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尾羽打ち枯らす
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薄墨の雲。湿気た風。じめじめとした空気が肌に纏わりつく。
夏の蒸し暑い陽気の中、大勢の男たちがじっとりとした汗を掻きながら兵舎に向かって列を成して歩いていた。
その集団の中で、一際背の低い男が綌で額を拭いながら言う。
「こっちはなんだが暑ぇね。森がねぁがらかな」
その言葉に、男衆から頭一つ飛び抜けている男が応える。
「そりゃあるかもしんねぇな」
そしてにやりと笑みを浮かべる。
「安心しろ。これからもっと暑くなるぞ」
「うへぇ」
背の小さい男は心底嫌そうな顔をした。なんとも間抜けなその顔に大男は笑い出す。
「はははは! まあこれから慣れていくんだな」
バシバシと大柄な男は小柄な男の背中を叩く。と、あまりに強いその力で彼は激しく噎せるのであった。
一団が兵舎に着くと、仲睦まじく話していた二人に一人の男が近付いてきた。
「勇豪さん」
声のした方に大男――勇豪は振り返ると、そこには数か月振りの懐かしい顔があった。
「おお、浩源。久し振りだな」
「お久し振りです」
勇豪と浩源は固い抱擁を交わす。
体を離した勇豪は満面の笑みで浩源の肩に手を置く。
「元気にしてたか?」
「ええ。勇豪さんは……」
そう言って浩源は勇豪を仰ぎ見る。
麻布の粗末な着物を着た勇豪。元より希薄であった貴族らしさは、もう微塵も残っていない。鍛え上げられた体躯は、着物の上からでも盛り上がっているのが分かる程に筋肉が増している。色黒な肌は色艶が良くなり、表情もどことなく柔らかい。
今、目の前にいる勇豪は、間違いなく王城にいた頃より溌剌としていた。
「若返りました?」
浩源は頭に浮かんだ言葉を率直に言う。
「は? なんだそれ」
破顔する勇豪。つられて浩源も顔を綻ばせた。
「あのぅ……」
不意に別の声が割り込む。
「そ、その方は、勇豪様のお知り合いだが……?」
「お、すまんすまん。紹介してなかったな」
勇豪は声の主を指差す。
「こいつは忠山。今回の徴兵で一緒に来たんだ」
「ゾ、忠山だ……あ、と、言います」
忠山が緊張した面持ちでぎこちなく拱手する。
「で、こっちは浩源。まあ……昔っからの付き合いだ」
と、勇豪に紹介された浩源は、柔和な笑みで拱手を返す。
「初めまして。浩源と申します」
小綺麗な風貌に丁寧な所作の浩源。その洗練された姿に忠山は委縮してしまう。
「そ、そんた、おいみだいなのに丁寧に挨拶しねぁでください」
どもりながら話す彼を勇豪が笑い飛ばす。
「ははは! そんな緊張すんなって。こいつは誰にでもこんな感じなんだ。あまり気にしなくていいぞ」
「は、はあ……」
「そうそう。大尉はこれが普通なんで。気にするだけ損々」
「わッ!」
呆気に取られていた忠山。突然肩を掴まれ、驚き振り向く。
「だ、誰だが?」
すると犬のように愛嬌のある顔の青年がいた。
「君保さん。初対面の方にそのように振る舞うのは失礼ですよ」
浩源がその青年を注意する。と、君保と呼ばれた青年がムッとする。
「でも、こいつ庶人でしょう? そんな……」
「身分は関係ありません。人としての礼儀です」
「う……はい……」
ぴしゃり、と叱られた君保はしゅんと身を縮めて、忠山に頭を下げる。と、忠山が慌てて首を横に振る。
「そんたに*ごしゃがねぁでください。おいが庶人であるのは違わねぁし。むしろ場違いなのに混じってですまねぁ」
すると浩源は忠山に微笑み、そして勇豪を見る。
「いいんですよ。勇豪さんのご友人なのでしょう? なら大丈夫ですよ」
その言葉に忠山は頬を染める。
「ゆ、友人……そう思われるだば光栄だ」
「おいおい、今更そんなことで照れるなよ」
勇豪は忠山を軽く肘で小突き、朗らかな笑顔を浮かべた。が、一転して、呆れた表情に変わる。
「しっかしまあ……。まさか本当に連れ戻されるとは。お前も強情な男だな」
勇豪の言葉に浩源は目を細める。
「約束したじゃないですか」
「俺は約束したつもりはない」
「ああ、それは私が間違っていました。期待してくれてたんですよね」
