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あたたかい話(ヒューマンドラマ)
『ボイス・シナスタジア』(男0:女0:不問3)
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『ボイス・シナスタジア』
──Voice Synesthesia──
作 / 鳳月 眠人
◆◇登場人物◇◆
客
いま、自分のことがとてもじゃないけれど好きではない人。
バーテンダー
直感力と洞察力を持つ。落ち着いた優しい雰囲気。
標本師
中性的な顔立ちと立ち振るまい。掴みどころのない雰囲気。
◆◇ここから台本◇◆
── 浅い夜の雑踏
客:
「……もう、諦めた方が、いいのか」
標本師:
「あのー、アナタもしかして、ご自分のことが嫌いな人ですか?」
客:
「は? ……!」
息を飲む。話しかけてきた声の主が、
ちょっとそこらで見ないほど綺麗な顔立ちで、
性別不詳の不思議な雰囲気だったからだ。
── 短い間
標本師:
「あーやっぱり。いい顔してる。
ちょっとそこ、座ったほうがいいですよ。
くちびる、まっさおだし」
客:
「……」
バーテンダー:
「伊織くん……」
客:
「……なん、ですか、いきなり。アンタがた」
標本師:
「まぁまぁ。怪しいものではないんです、
と言っても、ぶしつけな第一声だったことは認めます。
すみません、つい。アナタ、いい声してたから」
客:
「いい、こえ」
バーテンダー:
「申し訳ない。私はそこの路地で、バーを営んでいる者です。
こっちの子はその店の」
標本師:
「仕入れ担当。標本師、です」
バーテンダー:
「こんなでも優秀な仕入れのプロなんだ」
標本師:
「うん、もっと褒めて」
客:
「標本師の、仕入れ? バーで?」
バーテンダー:
「ああ。もしよかったら、休んでいきませんか。
後ろから見ていたけれど、足取りもふらついていたし、本当に顔色が悪い」
客:
「……」
なんでも、よかった。どこか不思議な雰囲気にあてられたのかもしれない。
気づけば、二人について行って、しまっていた。
── 店のシャッターの上がる音
バーテンダー:
「すまないね、今から店を開けるものだから。
さ、どうぞ。場所代なんて、とらないから。そこの席で寛いでください」
客:
木のぬくもりある古き良き内装の店内。そのいっかく。腰掛けた身体が、椅子に深く沈む。
バーテンダー:
「失礼するね。テーブルに、クロスだけ」
客:
「あ、はい」
光沢のある濃紺のクロスが目の前に敷かれた。店内の光を無表情に照り返す。
さっきまでの雑踏は、遠い。頭が、状況に追いついてきて、また、気分が落ちる。
冷える……
標本師:
「ほい。どうぞ。コーヒー。缶のやつですけど」
客:
「あ……」
標本師:
「さて、……あたたまるまで、雑談でも。この店、昼間は入ったことあります?」
客:
「いいや。入ったことは……」
標本師:
「なるほど。じゃあ実際に見てもらった方が、早い。
んっんん。(一拍の間)“こんばんは、ボクの名前は瀬川伊織。23歳。声の、標本師。
今からアナタの声を採集して、そこの店主に売りつけようとしています“」
バーテンダー:
「ふふっ、明け透けだなあ」
客:
「えっ」
驚いたのは、標本師を名乗る伊織……さんの言葉に、ではなかった。
声が発せられているあいだに、突如として目の前の空間に現れて、テーブルに落ちたのは。
標本師:
「これが、今のボクの、声ですね」
客:
「声。これが」
標本師:
「ボクはだいたい、お花みたいな形になるんです。
体調悪い時はバナナの皮みたいなのがでてきますけど。ははっ」
客:
行儀よく整列した、花びら。名前の知らない花の形をした、ガラスのような結晶。
手のひらサイズ。
中は、液体だろうか。綺麗な淡い色が何種類か、混じることなく、とぷんとゆれた。
金色が、キラキラと、ガラスの花の中を泳いでいる。
標本師:
「夢じゃないですよ~」
客:
「あ、ああ。これは、いったいどういう仕組みで」
標本師:
「それは、企業秘密です」
客:
「ええ……」
標本師:
「とにかくこれがね。つまり、人の声が。あちらの店主にかかると、
美味しいお酒みたいなものにだとか、ゼリーっぽいものにだとか、
そういうのにしてくれるんですよ」
バーテンダー:
「営業に繋げてくれてありがとう、伊織くん」
客:
みたいなものとか、ぽいものってなんだ……
標本師:
「で、ですね。なにがあって先程、アナタがご自身をそんなに追い込んでいたのか。
ボクは興味ありません。
でも、アナタの今の想い。そしてその声。この店にとっては需要がある。
採集には何のリスクもありません。想いを吐露してもらえればいい。
その恥ずかしさだけかな。声が盗られるとか、そういうのはないです」
客:
「……」
標本師:
「取れ高によりますが、最低二百円から。ちょっとした小遣い稼ぎと思ってもらえれば」
客:
おカネは正直、どうでもよかった。
ただ、自分の想いは、声は、どんなものになるのか。
その好奇心に動かされて。了承してしまっていた。
── 間
客:
「たどたどしくなりますけど、いいですか」
標本師:
「問題ないですよ。声に感情が、こもっていれば。
では、どうぞ」
── 客、軽く深呼吸。
客:
「“自分は……自分の声に、少々特徴があるのは、自覚してます」
「だから。それを人生に活かそうと、思っていました“」
「“けれど、よくある、話です。授かったものだけでは、群を抜いた才能には、勝てない“」
「“努力したところで、次元が違う。演技も、表現力も、営業力も、プレゼン力も“」
「“否定されて、愛想笑いされて、選ばれない。時間ばかりが逃げてゆく“」
「“結局、何もつかめていません“」
どうしよう、どうしたんだろう。止まらない。想いが。
「“もともとの仕事に手一杯になってきて、大切だった、人とも……疎遠になって“」
「“いつしか、楽しかった事を忘れて、笑えなくなりました“」
「“自分の不器用さに、疲れました。なぜ思うようにいかないのか“」
「“……必要と、されていない。この世から。誰からも、求められていない“」
「“……だから、だから。自分という存在、それ自体を、もう、諦めるべきなのでは、と“」
バーテンダー:
「お疲れさま」
客:
「、ぁ」
バーテンダー:
「ずいぶん、スモーキーな色の蝶だ」
客:
「蝶……」
標本師:
「蛾みたいですね」
バーテンダー:
「蝶だよ。羽を閉じて止まっているから」
標本師:
「知ってますよ、標本師ですから」
客:
「これが」
標本師:
「ええ、アナタから今しがた吐き出された、想いと声、です」
客:
人生を翻弄してきた、自分の声との、対面。
煤をかぶったような、藍色の蝶が、ひらめいている。
目立たない。思った通り。こんなのじゃ……
バーテンダー:
「やっぱりちょっと体調を崩しているね。黒いモヤが浮いている」
標本師:
「ああ、それが蛾みたいな模様になってるのか。不純物、取り除きますねー」
バーテンダー:
「ではさっそく、自分の声、召し上がってみます?」
客:
「えっ、……ほんとうに、飲めるんですか」
バーテンダー:
「ええ、もちろん。経験ありませんか。
人の声はね。酔えるんですよ。アルコールなんて、入っていなくとも」
客:
「酔える……でしょうか、自分の、こんな想いの声で」
バーテンダー:
「自分自身の声はね。自分のことが嫌いになっていても、意外と美味いものですよ。
特に、感情のノったものは」
標本師:
「魚の脂がノってます、みたいな感覚で言わないでください?」
バーテンダー:
「上手いねぇ、伊織くん」
客:
「……」
標本師:
「はいはい、上がりましたよ。蝶型、中純度、磨き二十四パーセントの、
“自己への拒絶“、1ダース、納品です」
バーテンダー:
「ありがとう。さ、二人とも、カウンターへ」
── 短い間
客:
「“自己への拒絶“、なんて、需要あるんですか」
バーテンダー:
「ありますとも。そのままでも、とても、強く酔えますよ。
そういうのが好きな人もいますし、前向きな感情と割れば、“謙虚“な感情になる。
それに、ね、見てください」
客:
さっき納品された標本箱が、開けられた。
中には、蝶の標本らしく、きちんと羽を広げられた、自分の声、だったもの。
