妻に不倫され間男にクビ宣告された俺、宝くじ10億円当たって防音タワマンでバ美肉VTuberデビューしたら人生爆逆転

小林一咲

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第2章 トライアングル

第33話 勝ち切る

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 乾いた空気のなかで、ボールの音だけが響いていた。
 準々決勝――デュース。
 観客席も、ベンチも、時間の流れを忘れたように固まっている。

 橋本のサーブが放たれる。低く滑るスライス。
 雪乃はそれを丁寧に返す。深く、深く、後ろへ押し込むように。

(落ち着け……相手のペースに飲まれるな)

 心の中で呟きながらも、右足は確かに悲鳴を上げていた。
 踏み込むたび、鈍い痛みが内側から突き上げてくる。

 それでも――前へ出た。

 橋本はコースを読んでいる。
 癖を観察し、こちらの苦しい場所へボールを送り込んでくる。

 バックラインの角へ、嫌な高さのトップスピン。
 体勢を崩され、雪乃は後ろに引かれそうになる。

(ここで下がったら、振り回される)

 奥歯を噛み、足を止める。
 ギリギリで踏み留まり、ラケットを振り抜いた。

 乾いた音がコートに響く。

 橋本の表情が一瞬だけ揺らぐ。
 しかし、すぐに切り返し、再び浅いボールを落としてくる。

 走らされる。
 痛みと焦りが、胸の奥で絡みつく。

(負けたくない――!)

 その一心で、右足に力を込めた。
 視界の端が熱を帯びる。汗が流れ落ち、まつ毛に溜まる。

 観客席のどこかで、小さく息を呑む音がした。

 ――ラリーは終わらない。

 打ち返しても、打ち返しても、勝負の糸口が見えない。
 橋本は粘り強く、確実にボールを繋いでくる。

(これ……嫌なタイプだな……)

 雪乃は内心で苦笑した。

 強いわけではない。
 けれど、崩れない。
 こちらの弱点を見つけて、そこを静かに突いてくる。

 まるで、崖の縁を歩かされているような息苦しさ。

 右足をかばえばボールが浅くなる。
 攻めれば体勢が崩れる。

(――でも)

 胸の奥に、灯るものがあった。

 絵上と戦ったダブルス。
 最後のポイント、足がもつれて倒れ込んだ瞬間。

 泣く後輩の姿が、フラッシュバックする。

 悔しさよりも強かったのは――

(悔しくても、楽しかった)

 あの感覚だった。

 痛みよりも、怖さよりも、今はただ――

(最後まで、やり切りたい)

 雪乃は一歩、前へ出る。

 ラリーのリズムが変わった。

 橋本もそれを感じ取ったのか、一瞬だけスイングが遅れる。

(今――!)

 渾身のフラットショット。
 低い弾道でサイドラインを掠める。

 審判の声が響く。

「フォルト……ではありません。イン!」

 観客席から、抑えきれない歓声。

 橋本が眉をかすかに寄せた。

 ――アドバンテージ・雪乃。

 デュースから、一歩前に出た。

 しかし、橋本も引かない。

 次のポイント。
 今度は雪乃の深いボールを読み、落ち着いてカウンターを合わせてくる。

 右足の内側が、じわりと痺れた。

(……まだ動く。まだ、走れる)

 気力で身体を持ち上げる。

 ボールが空を切り、再びデュース。

 その後も、何度も、何度も。

 デュース――アドバンテージ――デュース――

 何往復目か、数える余裕もなくなる。

 

 息が苦しい。
 肺が焼けるようだ。

 それでも――前に出る。

 

(あと一球……あと一球でいい)

 渾身のストレートが、コートの端を走る。

 橋本は全力で食らいつき、スライスで返した。

 球足が弱い。

 チャンスボール。

 だが、そこへ踏み込む足が――

 がくり、と揺らぐ。

「っ……!」

 頭の中が真っ白になりかけた。

 それでも、ラケットは離さなかった。

(ここで終わらせる……!)

 全身の力を、腕一本に込める。

 低く鋭い、クロスへのドライブボレー。

 ボールは一直線に吸い込まれるように、相手コートの角へ落ちた。

 砂埃がわずかに舞う。

 橋本は追いつけない。

 審判の声が響く。

 

「ゲームセット! 勝者――恩塚選手!」

 

 一瞬、音が消えた。

 次いで、観客席から爆発するような拍手。
 歓声、息を吐く音、どよめき――

 すべてが一気に押し寄せてくる。

 雪乃は顔を上げ、空を見た。

 視界が滲む。

(勝った……)

 足の痛みも、汗のしょっぱさも、全部が混ざり合う。

 胸の奥が熱くなった。

 都大会出場――そして、自己ベスト更新。

 彼女はゆっくりと膝に手をつき、深く息を吸った。

 ベンチへ戻ると、監督と仲間たちが迎えてくれる。
 絵上が泣き笑いの顔で抱きついてきた。

「先輩……すごかったです……!」

「当たり前でしょ。負けないんだから」

 強がり混じりの笑い声が、夏空へ溶けていく。

 



 

 準決勝、決勝は明日は持ち越しだ。

 夕方。
 会場を後にして、俺たちは車に乗り込む。

 少しだけエアコンを強めにし、ハンドルを握りながら横目で雪乃を見る。

 助手席の彼女は、座席に体を預け、窓の外をぼんやりと眺めていた。

「……疲れたか?」

「うん。でも、今日は眠くない」

 そう言って、にかっと笑う。

 勝った日の笑顔だった。

「夕飯、どうする?」

「やっぱりここは、ファミレスでしょ!」

「最初から決めてたな」

 思わず笑ってしまう。

 ハンドルを切りながら、雪乃が選んだお馴染みの店へ向かった。

 



