永遠の伴侶

白藤桜空

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余勢を駆る

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 美琳メイリンは雨に濡れた顔を拭ってふところにお守りを仕舞うと、辺りを見回す。
 その頃になると雑兵ぞうひょうたちの情勢は大きく傾いていた。
 少年の蹂躙じゅうりんによって敵兵の戦意は大幅に下がり、逆に味方の兵士たちは奮起して実力以上の力を発揮していた。不死身の少年の出現は、るかられるかの死地においては何よりの脅威であり、彼らの変心も当然の帰結だった。
 これで自分の存在実力を知らしめることは出来た、と美琳は感じた。その一方で、文生の隣に立つにはまだ足りない。それもまた間違いないと直感的に悟った。
 ならば、と、美琳は戦の中心地に目を向けた。
 そこでは馬車に乗った貴族たちが兵士に号令を出していた。
 地面が雨でぬかるんでいるせいで、両国の馬車は不安定な動きをしている。されど彼らは兵士を鼓舞するために駆け回らなければいけない。
 そんな中、敵国、ガンの武将――がたいの良い、四十頃の髭面の男が、兵を奮い立たせるための雄叫びを上げていた。
「お主ら! もっと鍛錬の成果を見せぬか! そんな風に育てたつもりはないぞ!」
 その男に子佑ジヨウが声をかける。
永祥ヨンシャン殿! 貴殿の兵も衰えたものですな! そろそろ後進に道を譲られては如何いかがかな?」
 すると永祥と呼ばれた男が笑いながら返す。
「はっはっは! 儂も貴公を見習わんといかんかな? ぽっと出の庶子に王位を明け渡した、貴公のようにの!」
「くッう……!」
 途端、子佑の顔が真っ赤に染まる。
「そんなことを言っていられるのも今の内だッ!」
 子佑は持っていた弓を引き絞る。が、それよりも早く永祥の矢が放たれた。
 カァン、と鈍い金属音が鳴る。
 子佑に向かって飛んできた矢は、すんでのところで勇豪ヨンハオの盾が弾いていた。
 勇豪は低くささやく。
「……子佑殿、怪我してないか」
「あ、あぁ。流石は棕熊ヒグマ殿。あれ程の攻撃を防ぐとはな」
 そう勇豪を褒めた子佑の腕には、大人しく抱きかかえられた弓がいた。それをちらりと見た勇豪は、御者ぎょしゃ浩源ハオヤンに〝もう少し距離を取れ〟と指示を出す。と、すかさず子佑が抗議する。
「大尉! それでは私が永祥殿を狙えなくなるではないか!」
 すると勇豪が面倒くさそうに答える。
「どうしたもこうしたも、この雨でお荷物を守りながら戦うのはごめんだッ…………あ」
 しまった、と勇豪は慌てて口をつぐんだが、時すでに遅し。
 子佑は怒りと羞恥で顔をぐしゃぐしゃにし、雨で湿った唇を戦慄《わなな》かせる。
「大尉……。お主、そんな風に私のことを思っていたのかッ! 王になるはずだったこの私のことを! 荷物などと!」
 金切り声が勇豪を非難し、一瞬の内に気まずい空気が流れた。
 勇豪は浩源に目で助けを求める。が、浩源は、やれやれといった顔で黙々と馬車をるだけで、勇豪に助け舟を出すことはしなかった。
 そのいざこざを永祥は耳聡みみざとく聞きつけると、弓をつがえながら大声で彼らに話しかける。
「棕熊殿も大変だのぅ? 戦場で子守りをせにゃならんとは!」
 言い終えるや否や、永祥は矢を放つ。一直線に子佑を狙ったそれは、再び勇豪によってはたき落される。
「ヒッ」
 と、子佑が小さく悲鳴を上げた隣で勇豪は、永祥の近くを駆ける小さな影に気付き、ほくそ笑み叫ぶ。
生憎あいにく、俺が手を離せなくても優秀な部下が何とかしてくれるもんでなッ! そうだろう? 美琳!」
 その言葉を合図に永祥の馬車から御者が引きり下ろされる。彼の悲鳴は戦場の喧噪けんそうに呑み込まれ、馬たちは手綱たづなから解放されて逃げ惑う。その拍子に馬車が大きく揺れ、永祥は車体のへりを掴んで落ちないようにした、その刹那。
