妻に不倫され間男にクビ宣告された俺、宝くじ10億円当たって防音タワマンでバ美肉VTuberデビューしたら人生爆逆転

小林一咲

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第1章 人生の転換期

第16話 両親の心

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 父の病室を後にして、病院の廊下をゆっくりと歩きながら、俺の頭の中には自然と過去の光景が浮かび上がっていた。
 消毒液の匂いと白い壁。足音の反響が、遠い記憶の底をそっと叩く。

 父と俺――二人並んで歩いた場所は、思っていたよりもずっと多かったのだと、今になってようやく気づく。

 まだ幼稚園にも通っていなかった頃、父が川沿いの公園へ連れて行ってくれたことがあった。
 季節は初夏。強い日差しの下、子ども用の小さな網を俺の手に握らせて、「ほら、あそこにオタマジャクシ」と笑っていた父の横顔を、今でもはっきり覚えている。

 帰り道、俺は転んで膝を擦りむいた。
 泣きじゃくる俺を抱え、父は慌てた様子で近くのドラッグストアに駆け込み、消毒液と絆創膏を買った。
 「ちょっと沁みるけど、我慢やぞ」
 そう言って、俺の頭をやさしく撫でてくれた手の温もり。その温度は、時間が経っても少しも薄れていない。

 小学校に上がってからも、父はよく俺をいろいろな場所へ連れ出してくれた。
 市内の小さな科学館、古びた映画館、夏祭りの屋台通り。どれも大したお金がかかる場所ではない。
 それでも、父と二人で歩く道は、不思議なくらい楽しかった。

 中でも特に印象に残っているのは、図書館の二階にある児童書コーナーだ。
 父は俺の隣に腰を下ろし、分厚い冒険小説を一緒にめくりながら、時々声を出して読み上げてくれた。

「主人公はな、怖くても進むんや。そういうもんや」

 その言葉に、幼い俺は胸を躍らせていた。
 それが格好つけた大人のセリフだと知ったのは、もっとずっと後のことだ。

 やがて父は、腎臓を患うようになった。
 徐々に外へ出る機会は減り、休日も家で横になって過ごす時間が増えていった。

 それでも、父は俺との時間をやめなかった。

 体調の良い日には、家の中で紙飛行機を折ってくれたり、将棋を教えてくれたり、宿題を見るふりをしながら一緒に寝転んで笑った。
 疲れているのは明らかなのに、俺の前では弱音らしいものをほとんど吐かなかった。

 母に怒鳴られた夜のことも、強く覚えている。

 中学生の頃、同級生と喧嘩をして、相手の鼻に拳を入れてしまった。
 教師から母へ連絡が入り、家に帰るや否や、俺は玄関で怒鳴りつけられた。

「この恥さらし! なんでアンタはいつも問題ばかり起こすの!」

 キッチンの蛍光灯の下で、母の怒声がぐらぐらと響き、俺の中にあった何かが崩れる音がした。
 土下座のように縮こまりながら、どうしていいかもわからず、ただ俯いていた俺の背中に、そっと手が置かれた。

