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第1章 人生の転換期
第23話 奪われた夕暮れ、戻ってきた手
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昼過ぎ、弁護士事務所の応接室で、俺は担当弁護士と向かい合っていた。重い書類の束が机の上に積み上がり、静かな蛍光灯の音がやけに耳につく。
「今日のところは、証拠の整理と、次回期日の準備ですね」
落ち着いた声で弁護士が言う。
「ああ。雪乃の生活環境についての陳述書……あれは今夜中に仕上げる」
俺が答えたその瞬間、事務所の入り口の方でドン、と乱暴な音が響いた。
「――どこよ!! ここなんでしょ!?」
甲高い声。
俺の胸が冷たくなる。
次の瞬間、ドアが勢いよく開け放たれた。
「彩花……」
そこに立っていたのは、髪を振り乱し、目の奥に焦りと苛立ちを滲ませた彩花だった。
「裁判の金が足りないのよ!」
いきなり怒鳴り声が飛ぶ。
弁護士が眉をひそめる。
「予約のない方の立ち入りは――」
「うるさい! 弁護士に払う金なんてないの! だからあんたが出しなさいよ!」
彩花は俺を指差し、机に身を乗り出した。
「俺に言うことじゃないだろ」
「雪乃を返してくれれば払う必要なかったの! あんたが連れ去ったからこうなったんでしょ! 誘拐犯!」
息巻くように叫び、言葉は次第に支離滅裂になっていく。
「私の人生を壊したのはあんたよ! 配信者ぶって何様なの!? どうせ金稼いでるんでしょ!? なら寄越しなさいよ!」
俺はゆっくりと息を吐いた。
「……今ここで話す内容じゃない。落ち着け」
「落ち着けって!? 私から娘を奪っといて!?」
机を叩く音。書類が揺れ、事務所の奥からスタッフが顔を出した。
弁護士は静かに受話器を取り上げる。
「警備員を手配します。通報もします。これ以上は業務妨害です」
「は!? 通報!? なんで!? 私が母親なのに!?」
彩花はまだ何か叫んでいたが、すぐにガードマンが駆けつけ、腕を押さえられた。
「離して! あんたが悪いのよ! ぜんぶ――」
その声は廊下の奥に遠ざかり、やがて消えた。
応接室に静寂が戻る。
「……すみません、驚かせてしまいましたね」
弁護士が小さく息をついた。
「いや。ああなるとは思ってた」
「彼女の言動は、裁判においても重要な材料になります。今日の件は記録しておきます」
「ああ、頼む」
俺は拳を握りしめた。
胸の奥がざらつく。
雪乃の顔が浮かび、心に重い影が落ちる。
――守らなきゃ。
この世界のどこよりも、強く。
夕方。
友達と遊びに行くと言っていた雪乃を迎えるため、俺は新車で駅前ロータリーに車を停めた。
夕暮れの空が紫に沈み、街灯に灯りが入り始める。
時計を見る。
約束の時間を少し過ぎていた。
「……遅いな」
車を降り、周囲を見回す。
スマホを取り出して電話をかける。
――出ない。
胸がざわつく。
何度かけても呼び出し音だけが虚しく響いた。
そのとき、スマホが震えた。
着信――「渋谷警察署」。
「もしもし」
『警察です。雪乃さんの保護者の方でしょうか』
一瞬、視界が暗くなる。
「……俺です。何かありましたか?」
『先ほど通報がありました。お嬢さんが、何者かに連れ去られた可能性があります。詳しい話は署で――』
声が遠くなる感覚。
血の気が引き、足が冷たくなる。
「今すぐ行きます」
ハンドルを握る手が震えたまま、俺はアクセルを踏み込んだ。
警察署。
白い蛍光灯の下、時計だけが無情に時を刻み続ける。
事情聴取、状況説明、通報者の証言。
けれど――
雪乃の行方はわからないまま、時間だけが過ぎていった。
「今日は一度帰宅してください。警戒体制はこちらで継続します」
刑事の言葉が遠く聞こえる。
帰れるわけない――
そう言いかけたとき。
窓の外に、見慣れた古い軽トラックが停まった。
白い息を吐きながら、運転席からゆっくりと降りてきた男。
「……親父」
俺の父親だった。
