サクラダツープラトン

リタ

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7 お守りの効能

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「ありがとうございました、山城さん。本当に助かりました。缶ビールで良ければ冷蔵庫にありますから、どうぞ」

 ゴキブリの死骸だけをいれたゴミ袋を玄関外まで置きに行かされて戻ると、クラウドはリビングのソファに座っていた。
 大きなソファセットは長めのテーブルを挟んで窓側が三人掛け、反対側に一人掛けが二つ並べてあった。
 クラウドは一人掛けのほうに落ち着いている。

 山城は大人しく、冷蔵庫から缶ビールを二つ持ってリビングに戻った。ハイビスカスのマークのビールはあまり飲んだことのないやつだ。

「おどかしやがって。強盗にでも居直られたのかと思っただろうが」
 家に見合うだけの、いかにも高級そうなソファは広々としている。
 山城は三人賭けに一人で陣取って座った。

「すみません。でも、本当に苦手で」
「ゴキブ」
「寿限無です」
「面倒くせぇな! ジュゲムぐらい、自分でなんとかしろよ。男だろ」
「男女は関係ありません。苦手なものは苦手です」
「まぁ、それもそうか」
「それにしても、食器用洗剤でヤツが倒せるなんて」
「ゴキ……ジュゲムの表面の油を界面活性剤が落とすんだよ。そうしたら液体が気門を塞いじまうから窒息だ」

 初任時の寮生活で得た知識が役に立った。若い男が集団生活をしたら、ゴキブリにもしょっちゅう遭遇する羽目になるのだ。いちいち騒ぐより的確に始末したほうがいいのは自明である。

 山城は缶ビールを飲んだ。

 よく考えなくても酷い一日だった。
 朝から晩まで振り回されっぱなしだったのだ。ビールが身に染みるのも当然だ。
 とはいえまだ問題はある。今晩の寝場所を確保しなくてはならない。最悪、本庁に戻って宿直室にでも潜り込めばいいかもしれないが、できれば避けたい。

 横目でクラウドを伺うと、まだ顔色が悪い。本当にゴキブリが苦手なようだ。

「ここ、先月入居したばかりなのに。……すぐにハウスクリーニングを手配します」

 半ベソでもイケメンなのは大したものだ。が。

 今ならいける。
 山城は確信した。

「そりゃいい。一匹見たら三十匹いると思えってのがジュゲム対策の鉄則だしな」

 山城の言葉に室内のすべてが凍り付いたようだった。ロボットみたいにぎこちない動きで、クラウドが山城を見る。
 山城は黙って見つめ返した。

「……泊まってってやろうか?」
「お願い、します」

 よっしゃ、今晩の宿確保! と、心の中で万歳したのはおくびにも出さなかったが、腐っても占い師は見逃してはくれなかった。

「水難に遭いましたか」
「あー。……上の階からの水漏れ被害も含まれる系?」
 クラウドが静かに頷いた。さっきの涙目が別人みたいな落ち着いたまなざしだ。

「俺が、ツキを失ったから?」
「三百万円です。早めに手を打たないと」
「ジュゲム退治のお礼になんとかするとか言えねぇのかよ、ケチ」
「金額にも意味があるんです。ですが……これを差し上げます。今晩のお礼です」

 クラウドはソファテーブルの上にあったきれいな箱から手のひらサイズの巾着袋を取り出した。

「なんだ、これ。お守りか?」
「できれば、ずっと持っていてください」
 お礼の品を突き返すほど大人げなくもない。有り難く受け取ることにして、山城はお守りを上着の胸ポケットに突っ込んだ。



