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尾羽打ち枯らす
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都城に朝の訪れを知らせる太鼓が鳴る。
後宮のとある一室には温い風が吹き込み、窓辺では濡れ羽色の髪が揺れている。
「美琳様。そのように髪を下ろしたままではみっとものうございます。結び直しますから、
こちらにいらしてらくださいませ」
静端は女主人に向かって諫めた。されどいつも通り耳を貸してもらえない。
「別にこの時間は誰も来ないんだからいいじゃない」
「そういう問題ではありません」
顰めっ面の静端が大きな溜息を吐く。
「……王が渡られないのは戦の支度で御忙しいだけで」
「分かってるわよ」
美琳は頬を膨らませて外を見つめた。が、つと零す。
「髪を……」
「…………?」
いつもより遥かにか細い美琳の声に、静端は眉根を寄せる。
「髪を結んでると『重い』のよ。色々と身に付けないとでしょ? 何ヶ月経っても慣れないの」
目を見開く静端。一拍置いてから口を開く。
「そういうものでございますよ。夫人というのは」
「ええ。そうね。そういうものよね」
そう言ったものの、美琳が外の景色から目を離すことはなかった。強張ったその横顔に、さしもの静端も口を挟む余地がなかった。
しばらくして不意に、美琳は呟く。
「ねえ静端。今日は確実にウェン……王は来ないのよね?」
「〝渡られない〟ですよ」
「はいはい…………それで? どうなの?」
静端は再び溜息を吐く。
「御予定はありませんよ」
その言葉を聞いた途端、美琳は悪い笑みを浮かべる。
「じゃあ……ちょっと行きたいとこがあるのよ」
がやがやとひしめく町の中。
白皙の少年と、小綺麗な格好の中年の女性が歩いている。
少年は慣れた様子ですたすたと歩き、女性は人混みに揉まれながらやっとの様子で彼に付いていっている。
「美琳様……! 私を置いて行かないでくださいませッ!」
「シッ! ここではそう呼ぶなって言っただろ、静端。怪しまれるじゃないか」
「そのような話し方……!」
美琳と静端は都城の大通りを小声で言い争いながら突き進んでいた。が、静端は人波に押し流されて上手く言葉を紡げない。
「か、帰ったらお覚悟なさいませッ!」
「はいはい。分かったよ」
適当にあしらった美琳は、息も絶え絶えな静端のことを気に留めずに辺りを見回す。その挙動は特段珍しいものではない。しかし、類い稀なる美少年がすれば別である。美琳とすれ違った誰もが振り返り、視線が交差した者は老若男女問わず見惚れる。自然と人垣が割れ、少年を中心に渦が巻き起こる。
混雑の中で異彩を放つ少年の姿。それがかつての顔馴染みたちの目に留まるのに、大して時間はかからなかった。
「美琳ちゃん……? 美琳ちゃんなのかい?」
「え? 美琳ちゃんだって? どこにいるんだい」
「お、あそこにいるじゃないか! おおい! 美琳ちゃん!」
「随分と久し振りだな」
「こっちにおいでよ、ちょうど美味いのが入ったんだ」
美琳はあっという間に囲まれ、その拍子に静端は揉みくちゃにされて美琳から引き離される。
とある女性二人が美琳の手を握りながら話す。
「相変わらず綺麗ねぇ。肌もつやつやで、羨ましいよ。ああでも、あたしだって若い頃はそれなりに綺麗だったんだよ?」
「何を言ってんだい。あんた如きが美琳ちゃんに敵う訳ないだろう」
「それはあんただって一緒じゃないか」
朗らかに笑う彼女らに美琳も破顔する。
「おばさんたちは今のままでも充分素敵だよ? でも……ちょっと痩せた?」
「あら、よく分かったね。そうなんだよ。これも年取ったからかねぇ」
「最近じゃ足腰が痛くて……。まったく嫌になるよ」
「それは大変だな」
美琳が優しく微笑みながら話を聞いていると、別の方からも声をかけられる。
