされており、どの角度から見てもその刻印が見えるようになっていた。
なんだろうと首を傾げるミナギの横で、ユヅキは珍しく意地悪な笑みを浮かべていた。
いつもならここでどうしたのと問い掛けているところだが、数秒の間を開けてさぁっと顔色を変えたギルド職員達に、何事かと驚き目を見開く。
「え、あ、あの、そそ、それは、もしかして……」
「あぁ、知ってる?うちの魔法印章」
にこっと。ナギトらしくない、どちらかと言えばユヅキがよくやるにっこり笑顔をナギト浮かべる。が、ナギトらしくないからこそ、なんとも言えない圧がある。
これなら普通に睨まれた方がマシだとすら、思える程に。
魔法印章と言う言葉に、本当にあったんだと瞬くのはミナギ。
【魔法印章】
多数の功績、もしくは実績を重ねた後、大陸王家による審査とギルド本部監査を受けた後、両方の組織の承認を受けて初めて発行される特殊な印章だ。刻印される魔法印章は勿論それぞれ違っていて、知る者が見れば、それがどの家を示すものかすぐにわかると言う。
複数の魔鉱石を組み合わせて作られた、複製不可能な複雑な魔法具でもあり、複数の資格のある魔研技師が少しずつ作る為、作成方法は秘伝とされていると聞く。
持っているだけで貴族とはまた別の一定の権威と権力を示すと同時に、身元を保証するものでもある。
発行された本人、もしくは直系の子供のみが受け継ぐ事が可能ではあるが、重大な過失を犯した、あるいは問題を起こした場合は即没収される厳しい条件があるものだ。
魔法印章の刻印から、自分達が誰を相手にしているのか理解したらしい。ずっと威勢良くナギトに食ってかかっていた男性職員も、ついには顔面蒼白になって震え始めて。ここでもっと追い詰める事は可能だ、ナギトには。
嘘を吐いていると言われ、学生が調子に乗っているとまで言われたのは事実。もう一度、確認の名目で彼の発言を訪ねるのは、流石に意地悪過ぎる気がして。
後はよろしく、そう言い残して、踵を返す。
「よっし、帰るぞお前等ー」
「うん」
「はーい!シエロ、よろしくーっ!」
ナギトの声を受け、ミナギが頷き、元気に片手を挙げてユヅキが答える。そして、ユヅキの声に応え、姿を消したままのシエロが、この農村に来た時と同じようにナギト達の体を一つの大きな風の球で包み、ふわりと宙に浮かばせる。
勿論、アルバ、セラータと、五人の小さな精霊達も一緒に。
やっと帰れる。の心の声は、一体誰のものか。ナギトか、ユヅキか、ミナギか、アルバか、セラータか、もしくは全員か。
「ナギト、魔法印章使うの嫌いなのに使っちゃったね」
「んー。サスガに腹立った、バチクソたいぎい」
ハァ、と吐き出した途端に足元を転がるような重いため息を吐き出すナギトの顔は、心底うんざりしたと言わんばかりの表情に彩られていて。
表情から、魔法印章を使いたくなかったのは本当らしいとミナギも察する事が出来た。
理由までは、流石にわからなかったけれど。
なんとなく予想出来るのは、家名を振りかざすのが嫌いだから、と言う事くらい。
けれど、アクオーツなんて家名は聞き覚えがない。
魔法印章を手に入れるには、もっと広く知られている名前だろうに。
何か言いたそうな空気を察したのか、ふ、と短く息を吐くようにナギトが笑う。
そして語ったのは、アクオーツは母親の苗字だと言う事。
「うちの苗字、有名過ぎんだよ。その名字だけで、色んなヤツが寄って来るし、俺の研究も名字だけである程度評価されそうだから、それでアクオーツを使えって言われてんの」
「それで、えっと……苗字は隠すから、もし面倒事に巻き込まれたら家の魔法印章使うといいよーって、ナギトパパが家の魔法印章くれたんだって」
「親父は指定災害変異超獣ハンターの印章があるから使わんらしい」
そんな簡単に魔法印章を渡して良いものだろうかとも思うが、まあそこはナギトとナギトの家族の感覚だろう、ミナギには理解は難しい。理解出来るのは多分、ユヅキくらいだ。
本当に感覚が違い過ぎる、なんて。出逢った頃から何度も抱いている感想を、また抱える。
まあだからと言って、自分の感覚も世間一般の言う普通の感覚とは違うだろうなと、ミナギも思って居るけれど。
「ナギト、次のクエスト受けるのいつになる?」
「ん-?ん-……ひとまず今回のパレードとギルドの処分報告が来るまでは、しばらく待機かな。簡単のなら受けられるかもしれんけど。なんで?」
軽く首を傾げて自分を見下ろすナギトに、無言の笑顔でユヅキは答える。
何か面白いものを見付けた、新しいおもちゃを見付けた子供のようなその笑顔に、嫌な予感を覚えるのは、当然ナギトで。
ミナギの頭の上でお座りしているセラータを、じっと見つめる。
「セラータ、お前だけが頼りだから。コイツが何かやらかしそうになったら止めろよ。絶対止めろよ。イイな?頼んだぞ?頼んだからな?」
「なーんでアタシが何かやらかす前提なのー?」
「あぁらぁ、どうしてぇ、セラータだけに言うのぉ?」
≪そうだよナギトー、ぼくもいんじゃん!≫
強く念押しするナギトの言葉を受け、反応するのはセラータ――ではなく、ユヅキ、アルバ、シエロ。
ユヅキは疑問を、アルバとシエロは不満を述べるが、真顔でナギトは断言する。
「そう言うトコだわ、このイタズラ大好きトリオがっ!!」
ナギトの大音声に、だがしかし悪戯大好きトリオと呼ばれたユヅキはにこぱっと笑い、アルバは器用に肩を竦めて見せ、シエロは風の中でケラケラと笑っていた。
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