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第13話 それぞれの選択
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店を出てからもしばらく、俺と羽灯は並んで歩いた。昼下がりの路地は人通りが少なく、アスファルトに細長い影を落としている。ビルの谷間から差し込む光が、彼女の丸ぶち眼鏡にやわらかく反射していた。
「――じつは、私にも事務所から声がかかってて」
歩調を合わせながら、羽灯がぽつりと口を開いた。
「事務所から?」
「はい。姫宮さんのサムネとか待機画面を見てくださったみたいで……『専属のイラストレーターとしてどうか』って。企画イラストやイベントビジュアルの担当、っていう感じで」
彼女は少し気まずそうに笑う。
「もちろん、悪い話じゃないんです。安定もするし、待遇もちゃんとしてて。でも……」
「自由に描けなくなる、ってやつですか」
羽灯は驚いたように目を瞬かせ、それから小さく頷いた。
「……はい。案件イラストばかりになると、自分の絵が ‘仕事用の絵’ に固定されていく気がして。私は、もっと寄り道したり、失敗したり、遠回りしながら描いていたいというか……」
彼女の指先は、空中に何かを描くようにゆっくり動く。
言葉を探しながら、それでも真っ直ぐに前を見ている横顔が印象的だった。
「贅沢なのかもしれませんけどね。安定よりも自由を選ぶなんて」
「いいえ」
俺は、足を止めずに言った。
「俺も、同じところで悩んでましたから」
羽灯が少しだけ首を傾げる。
俺は、今日応接室で感じた胸の重みを思い返しながら、ゆっくりと言葉に置き換えた。
「守ってもらえる代わりに、その分、背負うものも増える。それは当然なんですが……。まだ、俺は ‘守られる’ より、自分で転びたいんだと思います」
「……分かります」
羽灯はふっと笑った。
「同じですね、私たち」
「どうやら、似た者同士みたいで」
二人して苦笑いになり、軽い沈黙が落ちる。
その沈黙には、気まずさも重さもなく、ただ静かな共感だけが残っていた。
やがて、駅へと続く大通りが見えてくる。
お金の話、確定申告の話、配信の裏事情や案件単価、スパチャの使い道――。
話題はあちこちへ飛びながら、それでも終始笑いの絶えないまま時間が流れていった。
「じゃあ、今日はこのへんで」
駅前の横断歩道の前で、羽灯がくるりと振り返る。
「今日は本当に楽しかったです。あ……その、またご飯行きましょう!」
小さく手を振る仕草は、年齢よりもずっと幼く見える。
童顔の笑顔に照れ隠しの色が浮かんでいて、思わずこちらも笑ってしまった。
「ええ。また、ぜひ」
「約束ですよ。じゃあ――」
羽灯は軽く小走りで人の波へ溶けていく。
その背中が見えなくなるまで、俺はしばらく立ち尽くしていた。
(……なんだろうな)
胸の奥に残ったのは、奇妙な安堵だった。
童顔で小柄な彼女と中年の男が一緒に歩いていれば、道行く人からどう見られていたか分からない。それでも、あの笑顔に触れている間だけは、濁った心が少し洗われた気がしていた。
数日が過ぎた頃、俺はようやく決心を固めた。
机の上に置いた契約案を見つめ、深く息を吸い込み、事務所宛てにメールを打つ。
――申し訳ありません。今回は見送らせてください。
送信ボタンを押してしばらくすると、すぐに返信が届いた。
《ご連絡ありがとうございます。ご判断、尊重いたします。活動を心より応援しております。よろしければ、信頼できる税理士をご紹介いたします》
読み終えた瞬間、胸の奥が温かくなる。
(……いい事務所だな)
誰も責めない。引き止めもしない。
ただ、静かに背中を押してくれる。
俺はノートPCを閉じ、深く息を吐いた。
「――よし」
スイッチを入れ、配信ソフトを立ち上げる。
マイクの前に座り、待機画面を見つめながら小さく笑う。
「こんばんは。姫宮みことです。今日は、ちょっとだけ、大事な話をしようと思います」
画面の向こうに広がる見慣れたコメント欄。
そこに灯る文字列のひとつひとつが、今の俺の場所を確かに照らしていた。
俺は息を吸い、語り始めた。
――ここから先も、自分の足で歩いていくために。
◇◇◇
配信開始のカウントダウンがゼロになり、画面に俺――姫宮みことの姿が映し出される。待機中に流れていた羽灯の描いた新しい待機イラストが、ふっとフェードアウトしていく。
コメント欄は、開始直後から一気に流れ始めていた。
「こんばんは、みことです。今日も来てくれて、ありがとう」
軽く頭を下げる。
それだけで、コメントはさらに加速する。
〈待ってた!〉
〈今日も声が優しい〉
〈最近息抜きできてる?〉
〈今日のテーマある?〉
俺は小さく息を吸い、モニタの向こうを見据えて言った。
「今日はね――ちょっと真面目な話をしようと思うんです」