「今日は見廻りじゃないのかい? 一緒の兵がいないけど」
一人の男性が尋ねると、美琳は目を泳がせる。
「きょ、今日は休みなんだ」
「珍しいな」
「そ、そうだね。今まで頑張ったからご褒美に、ってことやつさ」
「へえ。そんなこともあるんだな」
彼が羨ましがっていると、別の男が話に割り込む。
「と言うか、美琳ちゃんは今までどうしてたんだい?」
「ああ……。見廻りから王城の護衛兵に昇進したんだよ」
「おお、そりゃ凄い。まあでも当然っちゃ当然か。美琳ちゃんは強いもんなあ」
男がそう言うと周りにいる人々は皆一様に頷くのであった。
そんな風にして美琳たちがにこやかに談笑している頃。
人集りを縫うように進む人影があった。その女の髪は真っ白に染まり、目は血走っていた。そして彼女はぶつぶつと独り言を呟いている。
「本当にッ……あの子、なのかい……?」
枯れて皺だらけの手は、見た目に反して強く人を押しやる。老女はゆっくりと。けれど着実に前に進む。
そしてついに、目の前が開けた――――
不意に人々の空気が一変する。
「……?」
突然のことに美琳は疑念を抱く。
「皆? どうし、た……の…………」
少年は首を回らし、目を見張った。
いつの間にか現れていた女性。彼女が誰なのか、美琳は一瞬分からなかった。けれど、しばらく見ている内に、ずっと親しくしていた彼女だと分かった。
「…………おばさん?」
普段物怖じすることのない美琳でも、その変貌振りにはたじろいだ。
「え、っと……」
「…………」
戸惑う美琳に対し、彼女は何も言わない。
「おばさん、何かあったの? 随分とその……元気がなさそうだけど」
尚も返事は返ってこない。美琳の顔が歪む。
「ねぇ、何かあったなら言えよ。あ、もしかしてしばらく来なかったのに怒ってる? ごめんよ、急なことだったから挨拶出来な「そんなことはどうでもいいんだ」
彼女は眦を吊り上げて美琳を睨みつける。
「あんた、何しに来たんだい……?」
女の声は震えてか細い。だが美琳にははっきりと聞こえた。
「へ……? や、休みだから皆の顔を見に「嘘を吐くんじゃないよ」
美琳の言葉は撥ね除けられる。
「本当は違うんだろう? 何が目当てだい? さあ、白状しな」
嫌悪剥き出しで問い詰められた美琳。一歩、二歩と後ずさる。
「な、何を言ってるんだよおばさん。そんな、目当てだなんて」
「隠したって無駄だよ。あたしゃ知ってるんだ」
そう吐き捨てた女性は足元に転がっている石を掴む。
「この化け物が……ッ!」
「あッ……!」
鈍い音と共に小さな悲鳴が聞こえた。
初め、人々は何が起きたのか分からなかった。いや、正確に言えば理解したくなかった。
女性が投げた石は美琳の額に当たり、少年は手で額を抑えて俯いていた。それが意味することは、人々にとって到底受け入れられるものではなかった。
しばしの間、人々は呆気に取られていた。が、群集の中の一人が金切り声を上げた。
「美琳様ッ!」
真っ青な顔をした静端が人混みを掻き分けて美琳の傍に駆け寄る。静端は美琳を後ろに庇って、石を投げた女の前に立ち塞がる。
「あんた誰だい」
背筋が凍るような声で女は言う。
「今そんなことは関係ありません」
負けず劣らず強い語気で静端も返す。そして怒りを露わにして彼女を詰る。
「貴女……何をしたのか分かってるのですか?」
「もちろん。分かっててやったのさ」
「なッ!」
静端の声が裏返る。
「じゅ、重罪を犯したことを認める、ということで宜しいですね?」
戦慄く声で女性に詰め寄る。
「夫人である美琳様にこのよ「静端」
それ以上静端の言葉が続くことはなかった。片手で顔を隠している美琳が、もう片方の手で口を覆ったからだ。
「もう帰ろう」
美琳は穏やかな口調で言う。
「そんふぁ……」
静端は美琳の手を剥がす。
「この者の罪を見逃がすと「いいから」