「そうは言ったけどよぉ。……徴兵にかこつけて呼ばれるなんて思わなかったんだよ」
勇豪は後頭部を搔きつつ溜息を零す。
「俺はもう都城に帰ってくることはないと思ってたからな」
「ふふ。たった数か月の隠退生活はどうでしたか」
「もっとゆっくりさせろよな」
「じゃあ来なければ良かったじゃないですか」
「ぐ、それは」
「……貴方は生粋の軍人です。遠く離れた地で大人しく傍観するなんて出来なかったんでしょう?」
「まあ、な。あんな片田舎まで知らせが来るんだ。かなりでかいんだろ?」
「ええ。勇豪さん以外にも、追放処分や、禁固刑の貴族たちを引っ張り出す許可が出るくらいですから」
「そりゃ……なかなかだな」
眉根を寄せる勇豪。対して浩源は、にやりと口角を吊り上げる。
「ですので。貴方も気兼ねなく暴れていただいていいんですよ?」
そこにフッと陰が過る。
「ただ……身分を剝奪されているのに変わりはないので、前線をお願いしないといけないのが心苦しいです」
浩源が悲痛な面持ちになる。一方の勇豪はケロッとしていた。
「なんだ、そんなこと気に病んでたのか。別にお前が上官なんだから好きなように使え。俺はただその職務を全うするだけなんだからよ」
「それは、そうなんですけど……」
「なんだ、らしくないな。大丈夫だって、俺の実力は知ってるだろう?」
「無論。誰よりも知っていますよ」
そう言った浩源の顔には勇豪への絶大なる信頼が浮かんでいた。それを受け止めた勇豪は、腕を組んで胸を張る。
「ああ。任せな大尉」
力強い返事。だが浩源は困り眉になる。
「……貴方に大尉と呼ばれるのは落ち着きませんね」
勇豪は一寸、目を丸くし、そしてどっと笑う。
「はは! 俺も落ち着かないわ!」
「ふふ、それこそ〝らしくない〟ですからね」
「お前も言うようになッ…………元からか?」
「もうお忘れになったんですか? 酷いお人ですね」
「悪かったって」
「大丈夫ですよ。貴方がそういう人だというのは重々承知ですから」
「はは。お前には敵わんな」
「お褒めいただきありがとうございます」
浩源が堅苦しく、それでいてほくそ笑みながら礼を述べたので、勇豪は更に声を上げて笑うのであった。
すっかり二人の世界で話していたその頃、忠山と君保は、ぽかん、と口を開けて見守っていた。
「た、大尉って軍の中でもえらぇ人だよね?」
忠山は震える声で君保に聞く。
「これだから田舎者は……。大尉は軍の中で一番偉い役職だぞ」
そう言った君保もどことなく落ち着きがない。
「え、ていうごどは、勇豪様はもっとえらぇ人だったんだが?」
「そりゃもう昔のことだ。今はただのしがない男さ」
「勇豪様⁈」
突然割り込んできた勇豪の声に、忠山は目を白黒させる。
「い、何時の間に……。もうお話はえんだが?」
「おう。放っておいてすまんな」
勇豪は後ろを指差しながら、忠山に話しかける。
「そろそろ訓練の時間なはずだ。俺らは下っ端だから早めに行かないとだぞ」
「そうなんだが?」
「おう。案内してやるよ」
忠山が大きく頷くのを確認すると、勇豪はスタスタと兵舎の中に入っていくのであった。
「えっと、あの方って……」
君保は遠ざかっていく勇豪を目で追いつつ、浩源に訊ねる。
「ああ、貴方は入れ違いで入隊してましたね。勇豪さんが噂の〝棕熊〟ですよ」
「やっぱり」
納得顔の君保。何度も頷きながら言う。
「でかいでかい、とは聞いてましたが。あそこまで大きいなんて。噂以上ですね」
「そこですか」
「だってまだどれだけ強いのか分からないですし」
「確かに。それもそうですね。機会が有ったら稽古してもらいなさい」
「げ、厳しいって話じゃないですか」
「そうですよ? しっかりしごいてもらってきなさい」
「うへぇ……」
君保が口を歪ませた、そのとき。
「ぶぇーーッきし!」
「わッ!」
大きなくしゃみが響き渡る。と同時に、君保がビクッと肩を跳ねさせる。
どうやら勇豪のくしゃみがここまで届いたようだ。
「び、びっくりしたぁ……」
そう呟き胸を押さえる君保に、浩源はクスクスと笑いを零す。
「ふふ、先が思いやられますね」
「ううう……。不意打ちだったから仕方ないじゃないですか」
「そういうことにしておきましょうか」