それらは、最初に見たよりも、つややかで、思わず目を丸くした。
標本師:
「綺麗でしょ。ボクには、赤を煮詰めたような色に見える。飲んだらワインベースかな?」
客:
「赤? 自分には濃い藍色と、茶色に見えますけど……?」
バーテンダー:
「ああ、そこが面白いところでしてね。人によって、色も味も異なります。
酔うための濃度は変わりませんがね」
客:
「え……!? そんなことが?」
バーテンダー:
「実際、私には、雪景色のような白と銀がメインに見えていますよ」
客:
「そんなに、違うんです、か」
バーテンダー:
「そうですとも。他の人が感じるアナタの声や、想いは。
自分の思っているものと、全然違うってことです」
標本師:
「そうそう。人の感受性や、好みによりけり、です」
客:
……理解しきれない。だけど。
「地味だと、魅力のないものだと、思い込んでいるのは……」
標本師:
「ああ、でもね。地味っていうか、紛れられるっていうのは、ある種の才能なんですよね。
狙われにくくなる。目立つことができないかわりに」
客:
「それは」
標本師:
「不本意ですか? 本当に? ボクには、無意識に身を守っていたのかなって感じられましたね」
客:
「あ……」
バーテンダー:
「自信や活力が戻れば、もっと人情味が溢れて、何種類も色が出てきますよ。
それは誰の目にも明らかなほどに。
それでは、声カクテルをお作り致しましょうか」
客:
「あ、あの。そういえばお代はどれぐらいなんですか」
バーテンダー:
「今からお作りするのは諸々込みで千五百円ですかね」
客:
よかった、まぁ普通の値段だ。
標本師:
「あ、仕入れさせてもらったお代金、お支払いしておかないとでしたね。
この度は良いお品をありがとうございます」
客:
渡されたのは、名刺と声代、千五百円。
「実質、無料?」
バーテンダー:
「ふふ、だからご来店くださるお客様は、声の提供とご注文はだいたいセットですねえ。
もちろん、純粋なリスナーのお客様もおられますし、宅飲み発送もしておりますが」
客:
自分の蝶がアイス・トングで摘まれて、シェイカーへと、そのまま入れられた。
それから別の標本箱が開けられて、取り出されたのは明るいオレンジ色の……
「羽?」
バーテンダー:
「ええ、とあるお客様のもの。“あたたかな諦め“の声です」
客:
シェイカーの中で、カシャン、カシャン、とガラスのぶつかり合っていた音は、
だんだん細かい、シャラシャラという音になっていった。
ふたつの声が、丁寧に混ぜ合わせられていく。
バーテンダー:
「ここに、様々な方の“希望“を」
客:
フルート型のシャンパングラスに、色とりどりの小さなビー玉のような、ゼリーが入れられて。
標本師:
「あ、いいなー。美味しそう」
客:
透き通った無色のクラッシュが重ねられて、シェイカーの中身が注がれる。
バーテンダー:
「さて、どうぞ。カクテル名は、“羽化“」
客:
深い、深い、緑色。
「…………」
飲んだ。
バーテンダー:
「いかがですか」
標本師:
「いいなー、ボクも同じの飲んでみたいです!」
バーテンダー:
「ふふ、かしこまりました」
客:
知らず、涙が出ていた。
重厚なカラさを、想像したのに、それは。
優しくまろやかで、フルーティーな味わいで。思ったよりも……
「……軽い」
バーテンダー:
「ふふ、さようですか」
客:
「飛んでいって、しまいそうです」
バーテンダー:
「それがアナタの、声の魅力ですよ。
頑張れ、そうですか」
客:
「……はい」
大したことのない悩みだ、と言われているような軽さとは違った。
ツラかったことを、包み込んで、押し流してくれたような、味わいだった。
バーテンダー:
「なにごとも、経験です。アナタのその苦しみも、ご自身を作り上げて、
いずれ誰かに影響を与える、いい味になる。
まだアナタは、羽ばたける」
標本師:
「あと、誰かと声を合わせるって大事ですよねー」
バーテンダー:
「そのとおり。相性はもちろんありますけどね。
まだまだ色々な声と感情を、ご賞味いただけますよ」
客:
これは……常連になってしまいそうだ。
バーテンダー:
「それでは店を、開けますか」