美琳は立ち上がり、静端も立たせる。強い力で腕を引かれた静端は、美琳に付き従わざるを得ない。そのまま二人は逃げるようにその場を後にした。
小さくなり始めた二つの背中に、女が噛みつくように叫ぶ。
「ほら見たことか! 疚しいことがあるから逃げるんだろう⁉」
すると傍にいた一人の男が彼女を羽交い締めにする。
「止めないか! 石を投げるだけじゃ飽き足らないのか⁈」
「煩いねぇ! あんただって見ただろう! 石が当たったのに血の一滴も流してなかったのを!」
「そ、それは……」
女は男を勢いよく振り解く。
「隠したって誤魔化されないさ! ちゃんとこの目で見たんだ。皆だってそうだろう⁉」
その言葉に誰も答えない。ただ気まずそうに目を逸らすだけだ。
「あたしが言ってたのは嘘じゃなかっただろう⁈ あんな、気味の悪い化け物……! きっと何かしでかすに違いないさ!」
「止めろって!」
「じゃあなんでこんなにも戦が続いてるのか言ってご覧よ! なんだって不作が続いてるのかも!」
「そんなの分かる訳ないだろう!」
「いいや簡単さ! 全部あの子が来てからじゃないか!」
「……!」
その場に動揺が走る。
「あの子が年を取っているように見えるかい? あの子が怪我したところを見たことがあるかい? 無いだろう?」
ざわめきが増していく。
「もうすぐ戦が始まるっていう今時分になんで来たんだい? 何か魂胆があるに決まっているだろう!」
すると女に非難の嵐が降り注ぐ。
「そんな、あんな優しい子が何か企むだなんて……!」
「そうだそうだ! それにたかが一人で何が出来るって言うんだ!」
だのに女の表情は変わらない。
「じゃあ逆に、あの子が何もしてない証拠はあるのかい?」
民衆は顔を見合わせる。
「あの化け物が居続けたらあたしたちの生活がどうなるか分かったものじゃない……! 次見かけたら追い出してしまわないと……!」
彼女の鬼気迫る顔に人々は只事でないように思えてきた。
それを契機に、彼らの間で盛んに議論されるようになる。
喧喧囂囂の騒ぎの中、事の発端である女性は一人輪の外に出て、静かに思い耽る。
(あのとき、あんなものさえ渡さなきゃ、あの子は帰って来なかった気がする)
過去を見つめるその瞳はかすかに潤んでいる。
(……あたしですら気付いたんだ。直接戦った向こうの国が気付かない訳がない。きっといらない苦労を背負ってるんだろう)
スン、と鼻を鳴らして、彼女は目元を拭う。
(でも、そんなのあたしらの生活には関係ない。ただ明日を無事に迎えたいんだ)
先程までの様子が嘘のように悲痛な面持ちになる。
(もう疲れたんだよ。悩むのも、心配するのも)
〝だから〟と小さく呟く。
「犠牲になってもらってごめんねぇ、美琳ちゃん」
彼女の頬を一筋の雫が伝っていった。
ところ変わって王城に続く隠れ道。
人気のない茂みの中を、美琳は静端の腕を引いて歩いていた。
「美琳様、美琳様。腕が痛うございます」
「え? ……あ」
上の空だった美琳。慌てて手を離せば、彼女の腕にくっきりと紅葉が残っていた。
「ご、ごめん……」
頭を垂れてしおらしく謝る美琳。彼女らしくないその姿に、静端は憐憫の情を禁じ得なかった。
「……お顔を見せていただけますか」
ハッと顔を上げる美琳。手で額を隠したまま、逡巡する。が、にへら、と眉尻を下げて笑う。
「し、知ってたっけ」
その表情も、美琳のものとは思えなかった。
静端は肩で大きく息を吐き出すと、複雑そうにする。
「多少は聞き及んでおります。目にする機会はございませんでしたが」
「そう、だよねぇ。なら隠しても意味無い、か……」
と言って美琳は手を退ける。するとそこには、傷一つ見当たらない、まっさらな額があった。
「……!」
初めて見た現象に静端は息を呑む。
「噂は、本当でしたのね」
「…………」
美琳は目を背けつつ、無言で頷く。
数瞬、二人の間に気まずい空気が流れる。
――先に口を開いたのは静端だった。
