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第2章 トライアングル
第32話 喝采の先へ
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コートの向こう側に立つ二人を目にした瞬間、周囲の空気がわずかに張りつめたように感じた。
審判台の横に掲げられたスコアボードには、対戦校の名前とともに――
後神《ごかん》。
その名前を見ただけで、周囲の保護者や選手たちが小声でささやく。
「去年、二年でベスト4まで行った子らしいよ」
「三年生を押しのけてレギュラーだったとか……」
細身の体躯、落ち着いた表情。
ラケットを握る姿勢には一切の無駄がなく、構えた瞬間から「強い」と分かる選手だ。
その横に立つのは同じ学校の三年生。
派手さはないが、静かな集中が全身から伝わってくる。
――昨年、二年生ながら三年生たちを圧倒して勝ち進んだという後神。
そしてそのパートナー。
準々決勝の舞台は、最初から異様な緊張に包まれていた。
◆
コイントスの結果、相手サーブから試合が始まった。
「レディー? プレイ」
乾いた声とともに、硬質なボールの音がコートの奥へ突き刺さる。
一球目から、後神は深く正確なトップスピンを打ち込んできた。
雪乃は必死に追いつき、クロスへ返す。
だが――
返球はネットを越えた直後、前衛の相手のラケットに吸い込まれた。
タイミングを外さない、完璧なボレー。
15-0
観客席から、小さく息を呑む音が聞こえた。
続く二球目。
今度は絵上の前に速いフラットサーブが飛ぶ。
「っ――」
わずかに遅れたスイング。
ボールはフレームに当たり、高く舞い上がってコート外へ消えた。
30-0
絵上の肩がびくりと揺れる。
「大丈夫、次いこう」
雪乃が短く声をかける。
「は、はい……!」
返事をしながらも、笑の指先はわずかに震えていた。
三球目。
相手はわざと緩急を付けてきた。後神がゆるいロブを打ち上げる。
――嫌なボールだ。
判断が一瞬遅れた絵上は、下がりきれず無理な体勢でラケットを出す。
ボールはネットに吸い込まれた。
40-0
「……ごめんなさい……すみません、先輩……!」
笑の声は掠れていた。
唇を噛み、視線が下へ落ちる。
その横顔を見た瞬間、雪乃の胸の奥で何かが強く燃え上がった。
――泣くな。ここは、まだ終わりじゃない。
「笑《えみ》、顔上げて。まだ一本目だよ。ミスしたのは私だって同じ。取り返そう」
落ち着いた声色で、はっきりと言う。
絵上は一瞬だけ雪乃を見上げ、目を大きく見開いた。
「……はいっ!」
◆
ゲームカウントは0-1から始まり、
その後もしばらく、相手の“崩れないテニス”に苦しめられる展開が続いた。
後神のストロークは、深く・速く・正確――
ギリギリを攻めてくるのに、一切アウトしない。
もう一人の選手も、淡々とボールを返し続ける。
どんなにラリーが長引いても、焦りを感じさせない。
ミスをしない。
それこそが、彼女たちの最大の武器だった。
中盤、嫌な流れのまま迎えた雪乃たちのサービスゲーム。
ここで落とせば、差は一気に開く。
「私、前詰めます。先輩、ロブ警戒で」
「分かった。無理はしないで」
絵上が自ら提案した。
その目はもう、さっきまでの弱気とは違っている。
――強い光。
雪乃は胸の奥が熱くなる。
一球目――
後神の鋭いクロスを、笑が体ごと飛び込んで拾った。
「ナイス!!」
そのまま雪乃が回り込み、逆クロスへ叩き込む。
観客席から拍手が起こった。
15-0
次のラリーでも、絵上は前へ飛び込み、ぎりぎりのボレーをすくい上げる。
それが決まり、スコアは30-0。
「笑、いいぞ! そのまま!」
「はいっ!!」
彼女の声は、晴れやかだった。
だが――相手も簡単には崩れない。