しばらく顔を合わせていなかった。
退院後も、連絡を避けていた俺に代わって――向こうから、会いに来たのだろう。
「来てみたらよ。見覚えのある子が泣きながら歩いててな」
父は照れ隠しのように頭をかいた。
「見知らねぇ家に連れ込まれそうになってた。叫んでたから、さすがに放っとけん」
俺は言葉を失った。
「連れ出そうとした男、殴ってやろうかと思ったが……まあ、声張り上げたら逃げたな。歳食っても役に立つもんだ」
「さすがは元自衛官」
その瞬間、署内の奥から小さな影が駆けてきた。
「パパ!」
雪乃が父の背中の陰から飛び出し、俺の胸に抱きつく。
「怖かった……でもおじいちゃんが助けてくれたの……! おじいちゃんありがとう!!」
雪乃が深く頭を下げる。
父は鼻を鳴らし、少しだけ目を細めた。
「犯人、心当たりはありますか?」
刑事が静かに問う。
雪乃は震える声で言った。
「……ママの彼氏」
俺と弁護士の脳裏に、同じ名前がよぎる。
警察はすぐに被害届の手続きを始め、担当班が動き出した。
俺は深く頭を下げた。
「お願いします。……何としてでも」
夜の冷気が骨に沁みる帰り道。
俺は雪乃と親父を連れて、自宅マンションへ戻った。
「布団、ひとつしかないけど……どうするんだ?」
「そんなもん決まってるだろ」
親父は笑いながら言う。
「親子水入らず、川の字だ」
雪乃が嬉しそうに布団の真ん中へ潜り込む。
「パパ、こっち!」
「ああ、はいはい。真ん中は雪乃な」
「じゃあ私は橋渡し役だな」
親父がぼそっとつぶやき、俺と目を合わせて照れくさそうに笑った。
灯りを落とすと、静かな闇が部屋を包み込む。
雪乃の小さな寝息、親父の規則正しい呼吸――
その音が、胸に沁みるように温かかった。
奪われかけたものを、取り戻した夜。
俺は布団の中で、そっと天井を見つめる。
守るべきものが、ここにある。
絶対に二度と離さないと、強く心に誓いながら――。
◆◇◆◇
親父は二日後、名残惜しそうにしながらも長野へ帰っていった。
出発前、雪乃は玄関でぎゅっと抱きつき、「また来てね、おじいちゃん」と笑った。親父はいつもの不器用な顔で頷き、俺の肩を軽く叩いた。
「……無理すんなよ」
「ああ。ありがとな」
それだけ言い残し、軽トラは静かに走り去っていく。
背中が小さくなるまで見送りながら、胸の奥に温かいものが残った。
それから三日後の朝。
弁護士から一本の電話が入った。
『彩花さんと高橋氏が逮捕されました。誘拐容疑およびその教唆です』
俺はしばらく言葉を失った。
「……そうか」
短く答えると、弁護士は落ち着いた声で続ける。
『親権移譲を本格的に進めましょう。今が好機です』
「ああ。頼む」
受話器を切ったあと、リビングで宿題をしていた雪乃の横顔を見つめる。
胸の底から湧き上がる安堵と、どうしようもない痛みが交錯した。
それから約一ヶ月。
名目上は「遊びに来ている」という建前のまま、雪乃は俺の家で暮らした。
離婚時、相手の不倫が原因だったため、接触禁止は条件に含まれていなかった。
その抜け道が、今の俺たちを守っていた。
学校へ送り迎えし、朝ごはんを作り、夜は鍋や味噌汁を一緒に囲む。
配信も続けた。
「私」として画面の向こうに立ち、「俺」として日常を守り、そして「パパ」として娘の隣にいる。
きっと、どれもが今の俺を支えていた。
世間の噂は自然と耳に入ってくる。
高橋は逮捕後、実家から絶縁されたらしい。
会社でも肩身が狭く、だが金がなければ暮らせないから辞めることもできない。
腐った笑みを浮かべていた頃の彼を思い出し、俺はほんの少しだけ、空虚な気持ちになった。
彩花は精神疾患の診断が下り、通院を続けているらしい。
それを聞いても、もう憎しみは湧かなかった――ただ、遠い世界の出来事のように思えた。
ある日の午後、俺と雪乃は弁護士事務所を訪れた。
応接室の空気は静かで、机の上には一冊の封筒が置かれている。
「では、正式に。本日付で親権はすべてあなたに移ります」
弁護士が書類を差し出した。