「……散々な散歩でございましたね」
「え……?」
ポカン、と美琳は静端を見つめる。
「だから言ったのです。男の恰好で町に行くなどという、夫人にあるまじき行いをするなど。明日からはより一層厳しく指導致しますからね」
「うげ」
眉を吊り上げた静端に叱責された美琳は、蟇蛙のような声を出した。
「やだ」
「やだじゃありません」
「でも」
「でもじゃありません」
全否定された美琳はぶうたれる。その表情は折角の美貌を台無しにしていた。
フッと静端は笑う。
「……私にとって、美琳様は美琳様です」
そう言った静端の笑みは、何時になく柔和なものだった。
「確かに人とは異なっているかもしれません。けれど、王も御承知の上であれ程の御寵愛を賜ってくださっているのでしょう?」
美琳は小さく首肯する。
「ならば、今までお仕えした主人たちとなんら違うところはありませんよ。ああけれど、一番手のかかる主人であることは間違いありませんが」
静端は皮肉めいた眼差しだ。
それに美琳は苦虫を噛み潰したようになる。だが不意に、不思議そうに静端を見つめる。
「さっきの……本当に何も思わなかったの?」
「なんのことでございましょう」
「なんのって……」
「私は〝後宮から抜け出そうとした美琳様を止められず、なんとか追いかけて連れ戻した〟だけでございます。逃げ出された間の美琳様のご様子は存じ上げません」
「ッ‼」
少女は目を見開き、直後くしゃりと顔を歪める。
「ありがとう」
「……とんでもないことでございます」
静かに膝を折り曲げ、拱手する静端。そして手を解くと、いつもの剣幕になっていた。
「それでは、急いで着替えていただきますからね。夕餉までに間に合わせないと、夫人としての面目が「あーはいはい」
美琳がおざなりな返事をすると、静端はますます厳しい顔つきになる。
「なんですかそのいい加減な態度は……! きちんとお立場をご理解くださいませ!」
「分かってるわよ」
美琳は無理やり静端の背中を押す。
静端は尚も文句を言っていたが、朱く染まり始めた夕陽に気付くと、慌てて裏門へ駆けていき、後宮に入る。
彼女を見送った美琳は懐を探る。取り出した掌には小さなお守りが載っていた。それはところどころほつれが目立ち、うっすらと赤黒い染みがある。だが、丁寧に直された痕跡があり、大事にされてきたのが見て取れた。
「……おばさんたちが、『普通』なのよね」
グッとお守りを握り締める美琳。地面にしゃがむと、手で穴を掘ってそれを埋める。
美琳は瞼を閉じて呟く。
「…………じゃあね。今までありがとう」
そっと穴のあったところを撫でると、美琳は静端を追って裏門を潜るのであった。
後宮のとある一室には温い風が吹き込み、窓辺では濡れ羽色の髪が揺れている。
「美琳様。そのように髪を下ろしたままではみっとものうございます。結び直しますから、
こちらにいらしてらくださいませ」
静端は女主人に向かって諫めた。されどいつも通り耳を貸してもらえない。
「別にこの時間は誰も来ないんだからいいじゃない」
「そういう問題ではありません」
顰めっ面の静端が大きな溜息を吐く。
「……王が渡られないのは戦の支度で御忙しいだけで」
「分かってるわよ」
美琳は頬を膨らませて外を見つめた。が、つと零す。
「髪を……」
「…………?」
いつもより遥かにか細い美琳の声に、静端は眉根を寄せる。
「髪を結んでると『重い』のよ。色々と身に付けないとでしょ? 何ヶ月経っても慣れないの」
目を見開く静端。一拍置いてから口を開く。
「そういうものでございますよ。夫人というのは」
「ええ。そうね。そういうものよね」
そう言ったものの、美琳が外の景色から目を離すことはなかった。強張ったその横顔に、さしもの静端も口を挟む余地がなかった。
しばらくして不意に、美琳は呟く。
「ねえ静端。今日は確実にウェン……王は来ないのよね?」