「もうええ。今日はやめとき」

 父の声は低く、小さい。だが、不思議と家中に広がるような力があった。

「事情はあとで聞く。今は休ませてやってくれ」

 しばらくして自室に戻った俺のそばに、父が椅子を引き寄せて座った。

「殴った理由、言えるか」

 俺は震える声で話した。
 友達をバカにされたこと。母の愚痴を笑いものにされたこと。
 どうしても我慢できなかったこと――。

 父は黙って聞いてくれた。途中で遮ったり、説教めいたことを言ったりはしなかった。

「……殴ったのは、いかん。そこは分かるな」

「ああ……分かってる」

「でも、仲間を守ろうとした気持ちまで否定する必要はない」

 肩に置かれた手が、そっと背中を包み込む。

「次は、もう少し賢いやり方を考えろ。それができるのは、殴らんでも闘える強さを持った時や」

 その夜、俺は父の前で初めて涙を見せた。
 情けなくて、怖くて、悔しくて――けれど、同時に、温かくて安心していた。

 成績が芳しくなかった時もそうだった。
 母が家計簿を握りしめて嘆き続ける中、父は「誰でも得意不得意はある」と苦笑しながら、俺と一緒に問題集を広げてくれた。

 俺の心の支えになっていたのは、いつだって父だった。



 ――そんな記憶の数々が胸の底まで蘇り、気づけば俺は深く息を吐いていた。

 病院を出る頃には、空は薄く雲を帯び、風が少し冷たくなっていた。
 その風に背中を押されるように、俺は再び実家へ向かって歩いた。

 玄関の扉を開けた瞬間、俺は足を止めた。

 母が、居間の座布団の上で膝を抱えて座り込んでいた。

 顔を伏せ、肩を震わせている。
 涙が、畳にぽつり、ぽつりと落ちていた。

 ――母が泣いている姿を、俺は生まれて初めて見た。

 言葉が喉に引っかかり、声が出ない。
 しばらくの間、俺はただ立ち尽くすことしかできなかった。

「……アンタ」

 母は絞り出すような声で、ゆっくり顔を上げた。
 目元は赤く腫れ、涙の跡が濡れた筋となって頬を伝っている。

「アンタ、父さんから病気のこと……どこまで聞いた?」

「病気、って……腎臓のことなら、前から――」

「違うんよ」

 母は唇を震わせながら、言葉を噛み締めた。

「父さん……慢性腎不全のステージ4なの」

 心臓の奥底で、何かが鈍い音を立てた。

 頭が一瞬、真っ白になる。
 呼吸の仕方さえ忘れてしまったような感覚だった。

「父さんから、言うなって言われてたのよ……。アンタには黙ってろって。心配かけたくないからって」

 母の声はところどころ崩れ、言葉が涙に溶けていく。

「でも……でもね、私一人じゃ、抱えきれなかったのよ。診断を聞いたあとから、夜になると苦しくて、どうしていいか分からなくて……」

 それが――母の涙の理由だった。

 余命ははっきりしない。
 治療は続けられるが、先は不透明。

 その現実を前に、母は半ば無理やりに俺を呼び出したのだという。

「ごめんね……ごめん……それでも、誰かに支えてほしかったの……」

 俺はやっと一歩、母のそばへ踏み出した。長い時間の溝を跨ぐように、重く、慎重に。

 胸の奥で、父の笑顔と、母の涙が重なり合っていた。

◇◇◇

 母の涙が一段落したあと、居間にはしばらく沈黙が落ちていた。
 時計の秒針の音だけが、やけに大きく響く。湯のみの中の緑茶はすでに冷めていて、その表面に照明の光がぼんやり揺れていた。

「……父さんの、これからのことなんだけどね」

 母が視線を落としたまま、そっと言葉を継いだ。
 その声は、張りつめた糸の上を慎重に歩くように、細く、震えていた。

「主治医の先生は、しばらく点滴と投薬で様子を見るって。だけど、状態次第では……手術の可能性もあるって言われたの」

「手術……」

 その二文字が胸の奥で重く沈んでいく。
 俺は吐き出すように小さく息をつき、膝の上で指を組んだ。

「費用は、保険もあるし、高額療養費も……手続きすれば何とかなるとは言ってる。でも……それでも、全部が全部安心できる金額じゃないのよ」

 母は苦笑のようなものを浮かべ、目元を手で覆った。

「正直に言うとね、怖いの。お金のことも、先のことも……何もかも」

 俺はゆっくりと頷いた。
 彼女の言葉のひとつひとつが、やけに真っ直ぐ胸に刺さってくる。

「心配すんな。金のことなら、俺がどうにかする。手術になったら、いくらでも出す。足りねぇとは言わせない」

「……アンタ」

 母は驚いたように顔を上げた。
 その目はうるみながらも、ほんの少しだけ光を取り戻していた。

「仕事、大丈夫なの? 無理してるんじゃないの」

「無理なんかしてねぇよ。……俺は俺のやり方で稼いでる。配信だろうが何だろうが、稼いだ金は使うためにある。父さんのために使わねぇでどうする」

 言いながら、自分で驚くほど迷いがなかった。
 胸の奥にあるのは、不安よりも、ただひとつの決意だけだった。

「……ありがとう」

 母はようやくそう言い、深く息を吐いた。
 それは泣き声でも、諦めの声でもなく、重荷を少しだけ降ろした人間の声だった。

 日帰りで帰るつもりだったが、その夜、俺は予定を変えることにした。
 母の顔を見て、そして父の状態を思えば、とてもじゃないが今すぐ長野を離れる気にはなれなかった。

「悪い。今日泊まるわ。明日、もう一回病院に行ってくる」

「……そうしてあげて。きっと喜ぶよ」

 その言葉に頷き、俺は古い自室の押し入れから布団を引っ張り出した。
 畳の匂いと古い洗剤の香りが混じった空気が、胸の奥をほんの少し締めつける。
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