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白き羽を抱く濡烏
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その日は冷たい雨が降っていたのをよく覚えている。遥か先まで見渡せるはずの山腹でも、少し先の景色が霞んで見えなくなる地雨が。
だが平原で繰り広げられている血生臭い戦だけは、雨を切り裂いて目に飛び込んできた。そして、徒に命が奪われていく、そんな光景が僕を捕らえて離さなかった。
それだけは、いつまでも、鮮明に――――
睫毛の上を雨が嘲笑いながら転がり落ちていく。それは兵士らの視界を滲ませ、濡れて着物に張り付いて体を凍らせ、彼らの足を地に縫い付けようと躍起になっていた。
戦の火蓋が切られてから三日。美琳たちは極限まで追い詰められていた。
敵方は、剛から一万、鳳から二万。総勢三万という圧倒的な兵力を駆り出していた。かたや修はたったの一万。それも下っ端や新人の兵――素人に毛が生えた程度の者まで掻き集めた――実質数千程度の寡兵の修軍が、徹底して訓練された鳳国の頑強な兵に太刀打ち出来る訳もない。毎日格上の者たちを相手取るのは兵たちの心身を疲弊させ、彼らの疲労は溜まりに溜まっていた。
それは司令官も御多分に漏れなかった。如何にしてこの苦境を乗り切るかで勇豪は苦悩し、疲れ切っていた。
今のところ戦場では美琳が敵を引きつけてくれているおかげで兵士らの戦意はギリギリのところで保たれていた。しかしそれも今日の雨でかなり落ち込み、決壊する寸前であった。
「棕熊殿! 何か策はないのか!」
勇豪は同じ馬車に乗っている子佑に吠え立てられる。
「ううむ……。俺もまさか剛がここまで本気だとは思わんかったので……せいッ!」
そう言いつつ勇豪は盾で飛んできた矢を弾く。子佑はわずかに体を竦ませた。が、すぐさま次の矢をつがえて叫ぶ。
「このままでは剛にいい様にしてやられてしまうではないか! せめて何か鼻を明かすことは出来ぬのか!」
勇豪は子佑の無理難題に眉根を寄せた。
もうすでに三分の一も削り取られた兵力で、起死回生の一手などそうそうない。だが、一つだけ。鼻を明かすだけなら勇豪の頭には浮かんでいた。
「……子佑殿。此度の戦の最終決定権は貴殿にある。それで違いないな?」
勇豪は敵兵の喉元に戟を突き刺しながら問う。
「ああ! 此度の戦は王ではなく、この、私が! 戦の全責任を持とう!」
子佑は濁った眼差しで一瞬後ろの山に振り返る。それにつられたように、勇豪も山を見やる。そして深く頷く。
「相分かった。では一時退却して詳しく話そう」
子佑も頷くと〝全軍! 一時退却!〟と下知を下した。
兵らはそのかけ声を合図に、自軍の天幕まで一直線に逃げ帰っていくのであった。
「まったく……。しぶといものよ」
一人の男が撤退していく修兵を眺めながら呟く。と、不意に声をかけられる。
「永祥殿。これでは時間がかかり過ぎだ」
怒りに満ちた声。だが永祥はすげなく答える。
「分かっておるわ、雪峰殿。儂かてここまで粘るとは思わんかったのだ。こればかりは致し方なかろう」
永祥が振り返る。と、そこには馬車に乗っている雪峰の姿があった。
馬車から降りた雪峰は永祥にも降りるように目で合図する。永祥は溜息を吐きながら、渋々といった体で下車する。
「なんだ? また小言か?」
「いや。鳳国から使者が参るようだ」
「む?」
永祥が雪峰の指の先を見やると、鳳国の馬車がこちらに向かってきているのが視認出来た。それの意味するところを察した永祥は、濡れそぼった髪を搔き乱す。
「うーむ。まさかあちらからの小言を聞くことになるとはのぅ」
「このような事態では当然であろう。耳の穴をかっぽじって聞くが良い」
「はっはっは。まあなんとかなるであろう」
永祥は大して気にする風でもなく、使者を迎えに自軍の天幕へ戻るのであった。
「永祥殿の言うた通りであったのう」
「鳳王の御気に召したでしょうか」
「うむ。御喜びであったぞ」
「そうでしたか。それは何よりです」
天幕の中では鳳国の使者が濡れた着物を絞りながら永祥に語りかけていた。永祥もまた、同じように布で顔を拭いながら返事をした。が、雪峰は苦み走った顔で永祥に小さく注意をする。
(永祥殿ッ! それが使者殿と話す態度か! 失礼であろう!)