「〝渡られない〟ですよ」
「はいはい…………それで? どうなの?」
静端は再び溜息を吐く。
「御予定はありませんよ」
その言葉を聞いた途端、美琳は悪い笑みを浮かべる。
「じゃあ……ちょっと行きたいとこがあるのよ」
がやがやとひしめく町の中。
白皙の少年と、小綺麗な格好の中年の女性が歩いている。
少年は慣れた様子ですたすたと歩き、女性は人混みに揉まれながらやっとの様子で彼に付いていっている。
「美琳様……! 私を置いて行かないでくださいませッ!」
「シッ! ここではそう呼ぶなって言っただろ、静端。怪しまれるじゃないか」
「そのような話し方……!」
美琳と静端は都城の大通りを小声で言い争いながら突き進んでいた。が、静端は人波に押し流されて上手く言葉を紡げない。
「か、帰ったらお覚悟なさいませッ!」
「はいはい。分かったよ」
適当にあしらった美琳は、息も絶え絶えな静端のことを気に留めずに辺りを見回す。その挙動は特段珍しいものではない。しかし、類い稀なる美少年がすれば別である。美琳とすれ違った誰もが振り返り、視線が交差した者は老若男女問わず見惚れる。自然と人垣が割れ、少年を中心に渦が巻き起こる。
混雑の中で異彩を放つ少年の姿。それがかつての顔馴染みたちの目に留まるのに、大して時間はかからなかった。
「美琳ちゃん……? 美琳ちゃんなのかい?」
「え? 美琳ちゃんだって? どこにいるんだい」
「お、あそこにいるじゃないか! おおい! 美琳ちゃん!」
「随分と久し振りだな」
「こっちにおいでよ、ちょうど美味いのが入ったんだ」
美琳はあっという間に囲まれ、その拍子に静端は揉みくちゃにされて美琳から引き離される。
とある女性二人が美琳の手を握りながら話す。
「相変わらず綺麗ねぇ。肌もつやつやで、羨ましいよ。ああでも、あたしだって若い頃はそれなりに綺麗だったんだよ?」
「何を言ってんだい。あんた如きが美琳ちゃんに敵う訳ないだろう」
「それはあんただって一緒じゃないか」
朗らかに笑う彼女らに美琳も破顔する。
「おばさんたちは今のままでも充分素敵だよ? でも……ちょっと痩せた?」
「あら、よく分かったね。そうなんだよ。これも年取ったからかねぇ」
「最近じゃ足腰が痛くて……。まったく嫌になるよ」
「それは大変だな」
美琳が優しく微笑みながら話を聞いていると、別の方からも声をかけられる。
「今日は見廻りじゃないのかい? 一緒の兵がいないけど」
一人の男性が尋ねると、美琳は目を泳がせる。
「きょ、今日は休みなんだ」
「珍しいな」
「そ、そうだね。今まで頑張ったからご褒美に、ってことやつさ」
「へえ。そんなこともあるんだな」
彼が羨ましがっていると、別の男が話に割り込む。
「と言うか、美琳ちゃんは今までどうしてたんだい?」
「ああ……。見廻りから王城の護衛兵に昇進したんだよ」
「おお、そりゃ凄い。まあでも当然っちゃ当然か。美琳ちゃんは強いもんなあ」
男がそう言うと周りにいる人々は皆一様に頷くのであった。
そんな風にして美琳たちがにこやかに談笑している頃。
人集りを縫うように進む人影があった。その女の髪は真っ白に染まり、目は血走っていた。そして彼女はぶつぶつと独り言を呟いている。
「本当にッ……あの子、なのかい……?」
枯れて皺だらけの手は、見た目に反して強く人を押しやる。老女はゆっくりと。けれど着実に前に進む。
そしてついに、目の前が開けた――――
不意に人々の空気が一変する。
「……?」
突然のことに美琳は疑念を抱く。
「皆? どうし、た……の…………」
少年は首を回らし、目を見張った。
いつの間にか現れていた女性。彼女が誰なのか、美琳は一瞬分からなかった。けれど、しばらく見ている内に、ずっと親しくしていた彼女だと分かった。
「…………おばさん?」
普段物怖じすることのない美琳でも、その変貌振りにはたじろいだ。
「え、っと……」
