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後宮に咲く華たち
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「五万だとッ!それは真か!」
文生の大声が松明の明かりを揺らす。
「ええ。儂も何度も確認したのですが……確かな情報のようでございます」
仁顺の額の皺は深く溝を作る。
「そんなの……我が国の男すべてを集めても太刀打ち出来ぬではないか!」
ドン、と拳が文机に叩きつけられる。
「なんだって剛はこんなに執着するのだ?!あそこだって豊かな国であろう?再び鳳まで駆り出すなどッ!」
文生はこめかみに青筋を走らせる。
つと老官吏を見ると、何か物言いたげに眉尻を下げていた。
「なんだ。何か心当たりがあるのか」
「それは……儂の口からはなんとも」
「……お主がそのように言うのも珍しいな。事によっては大事になる。なんでも良いから申せ」
だが仁顺は静かに首を振る。
「今それをどうこう言っても変わりませぬ。それよりも対抗策を考えねばなりませぬ」
「…………それもそうだな。あちらが鳳を出すならこちらも……」
二人は額を突き合わせて話し出す。
議論を白熱させた彼らが政務室を出たのは、朝日が昇る頃であった。
「美琳様。こちらにいらしたのですね」
「え……?ああ、淑蘭様。こんにちは」
「あら私としたことが。ご機嫌よう、美琳様」
薄曇りの下、美琳は花の散った桃園で散歩していた。そんな折に淑蘭がやってきた。
「花のない桃など見て楽しいのですか?」
青い着物の質問に紅い着物は背を向けたまま答える。
「うーん。楽しくはないンだけど」
青々と茂った木を見上げながら美琳は目を細める。
「宴のときはあんなに美しかったのに、こうなるとただ寂しいものなんだな、って」
「そう言われれば……たしかにもの悲しい風情ですわね」
淑蘭も頭上を仰ぎ見る。
「でも私はあまりそんな風に思ったことありませんわ。だって季節の移ろいとはそういうものなんですから嘆いても仕方ないかと。それよりも自然の美しさや恵みに感謝した方がよっぽど良い気がします」
「…………そうね」
それが上の空の適当な相槌であるのは明白であった。
美琳はそれ以上言葉を重ねることはしなかった。
枯れた花が敷き詰められた桃園で、漂うに佇む彼女の瞳は、淑蘭の存在など疾うに忘れていた。
その姿は浮世離れした危うさと、香り立つ色香が共存し、ゾッとする美しさがあった。
ギリ、と淑蘭は唇を噛み締める。が、すぐさまいつもと同じ、物腰の柔らかい微笑みを浮かべた。
「ところであのことはお聞きになりまして?」
「あのこと、ってなんですか?」
「その様子だとご存知ないのですね。今度大戦があるらしいんですの」
「ふぅん」
「あら、あまり驚かれませんのね?」
「だってこの間、王の御様子がおかしかったンですもの。だからそうかもなぁって思ってたの」
「……ふふふ、御二方は本当に仲睦まじくいらっしゃるのね」
袖で口元を隠しながら淑蘭は笑う。
「やはり何度も渡られていると些細な変化でも気づけるものなのですね。私も見習いたいですわ」
美琳は素っ気なく返す。
「見習うも何も、夫婦として当たり前のことなんだから出来ない方がおかしいでしょう」
淑蘭はにこにこと人当たりの良い笑顔で頷く。
「ええ、ええ、そうでございますね」
そう言いつつ、桃の木に生っている青い果実に触れる。
「けれど、夫婦なのに御子がいないことはもっと不自然ではありませんか?」
ここにきて初めて、美琳は淑蘭に振り返る。そして自分の腹に手を当てつつ答える。
「そればかりは時の運ですもの。神に祈って待つしかないでしょう」
それを見た淑蘭は、まだ熟していない桃の実をもぎ取り捨てる。