(ずぶ濡れのまま話す方が失礼であろう)
(使者殿の身支度が終わるまでは我慢せいと申しておるのだ!)
二人が囁き合っていると、使者が雪峰の様子に気付く。
「そこの。なんと言ったか、シェン……」
「! 雪峰でございます」
「そうだそうだ。シェンフォン殿であったな。我に気兼ねする必要はないぞ? それよりも風邪を引いてはいかんからの。疾く乾かすが良い」
「ッ! そう申されますなら……」
雪峰はばつが悪そうにしながら部下に布を持ってこさせる。
その様子を永祥はにやにやと見つつ、地面に広げられている敷き布に腰を下ろす。直後、真剣な眼差しで口を開く。
「では使者殿。我が国の武器の評判を詳しくお聞かせ願えますかな?」
「もちろんだとも」
鳳国の使者は永祥の対面にある敷き布に胡坐をかくと、雨風で乱れた髪を整える。
「概ね貴殿の売り込み通りであったぞ」
使者は顎髭についた水滴を撫でて落とすと、口角を吊り上げる。
「柄は折れにくく刃も欠けぬ。多少荒く使えば壊れてしまうが、それは物の必定。大した問題ではない。それよりもこの雨で劣らぬ切れ味とは……。いやはや、恐れ入ったわ」
「そうでしょうとも。此度のは我が国の自信作でございますからな」
「うむ。嘘偽りのない出来であった。して……あれはどのように作ったのだ?」
「それを申しては我が国の強みが無くなってしまう故、ご勘弁願いますかな?」
「はっはっは! それもそうよの」
使者と永祥が二人で歓談している中、雪峰は愛想笑いを浮かべて相槌を打ちつつ、心の中で独りごちていた。
(このような上辺だけの話などせんでも良いものを。何をそんなに悠長にしておるのか……)
雪峰は苛立ちを抑え込み、なんとか表に出さないようにしていた。その様子に二人が気付く様子はない。
「それで? 永祥殿の目当てのものは捕まえられそうかの?」
使者が声を潜める。と、永祥も使者に顔を近付けて小声で話す。
「これがなかなか厄介でしての。とうに見つけてはいるのだが、どうにも上手くいかんもので」
「ふむ」
使者は考え込むように顎に手を当てる。
「こちらでもわずかに報告が来ておるが……あれは手強いであろうな」
「あやつには恐れるものなどないからのぅ。むしろこちらの兵の方が怯えて逃げ出す」
「あれと相対しては致し方あるまいが……。分かっておろう?」
「ええ。必ずや約束は果たしましょう」
二人の口が揃って弧を描く。が、両者の目は鷹のように鋭く光っていた。
「……さて。そろそろ戻るかの。そちらの王にも宜しく御伝えくだされ」
と、使者が膝を立てると、すかさず雪峰が立ち上がる。
「お見送りします」
「ああ、良い良い」
使者は雪峰を手で制すと、膝を軋ませながら腰を上げる。
「それよりも主らは明日の戦略でも詰めておくが良い。こちらもそんなに暇ではないのでな」
そう言うと使者は、座っている永祥を睥睨する。されど永祥は意に介すことなく返す。
「あちらもそろそろ限界でしょう。降伏してくるのも間近に決まっておりまする」
「ふッ……それもそうよの」
そう言い残して使者は天幕を後にした。
使者の姿がすっかり見えなくなったその刹那。雪峰は凄まじい剣幕で永祥に向き直る。
「永祥殿! こちらも限界が近いのは分かっておろうな!」
雪峰は真下にいる永祥に指を突きつける。が、永祥は煩わしそうに髪を解くだけだ。
「無論、承知の上だ」