 彼の首目掛けて手戟てぼこが飛んでくる。
 永祥は反射的に頭を大きく下げ、馬車の陰に隠れて難を逃れた。が、頭上すれすれを通ったやいばは彼の結髪けっぱつを持ち帰って行った。斬られた髪は舞い散り、ざんばら髪は顔の上を踊り、毛先から雨粒が弾け飛んだ。
 永祥は濡れた髪を後ろに撫でつけながら立ち上がり、鋭い眼光で誰の仕業なのか探す。しかしどこを見回しても、立っているのは少年――少女と見紛みまごう程に華奢きゃしゃな彼、ただ一人だった。
 その姿を見た瞬間、永祥は怒鳴り声を上げる。
「そこの子供! 神聖なる戦場に立ち入るとは何事か! ままごとではないのだぞ、く立ち去れ!」
 しかし呼びかけられた少年はその怒号を一笑いっしょうす。
「へぇ。たった今、斬られかけた相手に随分な物言いだね?」
「何を抜かし…………む?」
 よく見ると、彼はあかい着物――返り血で真っ赤に染まっている着物を身に付け、同じように血でまみれている手戟を握っていた。そしてよろうてないのにも関わらず、悠然と微笑んでいる。更に目線を移して彼の足元を見やると、死屍しし累々るいるいの惨状が広がっており、その中には先程倒された御者も混じっていた。
「これは、お主がやったのか?」
「ああ、そうだよ」
 少年は誇らしげに首肯する。この残虐な行為を終えたばかりとは思えない、年相応に無邪気な笑顔で。
「は、はははははッ!」
 突然永祥が笑い声を立てる。それに対して少年は目をまん丸にする。
「子供がここまでやるとはのぅ! 面白い! お主、名は何と言う」
「……さっきの聞いてなかったのか?」
「あぁ、あれがお主の名だったか。では美琳。……女の名なのか?」
「……生まれたところの風習なだけさ」
「そんな村があるのか? ……いや、今はそんなことどうでもよい」
 不可解そうな面持ちから一転、永祥は爛々らんらんとした目付きで手を差し出す。
「お主、我が国に来ぬか?」
「……は?」
 美琳は急な申し出に呆れる。
「なんであんたのとこに行かなきゃならないんだよ」
「そりゃもちろん、お主の実力に惚れたからよ。お主の若さでここまでの猛者もさはそうおらんからな。そちらより優遇してやるぞ? 我が国ではこんな雑兵ぞうひょうの真似事などさせん。それなりの俸禄ほうろくも与えよう。どうだ、考えてみぬか」
 そう言って永祥は美琳を手招きする。が。
「嫌だね」
 美琳はその一言で一蹴いっしゅうした。
「……何故だ? 何が不満だ」
 いぶかしむ永祥に対し、美琳の顔はしらけていた。
「ただ単に興味がないからさ。で? 無駄話はこれで終わり?」
 美琳は雨に濡れたほつれ髪を耳にかけると、手戟を握り直す。それを見た永祥が鼻で笑う。
「ふッ、律義な者よ。そこもまた気に入った……が。手に入らぬ上等な芽は早めに摘み取らんとな!」
 そう言うや否や、永祥は目にも留まらぬ速さで弓を射る。と同時に、仕留めた、と確信した。 それを裏付けるように、矢の勢いで少年は後ろに倒れ、彼の胸元には直角に矢が突き立っていた。
 ――だのに。
 少年はゆらりと立ち上がりながら胸の矢を抜く。彼は抜いた矢を適当に投げ捨てると、眉一つ動かすことなく手戟を構え直した。それは間違いなく武器を振るう前の予備動作だった。
 永祥は今、何が起きているのか分からなかった。だが、第六感が警報をかき鳴らしていた。
「くッ!」
 素早く距離を取りながら、永祥は自軍の様子を素早く見回す。
 先の時点ですでに劣勢な気配は濃厚だった。が、今はもう挽回の余地など微塵みじんも残っていなかった。
(……ッ万事休すか!)
 永祥の額から冷たい雫が流れ落ち、彼は大声で自軍に叫ぶ。
「全軍! 退却ッ!」
 敵兵たちは司令官の天の声に喜び勇んで撤退していった。