「ああ、そういえば」
その実が転がっていくのを目で追う。
「今夜は私のところに渡られるそうですわ。初めてのことなので緊張していますの。何か王の好みなどご教授頂けませんか?」
刹那、しん、と桃園が静まり返る。
木々のざわめきも、虫の囁き声も、風の音すらも。
淑蘭は異変を察して桃色の地面から目を離し、美琳の顔を見たその瞬間。
足は震え上がり、腰が砕けてへたり込む。
鋭く光る眼光。凍てついた表情。
先程までの様子は一変し、儚げだった女はもうどこにもいない。
虎が獲物を睨めつけるような、そんな殺気漲る目が淑蘭を捉えて離さない。
淑蘭はカタカタと歯の根が合わなくなり、尻餅をついたまま後ずさる。
「淑蘭様、どちらに行かれるのですか?」
美琳が優しい声で尋ねる。表情は変えぬまま。
「あ、いえ、えっと…………」
しどろもどろになった淑蘭に美琳は一歩近づく。
「ヒッ……!」
淑蘭は思わず顔を隠した。が、予想していた衝撃はいつまでたっても来ない。
彼女は恐る恐る長い袖の影から覗き見る。
するとそこには眼前まで迫った美琳の顔があった。
「お、お許しくださいませ!お許しくださいませ!」
恐怖に染まり切った淑蘭は、地に平伏す。
そんな淑蘭の傍に美琳はしゃがんで肘を立てる。
「何を許すの?貴女は何かいけないことをした?」
「い、いいえ。でも……」
頭を垂れている淑蘭からは紅い着物しか見えない。
「そうよね?まだ何もいけないことはしてないわよね?」
「は、はい!その通りでございます」
「ならいいのよ」
そう言った途端、風がそよそよと流れ出す。
美琳はそっと淑蘭の肩に触れる。
「ほら顔を上げて。貴女にそんな真似させてたら私が静端に怒られてしまう」
淑蘭は震える体でなんとか顔を上げて見ると、いつもと変わらない美貌の后がいた。
「そういえば淑蘭様。王の好みを知りたいのよね?」
「え、ええ……」
小さく首肯した淑蘭に美琳は極上の笑みを向ける。
「王が好むのは私よ?」
文生の大声が松明の明かりを揺らす。
「ええ。儂も何度も確認したのですが……確かな情報のようでございます」
仁顺の額の皺は深く溝を作る。
「そんなの……我が国の男すべてを集めても太刀打ち出来ぬではないか!」
ドン、と拳が文机に叩きつけられる。
「なんだって剛はこんなに執着するのだ?!あそこだって豊かな国であろう?再び鳳まで駆り出すなどッ!」
文生はこめかみに青筋を走らせる。
つと老官吏を見ると、何か物言いたげに眉尻を下げていた。
「なんだ。何か心当たりがあるのか」
「それは……儂の口からはなんとも」
「……お主がそのように言うのも珍しいな。事によっては大事になる。なんでも良いから申せ」
だが仁顺は静かに首を振る。
「今それをどうこう言っても変わりませぬ。それよりも対抗策を考えねばなりませぬ」
「…………それもそうだな。あちらが鳳を出すならこちらも……」
二人は額を突き合わせて話し出す。
議論を白熱させた彼らが政務室を出たのは、朝日が昇る頃であった。
「美琳様。こちらにいらしたのですね」
「え……?ああ、淑蘭様。こんにちは」
「あら私としたことが。ご機嫌よう、美琳様」
薄曇りの下、美琳は花の散った桃園で散歩していた。そんな折に淑蘭がやってきた。
「花のない桃など見て楽しいのですか?」
青い着物の質問に紅い着物は背を向けたまま答える。
「うーん。楽しくはないンだけど」
青々と茂った木を見上げながら美琳は目を細める。
「宴のときはあんなに美しかったのに、こうなるとただ寂しいものなんだな、って」
「そう言われれば……たしかにもの悲しい風情ですわね」
淑蘭も頭上を仰ぎ見る。
「でも私はあまりそんな風に思ったことありませんわ。だって季節の移ろいとはそういうものなんですから嘆いても仕方ないかと。それよりも自然の美しさや恵みに感謝した方がよっぽど良い気がします」
