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第2章 トライアングル
第36話 青春真っ盛り
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朝来野結梨は、小さな頃からボールと一緒にいた。
まだランドセルも背負えない頃、真新しいスニーカーで芝生を蹴り、両手を広げて笑っていた少女。その頃から、近所の大人たちは口を揃えて言った。
「この子はすごい選手になるよ」
その言葉は、祝福でもあり、呪いでもあった。
中学に上がる頃には、地域の有名クラブの主力。新聞の地方欄に写真付きで名前が載るのも、もはや珍しいことではなくなっていた。
高校に入った頃には――
彼女は「女子サッカーの希望の星」と呼ばれていた。
取材。雑誌の撮影。校門で待ち構えるマスコミ。
最初は戸惑いもあったが、それも悪くなかった。
期待されるのは気持ちが良い。
上へ、さらに上へ。
その視線が、背中を押す。
大学生になり、ついに日本代表候補に名を連ねる。
日本代表合宿に初招集。
ニュースサイトには「若き天才MF」「躍動するプリンセス」と並び、バラエティ番組からの出演依頼まで届いた。
――順風満帆だった。
そう、あの日までは。
◇
ホテルのロビーに入る瞬間を切り取った写真が、週刊誌の一面に踊った。
《代表候補・朝来野結梨 “夜の密会”》
隣に写っていたのは、当時付き合っていた同じ大学のサッカー部員。
どこにでもいる、ただの恋人同士の姿だった。
アイドルでもない。
芸能人でもない。
ましてや、まだプロ契約すらしていない大学生のアスリート。
なのに。
メディアは煽るように記事を投げつけ、
SNSは炎上し、
匿名の言葉が津波のように押し寄せた。
「代表の自覚がない」
「男にうつつを抜かすなら辞めろ」
「期待して損した」
どれだけ正しく努力してきたかなんて、誰も見ない。
たった一枚の写真で、すべてが塗り潰された。
結梨は記者会見を拒んだ。
弁明することも、戦うことも、しなかった。
――ただ、静かにユニフォームを置いた。
代表を辞退し、
ほどなくして、サッカーもやめた。
歓声を浴びたグラウンドから遠ざかり、
彼女は、ただの「朝来野結梨」という一人の人間に戻った。
けれど、その背中には、何かが抜け落ちた影があった。
消えかけた蝋燭のような光。
その姿を、一番近くで見ていたのが――弟の宏夜だった。
◇
俺は、姉のことをよく知っている。
朝来野結梨は、誰よりもサッカーを愛していた。
人生のすべてをピッチに捧げる覚悟をしていた人間だ。
朝から晩までボールを蹴り、
倒れて、吐いて、膝を擦りむいて、
それでも笑って前に進む人だった。
練習帰り、疲れているはずなのに俺と公園でリフティングしてくれた。
夜遅くまで戦術動画を見て、翌朝には早朝ランニングに出ていた。
だから、俺には分かる。
姉は――“本物”だった。
プロになれたはずだ。
代表なんて余裕だったはずだ。
もしかすれば海外リーグにも。
それなのに。
たった一枚の、金儲けのためだけの写真。
その瞬間を切り取られただけで、姉の人生は狂った。
運命なんかじゃない。
努力が足りなかったわけでもない。
ただ、誰かのレンズと、誰かの金欲と、誰かの奇心が姉の道をへし折った。
俺は、あの日の姉の背中を忘れない。
机に伏せて、泣いているわけでもない。
叫んでいるわけでもない。
ただ、静かに――何かを諦めた人間の背中。
その姿を見た瞬間、胸の奥で何かが焼けた。
悔しさ。
怒り。
憎しみ。
俺は思った。
(だったら俺がやってやる)
(俺が代表になって、世界に立って、見返してやる)
(姉の分まで、全部奪い返してやる)
それは、誓いだった。
……けど、現実は甘くなかった。
俺には、姉ほどの才能はない。
走力、球際、視野――どれも悪くない。
監督も、仲間も、「期待してる」と言ってくれる。
でも。
分かってる。
あの人は、中学生の頃から別格だった。
俺が全力で追いかけても、