 クラウドが用意してくれた客間は八畳間だった。真新しい畳の匂いは久々で、妙な郷愁を感じたりもした。
 山城はふかふかの布団を敷き、よく寝て、いつもより早起きした。

 クラウドに声を掛けると、鍵はオートロックだから気にしないで出ていいと言われた。豪邸は楽なものだ。

 いつもと違う通勤ルートになるが、ラッシュピークに掛からない時間ならどうということもない。
 前日のことが嘘のようにあっさりと、山城は桜田門駅に辿り着いた。

 胸ポケットに入れたお守りの存在が頭をよぎったが、気のせいだと思うことにする。

 さっさと8係の資料室に行くと、すでに国枝がいた。
「おはよう、山城君。はやいねー」
「おはようございます。係長こそ、めちゃくちゃ早いっすね」
「昨日の件でね、書類、残っちゃって」
 国枝のデスクにはノートパソコンとファイル、それに今朝付けの朝刊が広がっている。
 新聞のトップはもちろん『結夢ちゃん事件解決』だ。

「昨日、君が勝手に帰っちゃった後で三井君が来てね。もう鼻の穴が膨らみきってて大変だったよ。まさかこんなにあっさり解決するなんて思わないもの」
 国枝が体をほぐすように首をぐるりと回した。

「とはいえ、送検できるだけの証拠固めは刑事の仕事です。被疑者の事情聴取には立ち会ってきてください」
「了解です」
「所轄署でケンカしないでね」
「わかってますって」
 まあ、向こうがケンカ売ってくるだろうけどなとは言わないでおいた。
 山城は大人だ。




「今日はイケメン連れてないのか、捜一さん」
 覆面パトカーで所轄署まで行くと、猪飼警部補が出迎えてくれた。
 本庁刑事と所轄刑事だと、本庁のほうが同階級でも上だ。年次も関係あるが、とにかくそういうことになっている。
 警察組織は整然としたピラミッド型なのだ。

「アレは嘱託非常勤の一般市民なんでね。そう邪魔されちゃたまったもんじゃねぇってんだ」
 ゴキブリ一匹に怯えて泣いたクラウドを思い出すと、すまし顔もかわいいものにしかみえない。
 まあ、所詮は占い小僧だ。

「こっから先は本職の仕事でしょうが」
 取調室前の廊下で刑事が二人、睨み合っていても話は進まない。そこは猪飼も同感らしく、鼻を鳴らして取調室のドアを開けた。 

 室内、すでに日野は着席していた。記録係も配置についている。時間的にも開始していい頃合いだった。
 猪飼を見るなり、日野が机に突っ伏すように頭を下げた。

「申し訳ありませんでした」
「昨日も言ったが……何でもっと早く言わなかったんだ」
 猪飼が答えて、日野の正面に座った。山城は二人を眺めるように、壁際に寄った。

「それこそあの頃、あんたが犯人だってマスコミが毎日囃したててた」
「……申し訳ありません」
「事情も何回も聴いただろうが。あんたは違う、殺してないと言い続けた。それを、今頃……っ!」
 バンと大きな音を立てるように猪飼が机を叩いた。日野が竦み上がる。

 重大犯罪に関する取調室でのやりとりは、録画記録されることになってからは、こういう威嚇行為は避けなければならない。警察も色々面倒なのだ。 

 猪飼も知らないことではないだろうに、頭に血が上っているのだろう。冷静沈着かつクレバーな警部補である山城は、咳払いをひとつしてやった。

 猪飼が睨みをひとつ寄越したが、礼みたいなものだ。それで落ち着いたようだったし。

「凶器は? どうやって殺した」
 聴取が続く。

「……手で、首を締めました」
「結夢ちゃんに残ってた薄い扼痕らしきもんはあんたのもんじゃないだろ。大人の男の手だったら、もっとこう、くっきり残るんだ」
 一息でそう言った猪飼は、また山城を見た。

「なぁ、日野さん。やっぱり違うんでしょう? 冤罪だ。本庁の刑事に何を言われたんです」
 ほら見ろ。やっぱりケンカを売ってくるだろうが。

 山城は猪飼を顔で威嚇し返した。

「最初に首に手をあてたのは結夢ちゃん本人だ。除草剤で喉が焼けて、苦しかったからな。それに、あんたが手を添えた」

 見たこと、感じたこと。
 おろおろしていた男は急に気持ちを決めたようで、顔を強張らせて娘の手に手を置いたのだ。
 そして、圧をかけた。

 日野が頷き、重そうに口を開いた。

 20XX年8月16日、深夜。
 雨が上がったのを見計らって、日野は娘・結夢とともに自宅を出た。心中するつもりだったのだ。
 結夢の母であり、日野の妻・早紀を失った辛さに耐えきれずに、親子で相談した結論だった。