「…………そうね」
それが上の空の適当な相槌であるのは明白であった。
美琳はそれ以上言葉を重ねることはしなかった。
枯れた花が敷き詰められた桃園で、漂うに佇む彼女の瞳は、淑蘭の存在など疾うに忘れていた。
その姿は浮世離れした危うさと、香り立つ色香が共存し、ゾッとする美しさがあった。
ギリ、と淑蘭は唇を噛み締める。が、すぐさまいつもと同じ、物腰の柔らかい微笑みを浮かべた。
「ところであのことはお聞きになりまして?」
「あのこと、ってなんですか?」
「その様子だとご存知ないのですね。今度大戦があるらしいんですの」
「ふぅん」
「あら、あまり驚かれませんのね?」
「だってこの間、王の御様子がおかしかったンですもの。だからそうかもなぁって思ってたの」
「……ふふふ、御二方は本当に仲睦まじくいらっしゃるのね」
袖で口元を隠しながら淑蘭は笑う。
「やはり何度も渡られていると些細な変化でも気づけるものなのですね。私も見習いたいですわ」
美琳は素っ気なく返す。
「見習うも何も、夫婦として当たり前のことなんだから出来ない方がおかしいでしょう」
淑蘭はにこにこと人当たりの良い笑顔で頷く。
「ええ、ええ、そうでございますね」
そう言いつつ、桃の木に生っている青い果実に触れる。
「けれど、夫婦なのに御子がいないことはもっと不自然ではありませんか?」
ここにきて初めて、美琳は淑蘭に振り返る。そして自分の腹に手を当てつつ答える。
「そればかりは時の運ですもの。神に祈って待つしかないでしょう」
それを見た淑蘭は、まだ熟していない桃の実をもぎ取り捨てる。
「ああ、そういえば」
その実が転がっていくのを目で追う。
「今夜は私のところに渡られるそうですわ。初めてのことなので緊張していますの。何か王の好みなどご教授頂けませんか?」
刹那、しん、と桃園が静まり返る。
木々のざわめきも、虫の囁き声も、風の音すらも。
淑蘭は異変を察して桃色の地面から目を離し、美琳の顔を見たその瞬間。
足は震え上がり、腰が砕けてへたり込む。
鋭く光る眼光。凍てついた表情。
先程までの様子は一変し、儚げだった女はもうどこにもいない。
虎が獲物を睨めつけるような、そんな殺気漲る目が淑蘭を捉えて離さない。
淑蘭はカタカタと歯の根が合わなくなり、尻餅をついたまま後ずさる。
「淑蘭様、どちらに行かれるのですか?」
美琳が優しい声で尋ねる。表情は変えぬまま。
「あ、いえ、えっと…………」
しどろもどろになった淑蘭に美琳は一歩近づく。
「ヒッ……!」
淑蘭は思わず顔を隠した。が、予想していた衝撃はいつまでたっても来ない。
彼女は恐る恐る長い袖の影から覗き見る。
するとそこには眼前まで迫った美琳の顔があった。
「お、お許しくださいませ!お許しくださいませ!」
恐怖に染まり切った淑蘭は、地に平伏す。
そんな淑蘭の傍に美琳はしゃがんで肘を立てる。
「何を許すの?貴女は何かいけないことをした?」
「い、いいえ。でも……」
頭を垂れている淑蘭からは紅い着物しか見えない。
「そうよね?まだ何もいけないことはしてないわよね?」
「は、はい!その通りでございます」
「ならいいのよ」
そう言った途端、風がそよそよと流れ出す。
美琳はそっと淑蘭の肩に触れる。
「ほら顔を上げて。貴女にそんな真似させてたら私が静端に怒られてしまう」
淑蘭は震える体でなんとか顔を上げて見ると、いつもと変わらない美貌の后がいた。
「そういえば淑蘭様。王の好みを知りたいのよね?」
「え、ええ……」
小さく首肯した淑蘭に美琳は極上の笑みを向ける。
「王が好むのは私よ?」
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