まだ、指先すら掴めない場所にいた。
みんなは言う。
「まだ中学生なんだから、これから伸びるよ」
違うんだ。
姉は――もうその頃には“完成されつつあった”。
俺と同じか、少し小さいくらいの時にはすでに天才だった。
それを認めるのが、悔しかった。
努力しても追いつけない現実が、苦しかった。
それでも俺は、走る。
砂を噛むような日々でも、足が止められない。
(あの日の姉の背中を、俺はもう二度と見たくないから)
(俺が代わりに――夢を見る)
グラウンドに、夕焼けが落ちる。
ボールを蹴るたびに、胸の奥が疼く。
焦燥と、憧れと、悔しさと――そして、確かな炎。
(俺は、まだ終わっていない)
(俺の青春は、ここからだ)
その誓いは、誰にも聞こえない。
けれど、確かに胸の奥で燃えていた。
◇◆◇
六月の午後の教室には、どこか湿り気のある風が流れ込んでいた。開け放たれた窓の隙間から吹き込む風は、夏の手前にしかない独特の匂いを運んでくる。放課後のチャイムが鳴り終わり、クラスメイトたちが三々五々教室を出ていく中、俺は机の中からペットボトルを取り出し、ひと口だけ水を飲んだ。
地区総体――サッカー部は優勝した。
優勝旗を掲げ、仲間たちと肩を叩き合い、歓声が響くあの瞬間。胸の奥に熱いものが込み上げたのは確かだ。しかし、表情に出すことはしない。喜びも、悔しさも、焦りも、全部、心の奥の深い場所へ沈める。
次は都大会。
そして、受験。
夏は、俺たち三年生にとって節目になる。
「ねえ、朝来野くん。今日、部活? それとも補講?」
机の横から落ちてきた声に顔を上げると、雪乃が立っていた。
窓から差す光を受けて、睫毛に小さな影が落ちている。肩で結んだ髪がふわりと揺れ、その度に胸の奥に波紋みたいな感情が広がった。
けれど、それを見せないのが俺だ。
「ああ。部活。今日は軽めのメニューだけどな」
淡々と答えると、雪乃は口を尖らせて、俺の顔を覗き込んでくる。
「やっぱり。ぜんっぜん疲れてる顔してないじゃん。朝来野くんって、嬉しい時も楽しい時も顔に出ないタイプでしょ」
「そうか?」
「そうだよ」
間髪入れずに返ってくる。
雪乃は隣の席に腰を下ろし、机に肘をついて俺の横顔を眺めていた。教室はもう人が少なく、廊下の先からは運動部の掛け声が遠くに聞こえる。
「でも、地区優勝おめでとう。ちゃんと言ってなかったよね、私」
「……ありがとう」
短く返すと、雪乃は小さく息を吐いた。
「私も頑張ったよ。テニス」
「知ってる。結果、聞いた」
「やっぱり」
誇らしげな笑顔。その奥に、ほんの少し影が差しているようにも見えた。
俺たちは、よく話すわけでもない。
でも互いの近況を、なんとなく知っている。
言葉は少ないのに、距離は近い――そんな関係。
「でもさ、都大会ってやっぱ怖いよね。強い人ばっかりなんだろうなぁ」
「強いな。……けど、戦えない相手じゃない」
「そういうところ、好きだよ」
一瞬、心臓が強く跳ねた。
だが表情は動かさない。
雪乃は慌てて両手を振った。
「あ、ちがう! 人としてって意味だからね! ほんとに!」
「分かってる」
「もう……そういう真顔がずるいんだってば」
拗ねたように言って笑う。
俺は窓の外へ視線を逸らした。
クール――そう言われるのは慣れている。
けれど、それは本当の俺じゃない。
本心を見せないための仮面だ。
焦りも、嫉妬も、羨望も、胸の奥にはちゃんとある。
……特に、雪乃の前では。
「都大会が終わったら、受験モードかぁ」
雪乃がぽつりと呟いた。
「うちのクラス、もう塾通い増えてきたし。朝来野くんはどうするの?」
「勉強もする。……でも、サッカーはやめない」
「だよね」
雪乃は柔らかく微笑んだ。
「朝来野くん、サッカーしてる時が一番かっこいいもん」
胸の奥が熱くなる。
――出すな。
感情を、顔に出すな。
「……そう見えるだけだ」
「だけじゃないよ」
雪乃はじっと俺を見つめた。
「私、分かるもん。朝来野くん、誰よりも練習してるでしょ。夜、校門のとこで走ってるの、何回か見たよ」