 はじめに、結夢がジュースに混ぜた除草剤を飲んだ。しばらくして苦しみ出した結夢を見かねて、日野が手を貸した。具体的には、喉を押さえていた娘の手を、そのまま握って押しつけた。
 ただそれだけだったと語った。

「嘘だ」
「本当なんです、猪飼さん」

「確かに除草剤は検出された。けど、ガイシャの手首はきれいなもんだった。本人の手で窒息させたんなら、手首にもそれなりの痕が残るもんなんだよ」

「そんなこと言われても……本当なんです」
 日野が途方に暮れた。

 自白を信じない刑事というのも妙なところだが、無実と信じて捜査してきた気持ちはわからないでもない。
 山城は昨日見たファイルを思い出した。

「雨のせいじゃないか?」
「……あぁ?」
 同僚相手に凄むなよ、現場。
 そう言いたいが、山城は肩をすくめてやった。

「資料をよく思い出せよ。あの日の最低気温は18度。雨も降って遺体の体温は急激に低下したはずだ。つまり、アイシング効果になっちまって扼痕が残らなかった、ってとこじゃねえか?」

 あの年は酷い冷夏だった。
 特に事件前後は8月だというのに最高気温が20度程度の日が続いていて、肌寒いくらいだった。しかも雨だ。

 遺体の状況は温度でかなり変わる。
 真夏らしからぬ冷やされ方をしたら、死因と状況を解りにくくする可能性は十分にある。そこを踏まえて検死が行われているはずだ。

「証拠は? 証拠はあんのか、日野さん。これまであんたの家をどれだけ捜索したと思ってんだ。それらしいもんはなかっただろうが」

 調書によれば、事件当夜、日野親子が近隣を歩いていた目撃証言はいくつかあった。当時はそこまで監視カメラも多くなかったから、画像はない。児童公園にカメラが設置されたのも、本件事件後のことだ。
 
「……娘が飲んだ除草剤は、霊園の……妻と娘の墓の中に、あります」
 絞り出すように、日野が言った。
「大事に持ってるマスコットも出せ。あのとき、結夢ちゃんの血がついたはずだ。クリーニングで落としちまったか?」
「なんだって? なんで早く言わないんだ!」
 山城の言に、猪飼がいよいよ猛り狂った。

「あんたはさ、自殺するのに手を貸すんじゃなくて、一緒に生きてやるべきだったんだよ。……あの子、死ぬ間際にあんたに助けを求めてたんだぜ……?」
 猪飼を無視し、山城はデスクに手をついて日野を覗き込んで、言った。声は荒げない。
 ただ、胸にわだかまったみたいに残った、あの女の子の最期の気持ち伝えたかっただけだ。

「どうして……? 刑事さんがどうしてそんなこと、わかるんです? ……どうしてマスコットのことを知ってたんですか?」
「それは……話しにくいんだが……」

 まさか、占い小僧のナゾの術で『夢』を見たとは言えない。
 山城はげふんげふんと咳払いをした。

「妻を、失って……悲しくて、あの子に、会いに行こうって、話してたんです……。あの子は、信じてた」
 俯いたまま言った日野の真下、机の上に雫が落ちた。

「一緒に死ぬつもりで公園に行ったんです。でもできなくてっ……! ……ずっと、ずっとずっと苦しかったんですよ……っ」
 ボタボタと、二滴、三滴。
 悲しみの涙は本物だろう。

 だが、山城は少しの同情も感じなかった。
 そんなに大事な娘を死なせて、遺体を公園に放置したのだ。やらかしたことが怖くなったのかもしれないが、許せることではない。

 大事なものは大事にすればいい。
 妻を亡くして寂しい娘を殺して自分も死ぬのではなく、一緒に生きていくべきだったのだ。
 挙句、後を追いきれなかった男が泣いたところでなんだというのか。
 自分勝手なだけだ。

「……やってらんねぇな」
 山城は呻いた。



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