尚も笑われ続けた君保は、居心地悪そうに体を縮こませるのであった。
*ごしゃぐ…怒る。
夏の蒸し暑い陽気の中、大勢の男たちがじっとりとした汗を掻きながら兵舎に向かって列を成して歩いていた。
その集団の中で、一際背の低い男が綌で額を拭いながら言う。
「こっちはなんだが暑ぇね。森がねぁがらかな」
その言葉に、男衆から頭一つ飛び抜けている男が応える。
「そりゃあるかもしんねぇな」
そしてにやりと笑みを浮かべる。
「安心しろ。これからもっと暑くなるぞ」
「うへぇ」
背の小さい男は心底嫌そうな顔をした。なんとも間抜けなその顔に大男は笑い出す。
「はははは! まあこれから慣れていくんだな」
バシバシと大柄な男は小柄な男の背中を叩く。と、あまりに強いその力で彼は激しく噎せるのであった。
一団が兵舎に着くと、仲睦まじく話していた二人に一人の男が近付いてきた。
「勇豪さん」
声のした方に大男――勇豪は振り返ると、そこには数か月振りの懐かしい顔があった。
「おお、浩源。久し振りだな」
「お久し振りです」
勇豪と浩源は固い抱擁を交わす。
体を離した勇豪は満面の笑みで浩源の肩に手を置く。
「元気にしてたか?」
「ええ。勇豪さんは……」
そう言って浩源は勇豪を仰ぎ見る。
麻布の粗末な着物を着た勇豪。元より希薄であった貴族らしさは、もう微塵も残っていない。鍛え上げられた体躯は、着物の上からでも盛り上がっているのが分かる程に筋肉が増している。色黒な肌は色艶が良くなり、表情もどことなく柔らかい。
今、目の前にいる勇豪は、間違いなく王城にいた頃より溌剌としていた。
「若返りました?」
浩源は頭に浮かんだ言葉を率直に言う。
「は? なんだそれ」
破顔する勇豪。つられて浩源も顔を綻ばせた。
「あのぅ……」
不意に別の声が割り込む。
「そ、その方は、勇豪様のお知り合いだが……?」
「お、すまんすまん。紹介してなかったな」
勇豪は声の主を指差す。
「こいつは忠山。今回の徴兵で一緒に来たんだ」
「ゾ、忠山だ……あ、と、言います」
忠山が緊張した面持ちでぎこちなく拱手する。
「で、こっちは浩源。まあ……昔っからの付き合いだ」
と、勇豪に紹介された浩源は、柔和な笑みで拱手を返す。
「初めまして。浩源と申します」
小綺麗な風貌に丁寧な所作の浩源。その洗練された姿に忠山は委縮してしまう。
「そ、そんた、おいみだいなのに丁寧に挨拶しねぁでください」
どもりながら話す彼を勇豪が笑い飛ばす。
「ははは! そんな緊張すんなって。こいつは誰にでもこんな感じなんだ。あまり気にしなくていいぞ」
「は、はあ……」
「そうそう。大尉はこれが普通なんで。気にするだけ損々」
「わッ!」
呆気に取られていた忠山。突然肩を掴まれ、驚き振り向く。
「だ、誰だが?」
すると犬のように愛嬌のある顔の青年がいた。
「君保さん。初対面の方にそのように振る舞うのは失礼ですよ」
浩源がその青年を注意する。と、君保と呼ばれた青年がムッとする。
「でも、こいつ庶人でしょう? そんな……」
「身分は関係ありません。人としての礼儀です」
「う……はい……」
ぴしゃり、と叱られた君保はしゅんと身を縮めて、忠山に頭を下げる。と、忠山が慌てて首を横に振る。
「そんたに*ごしゃがねぁでください。おいが庶人であるのは違わねぁし。むしろ場違いなのに混じってですまねぁ」
すると浩源は忠山に微笑み、そして勇豪を見る。
「いいんですよ。勇豪さんのご友人なのでしょう? なら大丈夫ですよ」
その言葉に忠山は頬を染める。
「ゆ、友人……そう思われるだば光栄だ」
「おいおい、今更そんなことで照れるなよ」
勇豪は忠山を軽く肘で小突き、朗らかな笑顔を浮かべた。が、一転して、呆れた表情に変わる。
「しっかしまあ……。まさか本当に連れ戻されるとは。お前も強情な男だな」
勇豪の言葉に浩源は目を細める。
「約束したじゃないですか」
「俺は約束したつもりはない」
「ああ、それは私が間違っていました。期待してくれてたんですよね」
「そうは言ったけどよぉ。……徴兵にかこつけて呼ばれるなんて思わなかったんだよ」
勇豪は後頭部を搔きつつ溜息を零す。
「俺はもう都城に帰ってくることはないと思ってたからな」
「ふふ。たった数か月の隠退生活はどうでしたか」