コメントの速度が一瞬だけ落ちる。
それが、みんなが耳を傾けてくれた証拠だった。
「この前、大手の配信事務所さんからお声がけをいただきました。所属しませんか、って」
ざわめきが文字の奔流になって広がる。
〈え、すご〉
〈大手!?〉
〈そりゃ声かかるよなあ〉
〈ついに箱入りか?〉
俺はゆっくりと首を振った。
「でも――お断りしました」
コメント欄が一瞬フリーズしたように固まり、次の瞬間、爆発する。
〈マジで!?〉
〈断るのか…!〉
〈理由聞きたい〉
〈自由選んだんだな〉
「守ってもらえる場所って、きっと安心なんですよね。企画もサポートもあって、活動もしやすくなる。でも、そのぶん背負う責任や、縛られることも増える。俺は……まだ、自分で転んで、自分で起きる方を選びたいと思いました」
自分の声が、思ったより静かに落ちていく。
「ここまで来れたのは、事務所の看板じゃなくて――みんなが一緒にいてくれたからです。だから、これからも一緒に、ゆっくり進ませてください」
コメントに、あたたかい文字列が灯る。
〈応援する〉
〈箱じゃなくても推す〉
〈俺たちが箱だろ〉
〈一生ついてく〉
思わず笑ってしまう。
「これからのことだけど……もっと歌も練習します。ボイトレも続けるし、実況も、雑談も、できることは全部やる。自分磨き、まだまだ途中だから」
言いながら、胸の奥が少しだけ熱くなる。
「それと――大事なお知らせがもうひとつ」
コメントがまた静まる。
「しばらく、スパチャを一時停止します」
戸惑いの声が、次々と流れていく。
〈え?〉
〈どういうこと?〉
〈収入大丈夫…?〉
〈無理しないでほしい〉
「ありがたいんです。本当に。救われた夜もありました。けど――甘えっぱなしになりたくない。お金よりもまず、コンテンツで返したい。だから今は、もっと強くなる時間に使います」
言葉を噛みしめるように、ゆっくり続ける。
「代わりに……ひとつ、お願いがあります」
指先でマウスを軽く弾き、画面に告知テロップを出す。
「切り抜き編集者さんを募集します。動画を広げる力を、みんなと作りたい。興味ある人は、連絡ください。必ず目を通します」
コメント欄はまた別の色で溢れた。
〈応募したい!〉
〈編集やってるからDM送る〉
〈俺も技術は無いけど宣伝する〉
〈みことプロジェクト始まった〉
「ありがとう。無理はしなくていいからね。できる人が、できる時に、できる分だけで」
笑顔で締めくくる。
「俺はまだ道の途中です。今日の選択が正しいかどうかなんて、きっとずっと先にならないと分からない。でも――みんなが隣にいてくれるなら、怖くない」
短い沈黙。
それから、画面の向こうで拍手の絵文字が降り注いだ。
「これからもよろしくね。姫宮みことでした――配信、続けます」
BGMが静かに流れ、コメントは止まる気配を見せない。
選んだ道の先で、俺はゆっくりと息を吐いた。
進むのは、まだこれからだ。
「――じつは、私にも事務所から声がかかってて」
歩調を合わせながら、羽灯がぽつりと口を開いた。
「事務所から?」
「はい。姫宮さんのサムネとか待機画面を見てくださったみたいで……『専属のイラストレーターとしてどうか』って。企画イラストやイベントビジュアルの担当、っていう感じで」
彼女は少し気まずそうに笑う。
「もちろん、悪い話じゃないんです。安定もするし、待遇もちゃんとしてて。でも……」
「自由に描けなくなる、ってやつですか」
羽灯は驚いたように目を瞬かせ、それから小さく頷いた。
「……はい。案件イラストばかりになると、自分の絵が ‘仕事用の絵’ に固定されていく気がして。私は、もっと寄り道したり、失敗したり、遠回りしながら描いていたいというか……」
彼女の指先は、空中に何かを描くようにゆっくり動く。
言葉を探しながら、それでも真っ直ぐに前を見ている横顔が印象的だった。
「贅沢なのかもしれませんけどね。安定よりも自由を選ぶなんて」
「いいえ」
俺は、足を止めずに言った。
「俺も、同じところで悩んでましたから」
羽灯が少しだけ首を傾げる。
俺は、今日応接室で感じた胸の重みを思い返しながら、ゆっくりと言葉に置き換えた。
「守ってもらえる代わりに、その分、背負うものも増える。それは当然なんですが……。まだ、俺は ‘守られる’ より、自分で転びたいんだと思います」
「……分かります」
羽灯はふっと笑った。
「同じですね、私たち」
「どうやら、似た者同士みたいで」
二人して苦笑いになり、軽い沈黙が落ちる。
その沈黙には、気まずさも重さもなく、ただ静かな共感だけが残っていた。
やがて、駅へと続く大通りが見えてくる。
お金の話、確定申告の話、配信の裏事情や案件単価、スパチャの使い道――。
話題はあちこちへ飛びながら、それでも終始笑いの絶えないまま時間が流れていった。
「じゃあ、今日はこのへんで」