後神のショットは徐々に軌道を変え、攻め方のバリエーションを増やしてくる。
ドロップ気味のボール、意地のように深いストローク。
それでも雪乃と絵上は喰らいついた。
ラリーは伸び、観客席の時間さえ止まったかのように静まり返る。
40-40――デュース。
一本取り、一本取り返される。
息が荒くなり、視界が揺れる。
それでも、心だけは折れない。
(勝ちたい――笑のためにも)
雪乃は奥歯を噛みしめ、最後までボールを追い続けた。
そして、最終局面。
決着を告げるラリーは、永遠にも思えるほど長かった。
十本、二十本――
コートの上を走り続け、膝が悲鳴を上げる。
太陽は真上に昇り、照り返しが容赦なく体力を奪っていく。
ほんの一瞬、視界が揺らいだ。
ボールが僅かに伸びる。
それに反応しようと踏み出した足が――
もつれた。
「あ――」
身体が前へ傾く。
砂の粒が跳ね、シューズが滑った。
ラケットが空を切る。
ボールは無情にも背中側を通り過ぎ、後方のフェンスで鈍い音を立てて跳ね返った。
「ゲームセット。6-4」
澄んだ審判の声が、遠くから聞こえてくる。
その瞬間、絵上は膝から崩れ落ちた。
「……ごめんなさい……私、私のせいで……っ」
両手で顔を覆い、嗚咽がこぼれる。
肩が震え、涙がコートに落ちた。
雪乃はゆっくりと息を吸い、そして――笑った。
悔しさはもちろんあった。
でも、その奥にある感情は、それとは違う。
やりきった。
燃え尽きるほど戦い切ったという実感が、胸の中に静かに広がっていた。
「笑。顔上げて」
雪乃は膝をつき、そっと彼女の背中に手を添える。
「……負けたけど、最後まで一緒に戦えた。
ありがとう。私、楽しかった」
「せ、先輩……っ……でも……!」
「私が足止めたんだよ。だから、どっちのせいでもない。
これは“二人の結果”」
涙の向こうで、絵上はしばらく言葉を失い――
やがて、くしゃくしゃに顔を歪めて頷いた。
◆
ネット際で相手ペアと握手を交わす。
後神は静かに頭を下げ、柔らかな声で言った。
「いい試合でした。最後まで怖かったです」
「こちらこそ……ありがとうございました」
雪乃は微笑み、深く礼を返す。
それからコートを出た瞬間、ふっと緊張がほどけた。
足に残る重さと、汗のしょっぱい味――全部が現実の証拠だった。
観客席の端で、俺は小さく息を吐いた。
喉の奥が焼けつくようで、言葉にならなかった。
悔しい、でも誇らしい。
胸の中で相反する感情が渦を巻く。
――よくやった。
心の中で何度も、何度も呟いた。
◆
試合が終わり、昼休憩へと案内のアナウンスが流れる。
個人戦までは、少し時間が空く。
ベンチに座った雪乃は、タオルで顔を拭い、長く息を吐いた。
隣ではまだ目元を赤くした絵上が、静かに水を飲んでいる。
「笑。個人戦、まだ残ってるよ」
「……はい。泣いてる場合じゃないですよね」
「泣いていいよ。ただ、前は向こう」
そう言って、雪乃は小さく笑った。
風が少しだけ、汗ばんだ頬を撫でていく。
夏の空は、どこまでも高かった。
◇◆◇
昼休憩に入り、観客席脇のベンチで雪乃はタオルを頭からかぶり、長く息を吐いていた。
ダブルスの余韻がまだ抜け切らないのだろう。肩で呼吸をしながら、水筒の麦茶を一口ずつ大事そうに飲む。
俺は校庭の隅、日陰になったテントの下からそっと近づいた。
「雪乃」
名前を呼ぶと、タオルの隙間から顔だけがひょいと出てくる。
「……パパ?」
「お疲れ。いい試合だったな」
それ以上の言葉が喉につかえた。
褒めたいところも、抱きしめたい気持ちも山ほどあったのに、口から出たのはその短い一言だけだった。
雪乃は、少しだけ照れたように笑う。
「うん。楽しかった。……すごく、悔しいけど」
その声に、強がりも後悔も、全部まざっている。
俺はベンチの横に腰を下ろし、黙って空を仰いだ。
夏の陽射しは強く、目を細めるほどまぶしい。