「…………」
戸惑う美琳に対し、彼女は何も言わない。
「おばさん、何かあったの? 随分とその……元気がなさそうだけど」
尚も返事は返ってこない。美琳の顔が歪む。
「ねぇ、何かあったなら言えよ。あ、もしかしてしばらく来なかったのに怒ってる? ごめんよ、急なことだったから挨拶出来な「そんなことはどうでもいいんだ」
彼女は眦を吊り上げて美琳を睨みつける。
「あんた、何しに来たんだい……?」
女の声は震えてか細い。だが美琳にははっきりと聞こえた。
「へ……? や、休みだから皆の顔を見に「嘘を吐くんじゃないよ」
美琳の言葉は撥ね除けられる。
「本当は違うんだろう? 何が目当てだい? さあ、白状しな」
嫌悪剥き出しで問い詰められた美琳。一歩、二歩と後ずさる。
「な、何を言ってるんだよおばさん。そんな、目当てだなんて」
「隠したって無駄だよ。あたしゃ知ってるんだ」
そう吐き捨てた女性は足元に転がっている石を掴む。
「この化け物が……ッ!」
「あッ……!」
鈍い音と共に小さな悲鳴が聞こえた。
初め、人々は何が起きたのか分からなかった。いや、正確に言えば理解したくなかった。
女性が投げた石は美琳の額に当たり、少年は手で額を抑えて俯いていた。それが意味することは、人々にとって到底受け入れられるものではなかった。
しばしの間、人々は呆気に取られていた。が、群集の中の一人が金切り声を上げた。
「美琳様ッ!」
真っ青な顔をした静端が人混みを掻き分けて美琳の傍に駆け寄る。静端は美琳を後ろに庇って、石を投げた女の前に立ち塞がる。
「あんた誰だい」
背筋が凍るような声で女は言う。
「今そんなことは関係ありません」
負けず劣らず強い語気で静端も返す。そして怒りを露わにして彼女を詰る。
「貴女……何をしたのか分かってるのですか?」
「もちろん。分かっててやったのさ」
「なッ!」
静端の声が裏返る。
「じゅ、重罪を犯したことを認める、ということで宜しいですね?」
戦慄く声で女性に詰め寄る。
「夫人である美琳様にこのよ「静端」
それ以上静端の言葉が続くことはなかった。片手で顔を隠している美琳が、もう片方の手で口を覆ったからだ。
「もう帰ろう」
美琳は穏やかな口調で言う。
「そんふぁ……」
静端は美琳の手を剥がす。
「この者の罪を見逃がすと「いいから」
美琳は立ち上がり、静端も立たせる。強い力で腕を引かれた静端は、美琳に付き従わざるを得ない。そのまま二人は逃げるようにその場を後にした。
小さくなり始めた二つの背中に、女が噛みつくように叫ぶ。
「ほら見たことか! 疚しいことがあるから逃げるんだろう⁉」
すると傍にいた一人の男が彼女を羽交い締めにする。
「止めないか! 石を投げるだけじゃ飽き足らないのか⁈」
「煩いねぇ! あんただって見ただろう! 石が当たったのに血の一滴も流してなかったのを!」
「そ、それは……」
女は男を勢いよく振り解く。
「隠したって誤魔化されないさ! ちゃんとこの目で見たんだ。皆だってそうだろう⁉」
その言葉に誰も答えない。ただ気まずそうに目を逸らすだけだ。
「あたしが言ってたのは嘘じゃなかっただろう⁈ あんな、気味の悪い化け物……! きっと何かしでかすに違いないさ!」
「止めろって!」
「じゃあなんでこんなにも戦が続いてるのか言ってご覧よ! なんだって不作が続いてるのかも!」
「そんなの分かる訳ないだろう!」
「いいや簡単さ! 全部あの子が来てからじゃないか!」
「……!」
その場に動揺が走る。
「あの子が年を取っているように見えるかい? あの子が怪我したところを見たことがあるかい? 無いだろう?」
ざわめきが増していく。
「もうすぐ戦が始まるっていう今時分になんで来たんだい? 何か魂胆があるに決まっているだろう!」
すると女に非難の嵐が降り注ぐ。
「そんな、あんな優しい子が何か企むだなんて……!」