駅前の横断歩道の前で、羽灯がくるりと振り返る。
「今日は本当に楽しかったです。あ……その、またご飯行きましょう!」
小さく手を振る仕草は、年齢よりもずっと幼く見える。
童顔の笑顔に照れ隠しの色が浮かんでいて、思わずこちらも笑ってしまった。
「ええ。また、ぜひ」
「約束ですよ。じゃあ――」
羽灯は軽く小走りで人の波へ溶けていく。
その背中が見えなくなるまで、俺はしばらく立ち尽くしていた。
(……なんだろうな)
胸の奥に残ったのは、奇妙な安堵だった。
童顔で小柄な彼女と中年の男が一緒に歩いていれば、道行く人からどう見られていたか分からない。それでも、あの笑顔に触れている間だけは、濁った心が少し洗われた気がしていた。
数日が過ぎた頃、俺はようやく決心を固めた。
机の上に置いた契約案を見つめ、深く息を吸い込み、事務所宛てにメールを打つ。
――申し訳ありません。今回は見送らせてください。
送信ボタンを押してしばらくすると、すぐに返信が届いた。
《ご連絡ありがとうございます。ご判断、尊重いたします。活動を心より応援しております。よろしければ、信頼できる税理士をご紹介いたします》
読み終えた瞬間、胸の奥が温かくなる。
(……いい事務所だな)
誰も責めない。引き止めもしない。
ただ、静かに背中を押してくれる。
俺はノートPCを閉じ、深く息を吐いた。
「――よし」
スイッチを入れ、配信ソフトを立ち上げる。
マイクの前に座り、待機画面を見つめながら小さく笑う。
「こんばんは。姫宮みことです。今日は、ちょっとだけ、大事な話をしようと思います」
画面の向こうに広がる見慣れたコメント欄。
そこに灯る文字列のひとつひとつが、今の俺の場所を確かに照らしていた。
俺は息を吸い、語り始めた。
――ここから先も、自分の足で歩いていくために。
◇◇◇
配信開始のカウントダウンがゼロになり、画面に俺――姫宮みことの姿が映し出される。待機中に流れていた羽灯の描いた新しい待機イラストが、ふっとフェードアウトしていく。
コメント欄は、開始直後から一気に流れ始めていた。
「こんばんは、みことです。今日も来てくれて、ありがとう」
軽く頭を下げる。
それだけで、コメントはさらに加速する。
〈待ってた!〉
〈今日も声が優しい〉
〈最近息抜きできてる?〉
〈今日のテーマある?〉
俺は小さく息を吸い、モニタの向こうを見据えて言った。
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コメント欄が一瞬フリーズしたように固まり、次の瞬間、爆発する。
〈マジで!?〉
〈断るのか…!〉
〈理由聞きたい〉
〈自由選んだんだな〉
「守ってもらえる場所って、きっと安心なんですよね。企画もサポートもあって、活動もしやすくなる。でも、そのぶん背負う責任や、縛られることも増える。俺は……まだ、自分で転んで、自分で起きる方を選びたいと思いました」
自分の声が、思ったより静かに落ちていく。
「ここまで来れたのは、事務所の看板じゃなくて――みんなが一緒にいてくれたからです。だから、これからも一緒に、ゆっくり進ませてください」
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〈応援する〉
〈箱じゃなくても推す〉
〈俺たちが箱だろ〉
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思わず笑ってしまう。
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言いながら、胸の奥が少しだけ熱くなる。
「それと――大事なお知らせがもうひとつ」
コメントがまた静まる。
「しばらく、スパチャを一時停止します」
戸惑いの声が、次々と流れていく。
〈え?〉
〈どういうこと?〉
〈収入大丈夫…?〉
〈無理しないでほしい〉
「ありがたいんです。本当に。救われた夜もありました。けど――甘えっぱなしになりたくない。お金よりもまず、コンテンツで返したい。だから今は、もっと強くなる時間に使います」
言葉を噛みしめるように、ゆっくり続ける。
「代わりに……ひとつ、お願いがあります」
指先でマウスを軽く弾き、画面に告知テロップを出す。
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笑顔で締めくくる。
「俺はまだ道の途中です。今日の選択が正しいかどうかなんて、きっとずっと先にならないと分からない。でも――みんなが隣にいてくれるなら、怖くない」
短い沈黙。
それから、画面の向こうで拍手の絵文字が降り注いだ。
「これからもよろしくね。姫宮みことでした――配信、続けます」
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