ふと、雪乃の動きが止まる。
視線を落とした先で、右足の足首をそっとさすっていた。
――あの時、もつれた足。
わずかに歯を食いしばるような表情。
(……痛いんだな)
胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
だが、俺は何も言わなかった。
言えば、きっと心を折ってしまう。
「無理するな」と言えば、きっと雪乃は迷ってしまう。
彼女は今、戦っている最中だ。
親として言いたい言葉を押し殺し、代わりに小さく息を吐いた。
「腹減ってないか? おにぎり入ってる。少しは食べとけ」
「……ありがと」
雪乃はおにぎりを半分だけ頬張り、残りをラップで包み直す。
「個人戦、まだあるから。重くなりすぎると走れないし」
自分でそう言って、笑った。
俺はただ頷いた。
「雪乃」
「なに?」
「……楽しんでこい」
それだけを言った。
雪乃は目を丸くして、それからふわっと柔らかく笑った。
「うん。行ってくる」
◆
午後一番のアナウンスが流れ、個人戦が始まった。
第一試合――危なげなく勝利。
第二試合――深いラリーでも冷静に打ち返し、相手を振り切る。
第三試合、そして第四試合。
雪乃は落ち着いていた。
コートに立つ姿は、もう一年生の頃の彼女ではない。
打球の音が、迷いなく空へ吸い上がっていく。
「勝者――恩塚選手」
審判の声が響くたび、胸の奥が温かくなる。
これで、一年の時の成績に並んだ。
観客席の影で、俺は静かに拳を握る。
(よくここまで来たな……)
汗で貼りついた髪を払いながら、雪乃は顔を上げる。
その表情は、少しだけ遠くを見ていた。
◆
そして――準々決勝。
対戦相手としてコートに現れたのは、見覚えのある少女だった。
橋本。
さきほどのダブルスで、後神とペアを組んでいた一年生。
身体は細いが、立ち姿は芯がある。
そして何より――雪乃はすぐに悟る。
嫌なところへ、嫌なボールを正確に落としてくるタイプ。
ラリーが始まると、それはすぐに明らかになった。
浅く落ちるスライス。
ラインぎりぎりのロブ。
わざと体勢を崩させる横回転のショット。
地味だが、いやらしい。
精神を削るテニス。
しかし雪乃は崩れなかった。
一ポイント目――冷静にクロスへ叩き込む。
ポイント先取。
二ポイント目――前に詰め、角度のないショートクロス。
連続ポイント。
観客席から小さく拍手が起こる。
(いい流れだ……このまま――)
そう思った、その時だった。
三ポイント目。
無理のないラリー。
慎重に繋ぐボール。
――そのはずだった。
踏み込んだ瞬間、雪乃の足首から力が抜ける。
「っ……!」
顔が歪む。
ダブルスの時にもつれた足。
さっきまで我慢していた痛みが、急に牙をむいた。
追いつけるはずのボールに届かない。
伸ばしたラケットが、わずかに空を切る。
一ポイント失点。
観客席で、俺の喉がひくりと鳴る。
(やっぱり……傷んでるのか)
四ポイント目。
痛みに意識を持っていかれ、半歩遅れる。
橋本はそこを逃さなかった。
左右に振られ、ラケットが遅れる。
再び失点。
スコアは並ぶ。
それでも――雪乃は顔を上げた。
歯を食いしばり、足を前に出す。
(負けない。ここまで来たんだから――)
痛みを抱えたまま、それでも前へ出る。
打球音が、金属音のように重く響いた。
攻める橋本。
粘る雪乃。
ラリーは徐々に長くなる。
観客席の空気が固まる。
息を飲む音だけが聞こえる。
何度も、何度もボールが行き交い――
デュース。
審判の声が、乾いた午後の空に吸い込まれた。
まるで、ダブルスの延長戦のように。
ここからが、本当の勝負だ。
********あとがき********
皆様こんにちは。
年が明けまして、月曜日からの仕事や学業に鬱々としているところでしょうか?
え、まさか今日から仕事!?
