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神殿

花籠

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エルゲンが部屋の中に入ってきた途端、花の香りがした。甘く豊かな香り。セレーネはこの香りが大好きだ。まるで花籠の中で揺られているかのような、そんな心地よさを覚える愛しい人の香り。

「ただいま帰りました……セレーネ」

エルゲンはさっそくセレーネの華奢な身体を抱き上げて、寝台に腰かけた。膝の上に乗せられたセレーネは、込み上げてくる愛しい人への気持ちを必死に抑えて、絞り出すように言葉を発する。

「あの……お話があるの、エルゲン」

見上げると、エルゲンはおそらくセレーネがまた「おねだり」をするのだと思ったのだろう。甘く微笑んで「何ですか」と僅かに首を傾げ、子猫の顎を撫でるかのようにセレーネの小さな顎を柔らかくこすった。

(う……言いずらいわ)

こんな笑顔でほほ笑まれたらただでさえ、言葉が喉に詰まって出てこなくなるのに。こんなに優しく触れられて、膝の上で甘やかされている状態で……。

セレーネは堪らず、一度深呼吸をした。

「……セレーネ?」

訝しむエルゲンをよそに、セレーネは心の中で、言うべき言葉を何度も何度も念じる。

(好きな人が出来たから、離縁して欲しい。好きな人が出来たから離縁して欲しい。好きな人が出来たから離縁して欲しい)

そう、あとはこの言葉を口に出すだけだ!とセレーネは思い切り口を開いて「あのね」と大きな声を出し、流れるように言葉を発した。

「好きな人が出来たから……離縁して欲しいの!」

言葉にした途端、きゅぅと胸が締め付けられた。本当はそんなことしたくない!とすぐに否定したくなった。言葉はもう、セレーネの口の中にはない。空気の中へ溶けてしまった。エルゲンの表情を見るのが怖くて、セレーネはとっさに顔を俯ける。

いつも、セレーネが我儘をいうと「あなたが望むのなら」とほとんど全ての願いを叶えてくれる彼。いつもはそんな彼の優しさが愛おしくて堪らなかった。だけど今だけは、セレーネは心のどこかで「そんなことは言わないで欲しい」と願っている。自分から言っておいて、何て我儘な女なんだと、自分で自分にツッコまずにはいられない。

ぎゅっと目を瞑って、セレーネはエルゲンの答えを待った。

しかし、どれだけ長い間待っても、エルゲンが言葉を発する「気配」は感じられない。おずおずと見上げてみると、セレーネはゴクリと音をたてて息を呑んだ。

エルゲンの表情からはいつも通り、口元には仄かな笑みが浮かんでいた。

だが、この違和感は何だろう。

セレーネは直感で、エルゲンは今「笑っていない」のだと感じた。いつも誰にでも微笑んでいる彼の……微笑んでいるはずなのに、滲む感情の一切がこそげ落ちてしまったかのようなその顔に、セレーネはポカンと口を開くことしか出来なかった。
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