「そうだそうだ! それにたかが一人で何が出来るって言うんだ!」
だのに女の表情は変わらない。
「じゃあ逆に、あの子が何もしてない証拠はあるのかい?」
民衆は顔を見合わせる。
「あの化け物が居続けたらあたしたちの生活がどうなるか分かったものじゃない……! 次見かけたら追い出してしまわないと……!」
彼女の鬼気迫る顔に人々は只事でないように思えてきた。
それを契機に、彼らの間で盛んに議論されるようになる。
喧喧囂囂の騒ぎの中、事の発端である女性は一人輪の外に出て、静かに思い耽る。
(あのとき、あんなものさえ渡さなきゃ、あの子は帰って来なかった気がする)
過去を見つめるその瞳はかすかに潤んでいる。
(……あたしですら気付いたんだ。直接戦った向こうの国が気付かない訳がない。きっといらない苦労を背負ってるんだろう)
スン、と鼻を鳴らして、彼女は目元を拭う。
(でも、そんなのあたしらの生活には関係ない。ただ明日を無事に迎えたいんだ)
先程までの様子が嘘のように悲痛な面持ちになる。
(もう疲れたんだよ。悩むのも、心配するのも)
〝だから〟と小さく呟く。
「犠牲になってもらってごめんねぇ、美琳ちゃん」
彼女の頬を一筋の雫が伝っていった。
ところ変わって王城に続く隠れ道。
人気のない茂みの中を、美琳は静端の腕を引いて歩いていた。
「美琳様、美琳様。腕が痛うございます」
「え? ……あ」
上の空だった美琳。慌てて手を離せば、彼女の腕にくっきりと紅葉が残っていた。
「ご、ごめん……」
頭を垂れてしおらしく謝る美琳。彼女らしくないその姿に、静端は憐憫の情を禁じ得なかった。
「……お顔を見せていただけますか」
ハッと顔を上げる美琳。手で額を隠したまま、逡巡する。が、にへら、と眉尻を下げて笑う。
「し、知ってたっけ」
その表情も、美琳のものとは思えなかった。
静端は肩で大きく息を吐き出すと、複雑そうにする。
「多少は聞き及んでおります。目にする機会はございませんでしたが」
「そう、だよねぇ。なら隠しても意味無い、か……」
と言って美琳は手を退ける。するとそこには、傷一つ見当たらない、まっさらな額があった。
「……!」
初めて見た現象に静端は息を呑む。
「噂は、本当でしたのね」
「…………」
美琳は目を背けつつ、無言で頷く。
数瞬、二人の間に気まずい空気が流れる。
――先に口を開いたのは静端だった。
「……散々な散歩でございましたね」
「え……?」
ポカン、と美琳は静端を見つめる。
「だから言ったのです。男の恰好で町に行くなどという、夫人にあるまじき行いをするなど。明日からはより一層厳しく指導致しますからね」
「うげ」
眉を吊り上げた静端に叱責された美琳は、蟇蛙のような声を出した。
「やだ」
「やだじゃありません」
「でも」
「でもじゃありません」
全否定された美琳はぶうたれる。その表情は折角の美貌を台無しにしていた。
フッと静端は笑う。
「……私にとって、美琳様は美琳様です」
そう言った静端の笑みは、何時になく柔和なものだった。
「確かに人とは異なっているかもしれません。けれど、王も御承知の上であれ程の御寵愛を賜ってくださっているのでしょう?」
美琳は小さく首肯する。
「ならば、今までお仕えした主人たちとなんら違うところはありませんよ。ああけれど、一番手のかかる主人であることは間違いありませんが」
静端は皮肉めいた眼差しだ。
それに美琳は苦虫を噛み潰したようになる。だが不意に、不思議そうに静端を見つめる。
「さっきの……本当に何も思わなかったの?」
「なんのことでございましょう」
「なんのって……」
「私は〝後宮から抜け出そうとした美琳様を止められず、なんとか追いかけて連れ戻した〟だけでございます。逃げ出された間の美琳様のご様子は存じ上げません」
「ッ‼」
少女は目を見開き、直後くしゃりと顔を歪める。
「ありがとう」
「……とんでもないことでございます」