「見てたのか」
「見てた。でも言わなかっただけ」
ふわりと笑う。
俺は短く息を吸った。
「……雪乃も、努力してる」
「え?」
「テニス。……ちゃんと、見てたから」
雪乃の頬が一瞬で赤くなった。
――しまった。
少し、素直すぎたかもしれない。
雪乃は視線を泳がせ、指先で机をとんとんと叩いた。
「ねえ、朝来野くん」
「なんだ」
「名前で呼んでもいい?」
時間が止まったような感覚がした。
胸の奥で何かが固く鳴る。
「……宏夜、って」
その名を聞いた瞬間、心臓が一拍、強く跳ねる。
俺の名前を、雪乃の声が呼んだ。
「嫌だったらやめるけど……」
不安そうな目。
拒む理由は、どこにもなかった。
ただ一つ、顔に表情を出さないことだけを意識する。
「……好きに呼べばいい」
それだけ告げる。
雪乃はぱっと表情を明るくした。
「じゃあ――宏夜」
柔らかく、丁寧に、その名前を口にする。
胸の奥で熱が広がる。
「うん。なんかいい感じ」
「そうか」
「うん。宏夜、って言いやすい」
――危ない。
このままだと、仮面が剥がれそうだ。
「今日、帰り駅まで一緒に歩いていい?」
「構わない」
「やった」
無邪気な笑顔に、視線を逸らす。
二人で教室を出ると、廊下は夕焼け色に染まり、窓の外の空は橙から群青へと移ろい始めていた。
肩が触れそうで触れない距離を保ちながら、階段を降りる。
「ねえ、宏夜」
「なんだ」
「都大会、勝とうね。……どっちも」
「ああ」
「もし、どっちかが負けちゃっても」
雪乃が立ち止まる。
「その時は、負けたほうを二人で励まそう。ちゃんと」
胸が締めつけられる。
言葉が喉の奥で熱くなる。
「……ああ。約束だ」
「約束ね」
雪乃が小指を差し出す。
俺は一瞬だけ迷い、小指を絡めた。
温かい。
ただ、それだけなのに。
心が震えそうになった。
なのに、表情は変えない。
――変えるわけにはいかない。
「じゃあ、また明日。宏夜」
「ああ」
校門で手を振り、雪乃は反対方向の歩道へと歩き出す。
その背中が小さくなるまで、俺は動けなかった。
感情を隠すのは得意だ。
昔から、ずっと。
だけど――
(……雪乃の前じゃ、難しい)
まだランドセルも背負えない頃、真新しいスニーカーで芝生を蹴り、両手を広げて笑っていた少女。その頃から、近所の大人たちは口を揃えて言った。
「この子はすごい選手になるよ」
その言葉は、祝福でもあり、呪いでもあった。
中学に上がる頃には、地域の有名クラブの主力。新聞の地方欄に写真付きで名前が載るのも、もはや珍しいことではなくなっていた。
高校に入った頃には――
彼女は「女子サッカーの希望の星」と呼ばれていた。
取材。雑誌の撮影。校門で待ち構えるマスコミ。
最初は戸惑いもあったが、それも悪くなかった。
期待されるのは気持ちが良い。
上へ、さらに上へ。
その視線が、背中を押す。
大学生になり、ついに日本代表候補に名を連ねる。
日本代表合宿に初招集。
ニュースサイトには「若き天才MF」「躍動するプリンセス」と並び、バラエティ番組からの出演依頼まで届いた。
――順風満帆だった。
そう、あの日までは。
◇
ホテルのロビーに入る瞬間を切り取った写真が、週刊誌の一面に踊った。
《代表候補・朝来野結梨 “夜の密会”》
隣に写っていたのは、当時付き合っていた同じ大学のサッカー部員。
どこにでもいる、ただの恋人同士の姿だった。
アイドルでもない。
芸能人でもない。
ましてや、まだプロ契約すらしていない大学生のアスリート。
なのに。
メディアは煽るように記事を投げつけ、
SNSは炎上し、
匿名の言葉が津波のように押し寄せた。
「代表の自覚がない」
「男にうつつを抜かすなら辞めろ」
「期待して損した」
どれだけ正しく努力してきたかなんて、誰も見ない。
たった一枚の写真で、すべてが塗り潰された。
結梨は記者会見を拒んだ。
弁明することも、戦うことも、しなかった。
――ただ、静かにユニフォームを置いた。
代表を辞退し、
ほどなくして、サッカーもやめた。
歓声を浴びたグラウンドから遠ざかり、
