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第2章 トライアングル
第35話 花が咲く
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一ヶ月は、驚くほどあっという間だった。
嵐のような総体が過ぎ、雪乃の足もようやく松葉杖が外れ、そして――チャンネル登録者数百万人記念の食事会当日。
当初の予定では、都内のちょっとオシャレなレストランだった。
落ち着いた照明、静かな音楽、背筋が伸びるような雰囲気の、いかにも「記念」に相応しい店。
……だったのだが。
「焼肉がいい!」
と言い切った張本人が、今、俺の隣でメニューを広げてテンションを爆上げしている。
「雪乃、もうちょっと……こう、記念日ってものをだな」
「焼肉は世界の記念食だよ。異論は認めません」
全く聞く耳を持たない。
結果――
俺たち五人は、都内の人気焼肉店の**完全個室**に集結していた。
換気フードの下、ジュウジュウと肉が焼ける音。
タレの香り、白米、煙。
どうしたって肩の力が抜ける。
「いやー、まさか記念会が焼肉になるとは」
笑いながら言ったのはナンコツさん。
おっとりした雰囲気の女性で、穏やかだが目の奥は仕事人のそれだ。
「わ、私も焼肉嬉しいです……!」
ほたるはメニューを大事そうに抱え、少し頬を紅潮させていた。
初めて会った時より、表情が柔らかい。
そして――
「カルビ三人前追加でいいですか?」
問答無用でタッチパネルを操作しているのは、スナギモさん。
長い髪をポニーテールにして、軽くジャージっぽい格好。
黒い瞳がキラキラしていて、肉を前にして妙に輝いている。
「え、あ、ちょっと待――」
「ライス大盛りも」
完全に止まらない。
「すごい食べますね……」
ほたるが苦笑すると、
「大会前は控えてたんですよー。今日は解禁日です」
と胸を張る。
俺は思わず雪乃を見た。
「……食欲の方向性、似てないか?」
「似てないし。いや似てるかも」
本人が認めた。
◆
肉が運ばれ、網の上で音を立て始める。
「改めて――」
俺は少し背筋を伸ばした。
「今日は、本当にありがとうございます。ここまで来られたのは皆さんのおかげです」
頭を下げると、三人三様の反応が返ってくる。
「そんな、こちらこそ楽しい編集させてもらってます」
ナンコツさんは柔らかく笑い、
「記念に関われるなんて光栄です」
ほたるは胸に手を当てる。
「はい、肉来ました」
スナギモさんはトングを握っていた。
会話より肉。強い。
「百万人、本当におめでとうございます」
ナンコツさんがもう一度言った。
「海外からのコメントもすごいですよ。スナギモが字幕頑張った甲斐がありましたね」
「任せてください、推し事なので」
スナギモさんは親指を立てた。
俺は前から気になっていたことを、ここで聞いてみることにした。
「その……スナギモさんって、ナンコツさんの従姉妹なんですよね」
「そうですよ。従姉妹でございます」
敬語と砕けたテンションのアンバランスさがすごい。
「大学で留学してたんで英語は任せなさいって感じで」
「すごいですね」
「まあ、推しがグローバル展開するためならなんでもします」
ズバッと言い切られ、なんとも言えない気恥ずかしさが込み上げる。
◆
肉を焼きながら、話題は自然と配信に移った。
「姫宮さんの配信、最近ますます安定してますよね」
「雑談力がエグい」
ナンコツさんとスナギモさんが言う。
「そ、そうですかね……」
「コメント拾いも優しいし、変な荒らしへの対応も落ち着いてて安心する」
「たまに声裏返ってるけど」
「やめてください」
思わず顔を覆う俺。
すると横で雪乃がくすくす笑った。
「ねぇ、それ家でも同じ声だからね」
「言わなくていい!」
「全部バラすよ?」
「やめろ本気で」
ほたるが手で口を押さえて笑いながら、こくこく頷いた。