「ッ! それもこれも全部、折角私があやつらを追い詰めても、貴殿が手加減して取り逃しているせいぞ⁈」
「何故儂がそうしておるか分かっておるくせに」
「……だからこそ納得がいかんのだ」
「王には許可をもろうておるのだから何も問題は無かろう」
「どうせお主が上手く言い包めたのであろう」
「〝信頼されている〟と申せ」
「はッ! どうだか」
「此度は王の初陣であるからの。儂らのように戦慣れしている者が支えねばいかんだろう?」
その言葉に雪峰は目頭を揉む。彼の頬は少し痩けていた。
「それとこれは別だ。貴殿が戦直前まで兵らをしごいていたせいで奴らの体力は底を突きそうなのだ。それに、今の貴殿からは〝強き者が生き延び、弱き者はいずれ滅びるのみ〟などというご立派な思想は垣間見えん。現状我々が苦しんでいるのは、紛れもなくお主のせいだぞ」
「何、もう少しであれも手に入ることだろう。さすれば修など恐れるに足らん。徹頭徹尾叩きのめし、そのまま領土まで攻め入ればよかろう」
そう言った永祥の顔には〝執念〟以外の何も浮かんでいなかった。
雪峰は大きな溜息を吐くと、天幕の戸布に手を掛ける。
「もう良い。貴殿の好きにするが良い」
言うや否や、派手な音で戸布を捲って雪峰は出る。そして降り止まぬ雨に打たれ、天を仰ぐ。
「…………あの棕熊殿がこのまま引き下がるとは到底思えんがの」
小さく零れたその声は雨に掻き消されるのであった。
だが平原で繰り広げられている血生臭い戦だけは、雨を切り裂いて目に飛び込んできた。そして、徒に命が奪われていく、そんな光景が僕を捕らえて離さなかった。
それだけは、いつまでも、鮮明に――――
睫毛の上を雨が嘲笑いながら転がり落ちていく。それは兵士らの視界を滲ませ、濡れて着物に張り付いて体を凍らせ、彼らの足を地に縫い付けようと躍起になっていた。
戦の火蓋が切られてから三日。美琳たちは極限まで追い詰められていた。
敵方は、剛から一万、鳳から二万。総勢三万という圧倒的な兵力を駆り出していた。かたや修はたったの一万。それも下っ端や新人の兵――素人に毛が生えた程度の者まで掻き集めた――実質数千程度の寡兵の修軍が、徹底して訓練された鳳国の頑強な兵に太刀打ち出来る訳もない。毎日格上の者たちを相手取るのは兵たちの心身を疲弊させ、彼らの疲労は溜まりに溜まっていた。
それは司令官も御多分に漏れなかった。如何にしてこの苦境を乗り切るかで勇豪は苦悩し、疲れ切っていた。
今のところ戦場では美琳が敵を引きつけてくれているおかげで兵士らの戦意はギリギリのところで保たれていた。しかしそれも今日の雨でかなり落ち込み、決壊する寸前であった。
「棕熊殿! 何か策はないのか!」
勇豪は同じ馬車に乗っている子佑に吠え立てられる。
「ううむ……。俺もまさか剛がここまで本気だとは思わんかったので……せいッ!」
そう言いつつ勇豪は盾で飛んできた矢を弾く。子佑はわずかに体を竦ませた。が、すぐさま次の矢をつがえて叫ぶ。
「このままでは剛にいい様にしてやられてしまうではないか! せめて何か鼻を明かすことは出来ぬのか!」
勇豪は子佑の無理難題に眉根を寄せた。
もうすでに三分の一も削り取られた兵力で、起死回生の一手などそうそうない。だが、一つだけ。鼻を明かすだけなら勇豪の頭には浮かんでいた。
「……子佑殿。此度の戦の最終決定権は貴殿にある。それで違いないな?」
勇豪は敵兵の喉元に戟を突き刺しながら問う。