 その様子を、美琳を筆頭に、シュウ軍は追いかけることなくただ見送る。敗走兵に手を出さない。それは*教えにもとづく戦場での不文律なのだ。
 敵が完全にいなくなると、修兵たちは勝利の歓声を上げた。
「やりましたな、子佑殿」
 勇豪は遠く離れた美琳を見やりながら子佑に話しかける。一方で子佑の顔からは血の気が失せ、とてもじゃないが勝ち軍の指揮官のものには見えなかった。その子佑の視線の先には、先程、胸に矢を穿うがたれたはずの少年がいた。その少年の姿は、攻撃を受ける前と一寸も変わっていない。彼はただ静かに敵兵が消えていった方を眺めている。その異様な姿は遠目からでも瞭然で、あまりにも面妖な光景だった。
 子佑は美琳を指差す。
あれ・・は……。一体なんなのだ?」
 子佑は勇豪に訊ねる。直前まで勇豪と険悪な空気を醸していたとは思えぬ様相で。勇豪は小さく目を見開き、そして頭を掻きながら言葉を選ぶ。
「ありゃあ何て言やいいのかね?」
「…………美琳さんはこの国には欠かせない人になると思いますよ」
 言いよどむ勇豪の言葉を引き継いだのは浩源だった。
「あんな……化け物がか?」
 子佑は震える指で、の少年を指す。と、浩源がにっこりと笑う。
「化け物だからこそ、利用し甲斐がいがあるのでしょう?」
 彼の瞳の光が暗いのは曇り空だからだろうか。
「そう、か? それもそうなのか?」
 子佑は逡巡する。が。
「……ひとまずはこの勝利を祝おう。……うむ。そうしよう。そうするしかあるまい」
 と言って、子佑は考えることを放棄した。彼は、雨水を吸って重たくなった着物のそでを絞りつつ、元より重い体を更に重たそうにして馬車を降りる。そして山の裾野すそのに程近い修陣営に戻ると、一際大きな天幕に入っていった。最早もはや彼の頭に勇豪の失言はなかった。
「美琳さんには色々と・・・助けられましたね、大尉?」
 浩源はびしょ濡れになった髪を解いて軽く絞りながら、勇豪に話しかける。
「ッたくお前はいつも一言余計なんだよ……。まぁ間違っちゃいねぇけど」
 勇豪は眉間に皺を寄せながらもほっとした顔付きだった。その叱られた子供を彷彿とさせる姿に、浩源はくすくすと笑う。
「貴方のそういう素直なところは嫌いじゃないですよ」
 その言葉の真意を察した勇豪は、浩源を一睨みし、乱れた前髪を掻き上げる。直後、歓声に沸く兵らを見回し、大きな声をとどろかせる。
「お前ら! さっさと引き揚げるぞ! 折角勝ったのに雨で体力を持っていかれたらたまったもんじゃねぇからな!」
 兵士たちは号令を聞くと、慌てて木陰を求めて走り去っていく。その後を追って、二人も平原に背を向けるのであった。

 段々と静かになっていく平原。それとは打って変わって、乱れ髪の男が森の中を一心不乱に歩いていた。
「あのおのこ……違うな。あれは女に違いない。あの執念をいだけるのは、女以外の何者でもない。しかしそんなものはどうでもよい」
 ぶつぶつと呟く男。その瞳には煌々こうこうと燃えるほむらを宿している。
「あやつはいずれ脅威になる。その前に何としても手に入れねば……あやつがいれば我が国は盤石となり、どこよりも強い国になる。この負けを、帳消しにする程にッ!」
 ぎり、と男は歯を唇に突き立てる。裂けた唇からは真っ赤な血が雨水の滴に混ざり滴った。
「儂は絶対に諦めぬぞ……。何年掛かろうとも、どれ程の犠牲を払おうとも、絶対に!」
 歴戦の猛者もさとして名をせていたその男にとって、たかが一人の少年に気圧けおされるなどあってはならぬことだった。
 ――たとえ異なる次元のモノであろうとも。
 生まれて初めての屈辱と執着を胸に抱きながら、男は敗戦の帰路にくのであった。






 *教え…国に脈々と受け継がれている倫理観。
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