◆
そして話題は自然と、雪乃の総体の話へ。
「動画拝見しました。すごかったです」
ほたるの目は真剣だ。
「橋本さんのアドバイスをちゃんと活かしてて……」
「ああ、あれね」
雪乃は湯飲みをくるくる回しながら、少し照れた顔をした。
「勝ちたかったし、部のみんなとももう一回試合したかったし……悔しかったけど、楽しかった」
その言葉に、胸がじんわり温かくなる。
(あいつ……本当に強くなったな)
◆
そこへ唐突に、
「で」
雪乃がテーブルに肘をついて、俺を見る。
嫌な予感しかしない。
「恋バナしよっか」
「待て」
「いやー、今その話題来たか」
ナンコツさんは楽しそうに笑い、
ほたるはみるみる赤くなっていく。
「え? 恋……?」
「恋……」
スナギモさんはカルビをくるくる巻いてご飯に乗せていた。聞いてない。
「でさ」
雪乃はにやりと笑った。
「パパ、この中だったら誰がタイプなの?」
肉をひっくり返していた手が止まった。
「は??」
「誰、タイプなの?」
「お前……なにを急に――」
「え、気になるじゃん?」
悪魔の笑み。
「ほたるさん? ナンコツさん? それともスナギモさん?」
視線が一斉に俺に集まる。
ほたるは耳まで真っ赤になり、
ナンコツさんは余裕の微笑みを浮かべ、
スナギモさんは肉を頬張りながら親指を立てた。聞け。
(やめてくれ……頼むから……)
「い、いや、その、違うんだこれは、その――」
言葉がうまく出てこない。
背中に嫌な汗が流れる。
「顔赤いですよ」
ナンコツさんがからかうように言う。
「パパ、正直に言っていいんだよ?」
完全に遊ばれている。
雪乃は楽しそうに肘で俺の脇腹をつついた。
「娘の前で答えろっていうのがまず無理なんだよ!」
「じゃあ、今は秘密ってことで?」
「そう。秘密で」
「ふーん?」
雪乃はにやにやしながら肉を口に運んだ。
心臓に悪い。
◆
ひとしきり盛り上がってから、
ナンコツさんがふとスナギモさんを見た。
「そういえば自己紹介、ちゃんとしてませんでしたよね」
「あ、そうだね」
俺がそう言うと、スナギモさんはタン塩をひっくり返しながら言った。
「本名は――朝来野結梨です」
「え?」
その苗字を聞いた瞬間、頭の中にひとりの少年の顔が浮かぶ。
「……朝来野?」
「はい。弟が、お世話になってます」
さらりと言われた。
「弟?」
「サッカー部の」
「あ」
全員の声が揃った。
「うそでしょ?」
雪乃が目をまん丸にする。
「ちょ、ちょっと待って、朝来野くんのお姉さん!?」
「そうなりまーす」
結梨はあっけらかんとして笑った。
「世間って狭いなぁ……」
思わず呟く。
「弟からも聞いてるんですよ。『恩塚さん、めっちゃいい人』って」
「やめろ恥ずかしい」
「あと、『雪乃ちゃん可愛い』って」
「やめろさらに恥ずかしい!!」
顔が熱い。今日何回目だ。
雪乃は顔を真っ赤にしたまま、
「……なにそれ」
と小さく呟いていた。
◆
肉は次々と網の上で消えていく。
笑い声と、煙と、白いご飯。
気付けば、あの長い一年が、ひとつの円になっていた気がした。
不倫、離婚、孤独、配信、リスナー、仲間。
泣きながら進んで、それでもまだ進んでいて。
(俺はひとりじゃないんだな)
当たり前で、でもずっと手に入らなかった感覚が胸の奥に広がる。
「――よし」
俺は心の中だけでつぶやいた。
(ここからがスタートだ)
百万人はゴールなんかじゃない。
守るものも、笑わせたい人も、背中を押してくれる仲間も、
ようやく手に入ったのだから。
網の向こうで、雪乃が笑っている。
ほたるが、ナンコツさんが、結梨――スナギモが、笑っている。
煙の向こうのその笑顔が、何よりも嬉しかった。
◆◇◆◇
焼肉の煙の匂いって、家までついてくるんだよね。
マンションのエレベーターに映る自分の姿を見ながら、私は小さく息を吐いた。
口元は、知らないうちに緩んでいる。百万人記念の食事会――思っていたより、ずっと温かかった。