俺は深く息を吸い、ボールペンを走らせる。
カチリ、と軽い音が響いた瞬間、胸の中でなにかが解け落ちた。
「……パパ?」
隣の雪乃が俺の袖をつまむ。
気づけば、視界が滲んでいた。
「ああ。……もう大丈夫だ。これからは、ずっと一緒だ」
雪乃は小さくうなずき、ぎゅっと俺の手を握った。
夜。
いつものように配信の準備を整え、「私」としてカメラの前に座る。
〈最近元気そうだな〉
〈声にハリ戻ってる〉
コメント欄が流れていく。
少しして、後ろからひょこっと雪乃の影が顔を出した。
「こんばんは……娘です」
〈キター!!〉
〈たまに出演助かる〉
〈姫宮家ほっこり枠〉
笑いながら、俺――いや、「私」は画面越しに微笑む。
「今日はここまで。みんな、ありがとう」
配信を切ると、雪乃はソファに倒れ込みながら笑った。
「パパ、配信の声と家の声、全然違うよ」
「職業病だ、許せ」
二人で笑い合う夜が、もう当たり前になっていた。
しばらくして、雪乃は部活に復帰した。
久々のテニスコート。
白いラケットが太陽の下で弧を描く。
「引退まで、まだやりたいことあるから」
そう言ってコートに立つ雪乃の姿は、かつての“幻のエース”そのものだった。
放課後、俺は車で学校まで迎えに行く。
「お疲れ。今日はどうだった?」
「ダブルス勝ったよ。……パパの送迎、悪くないね」
「おう。任せとけ」
夕焼けの帰り道。
信号待ちの間、助手席の雪乃が窓の外を見つめる。
「ねえ、パパ」
「ん?」
「今が、一番好き」
その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなった。
過去は消えない。
傷も残る。
けれど――
俺たちは、確かに前へ進んでいる。
重ねた日常の音が、その証だった。
******第一章(完)******
ここまでお読みいただきありがとうございました!
投稿3日目でこれまで読まれるとは思わず、調子に乗ってここまで書き切ってしまいました。
読みにくい点、誤字脱字あるかもしれませんが、どうぞお手柔らかにお願い致します。
もちろん!
これで終わりではありません。
第二章も引き続きご贔屓にしていただければと思います。
お楽しみに!!
「今日のところは、証拠の整理と、次回期日の準備ですね」
落ち着いた声で弁護士が言う。
「ああ。雪乃の生活環境についての陳述書……あれは今夜中に仕上げる」
俺が答えたその瞬間、事務所の入り口の方でドン、と乱暴な音が響いた。
「――どこよ!! ここなんでしょ!?」
甲高い声。
俺の胸が冷たくなる。
次の瞬間、ドアが勢いよく開け放たれた。
「彩花……」
そこに立っていたのは、髪を振り乱し、目の奥に焦りと苛立ちを滲ませた彩花だった。
「裁判の金が足りないのよ!」
いきなり怒鳴り声が飛ぶ。
弁護士が眉をひそめる。
「予約のない方の立ち入りは――」
「うるさい! 弁護士に払う金なんてないの! だからあんたが出しなさいよ!」
彩花は俺を指差し、机に身を乗り出した。
「俺に言うことじゃないだろ」
「雪乃を返してくれれば払う必要なかったの! あんたが連れ去ったからこうなったんでしょ! 誘拐犯!」
息巻くように叫び、言葉は次第に支離滅裂になっていく。
「私の人生を壊したのはあんたよ! 配信者ぶって何様なの!? どうせ金稼いでるんでしょ!? なら寄越しなさいよ!」
俺はゆっくりと息を吐いた。
「……今ここで話す内容じゃない。落ち着け」
「落ち着けって!? 私から娘を奪っといて!?」
机を叩く音。書類が揺れ、事務所の奥からスタッフが顔を出した。
弁護士は静かに受話器を取り上げる。
「警備員を手配します。通報もします。これ以上は業務妨害です」
「は!? 通報!? なんで!? 私が母親なのに!?」
彩花はまだ何か叫んでいたが、すぐにガードマンが駆けつけ、腕を押さえられた。
「離して! あんたが悪いのよ! ぜんぶ――」
その声は廊下の奥に遠ざかり、やがて消えた。
応接室に静寂が戻る。
「……すみません、驚かせてしまいましたね」
弁護士が小さく息をついた。