バー、ボイス・シナスタジアへ、ようこそ。
声に酔う夜を、あなたに。
── 3秒程度の間、終演。
──Voice Synesthesia──
作 / 鳳月 眠人
◆◇登場人物◇◆
客
いま、自分のことがとてもじゃないけれど好きではない人。
バーテンダー
直感力と洞察力を持つ。落ち着いた優しい雰囲気。
標本師
中性的な顔立ちと立ち振るまい。掴みどころのない雰囲気。
◆◇ここから台本◇◆
── 浅い夜の雑踏
客:
「……もう、諦めた方が、いいのか」
標本師:
「あのー、アナタもしかして、ご自分のことが嫌いな人ですか?」
客:
「は? ……!」
息を飲む。話しかけてきた声の主が、
ちょっとそこらで見ないほど綺麗な顔立ちで、
性別不詳の不思議な雰囲気だったからだ。
── 短い間
標本師:
「あーやっぱり。いい顔してる。
ちょっとそこ、座ったほうがいいですよ。
くちびる、まっさおだし」
客:
「……」
バーテンダー:
「伊織くん……」
客:
「……なん、ですか、いきなり。アンタがた」
標本師:
「まぁまぁ。怪しいものではないんです、
と言っても、ぶしつけな第一声だったことは認めます。
すみません、つい。アナタ、いい声してたから」
客:
「いい、こえ」
バーテンダー:
「申し訳ない。私はそこの路地で、バーを営んでいる者です。
こっちの子はその店の」
標本師:
「仕入れ担当。標本師、です」
バーテンダー:
「こんなでも優秀な仕入れのプロなんだ」
標本師:
「うん、もっと褒めて」
客:
「標本師の、仕入れ? バーで?」
バーテンダー:
「ああ。もしよかったら、休んでいきませんか。
後ろから見ていたけれど、足取りもふらついていたし、本当に顔色が悪い」
客:
「……」
なんでも、よかった。どこか不思議な雰囲気にあてられたのかもしれない。
気づけば、二人について行って、しまっていた。
── 店のシャッターの上がる音
バーテンダー:
「すまないね、今から店を開けるものだから。
さ、どうぞ。場所代なんて、とらないから。そこの席で寛いでください」
客:
木のぬくもりある古き良き内装の店内。そのいっかく。腰掛けた身体が、椅子に深く沈む。
バーテンダー:
「失礼するね。テーブルに、クロスだけ」
客:
「あ、はい」
光沢のある濃紺のクロスが目の前に敷かれた。店内の光を無表情に照り返す。
さっきまでの雑踏は、遠い。頭が、状況に追いついてきて、また、気分が落ちる。
冷える……
標本師:
「ほい。どうぞ。コーヒー。缶のやつですけど」
客:
「あ……」
標本師:
「さて、……あたたまるまで、雑談でも。この店、昼間は入ったことあります?」
客:
「いいや。入ったことは……」
標本師:
「なるほど。じゃあ実際に見てもらった方が、早い。
んっんん。(一拍の間)“こんばんは、ボクの名前は瀬川伊織。23歳。声の、標本師。
今からアナタの声を採集して、そこの店主に売りつけようとしています“」
バーテンダー:
「ふふっ、明け透けだなあ」
客:
「えっ」
驚いたのは、標本師を名乗る伊織……さんの言葉に、ではなかった。
声が発せられているあいだに、突如として目の前の空間に現れて、テーブルに落ちたのは。
標本師:
「これが、今のボクの、声ですね」
客:
「声。これが」
標本師:
「ボクはだいたい、お花みたいな形になるんです。
体調悪い時はバナナの皮みたいなのがでてきますけど。ははっ」
客:
行儀よく整列した、花びら。名前の知らない花の形をした、ガラスのような結晶。
手のひらサイズ。
中は、液体だろうか。綺麗な淡い色が何種類か、混じることなく、とぷんとゆれた。
金色が、キラキラと、ガラスの花の中を泳いでいる。
標本師:
「夢じゃないですよ~」
客:
「あ、ああ。これは、いったいどういう仕組みで」
標本師:
「それは、企業秘密です」
客:
「ええ……」
標本師:
「とにかくこれがね。つまり、人の声が。あちらの店主にかかると、
美味しいお酒みたいなものにだとか、ゼリーっぽいものにだとか、
そういうのにしてくれるんですよ」
バーテンダー:
「営業に繋げてくれてありがとう、伊織くん」
客:
みたいなものとか、ぽいものってなんだ……
標本師:
「で、ですね。なにがあって先程、アナタがご自身をそんなに追い込んでいたのか。
ボクは興味ありません。
でも、アナタの今の想い。そしてその声。この店にとっては需要がある。
採集には何のリスクもありません。想いを吐露してもらえればいい。
その恥ずかしさだけかな。声が盗られるとか、そういうのはないです」
客:
「……」
標本師:
「取れ高によりますが、最低二百円から。ちょっとした小遣い稼ぎと思ってもらえれば」
客:
おカネは正直、どうでもよかった。
ただ、自分の想いは、声は、どんなものになるのか。
その好奇心に動かされて。了承してしまっていた。
── 間
客:
「たどたどしくなりますけど、いいですか」
標本師:
「問題ないですよ。声に感情が、こもっていれば。
では、どうぞ」
── 客、軽く深呼吸。
客:
「“自分は……自分の声に、少々特徴があるのは、自覚してます」
「だから。それを人生に活かそうと、思っていました“」
「“けれど、よくある、話です。授かったものだけでは、群を抜いた才能には、勝てない“」
「“努力したところで、次元が違う。演技も、表現力も、営業力も、プレゼン力も“」
「“否定されて、愛想笑いされて、選ばれない。時間ばかりが逃げてゆく“」
「“結局、何もつかめていません“」
どうしよう、どうしたんだろう。止まらない。想いが。
「“もともとの仕事に手一杯になってきて、大切だった、人とも……疎遠になって“」
「“いつしか、楽しかった事を忘れて、笑えなくなりました“」
「“自分の不器用さに、疲れました。なぜ思うようにいかないのか“」
「“……必要と、されていない。この世から。誰からも、求められていない“」
「“……だから、だから。自分という存在、それ自体を、もう、諦めるべきなのでは、と“」
バーテンダー:
「お疲れさま」
客:
「、ぁ」
バーテンダー:
「ずいぶん、スモーキーな色の蝶だ」
客:
「蝶……」
標本師:
「蛾みたいですね」
バーテンダー:
「蝶だよ。羽を閉じて止まっているから」
標本師:
「知ってますよ、標本師ですから」
客:
「これが」
標本師:
「ええ、アナタから今しがた吐き出された、想いと声、です」
客:
人生を翻弄してきた、自分の声との、対面。
煤をかぶったような、藍色の蝶が、ひらめいている。
目立たない。思った通り。こんなのじゃ……
バーテンダー:
「やっぱりちょっと体調を崩しているね。黒いモヤが浮いている」
標本師:
「ああ、それが蛾みたいな模様になってるのか。不純物、取り除きますねー」
バーテンダー:
「ではさっそく、自分の声、召し上がってみます?」
客:
「えっ、……ほんとうに、飲めるんですか」
バーテンダー:
「ええ、もちろん。経験ありませんか。
人の声はね。酔えるんですよ。アルコールなんて、入っていなくとも」
客:
「酔える……でしょうか、自分の、こんな想いの声で」
バーテンダー:
「自分自身の声はね。自分のことが嫌いになっていても、意外と美味いものですよ。
特に、感情のノったものは」
標本師:
「魚の脂がノってます、みたいな感覚で言わないでください?」
バーテンダー:
「上手いねぇ、伊織くん」
客:
「……」
標本師:
「はいはい、上がりましたよ。蝶型、中純度、磨き二十四パーセントの、
“自己への拒絶“、1ダース、納品です」
バーテンダー:
「ありがとう。さ、二人とも、カウンターへ」
── 短い間
客:
「“自己への拒絶“、なんて、需要あるんですか」
バーテンダー:
「ありますとも。そのままでも、とても、強く酔えますよ。
そういうのが好きな人もいますし、前向きな感情と割れば、“謙虚“な感情になる。
それに、ね、見てください」
客:
さっき納品された標本箱が、開けられた。
中には、蝶の標本らしく、きちんと羽を広げられた、自分の声、だったもの。
それらは、最初に見たよりも、つややかで、思わず目を丸くした。
標本師:
「綺麗でしょ。ボクには、赤を煮詰めたような色に見える。飲んだらワインベースかな?」
客:
「赤? 自分には濃い藍色と、茶色に見えますけど……?」