おつかれさまでーす
さて、本作、やや青春スポーツ小説っぽくなってしまっておりますが、しばらくは雪乃ちゃんメインですのでご容赦ください。
審判台の横に掲げられたスコアボードには、対戦校の名前とともに――
後神《ごかん》。
その名前を見ただけで、周囲の保護者や選手たちが小声でささやく。
「去年、二年でベスト4まで行った子らしいよ」
「三年生を押しのけてレギュラーだったとか……」
細身の体躯、落ち着いた表情。
ラケットを握る姿勢には一切の無駄がなく、構えた瞬間から「強い」と分かる選手だ。
その横に立つのは同じ学校の三年生。
派手さはないが、静かな集中が全身から伝わってくる。
――昨年、二年生ながら三年生たちを圧倒して勝ち進んだという後神。
そしてそのパートナー。
準々決勝の舞台は、最初から異様な緊張に包まれていた。
◆
コイントスの結果、相手サーブから試合が始まった。
「レディー? プレイ」
乾いた声とともに、硬質なボールの音がコートの奥へ突き刺さる。
一球目から、後神は深く正確なトップスピンを打ち込んできた。
雪乃は必死に追いつき、クロスへ返す。
だが――
返球はネットを越えた直後、前衛の相手のラケットに吸い込まれた。
タイミングを外さない、完璧なボレー。
15-0
観客席から、小さく息を呑む音が聞こえた。
続く二球目。
今度は絵上の前に速いフラットサーブが飛ぶ。
「っ――」
わずかに遅れたスイング。
ボールはフレームに当たり、高く舞い上がってコート外へ消えた。
30-0
絵上の肩がびくりと揺れる。
「大丈夫、次いこう」
雪乃が短く声をかける。
「は、はい……!」
返事をしながらも、笑の指先はわずかに震えていた。
三球目。
相手はわざと緩急を付けてきた。後神がゆるいロブを打ち上げる。
――嫌なボールだ。
判断が一瞬遅れた絵上は、下がりきれず無理な体勢でラケットを出す。
ボールはネットに吸い込まれた。
40-0
「……ごめんなさい……すみません、先輩……!」
笑の声は掠れていた。
唇を噛み、視線が下へ落ちる。
その横顔を見た瞬間、雪乃の胸の奥で何かが強く燃え上がった。
――泣くな。ここは、まだ終わりじゃない。
「笑《えみ》、顔上げて。まだ一本目だよ。ミスしたのは私だって同じ。取り返そう」
落ち着いた声色で、はっきりと言う。
絵上は一瞬だけ雪乃を見上げ、目を大きく見開いた。
「……はいっ!」
◆
ゲームカウントは0-1から始まり、
その後もしばらく、相手の“崩れないテニス”に苦しめられる展開が続いた。
後神のストロークは、深く・速く・正確――
ギリギリを攻めてくるのに、一切アウトしない。
もう一人の選手も、淡々とボールを返し続ける。
どんなにラリーが長引いても、焦りを感じさせない。
ミスをしない。
それこそが、彼女たちの最大の武器だった。
中盤、嫌な流れのまま迎えた雪乃たちのサービスゲーム。
ここで落とせば、差は一気に開く。
「私、前詰めます。先輩、ロブ警戒で」
「分かった。無理はしないで」
絵上が自ら提案した。
その目はもう、さっきまでの弱気とは違っている。
――強い光。
雪乃は胸の奥が熱くなる。
一球目――
後神の鋭いクロスを、笑が体ごと飛び込んで拾った。
「ナイス!!」
そのまま雪乃が回り込み、逆クロスへ叩き込む。
観客席から拍手が起こった。
15-0
次のラリーでも、絵上は前へ飛び込み、ぎりぎりのボレーをすくい上げる。
それが決まり、スコアは30-0。
「笑、いいぞ! そのまま!」
「はいっ!!」
彼女の声は、晴れやかだった。
だが――相手も簡単には崩れない。
後神のショットは徐々に軌道を変え、攻め方のバリエーションを増やしてくる。
ドロップ気味のボール、意地のように深いストローク。
それでも雪乃と絵上は喰らいついた。
ラリーは伸び、観客席の時間さえ止まったかのように静まり返る。