「いや。ああなるとは思ってた」
「彼女の言動は、裁判においても重要な材料になります。今日の件は記録しておきます」
「ああ、頼む」
俺は拳を握りしめた。
胸の奥がざらつく。
雪乃の顔が浮かび、心に重い影が落ちる。
――守らなきゃ。
この世界のどこよりも、強く。
夕方。
友達と遊びに行くと言っていた雪乃を迎えるため、俺は新車で駅前ロータリーに車を停めた。
夕暮れの空が紫に沈み、街灯に灯りが入り始める。
時計を見る。
約束の時間を少し過ぎていた。
「……遅いな」
車を降り、周囲を見回す。
スマホを取り出して電話をかける。
――出ない。
胸がざわつく。
何度かけても呼び出し音だけが虚しく響いた。
そのとき、スマホが震えた。
着信――「渋谷警察署」。
「もしもし」
『警察です。雪乃さんの保護者の方でしょうか』
一瞬、視界が暗くなる。
「……俺です。何かありましたか?」
『先ほど通報がありました。お嬢さんが、何者かに連れ去られた可能性があります。詳しい話は署で――』
声が遠くなる感覚。
血の気が引き、足が冷たくなる。
「今すぐ行きます」
ハンドルを握る手が震えたまま、俺はアクセルを踏み込んだ。
警察署。
白い蛍光灯の下、時計だけが無情に時を刻み続ける。
事情聴取、状況説明、通報者の証言。
けれど――
雪乃の行方はわからないまま、時間だけが過ぎていった。
「今日は一度帰宅してください。警戒体制はこちらで継続します」
刑事の言葉が遠く聞こえる。
帰れるわけない――
そう言いかけたとき。
窓の外に、見慣れた古い軽トラックが停まった。
白い息を吐きながら、運転席からゆっくりと降りてきた男。
「……親父」
俺の父親だった。
しばらく顔を合わせていなかった。
退院後も、連絡を避けていた俺に代わって――向こうから、会いに来たのだろう。
「来てみたらよ。見覚えのある子が泣きながら歩いててな」
父は照れ隠しのように頭をかいた。
「見知らねぇ家に連れ込まれそうになってた。叫んでたから、さすがに放っとけん」
俺は言葉を失った。
「連れ出そうとした男、殴ってやろうかと思ったが……まあ、声張り上げたら逃げたな。歳食っても役に立つもんだ」
「さすがは元自衛官」
その瞬間、署内の奥から小さな影が駆けてきた。
「パパ!」
雪乃が父の背中の陰から飛び出し、俺の胸に抱きつく。
「怖かった……でもおじいちゃんが助けてくれたの……! おじいちゃんありがとう!!」
雪乃が深く頭を下げる。
父は鼻を鳴らし、少しだけ目を細めた。
「犯人、心当たりはありますか?」
刑事が静かに問う。
雪乃は震える声で言った。
「……ママの彼氏」
俺と弁護士の脳裏に、同じ名前がよぎる。
警察はすぐに被害届の手続きを始め、担当班が動き出した。
俺は深く頭を下げた。
「お願いします。……何としてでも」
夜の冷気が骨に沁みる帰り道。
俺は雪乃と親父を連れて、自宅マンションへ戻った。
「布団、ひとつしかないけど……どうするんだ?」
「そんなもん決まってるだろ」
親父は笑いながら言う。
「親子水入らず、川の字だ」
雪乃が嬉しそうに布団の真ん中へ潜り込む。
「パパ、こっち!」
「ああ、はいはい。真ん中は雪乃な」
「じゃあ私は橋渡し役だな」
親父がぼそっとつぶやき、俺と目を合わせて照れくさそうに笑った。
灯りを落とすと、静かな闇が部屋を包み込む。
雪乃の小さな寝息、親父の規則正しい呼吸――
その音が、胸に沁みるように温かかった。
奪われかけたものを、取り戻した夜。
俺は布団の中で、そっと天井を見つめる。
守るべきものが、ここにある。
絶対に二度と離さないと、強く心に誓いながら――。
◆◇◆◇
親父は二日後、名残惜しそうにしながらも長野へ帰っていった。
出発前、雪乃は玄関でぎゅっと抱きつき、「また来てね、おじいちゃん」と笑った。親父はいつもの不器用な顔で頷き、俺の肩を軽く叩いた。
「……無理すんなよ」
「ああ。ありがとな」
それだけ言い残し、軽トラは静かに走り去っていく。
背中が小さくなるまで見送りながら、胸の奥に温かいものが残った。