静かに膝を折り曲げ、拱手する静端。そして手を解くと、いつもの剣幕になっていた。
「それでは、急いで着替えていただきますからね。夕餉までに間に合わせないと、夫人としての面目が「あーはいはい」
美琳がおざなりな返事をすると、静端はますます厳しい顔つきになる。
「なんですかそのいい加減な態度は……! きちんとお立場をご理解くださいませ!」
「分かってるわよ」
美琳は無理やり静端の背中を押す。
静端は尚も文句を言っていたが、朱く染まり始めた夕陽に気付くと、慌てて裏門へ駆けていき、後宮に入る。
彼女を見送った美琳は懐を探る。取り出した掌には小さなお守りが載っていた。それはところどころほつれが目立ち、うっすらと赤黒い染みがある。だが、丁寧に直された痕跡があり、大事にされてきたのが見て取れた。
「……おばさんたちが、『普通』なのよね」
グッとお守りを握り締める美琳。地面にしゃがむと、手で穴を掘ってそれを埋める。
美琳は瞼を閉じて呟く。
「…………じゃあね。今までありがとう」
そっと穴のあったところを撫でると、美琳は静端を追って裏門を潜るのであった。
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そんな毎日であった。彼の名前は立花清左衛門。年齢は35歳。
娘は二人いて、一人はとめ15歳。もう一人は梅、8歳。
さて|黄昏《たそがれ》は、一日のうち日没直後、雲のない西の空に夕焼けの名残りの「赤さ」が残る時間帯のことを言う。「|黄昏時《たそがれどき)」。 「黄昏れる《たそがれる》」という動詞形もある。
「たそがれ」は、江戸時代になるまでは「たそかれ」といい、「たそかれどき」の略でよく知られていた。夕暮れの人の顔の識別がつかない暗さになると誰かれとなく、「そこにいるのは誰ですか」「誰そ彼(誰ですかあなたは)」とたずねる頃合いという意味で日常会話でよく使われた。
今回の私の小説のテーマはこの黄昏である。
この風習は広く日本で行われている。
「おはようさんです」「これからですか」「お晩でございます。いまお帰りですか」と尋ねられれば相手も答えざるを得ず、互いに誰であるかチェックすることでヨソ者を排除する意図があったとされている。
「たそかれ」という言葉は『万葉集』に
誰そ彼と われをな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ」
— 『万葉集』第10巻2240番
と登場するが、これは文字通り「誰ですかあなたは」という意味である。
「平安時代には『うつほ物語』に「たそかれどき」の用例が現れ、さらに『源氏物語』に
「寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 夕顔の花」
— 『源氏物語』「夕顔」光源氏
と、現在のように「たそかれ」で時間帯を表す用例が現れる。
なおこの歌は、帖と登場人物の名「夕顔」の由来になった夕顔の歌への返歌である。
またこの言葉の比喩として、「最盛期は過ぎたが、多少は余力があり、滅亡するにはまだ早い状態」をという語句の用い方をする。
漢語「|黄昏《コウコン》」は日没後のまだ完全に暗くなっていない時刻を指す。「初昏」とも呼んでいた。十二時辰では「戌時」(午後7時から9時)に相当する。
「たそがれ」の動詞化の用法。日暮れの薄暗くなり始めるころを指して「空が黄昏れる」や、人生の盛りを過ぎ衰えるさまを表現して「黄昏た人」などのように使用されることがある。
この物語はフィクションです。登場人物、団体等実際に同じであっても一切関係ありません。
それでは、小説「黄昏夫婦」をお楽しみ下さい。
読者の皆様の何かにお役に立てれば幸いです。
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