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6 六本木ジュゲム
しおりを挟むタクシーを降りると、そこは閑静な住宅街だった。
いわゆる西麻布、繁華街のイメージのほうが強い地区だが、一本入ると結構、人が住んでいる。戸建ても多い。
ただし、建売タイプのやつではなくて、いちいち変わった見た目で広々とした敷地を誇るような豪邸ゾーンだ。
クラウドの名刺にあった住所はまさしくそういう所だった。
「……マジか」
『角鹿』と表札の掛かった家は周辺の家よりもさらにデカかった。
お洒落グルメ雑誌に出てきそうなイタリア料理店の隣で、ぱっと見たかんじ、会員制のレストランとかマッサージとか、そういう高級な店みたいなな三階建てだ。
車庫シャッターの横に小洒落た門扉があって、植栽のあるアプローチが玄関まで伸びている。
陰陽師ってのは儲かる仕事なのか。
そういえば、三百万とかふっかけられたのだったと思い出す。
つい建物を見上げた山城は、門扉のロックが外れる音で我に返った。玄関チャイムを鳴らしていないのに、山城が到着したことがわかったのだろうか。
占い師、ちょっと怖い。
「……入ってこいってこと、だよな?」
この手の家には大体、民間の警備会社がついている。うっかり不法侵入でも取られたら、現役刑事として少なからず面倒なことになる。
だが、クラウドは確かに「助けて」と言った。それを見捨てて平気なら、それこそ警察官ではない。
腹をくくって、山城は玄関ドアに手を掛けた。門扉と同じく、こちらのロックも外れていた。
重たい、装飾のある偉そうなドアを開けると、こざっぱりと片付いた玄関だった。照明はついたままだ。
足下の大理石っぽい三和土には男物の革靴とサンダルが一足ずつあった。サイズから見て、どちらもクラウドのものだろう。
下足痕があるだとか、泥が落ちているだとか、侵入者があった形跡は見当たらない。
山城が靴を脱いで上がると、携帯電話が鳴った。
ショートメッセージの着信はクラウドからで、『2階』とだけあった。切羽詰まっている割には山城の動きが見えているようなタイミングではある。
山城は携帯をポケットに仕舞い、階段を上がった。
2階の廊下には、階段正面にひとつ、その先、左右に一つずつ、一番奥にもうひとつ、ドアがあった。
「風呂場はどこだ。ここか?」
右側のドアを開けると、まさしく正解。そこが洗面所になっていて、また左右にドアがあった。が、木製ドアがトイレで、ガラス製の方が風呂場に決まっている。
山城は戸惑いなく、ガラスドアを開けた。
どこかのショールームかと思うような広々としたバスルームは真っ暗だったが、大きな窓から入ってくる街明かりで何となく明るい。窓辺には観葉植物が飾ってあって、クラウドくらいの身長があっても寝そべって入れそうなバスタブにはフタがしてあった。
「おい、来たぞ。ジュゲムってのはどこだ。どんなヤツだ。エモノは持ってんのか」
山城はバスタブのそばにしゃがみ込んで、声を掛けてやった。
「山城さん……っ!」
不意打ちにフタが開いて、びっくり箱の中身みたいにクラウドがしがみついてきた。
細身とはいえ男の全力だ。かなりの衝撃があったが、刑事の意地で山城は踏ん張った。
「もう、だめなんです、ぜんぜん集中もできなくて、式ももう打てなくて、それでも、キッチンに追い詰めさせたんですが、もう、ぼく、だめで」
一日のうちに二度も、震える男を抱きかかえる羽目になるのもツキを失ったからなのか。
山城はちょっと泣きたい気持ちにはなった。
クラウドは冷静さの欠片もない。
すっかり取り乱していて、過呼吸寸前というような有様だ。よく見れば、クラウドは別れた時と同じスーツを着たままで、上着も脱いでいなかった。
「何言ってんのかわかんねぇだろうが。落ち着け、息しろ。ほらヒッヒッフーだ。そのジュゲムはキッチンにいるんだな。どこだ、キッチン」
「階段を上がってすぐのドア、です」
「わかった。ここで待ってろ」
言って、クラウドの肩に手をやった。それがいけなかった。
「イヤです! 一人にしないで!」
「どわっ!」
火事場の馬鹿力、しがみついていた男がさらに全体重をぶつけてきた。刑事の意地にも限界はある。
山城はバスタブに引き摺りこまれた。
「危ねぇんだろう! 俺だけでいく」
「イヤです、ダメ! イヤ! 仲間がいたらどうするんですかぁっ!」
広いといっても男ふたりで入れば狭い。しかもクラウドは手加減なしの全力だ。組んず解れつ縺れ合ったらあちこちぶつかるし、怪我をしかねない。
「だあぁあっ、もう、この野郎っ!」