「ああ! 此度の戦は王ではなく、この、私が! 戦の全責任を持とう!」
子佑は濁った眼差しで一瞬後ろの山に振り返る。それにつられたように、勇豪も山を見やる。そして深く頷く。
「相分かった。では一時退却して詳しく話そう」
子佑も頷くと〝全軍! 一時退却!〟と下知を下した。
兵らはそのかけ声を合図に、自軍の天幕まで一直線に逃げ帰っていくのであった。
「まったく……。しぶといものよ」
一人の男が撤退していく修兵を眺めながら呟く。と、不意に声をかけられる。
「永祥殿。これでは時間がかかり過ぎだ」
怒りに満ちた声。だが永祥はすげなく答える。
「分かっておるわ、雪峰殿。儂かてここまで粘るとは思わんかったのだ。こればかりは致し方なかろう」
永祥が振り返る。と、そこには馬車に乗っている雪峰の姿があった。
馬車から降りた雪峰は永祥にも降りるように目で合図する。永祥は溜息を吐きながら、渋々といった体で下車する。
「なんだ? また小言か?」
「いや。鳳国から使者が参るようだ」
「む?」
永祥が雪峰の指の先を見やると、鳳国の馬車がこちらに向かってきているのが視認出来た。それの意味するところを察した永祥は、濡れそぼった髪を搔き乱す。
「うーむ。まさかあちらからの小言を聞くことになるとはのぅ」
「このような事態では当然であろう。耳の穴をかっぽじって聞くが良い」
「はっはっは。まあなんとかなるであろう」
永祥は大して気にする風でもなく、使者を迎えに自軍の天幕へ戻るのであった。
「永祥殿の言うた通りであったのう」
「鳳王の御気に召したでしょうか」
「うむ。御喜びであったぞ」
「そうでしたか。それは何よりです」
天幕の中では鳳国の使者が濡れた着物を絞りながら永祥に語りかけていた。永祥もまた、同じように布で顔を拭いながら返事をした。が、雪峰は苦み走った顔で永祥に小さく注意をする。
(永祥殿ッ! それが使者殿と話す態度か! 失礼であろう!)
(ずぶ濡れのまま話す方が失礼であろう)
(使者殿の身支度が終わるまでは我慢せいと申しておるのだ!)
二人が囁き合っていると、使者が雪峰の様子に気付く。
「そこの。なんと言ったか、シェン……」
「! 雪峰でございます」
「そうだそうだ。シェンフォン殿であったな。我に気兼ねする必要はないぞ? それよりも風邪を引いてはいかんからの。疾く乾かすが良い」
「ッ! そう申されますなら……」
雪峰はばつが悪そうにしながら部下に布を持ってこさせる。
その様子を永祥はにやにやと見つつ、地面に広げられている敷き布に腰を下ろす。直後、真剣な眼差しで口を開く。
「では使者殿。我が国の武器の評判を詳しくお聞かせ願えますかな?」
「もちろんだとも」
鳳国の使者は永祥の対面にある敷き布に胡坐をかくと、雨風で乱れた髪を整える。
「概ね貴殿の売り込み通りであったぞ」
使者は顎髭についた水滴を撫でて落とすと、口角を吊り上げる。
「柄は折れにくく刃も欠けぬ。多少荒く使えば壊れてしまうが、それは物の必定。大した問題ではない。それよりもこの雨で劣らぬ切れ味とは……。いやはや、恐れ入ったわ」
「そうでしょうとも。此度のは我が国の自信作でございますからな」
「うむ。嘘偽りのない出来であった。して……あれはどのように作ったのだ?」
「それを申しては我が国の強みが無くなってしまう故、ご勘弁願いますかな?」
「はっはっは! それもそうよの」
使者と永祥が二人で歓談している中、雪峰は愛想笑いを浮かべて相槌を打ちつつ、心の中で独りごちていた。