 

 鉄板の上で、肉汁が弾ける音が響く。
 大きなステーキを前に、雪乃の目は輝いていた。

「いただきまーす!」

 フォークとナイフを器用に操り、口いっぱいに肉を放り込む。

「んんっ……幸せ……」

「勝った日の特権だな」

 俺もナイフを入れながら、隣の座席の足元に視線を落とす。

 雪乃の右足首には、うっすらと腫れがあった。

「足……治さないとな」

 静かに言うと、雪乃は一瞬だけ固まった。

 次の瞬間、照れくさそうに笑う。

「気付いてたかー。監督にもバレてなかったのに」

「いや……監督も、あえて言わなかったんじゃないかな」

「……そっか。そうだよね」

 雪乃は肉を噛みながら、少しだけ目を伏せる。

「でも、明日までは……」

「無理はするな」

 思わず、言葉が強くなる。

 雪乃は箸――いや、ナイフとフォークを止め、俺を見る。

 数秒の沈黙。

 やがて、柔らかく笑った。

「うん、わかってる。でも無理しなきゃ勝てないから」

 その声は、静かで、強かった。

 しばらく二人で黙々と食べる。
 鉄板から立ち上がる湯気と、店内のざわめき。

 普通の夕食。
 けれど――今は、何よりも愛おしい時間だった。

 



 

 帰りの車内。

 街灯がフロントガラスの向こうを滑っていく。

 雪乃はシートに寄りかかり、窓の外を見つめたまま、小さく呟いた。

「ねぇ、パパ」

「ん?」

「今日ね……すごく楽しかった」

 その声は、風よりも静かだった。

「明日も、頑張る」

 俺は言葉を選ばなかった。

「……ああ。全力で応援する」

 それだけで十分だった。

 信号待ちの赤が、車内を照らす。

 雪乃は少しだけ目を閉じた。

 その横顔は――どこまでもまっすぐだった。


◇◆◇

 帰宅すると、雪乃はシャワーを浴びて、ベッドに潜り込むなり静かな寝息を立て始めた。
 疲れ切っているはずなのに、その寝顔はどこか晴れやかだった。

「おやすみ」

 小さく声をかけ、部屋のドアをそっと閉める。

 廊下の灯りを消し、リビングに戻る。
 テーブルの上に置いたノートPCを開き、マイクを繋ぎ、ヘッドホンをつける。

 深呼吸をひとつ。

 画面に向かってボタンを押す。

 配信が、静かに始まった。

 



 

「――こんばんは。姫宮みことです」

 いつもと同じ挨拶。
 けれど、声は少しだけ柔らかくなっていた。

 画面の右側に、次々とコメントが流れていく。

〈今日総体だよね!?〉
〈帰ってきたってことは……〉
〈姫宮娘どうだった?〉
〈オレらの娘は負けない〉

 思わず、口元が緩む。

「ふふ……ありがとうございます。心配してくれてたんだね」

 少しだけ姿勢を正し、言葉を選ぶ。

「――地区、勝ちました。準々決勝を突破して、都大会、決定です」

 画面のコメント欄が一気に弾けた。

〈きたあああああ〉
〈姫宮家、全国ロード入った〉
〈誇らしい父親の顔してるの想像できる〉
〈娘、強すぎ問題〉

「いや、強いのは……頑張ってるのは、本人だから。私はただ、送り迎えして、応援してるだけで」

 言いながら、胸の奥が少しだけ熱くなる。

(本当は――何もできてない)

 けれど、今日のあの必死な姿を思い出すだけで、胸がいっぱいになる。

「それと……準決勝は明日です」

〈連戦か、大変だな〉
〈無理させんなよパパ〉
〈でも勝ってほしい、複雑〉

「うん。俺も同じだよ」

 少しだけ天井を見上げる。

「勝ってほしいけど、無理はしてほしくない。……ただ、本人はきっと、最後まで前を向く」

 コメント欄が、静かな熱を帯びる。

〈応援してる〉
〈勝っても負けても、誇れるよ〉
〈明日も気持ちで負けるな〉
〈姫宮、娘ちゃんに拍手〉
〈オレらの娘は負けない(気持ちでな)〉

 笑ってしまった。

「ありがとう。ほんとに……ありがとう」

 俺の世界は、狭い。
 部屋と学校と、スポーツバッグと、夕飯。
 その中で必死に走る子どもと、見守るしかできない大人。

 でも――画面の向こうで、こんなにもたくさんの人が応援してくれている。

 それだけで、少し救われる。

「本人には、明日の朝、伝えておくよ。みんなが応援してるって」

 声が、少し震えた。

「きっと、力になるから」

 コメントは止まらない。

〈任せろ、全力で祈る〉
〈勝っても負けても祝勝会配信しろ〉
〈いや泣かせにくるなよ……〉
〈姫宮、今日はゆっくり休め〉

 画面を見つめながら、小さく笑った。

「……そうだね。私も、今日は寝るよ。明日は、また応援席だから」

 マイクに向けて、最後の挨拶をする。

「ここまで聞いてくれてありがとう。
 ――姫宮みことでした。おやすみ」

 配信ボタンを切る。

 部屋の灯りが、静かに落ちる。

 隣の部屋から、微かな寝息。

(明日も、頑張れ)

 胸の奥で、そっと呟いた。



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