40-40――デュース。
一本取り、一本取り返される。
息が荒くなり、視界が揺れる。
それでも、心だけは折れない。
(勝ちたい――笑のためにも)
雪乃は奥歯を噛みしめ、最後までボールを追い続けた。
そして、最終局面。
決着を告げるラリーは、永遠にも思えるほど長かった。
十本、二十本――
コートの上を走り続け、膝が悲鳴を上げる。
太陽は真上に昇り、照り返しが容赦なく体力を奪っていく。
ほんの一瞬、視界が揺らいだ。
ボールが僅かに伸びる。
それに反応しようと踏み出した足が――
もつれた。
「あ――」
身体が前へ傾く。
砂の粒が跳ね、シューズが滑った。
ラケットが空を切る。
ボールは無情にも背中側を通り過ぎ、後方のフェンスで鈍い音を立てて跳ね返った。
「ゲームセット。6-4」
澄んだ審判の声が、遠くから聞こえてくる。
その瞬間、絵上は膝から崩れ落ちた。
「……ごめんなさい……私、私のせいで……っ」
両手で顔を覆い、嗚咽がこぼれる。
肩が震え、涙がコートに落ちた。
雪乃はゆっくりと息を吸い、そして――笑った。
悔しさはもちろんあった。
でも、その奥にある感情は、それとは違う。
やりきった。
燃え尽きるほど戦い切ったという実感が、胸の中に静かに広がっていた。
「笑。顔上げて」
雪乃は膝をつき、そっと彼女の背中に手を添える。
「……負けたけど、最後まで一緒に戦えた。
ありがとう。私、楽しかった」
「せ、先輩……っ……でも……!」
「私が足止めたんだよ。だから、どっちのせいでもない。
これは“二人の結果”」
涙の向こうで、絵上はしばらく言葉を失い――
やがて、くしゃくしゃに顔を歪めて頷いた。
◆
ネット際で相手ペアと握手を交わす。
後神は静かに頭を下げ、柔らかな声で言った。
「いい試合でした。最後まで怖かったです」
「こちらこそ……ありがとうございました」
雪乃は微笑み、深く礼を返す。
それからコートを出た瞬間、ふっと緊張がほどけた。
足に残る重さと、汗のしょっぱい味――全部が現実の証拠だった。
観客席の端で、俺は小さく息を吐いた。
喉の奥が焼けつくようで、言葉にならなかった。
悔しい、でも誇らしい。
胸の中で相反する感情が渦を巻く。
――よくやった。
心の中で何度も、何度も呟いた。
◆
試合が終わり、昼休憩へと案内のアナウンスが流れる。
個人戦までは、少し時間が空く。
ベンチに座った雪乃は、タオルで顔を拭い、長く息を吐いた。
隣ではまだ目元を赤くした絵上が、静かに水を飲んでいる。
「笑。個人戦、まだ残ってるよ」
「……はい。泣いてる場合じゃないですよね」
「泣いていいよ。ただ、前は向こう」
そう言って、雪乃は小さく笑った。
風が少しだけ、汗ばんだ頬を撫でていく。
夏の空は、どこまでも高かった。
◇◆◇
昼休憩に入り、観客席脇のベンチで雪乃はタオルを頭からかぶり、長く息を吐いていた。
ダブルスの余韻がまだ抜け切らないのだろう。肩で呼吸をしながら、水筒の麦茶を一口ずつ大事そうに飲む。
俺は校庭の隅、日陰になったテントの下からそっと近づいた。
「雪乃」
名前を呼ぶと、タオルの隙間から顔だけがひょいと出てくる。
「……パパ?」
「お疲れ。いい試合だったな」
それ以上の言葉が喉につかえた。
褒めたいところも、抱きしめたい気持ちも山ほどあったのに、口から出たのはその短い一言だけだった。
雪乃は、少しだけ照れたように笑う。
「うん。楽しかった。……すごく、悔しいけど」
その声に、強がりも後悔も、全部まざっている。
俺はベンチの横に腰を下ろし、黙って空を仰いだ。
夏の陽射しは強く、目を細めるほどまぶしい。
ふと、雪乃の動きが止まる。
視線を落とした先で、右足の足首をそっとさすっていた。
――あの時、もつれた足。
わずかに歯を食いしばるような表情。
(……痛いんだな)
胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
だが、俺は何も言わなかった。
言えば、きっと心を折ってしまう。
「無理するな」と言えば、きっと雪乃は迷ってしまう。
彼女は今、戦っている最中だ。
親として言いたい言葉を押し殺し、代わりに小さく息を吐いた。
「腹減ってないか? おにぎり入ってる。少しは食べとけ」
「……ありがと」
雪乃はおにぎりを半分だけ頬張り、残りをラップで包み直す。
「個人戦、まだあるから。重くなりすぎると走れないし」
自分でそう言って、笑った。
俺はただ頷いた。
「雪乃」
「なに?」
「……楽しんでこい」
それだけを言った。
雪乃は目を丸くして、それからふわっと柔らかく笑った。
「うん。行ってくる」
◆
午後一番のアナウンスが流れ、個人戦が始まった。
第一試合――危なげなく勝利。
第二試合――深いラリーでも冷静に打ち返し、相手を振り切る。
第三試合、そして第四試合。
雪乃は落ち着いていた。
コートに立つ姿は、もう一年生の頃の彼女ではない。
打球の音が、迷いなく空へ吸い上がっていく。
「勝者――恩塚選手」
審判の声が響くたび、胸の奥が温かくなる。
これで、一年の時の成績に並んだ。
観客席の影で、俺は静かに拳を握る。
(よくここまで来たな……)
汗で貼りついた髪を払いながら、雪乃は顔を上げる。
その表情は、少しだけ遠くを見ていた。
◆
そして――準々決勝。
対戦相手としてコートに現れたのは、見覚えのある少女だった。
橋本。
さきほどのダブルスで、後神とペアを組んでいた一年生。
身体は細いが、立ち姿は芯がある。
そして何より――雪乃はすぐに悟る。
嫌なところへ、嫌なボールを正確に落としてくるタイプ。
ラリーが始まると、それはすぐに明らかになった。
浅く落ちるスライス。
ラインぎりぎりのロブ。
わざと体勢を崩させる横回転のショット。
地味だが、いやらしい。
精神を削るテニス。
しかし雪乃は崩れなかった。
一ポイント目――冷静にクロスへ叩き込む。
ポイント先取。
二ポイント目――前に詰め、角度のないショートクロス。
連続ポイント。
観客席から小さく拍手が起こる。
(いい流れだ……このまま――)
そう思った、その時だった。
三ポイント目。
無理のないラリー。
慎重に繋ぐボール。
――そのはずだった。
踏み込んだ瞬間、雪乃の足首から力が抜ける。
「っ……!」
顔が歪む。
ダブルスの時にもつれた足。
さっきまで我慢していた痛みが、急に牙をむいた。
追いつけるはずのボールに届かない。
伸ばしたラケットが、わずかに空を切る。
一ポイント失点。
観客席で、俺の喉がひくりと鳴る。
(やっぱり……傷んでるのか)
四ポイント目。
痛みに意識を持っていかれ、半歩遅れる。
橋本はそこを逃さなかった。
左右に振られ、ラケットが遅れる。
再び失点。
スコアは並ぶ。
それでも――雪乃は顔を上げた。
歯を食いしばり、足を前に出す。
(負けない。ここまで来たんだから――)
痛みを抱えたまま、それでも前へ出る。
打球音が、金属音のように重く響いた。
攻める橋本。
粘る雪乃。
ラリーは徐々に長くなる。
観客席の空気が固まる。
息を飲む音だけが聞こえる。
何度も、何度もボールが行き交い――
デュース。
審判の声が、乾いた午後の空に吸い込まれた。
まるで、ダブルスの延長戦のように。
ここからが、本当の勝負だ。
********あとがき********
皆様こんにちは。
年が明けまして、月曜日からの仕事や学業に鬱々としているところでしょうか?
え、まさか今日から仕事!?
おつかれさまでーす
さて、本作、やや青春スポーツ小説っぽくなってしまっておりますが、しばらくは雪乃ちゃんメインですのでご容赦ください。
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