(このような上辺だけの話などせんでも良いものを。何をそんなに悠長にしておるのか……)
雪峰は苛立ちを抑え込み、なんとか表に出さないようにしていた。その様子に二人が気付く様子はない。
「それで? 永祥殿の目当てのものは捕まえられそうかの?」
使者が声を潜める。と、永祥も使者に顔を近付けて小声で話す。
「これがなかなか厄介でしての。とうに見つけてはいるのだが、どうにも上手くいかんもので」
「ふむ」
使者は考え込むように顎に手を当てる。
「こちらでもわずかに報告が来ておるが……あれは手強いであろうな」
「あやつには恐れるものなどないからのぅ。むしろこちらの兵の方が怯えて逃げ出す」
「あれと相対しては致し方あるまいが……。分かっておろう?」
「ええ。必ずや約束は果たしましょう」
二人の口が揃って弧を描く。が、両者の目は鷹のように鋭く光っていた。
「……さて。そろそろ戻るかの。そちらの王にも宜しく御伝えくだされ」
と、使者が膝を立てると、すかさず雪峰が立ち上がる。
「お見送りします」
「ああ、良い良い」
使者は雪峰を手で制すと、膝を軋ませながら腰を上げる。
「それよりも主らは明日の戦略でも詰めておくが良い。こちらもそんなに暇ではないのでな」
そう言うと使者は、座っている永祥を睥睨する。されど永祥は意に介すことなく返す。
「あちらもそろそろ限界でしょう。降伏してくるのも間近に決まっておりまする」
「ふッ……それもそうよの」
そう言い残して使者は天幕を後にした。
使者の姿がすっかり見えなくなったその刹那。雪峰は凄まじい剣幕で永祥に向き直る。
「永祥殿! こちらも限界が近いのは分かっておろうな!」
雪峰は真下にいる永祥に指を突きつける。が、永祥は煩わしそうに髪を解くだけだ。
「無論、承知の上だ」
「ッ! それもこれも全部、折角私があやつらを追い詰めても、貴殿が手加減して取り逃しているせいぞ⁈」
「何故儂がそうしておるか分かっておるくせに」
「……だからこそ納得がいかんのだ」
「王には許可をもろうておるのだから何も問題は無かろう」
「どうせお主が上手く言い包めたのであろう」
「〝信頼されている〟と申せ」
「はッ! どうだか」
「此度は王の初陣であるからの。儂らのように戦慣れしている者が支えねばいかんだろう?」
その言葉に雪峰は目頭を揉む。彼の頬は少し痩けていた。
「それとこれは別だ。貴殿が戦直前まで兵らをしごいていたせいで奴らの体力は底を突きそうなのだ。それに、今の貴殿からは〝強き者が生き延び、弱き者はいずれ滅びるのみ〟などというご立派な思想は垣間見えん。現状我々が苦しんでいるのは、紛れもなくお主のせいだぞ」
「何、もう少しであれも手に入ることだろう。さすれば修など恐れるに足らん。徹頭徹尾叩きのめし、そのまま領土まで攻め入ればよかろう」
そう言った永祥の顔には〝執念〟以外の何も浮かんでいなかった。
雪峰は大きな溜息を吐くと、天幕の戸布に手を掛ける。
「もう良い。貴殿の好きにするが良い」
言うや否や、派手な音で戸布を捲って雪峰は出る。そして降り止まぬ雨に打たれ、天を仰ぐ。
「…………あの棕熊殿がこのまま引き下がるとは到底思えんがの」
小さく零れたその声は雨に掻き消されるのであった。
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