「ただいまー」
玄関を開けると、リビングからテレビの光が漏れていた。
「おかえり」
淡々とした声。弟の宏夜。
ソファに座ったまま、ゲームのコントローラーを手にしている。
「なんだ、起きてたの」
「姉ちゃん、酔ってる?」
「酔ってないし。……ちょっと楽しかっただけ」
そう言いながら、私はポスンと彼の隣に腰を落とした。
焼肉の脂と、少しのビール。身体がふわりと緩む。
「臭い。焼肉」
「いい匂いって言いなさいよ、弟くん」
わざと肩にもたれかかると、宏夜は小さくため息をついた。
「またダル絡みモード?」
「家族にだけ許された特権です」
「はいはい」
いつものやり取り。
だけど今日は、胸の奥にまだ残っている温度が違った。
私はぽつりとつぶやく。
「……雪乃ちゃん、いい子ねぇ」
そのとき、宏夜の指が止まる気配がした。
「……雪乃、ちゃん?」
「うん。今日、一緒だったの」
「……」
テレビの音だけが流れる。
私はにやりと口角を上げ、弟の横顔を覗き込んだ。
「なに、今ちょっと顔変わったよね」
「別に」
「ほらー、分かりやすいんだから」
「分かりやすくない」
「ふふ。……行きたかった?」
軽く肘でつつく。
「……何が」
「今日。焼肉。あの子来てたのに」
宏夜は少しだけ唇を結んだ。
返事はない。
でも、その沈黙は、言葉より雄弁だった。
「青春じゃーん」
「やめろ」
照れくさそうに目を逸らす弟を見て、胸の奥がくすぐったくなる。
ああ、うん。
きっと、こういう瞬間のことを青春って言うんだろうな。
「……いいじゃん。姉は応援するよ」
「勝手に応援すんな」
「もう始まってるでしょ?」
「始まってねぇよ」
でも、声は少しだけ柔らかかった。
私は天井を仰いで、静かに目を閉じる。
焼肉の匂いと、配信チームの笑顔と、
あの子のまっすぐな瞳――
そして、横にいるこの弟の、不器用な横顔。
(……世界って、案外優しいかもね)
そんなことをぼんやり思いながら、私は弟の肩に頭を預けた。
夜の部屋に、柔らかな気配が溶けていった。
嵐のような総体が過ぎ、雪乃の足もようやく松葉杖が外れ、そして――チャンネル登録者数百万人記念の食事会当日。
当初の予定では、都内のちょっとオシャレなレストランだった。
落ち着いた照明、静かな音楽、背筋が伸びるような雰囲気の、いかにも「記念」に相応しい店。
……だったのだが。
「焼肉がいい!」
と言い切った張本人が、今、俺の隣でメニューを広げてテンションを爆上げしている。
「雪乃、もうちょっと……こう、記念日ってものをだな」
「焼肉は世界の記念食だよ。異論は認めません」
全く聞く耳を持たない。
結果――
俺たち五人は、都内の人気焼肉店の**完全個室**に集結していた。
換気フードの下、ジュウジュウと肉が焼ける音。
タレの香り、白米、煙。
どうしたって肩の力が抜ける。
「いやー、まさか記念会が焼肉になるとは」
笑いながら言ったのはナンコツさん。
おっとりした雰囲気の女性で、穏やかだが目の奥は仕事人のそれだ。
「わ、私も焼肉嬉しいです……!」
ほたるはメニューを大事そうに抱え、少し頬を紅潮させていた。
初めて会った時より、表情が柔らかい。
そして――
「カルビ三人前追加でいいですか?」
問答無用でタッチパネルを操作しているのは、スナギモさん。
長い髪をポニーテールにして、軽くジャージっぽい格好。
黒い瞳がキラキラしていて、肉を前にして妙に輝いている。
「え、あ、ちょっと待――」
「ライス大盛りも」
完全に止まらない。
「すごい食べますね……」
ほたるが苦笑すると、
「大会前は控えてたんですよー。今日は解禁日です」
と胸を張る。
俺は思わず雪乃を見た。
「……食欲の方向性、似てないか?」
「似てないし。いや似てるかも」
本人が認めた。
◆
肉が運ばれ、網の上で音を立て始める。
「改めて――」
俺は少し背筋を伸ばした。