「もっとゆっくりさせろよな」
「じゃあ来なければ良かったじゃないですか」
「ぐ、それは」
「……貴方は生粋の軍人です。遠く離れた地で大人しく傍観するなんて出来なかったんでしょう?」
「まあ、な。あんな片田舎まで知らせが来るんだ。かなりでかいんだろ?」
「ええ。勇豪さん以外にも、追放処分や、禁固刑の貴族たちを引っ張り出す許可が出るくらいですから」
「そりゃ……なかなかだな」
眉根を寄せる勇豪。対して浩源は、にやりと口角を吊り上げる。
「ですので。貴方も気兼ねなく暴れていただいていいんですよ?」
そこにフッと陰が過る。
「ただ……身分を剝奪されているのに変わりはないので、前線をお願いしないといけないのが心苦しいです」
浩源が悲痛な面持ちになる。一方の勇豪はケロッとしていた。
「なんだ、そんなこと気に病んでたのか。別にお前が上官なんだから好きなように使え。俺はただその職務を全うするだけなんだからよ」
「それは、そうなんですけど……」
「なんだ、らしくないな。大丈夫だって、俺の実力は知ってるだろう?」
「無論。誰よりも知っていますよ」
そう言った浩源の顔には勇豪への絶大なる信頼が浮かんでいた。それを受け止めた勇豪は、腕を組んで胸を張る。
「ああ。任せな大尉」
力強い返事。だが浩源は困り眉になる。
「……貴方に大尉と呼ばれるのは落ち着きませんね」
勇豪は一寸、目を丸くし、そしてどっと笑う。
「はは! 俺も落ち着かないわ!」
「ふふ、それこそ〝らしくない〟ですからね」
「お前も言うようになッ…………元からか?」
「もうお忘れになったんですか? 酷いお人ですね」
「悪かったって」
「大丈夫ですよ。貴方がそういう人だというのは重々承知ですから」
「はは。お前には敵わんな」
「お褒めいただきありがとうございます」
浩源が堅苦しく、それでいてほくそ笑みながら礼を述べたので、勇豪は更に声を上げて笑うのであった。
すっかり二人の世界で話していたその頃、忠山と君保は、ぽかん、と口を開けて見守っていた。
「た、大尉って軍の中でもえらぇ人だよね?」
忠山は震える声で君保に聞く。
「これだから田舎者は……。大尉は軍の中で一番偉い役職だぞ」
そう言った君保もどことなく落ち着きがない。
「え、ていうごどは、勇豪様はもっとえらぇ人だったんだが?」
「そりゃもう昔のことだ。今はただのしがない男さ」
「勇豪様⁈」
突然割り込んできた勇豪の声に、忠山は目を白黒させる。
「い、何時の間に……。もうお話はえんだが?」
「おう。放っておいてすまんな」
勇豪は後ろを指差しながら、忠山に話しかける。
「そろそろ訓練の時間なはずだ。俺らは下っ端だから早めに行かないとだぞ」
「そうなんだが?」
「おう。案内してやるよ」
忠山が大きく頷くのを確認すると、勇豪はスタスタと兵舎の中に入っていくのであった。
「えっと、あの方って……」
君保は遠ざかっていく勇豪を目で追いつつ、浩源に訊ねる。
「ああ、貴方は入れ違いで入隊してましたね。勇豪さんが噂の〝棕熊〟ですよ」
「やっぱり」
納得顔の君保。何度も頷きながら言う。
「でかいでかい、とは聞いてましたが。あそこまで大きいなんて。噂以上ですね」
「そこですか」
「だってまだどれだけ強いのか分からないですし」
「確かに。それもそうですね。機会が有ったら稽古してもらいなさい」
「げ、厳しいって話じゃないですか」
「そうですよ? しっかりしごいてもらってきなさい」
「うへぇ……」
君保が口を歪ませた、そのとき。
「ぶぇーーッきし!」
「わッ!」
大きなくしゃみが響き渡る。と同時に、君保がビクッと肩を跳ねさせる。
どうやら勇豪のくしゃみがここまで届いたようだ。
「び、びっくりしたぁ……」
そう呟き胸を押さえる君保に、浩源はクスクスと笑いを零す。
「ふふ、先が思いやられますね」
「ううう……。不意打ちだったから仕方ないじゃないですか」
「そういうことにしておきましょうか」
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*ごしゃぐ…怒る。
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