彼女は、ただの「朝来野結梨」という一人の人間に戻った。
けれど、その背中には、何かが抜け落ちた影があった。
消えかけた蝋燭のような光。
その姿を、一番近くで見ていたのが――弟の宏夜だった。
◇
俺は、姉のことをよく知っている。
朝来野結梨は、誰よりもサッカーを愛していた。
人生のすべてをピッチに捧げる覚悟をしていた人間だ。
朝から晩までボールを蹴り、
倒れて、吐いて、膝を擦りむいて、
それでも笑って前に進む人だった。
練習帰り、疲れているはずなのに俺と公園でリフティングしてくれた。
夜遅くまで戦術動画を見て、翌朝には早朝ランニングに出ていた。
だから、俺には分かる。
姉は――“本物”だった。
プロになれたはずだ。
代表なんて余裕だったはずだ。
もしかすれば海外リーグにも。
それなのに。
たった一枚の、金儲けのためだけの写真。
その瞬間を切り取られただけで、姉の人生は狂った。
運命なんかじゃない。
努力が足りなかったわけでもない。
ただ、誰かのレンズと、誰かの金欲と、誰かの奇心が姉の道をへし折った。
俺は、あの日の姉の背中を忘れない。
机に伏せて、泣いているわけでもない。
叫んでいるわけでもない。
ただ、静かに――何かを諦めた人間の背中。
その姿を見た瞬間、胸の奥で何かが焼けた。
悔しさ。
怒り。
憎しみ。
俺は思った。
(だったら俺がやってやる)
(俺が代表になって、世界に立って、見返してやる)
(姉の分まで、全部奪い返してやる)
それは、誓いだった。
……けど、現実は甘くなかった。
俺には、姉ほどの才能はない。
走力、球際、視野――どれも悪くない。
監督も、仲間も、「期待してる」と言ってくれる。
でも。
分かってる。
あの人は、中学生の頃から別格だった。
俺が全力で追いかけても、
まだ、指先すら掴めない場所にいた。
みんなは言う。
「まだ中学生なんだから、これから伸びるよ」
違うんだ。
姉は――もうその頃には“完成されつつあった”。
俺と同じか、少し小さいくらいの時にはすでに天才だった。
それを認めるのが、悔しかった。
努力しても追いつけない現実が、苦しかった。
それでも俺は、走る。
砂を噛むような日々でも、足が止められない。
(あの日の姉の背中を、俺はもう二度と見たくないから)
(俺が代わりに――夢を見る)
グラウンドに、夕焼けが落ちる。
ボールを蹴るたびに、胸の奥が疼く。
焦燥と、憧れと、悔しさと――そして、確かな炎。
(俺は、まだ終わっていない)
(俺の青春は、ここからだ)
その誓いは、誰にも聞こえない。
けれど、確かに胸の奥で燃えていた。
◇◆◇
六月の午後の教室には、どこか湿り気のある風が流れ込んでいた。開け放たれた窓の隙間から吹き込む風は、夏の手前にしかない独特の匂いを運んでくる。放課後のチャイムが鳴り終わり、クラスメイトたちが三々五々教室を出ていく中、俺は机の中からペットボトルを取り出し、ひと口だけ水を飲んだ。
地区総体――サッカー部は優勝した。
優勝旗を掲げ、仲間たちと肩を叩き合い、歓声が響くあの瞬間。胸の奥に熱いものが込み上げたのは確かだ。しかし、表情に出すことはしない。喜びも、悔しさも、焦りも、全部、心の奥の深い場所へ沈める。
次は都大会。
そして、受験。
夏は、俺たち三年生にとって節目になる。
「ねえ、朝来野くん。今日、部活? それとも補講?」
机の横から落ちてきた声に顔を上げると、雪乃が立っていた。
窓から差す光を受けて、睫毛に小さな影が落ちている。肩で結んだ髪がふわりと揺れ、その度に胸の奥に波紋みたいな感情が広がった。
けれど、それを見せないのが俺だ。
「ああ。部活。今日は軽めのメニューだけどな」
淡々と答えると、雪乃は口を尖らせて、俺の顔を覗き込んでくる。
「やっぱり。ぜんっぜん疲れてる顔してないじゃん。朝来野くんって、嬉しい時も楽しい時も顔に出ないタイプでしょ」
「そうか?」
「そうだよ」
間髪入れずに返ってくる。
雪乃は隣の席に腰を下ろし、机に肘をついて俺の横顔を眺めていた。教室はもう人が少なく、廊下の先からは運動部の掛け声が遠くに聞こえる。