「今日は、本当にありがとうございます。ここまで来られたのは皆さんのおかげです」
頭を下げると、三人三様の反応が返ってくる。
「そんな、こちらこそ楽しい編集させてもらってます」
ナンコツさんは柔らかく笑い、
「記念に関われるなんて光栄です」
ほたるは胸に手を当てる。
「はい、肉来ました」
スナギモさんはトングを握っていた。
会話より肉。強い。
「百万人、本当におめでとうございます」
ナンコツさんがもう一度言った。
「海外からのコメントもすごいですよ。スナギモが字幕頑張った甲斐がありましたね」
「任せてください、推し事なので」
スナギモさんは親指を立てた。
俺は前から気になっていたことを、ここで聞いてみることにした。
「その……スナギモさんって、ナンコツさんの従姉妹なんですよね」
「そうですよ。従姉妹でございます」
敬語と砕けたテンションのアンバランスさがすごい。
「大学で留学してたんで英語は任せなさいって感じで」
「すごいですね」
「まあ、推しがグローバル展開するためならなんでもします」
ズバッと言い切られ、なんとも言えない気恥ずかしさが込み上げる。
◆
肉を焼きながら、話題は自然と配信に移った。
「姫宮さんの配信、最近ますます安定してますよね」
「雑談力がエグい」
ナンコツさんとスナギモさんが言う。
「そ、そうですかね……」
「コメント拾いも優しいし、変な荒らしへの対応も落ち着いてて安心する」
「たまに声裏返ってるけど」
「やめてください」
思わず顔を覆う俺。
すると横で雪乃がくすくす笑った。
「ねぇ、それ家でも同じ声だからね」
「言わなくていい!」
「全部バラすよ?」
「やめろ本気で」
ほたるが手で口を押さえて笑いながら、こくこく頷いた。
◆
そして話題は自然と、雪乃の総体の話へ。
「動画拝見しました。すごかったです」
ほたるの目は真剣だ。
「橋本さんのアドバイスをちゃんと活かしてて……」
「ああ、あれね」
雪乃は湯飲みをくるくる回しながら、少し照れた顔をした。
「勝ちたかったし、部のみんなとももう一回試合したかったし……悔しかったけど、楽しかった」
その言葉に、胸がじんわり温かくなる。
(あいつ……本当に強くなったな)
◆
そこへ唐突に、
「で」
雪乃がテーブルに肘をついて、俺を見る。
嫌な予感しかしない。
「恋バナしよっか」
「待て」
「いやー、今その話題来たか」
ナンコツさんは楽しそうに笑い、
ほたるはみるみる赤くなっていく。
「え? 恋……?」
「恋……」
スナギモさんはカルビをくるくる巻いてご飯に乗せていた。聞いてない。
「でさ」
雪乃はにやりと笑った。
「パパ、この中だったら誰がタイプなの?」
肉をひっくり返していた手が止まった。
「は??」
「誰、タイプなの?」
「お前……なにを急に――」
「え、気になるじゃん?」
悪魔の笑み。
「ほたるさん? ナンコツさん? それともスナギモさん?」
視線が一斉に俺に集まる。
ほたるは耳まで真っ赤になり、
ナンコツさんは余裕の微笑みを浮かべ、
スナギモさんは肉を頬張りながら親指を立てた。聞け。
(やめてくれ……頼むから……)
「い、いや、その、違うんだこれは、その――」
言葉がうまく出てこない。
背中に嫌な汗が流れる。
「顔赤いですよ」
ナンコツさんがからかうように言う。
「パパ、正直に言っていいんだよ?」
完全に遊ばれている。
雪乃は楽しそうに肘で俺の脇腹をつついた。
「娘の前で答えろっていうのがまず無理なんだよ!」
「じゃあ、今は秘密ってことで?」
「そう。秘密で」
「ふーん?」
雪乃はにやにやしながら肉を口に運んだ。
心臓に悪い。
◆
ひとしきり盛り上がってから、
ナンコツさんがふとスナギモさんを見た。
「そういえば自己紹介、ちゃんとしてませんでしたよね」
「あ、そうだね」
俺がそう言うと、スナギモさんはタン塩をひっくり返しながら言った。
「本名は――朝来野結梨です」
「え?」