山城はクラウドを両腕で抱き、バスタブの壁に押しつけるように体勢を入れ替えた。
頭の下に手を差し入れたのは考えてやった訳ではないし、足の間に足を入れたみたいになったのもわざとではない。
ただ結果的に、バスタブで押し倒して抱き合った格好になってしまっただけだ。クラウドの両腕が山城の背にまわっているから、いわゆる正常位。
いやいやいや。違うから。
額がくっつきそうなところで見つめ合っても、クラウドはきれいな顔をしていた。肌はつるつる、目は潤んでいるし、長い睫毛には涙の雫がのっている。
挙げ句、手に触れている髪は柔らかくて、すごくいい匂いがした。
「……山城、さん……?」
昼間の冷静さからは想像もつかないような弱々しい声が呼ぶ。
美しいとか、かわいいとか。
守ってやりたいだとか。かわいいとか。
生まれて初めてといってもいいようなそういう感情が身のうちのどこからか湧きあがってきた。
「あー……その、なんだ……一緒に行くか?」
できるだけ優しい声を捻り出して言うと、クラウドは声もなく頷いた。
「開けるぞ」
背中に張り付くクラウドに声を掛け、山城はキッチンのドアをそっと開けた。中に灯りはついているが、人の気配はない。
隙間から様子をうかがう限り、調理途中だったようで、切りかけの野菜の載ったまな板が見えた。コンロには蓋付きの両手鍋もある。
「お前、自炊派?」
肩越しに振り返ると、クラウドが首を横に振った。
「ぼくは、しません」
「んじゃ、誰が料理してたんだよ」
女がいるのかと思ったが、玄関の靴はクラウドのものだけだったし、何より、キッチンには誰もいないように思える。
山城は思いきってドアを開けた。
「やっぱ誰もいねぇじゃねぇか」
窓は閉まったままだし、荒らされた気配もない。キッチンも、その先、オープンカウンターの先に見えるリビングダイニングもきちんと片付いている。
「います」
震える声で言い切ったクラウドが、山城の背中にしがみついたままで指さした。男にしてはほっそりとした指の先を見て、示す方を見る。
「はぁ? 鍋?」
山城はずかずかとコンロに近づき、鍋の蓋を取った。
瞬間。
中から黒い小さな影が飛び出した。
「おわっ!」
「とんだぁああああああああああっ!」
山城も驚いたが、背中に張り付いていたクラウドはその比ではなかった。悲鳴とともに座り込み、今度こそ本当に泣き出してしまったのだ。
スカしたイケメンが大号泣だ。
「飛んで、ヤツ、飛んで! どこにいったかわからない、そこから出てくるんですか、あそこですか、ぼくは、あああああ!」
「落ち着けよ、ただのゴキブリじゃねぇか」
取り乱して泣きじゃくるクラウドの側にしゃがみこみ、山城は背中を撫でてやった。
「わかった! わかったから落ち着け! 俺が何とかしてやるから!」
「え……? やましろ、さんが……? ほんとうに?」
目元を涙で濡らしたまま、上目使いでクラウドが言った。
正面から見ていると本当の本気でイケナイ扉を開いてしまうような気がして、山城は立ち上がった。
「新聞紙はどこだ? 熱湯がいいか。あ、ゴキスプレーがスタイリッシュってか?」
「殴って潰して、寿限無エキスを広げるのはイヤです。熱湯も、同じです。……専用殺虫剤は、ありません」
「何で」
「パッケージに寿限無が……」
「マジで世話かけさせやがるな、お前!」
山城が一歩踏み出そうとすると、膝にクラウドが抱きついてきた。
「どこに行くんですか! 僕を置いていかないで!」
「台所洗剤! そこ、流しんとこにあるやつ! あれなら使っていいだろ?」
「……ええ、でも、そんなもので……?」
「まー見てろって」
山城は手を貸してクラウドを立たせて、キッチンドアの外に追い出した。ぐずったが、「これからヤツを追い詰める」と言うと半べそをかきながらも黙って従ってくれた。
鍋から飛び出したゴキブリが飛んだのは後方、食器棚の方だった。排水口に飛び込んだら知らないが、騒いでいる間は結構、その場で息を潜めていることも多い。
静かに物を退かして見ると、皿の間に確かに、3センチ程度のゴキブリが長い触覚を揺らしていた。
山城は食器棚の引き戸を閉めて、右手だけを突っ込んだ。そこですかさず食器用の洗剤を思い切りぶっかけてやる。
慌ててゴキブリが逃げるが、逃げ道などない。
「わはははははは! 袋のゴキブリめっ!」
さらに追い洗剤を浴びせかける。
これでもかというくらいにプッシュしてやると、やがてゴキブリは動かなくなった。
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