それから三日後の朝。
弁護士から一本の電話が入った。
『彩花さんと高橋氏が逮捕されました。誘拐容疑およびその教唆です』
俺はしばらく言葉を失った。
「……そうか」
短く答えると、弁護士は落ち着いた声で続ける。
『親権移譲を本格的に進めましょう。今が好機です』
「ああ。頼む」
受話器を切ったあと、リビングで宿題をしていた雪乃の横顔を見つめる。
胸の底から湧き上がる安堵と、どうしようもない痛みが交錯した。
それから約一ヶ月。
名目上は「遊びに来ている」という建前のまま、雪乃は俺の家で暮らした。
離婚時、相手の不倫が原因だったため、接触禁止は条件に含まれていなかった。
その抜け道が、今の俺たちを守っていた。
学校へ送り迎えし、朝ごはんを作り、夜は鍋や味噌汁を一緒に囲む。
配信も続けた。
「私」として画面の向こうに立ち、「俺」として日常を守り、そして「パパ」として娘の隣にいる。
きっと、どれもが今の俺を支えていた。
世間の噂は自然と耳に入ってくる。
高橋は逮捕後、実家から絶縁されたらしい。
会社でも肩身が狭く、だが金がなければ暮らせないから辞めることもできない。
腐った笑みを浮かべていた頃の彼を思い出し、俺はほんの少しだけ、空虚な気持ちになった。
彩花は精神疾患の診断が下り、通院を続けているらしい。
それを聞いても、もう憎しみは湧かなかった――ただ、遠い世界の出来事のように思えた。
ある日の午後、俺と雪乃は弁護士事務所を訪れた。
応接室の空気は静かで、机の上には一冊の封筒が置かれている。
「では、正式に。本日付で親権はすべてあなたに移ります」
弁護士が書類を差し出した。
俺は深く息を吸い、ボールペンを走らせる。
カチリ、と軽い音が響いた瞬間、胸の中でなにかが解け落ちた。
「……パパ?」
隣の雪乃が俺の袖をつまむ。
気づけば、視界が滲んでいた。
「ああ。……もう大丈夫だ。これからは、ずっと一緒だ」
雪乃は小さくうなずき、ぎゅっと俺の手を握った。
夜。
いつものように配信の準備を整え、「私」としてカメラの前に座る。
〈最近元気そうだな〉
〈声にハリ戻ってる〉
コメント欄が流れていく。
少しして、後ろからひょこっと雪乃の影が顔を出した。
「こんばんは……娘です」
〈キター!!〉
〈たまに出演助かる〉
〈姫宮家ほっこり枠〉
笑いながら、俺――いや、「私」は画面越しに微笑む。
「今日はここまで。みんな、ありがとう」
配信を切ると、雪乃はソファに倒れ込みながら笑った。
「パパ、配信の声と家の声、全然違うよ」
「職業病だ、許せ」
二人で笑い合う夜が、もう当たり前になっていた。
しばらくして、雪乃は部活に復帰した。
久々のテニスコート。
白いラケットが太陽の下で弧を描く。
「引退まで、まだやりたいことあるから」
そう言ってコートに立つ雪乃の姿は、かつての“幻のエース”そのものだった。
放課後、俺は車で学校まで迎えに行く。
「お疲れ。今日はどうだった?」
「ダブルス勝ったよ。……パパの送迎、悪くないね」
「おう。任せとけ」
夕焼けの帰り道。
信号待ちの間、助手席の雪乃が窓の外を見つめる。
「ねえ、パパ」
「ん?」
「今が、一番好き」
その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなった。
過去は消えない。
傷も残る。
けれど――
俺たちは、確かに前へ進んでいる。
重ねた日常の音が、その証だった。
******第一章(完)******
ここまでお読みいただきありがとうございました!
投稿3日目でこれまで読まれるとは思わず、調子に乗ってここまで書き切ってしまいました。
読みにくい点、誤字脱字あるかもしれませんが、どうぞお手柔らかにお願い致します。
もちろん!
これで終わりではありません。
第二章も引き続きご贔屓にしていただければと思います。
お楽しみに!!
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