バーテンダー:
「ああ、そこが面白いところでしてね。人によって、色も味も異なります。
酔うための濃度は変わりませんがね」
客:
「え……!? そんなことが?」
バーテンダー:
「実際、私には、雪景色のような白と銀がメインに見えていますよ」
客:
「そんなに、違うんです、か」
バーテンダー:
「そうですとも。他の人が感じるアナタの声や、想いは。
自分の思っているものと、全然違うってことです」
標本師:
「そうそう。人の感受性や、好みによりけり、です」
客:
……理解しきれない。だけど。
「地味だと、魅力のないものだと、思い込んでいるのは……」
標本師:
「ああ、でもね。地味っていうか、紛れられるっていうのは、ある種の才能なんですよね。
狙われにくくなる。目立つことができないかわりに」
客:
「それは」
標本師:
「不本意ですか? 本当に? ボクには、無意識に身を守っていたのかなって感じられましたね」
客:
「あ……」
バーテンダー:
「自信や活力が戻れば、もっと人情味が溢れて、何種類も色が出てきますよ。
それは誰の目にも明らかなほどに。
それでは、声カクテルをお作り致しましょうか」
客:
「あ、あの。そういえばお代はどれぐらいなんですか」
バーテンダー:
「今からお作りするのは諸々込みで千五百円ですかね」
客:
よかった、まぁ普通の値段だ。
標本師:
「あ、仕入れさせてもらったお代金、お支払いしておかないとでしたね。
この度は良いお品をありがとうございます」
客:
渡されたのは、名刺と声代、千五百円。
「実質、無料?」
バーテンダー:
「ふふ、だからご来店くださるお客様は、声の提供とご注文はだいたいセットですねえ。
もちろん、純粋なリスナーのお客様もおられますし、宅飲み発送もしておりますが」
客:
自分の蝶がアイス・トングで摘まれて、シェイカーへと、そのまま入れられた。
それから別の標本箱が開けられて、取り出されたのは明るいオレンジ色の……
「羽?」
バーテンダー:
「ええ、とあるお客様のもの。“あたたかな諦め“の声です」
客:
シェイカーの中で、カシャン、カシャン、とガラスのぶつかり合っていた音は、
だんだん細かい、シャラシャラという音になっていった。
ふたつの声が、丁寧に混ぜ合わせられていく。
バーテンダー:
「ここに、様々な方の“希望“を」
客:
フルート型のシャンパングラスに、色とりどりの小さなビー玉のような、ゼリーが入れられて。
標本師:
「あ、いいなー。美味しそう」
客:
透き通った無色のクラッシュが重ねられて、シェイカーの中身が注がれる。
バーテンダー:
「さて、どうぞ。カクテル名は、“羽化“」
客:
深い、深い、緑色。
「…………」
飲んだ。
バーテンダー:
「いかがですか」
標本師:
「いいなー、ボクも同じの飲んでみたいです!」
バーテンダー:
「ふふ、かしこまりました」
客:
知らず、涙が出ていた。
重厚なカラさを、想像したのに、それは。
優しくまろやかで、フルーティーな味わいで。思ったよりも……
「……軽い」
バーテンダー:
「ふふ、さようですか」
客:
「飛んでいって、しまいそうです」
バーテンダー:
「それがアナタの、声の魅力ですよ。
頑張れ、そうですか」
客:
「……はい」
大したことのない悩みだ、と言われているような軽さとは違った。
ツラかったことを、包み込んで、押し流してくれたような、味わいだった。
バーテンダー:
「なにごとも、経験です。アナタのその苦しみも、ご自身を作り上げて、
いずれ誰かに影響を与える、いい味になる。
まだアナタは、羽ばたける」
標本師:
「あと、誰かと声を合わせるって大事ですよねー」
バーテンダー:
「そのとおり。相性はもちろんありますけどね。
まだまだ色々な声と感情を、ご賞味いただけますよ」
客:
これは……常連になってしまいそうだ。
バーテンダー:
「それでは店を、開けますか」
バー、ボイス・シナスタジアへ、ようこそ。
声に酔う夜を、あなたに。
── 3秒程度の間、終演。
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