「でも、地区優勝おめでとう。ちゃんと言ってなかったよね、私」
「……ありがとう」
短く返すと、雪乃は小さく息を吐いた。
「私も頑張ったよ。テニス」
「知ってる。結果、聞いた」
「やっぱり」
誇らしげな笑顔。その奥に、ほんの少し影が差しているようにも見えた。
俺たちは、よく話すわけでもない。
でも互いの近況を、なんとなく知っている。
言葉は少ないのに、距離は近い――そんな関係。
「でもさ、都大会ってやっぱ怖いよね。強い人ばっかりなんだろうなぁ」
「強いな。……けど、戦えない相手じゃない」
「そういうところ、好きだよ」
一瞬、心臓が強く跳ねた。
だが表情は動かさない。
雪乃は慌てて両手を振った。
「あ、ちがう! 人としてって意味だからね! ほんとに!」
「分かってる」
「もう……そういう真顔がずるいんだってば」
拗ねたように言って笑う。
俺は窓の外へ視線を逸らした。
クール――そう言われるのは慣れている。
けれど、それは本当の俺じゃない。
本心を見せないための仮面だ。
焦りも、嫉妬も、羨望も、胸の奥にはちゃんとある。
……特に、雪乃の前では。
「都大会が終わったら、受験モードかぁ」
雪乃がぽつりと呟いた。
「うちのクラス、もう塾通い増えてきたし。朝来野くんはどうするの?」
「勉強もする。……でも、サッカーはやめない」
「だよね」
雪乃は柔らかく微笑んだ。
「朝来野くん、サッカーしてる時が一番かっこいいもん」
胸の奥が熱くなる。
――出すな。
感情を、顔に出すな。
「……そう見えるだけだ」
「だけじゃないよ」
雪乃はじっと俺を見つめた。
「私、分かるもん。朝来野くん、誰よりも練習してるでしょ。夜、校門のとこで走ってるの、何回か見たよ」
「見てたのか」
「見てた。でも言わなかっただけ」
ふわりと笑う。
俺は短く息を吸った。
「……雪乃も、努力してる」
「え?」
「テニス。……ちゃんと、見てたから」
雪乃の頬が一瞬で赤くなった。
――しまった。
少し、素直すぎたかもしれない。
雪乃は視線を泳がせ、指先で机をとんとんと叩いた。
「ねえ、朝来野くん」
「なんだ」
「名前で呼んでもいい?」
時間が止まったような感覚がした。
胸の奥で何かが固く鳴る。
「……宏夜、って」
その名を聞いた瞬間、心臓が一拍、強く跳ねる。
俺の名前を、雪乃の声が呼んだ。
「嫌だったらやめるけど……」
不安そうな目。
拒む理由は、どこにもなかった。
ただ一つ、顔に表情を出さないことだけを意識する。
「……好きに呼べばいい」
それだけ告げる。
雪乃はぱっと表情を明るくした。
「じゃあ――宏夜」
柔らかく、丁寧に、その名前を口にする。
胸の奥で熱が広がる。
「うん。なんかいい感じ」
「そうか」
「うん。宏夜、って言いやすい」
――危ない。
このままだと、仮面が剥がれそうだ。
「今日、帰り駅まで一緒に歩いていい?」
「構わない」
「やった」
無邪気な笑顔に、視線を逸らす。
二人で教室を出ると、廊下は夕焼け色に染まり、窓の外の空は橙から群青へと移ろい始めていた。
肩が触れそうで触れない距離を保ちながら、階段を降りる。
「ねえ、宏夜」
「なんだ」
「都大会、勝とうね。……どっちも」
「ああ」
「もし、どっちかが負けちゃっても」
雪乃が立ち止まる。
「その時は、負けたほうを二人で励まそう。ちゃんと」
胸が締めつけられる。
言葉が喉の奥で熱くなる。
「……ああ。約束だ」
「約束ね」
雪乃が小指を差し出す。
俺は一瞬だけ迷い、小指を絡めた。
温かい。
ただ、それだけなのに。
心が震えそうになった。
なのに、表情は変えない。
――変えるわけにはいかない。
「じゃあ、また明日。宏夜」
「ああ」
校門で手を振り、雪乃は反対方向の歩道へと歩き出す。
その背中が小さくなるまで、俺は動けなかった。
感情を隠すのは得意だ。
昔から、ずっと。
だけど――
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