その苗字を聞いた瞬間、頭の中にひとりの少年の顔が浮かぶ。
「……朝来野?」
「はい。弟が、お世話になってます」
さらりと言われた。
「弟?」
「サッカー部の」
「あ」
全員の声が揃った。
「うそでしょ?」
雪乃が目をまん丸にする。
「ちょ、ちょっと待って、朝来野くんのお姉さん!?」
「そうなりまーす」
結梨はあっけらかんとして笑った。
「世間って狭いなぁ……」
思わず呟く。
「弟からも聞いてるんですよ。『恩塚さん、めっちゃいい人』って」
「やめろ恥ずかしい」
「あと、『雪乃ちゃん可愛い』って」
「やめろさらに恥ずかしい!!」
顔が熱い。今日何回目だ。
雪乃は顔を真っ赤にしたまま、
「……なにそれ」
と小さく呟いていた。
◆
肉は次々と網の上で消えていく。
笑い声と、煙と、白いご飯。
気付けば、あの長い一年が、ひとつの円になっていた気がした。
不倫、離婚、孤独、配信、リスナー、仲間。
泣きながら進んで、それでもまだ進んでいて。
(俺はひとりじゃないんだな)
当たり前で、でもずっと手に入らなかった感覚が胸の奥に広がる。
「――よし」
俺は心の中だけでつぶやいた。
(ここからがスタートだ)
百万人はゴールなんかじゃない。
守るものも、笑わせたい人も、背中を押してくれる仲間も、
ようやく手に入ったのだから。
網の向こうで、雪乃が笑っている。
ほたるが、ナンコツさんが、結梨――スナギモが、笑っている。
煙の向こうのその笑顔が、何よりも嬉しかった。
◆◇◆◇
焼肉の煙の匂いって、家までついてくるんだよね。
マンションのエレベーターに映る自分の姿を見ながら、私は小さく息を吐いた。
口元は、知らないうちに緩んでいる。百万人記念の食事会――思っていたより、ずっと温かかった。
「ただいまー」
玄関を開けると、リビングからテレビの光が漏れていた。
「おかえり」
淡々とした声。弟の宏夜。
ソファに座ったまま、ゲームのコントローラーを手にしている。
「なんだ、起きてたの」
「姉ちゃん、酔ってる?」
「酔ってないし。……ちょっと楽しかっただけ」
そう言いながら、私はポスンと彼の隣に腰を落とした。
焼肉の脂と、少しのビール。身体がふわりと緩む。
「臭い。焼肉」
「いい匂いって言いなさいよ、弟くん」
わざと肩にもたれかかると、宏夜は小さくため息をついた。
「またダル絡みモード?」
「家族にだけ許された特権です」
「はいはい」
いつものやり取り。
だけど今日は、胸の奥にまだ残っている温度が違った。
私はぽつりとつぶやく。
「……雪乃ちゃん、いい子ねぇ」
そのとき、宏夜の指が止まる気配がした。
「……雪乃、ちゃん?」
「うん。今日、一緒だったの」
「……」
テレビの音だけが流れる。
私はにやりと口角を上げ、弟の横顔を覗き込んだ。
「なに、今ちょっと顔変わったよね」
「別に」
「ほらー、分かりやすいんだから」
「分かりやすくない」
「ふふ。……行きたかった?」
軽く肘でつつく。
「……何が」
「今日。焼肉。あの子来てたのに」
宏夜は少しだけ唇を結んだ。
返事はない。
でも、その沈黙は、言葉より雄弁だった。
「青春じゃーん」
「やめろ」
照れくさそうに目を逸らす弟を見て、胸の奥がくすぐったくなる。
ああ、うん。
きっと、こういう瞬間のことを青春って言うんだろうな。
「……いいじゃん。姉は応援するよ」
「勝手に応援すんな」
「もう始まってるでしょ?」
「始まってねぇよ」
でも、声は少しだけ柔らかかった。
私は天井を仰いで、静かに目を閉じる。
焼肉の匂いと、配信チームの笑顔と、
あの子のまっすぐな瞳――
そして、横にいるこの弟の、不器用な横顔。
(……世界って、案外優しいかもね)
そんなことをぼんやり思いながら、私は弟の肩に頭を預けた。
夜の部屋に、柔らかな気配が溶けていった。
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