妻に不倫され間男にクビ宣告された俺、宝くじ10億円当たって防音タワマンでバ美肉VTuberデビューしたら人生爆逆転

小林一咲

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第2章 トライアングル

第36話 青春真っ盛り

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 朝来野結梨は、小さな頃からボールと一緒にいた。

 まだランドセルも背負えない頃、真新しいスニーカーで芝生を蹴り、両手を広げて笑っていた少女。その頃から、近所の大人たちは口を揃えて言った。

「この子はすごい選手になるよ」

 その言葉は、祝福でもあり、呪いでもあった。

 中学に上がる頃には、地域の有名クラブの主力。新聞の地方欄に写真付きで名前が載るのも、もはや珍しいことではなくなっていた。

 高校に入った頃には――

 彼女は「女子サッカーの希望の星」と呼ばれていた。

 取材。雑誌の撮影。校門で待ち構えるマスコミ。
 最初は戸惑いもあったが、それも悪くなかった。

 期待されるのは気持ちが良い。
 上へ、さらに上へ。
 その視線が、背中を押す。

 大学生になり、ついに日本代表候補に名を連ねる。

 日本代表合宿に初招集。
 ニュースサイトには「若き天才MF」「躍動するプリンセス」と並び、バラエティ番組からの出演依頼まで届いた。

 ――順風満帆だった。

 そう、あの日までは。



 ホテルのロビーに入る瞬間を切り取った写真が、週刊誌の一面に踊った。

《代表候補・朝来野結梨 “夜の密会”》

 隣に写っていたのは、当時付き合っていた同じ大学のサッカー部員。
 どこにでもいる、ただの恋人同士の姿だった。

 アイドルでもない。
 芸能人でもない。
 ましてや、まだプロ契約すらしていない大学生のアスリート。

 なのに。

 メディアは煽るように記事を投げつけ、
 SNSは炎上し、
 匿名の言葉が津波のように押し寄せた。

「代表の自覚がない」
「男にうつつを抜かすなら辞めろ」
「期待して損した」

 どれだけ正しく努力してきたかなんて、誰も見ない。
 たった一枚の写真で、すべてが塗り潰された。

 結梨は記者会見を拒んだ。
 弁明することも、戦うことも、しなかった。

 ――ただ、静かにユニフォームを置いた。

 代表を辞退し、
 ほどなくして、サッカーもやめた。

 歓声を浴びたグラウンドから遠ざかり、
 彼女は、ただの「朝来野結梨」という一人の人間に戻った。

 けれど、その背中には、何かが抜け落ちた影があった。

 消えかけた蝋燭のような光。

 その姿を、一番近くで見ていたのが――弟の宏夜だった。



 俺は、姉のことをよく知っている。

 朝来野結梨は、誰よりもサッカーを愛していた。
 人生のすべてをピッチに捧げる覚悟をしていた人間だ。

 朝から晩までボールを蹴り、
 倒れて、吐いて、膝を擦りむいて、
 それでも笑って前に進む人だった。

 練習帰り、疲れているはずなのに俺と公園でリフティングしてくれた。
 夜遅くまで戦術動画を見て、翌朝には早朝ランニングに出ていた。

 だから、俺には分かる。

 姉は――“本物”だった。

 プロになれたはずだ。
 代表なんて余裕だったはずだ。
 もしかすれば海外リーグにも。

 それなのに。

 たった一枚の、金儲けのためだけの写真。
 その瞬間を切り取られただけで、姉の人生は狂った。

 運命なんかじゃない。
 努力が足りなかったわけでもない。

 ただ、誰かのレンズと、誰かの金欲と、誰かの奇心が姉の道をへし折った。

 俺は、あの日の姉の背中を忘れない。

 机に伏せて、泣いているわけでもない。
 叫んでいるわけでもない。

 ただ、静かに――何かを諦めた人間の背中。

 その姿を見た瞬間、胸の奥で何かが焼けた。

 悔しさ。
 怒り。
 憎しみ。

 俺は思った。

(だったら俺がやってやる)

(俺が代表になって、世界に立って、見返してやる)

(姉の分まで、全部奪い返してやる)

 それは、誓いだった。

 ……けど、現実は甘くなかった。

 俺には、姉ほどの才能はない。

 走力、球際、視野――どれも悪くない。
 監督も、仲間も、「期待してる」と言ってくれる。

 でも。

 分かってる。

 あの人は、中学生の頃から別格だった。

 俺が全力で追いかけても、
 まだ、指先すら掴めない場所にいた。

 みんなは言う。

「まだ中学生なんだから、これから伸びるよ」

 違うんだ。

 姉は――もうその頃には“完成されつつあった”。

 俺と同じか、少し小さいくらいの時にはすでに天才だった。

 それを認めるのが、悔しかった。

 努力しても追いつけない現実が、苦しかった。

 それでも俺は、走る。

 砂を噛むような日々でも、足が止められない。

(あの日の姉の背中を、俺はもう二度と見たくないから)

(俺が代わりに――夢を見る)

 グラウンドに、夕焼けが落ちる。

 ボールを蹴るたびに、胸の奥が疼く。
 焦燥と、憧れと、悔しさと――そして、確かな炎。

(俺は、まだ終わっていない)

(俺の青春は、ここからだ)

 その誓いは、誰にも聞こえない。

 けれど、確かに胸の奥で燃えていた。

◇◆◇

 六月の午後の教室には、どこか湿り気のある風が流れ込んでいた。開け放たれた窓の隙間から吹き込む風は、夏の手前にしかない独特の匂いを運んでくる。放課後のチャイムが鳴り終わり、クラスメイトたちが三々五々教室を出ていく中、俺は机の中からペットボトルを取り出し、ひと口だけ水を飲んだ。

 地区総体――サッカー部は優勝した。

 優勝旗を掲げ、仲間たちと肩を叩き合い、歓声が響くあの瞬間。胸の奥に熱いものが込み上げたのは確かだ。しかし、表情に出すことはしない。喜びも、悔しさも、焦りも、全部、心の奥の深い場所へ沈める。

 次は都大会。
 そして、受験。

 夏は、俺たち三年生にとって節目になる。

「ねえ、朝来野くん。今日、部活? それとも補講?」

 机の横から落ちてきた声に顔を上げると、雪乃が立っていた。

 窓から差す光を受けて、睫毛に小さな影が落ちている。肩で結んだ髪がふわりと揺れ、その度に胸の奥に波紋みたいな感情が広がった。

 けれど、それを見せないのが俺だ。

「ああ。部活。今日は軽めのメニューだけどな」

 淡々と答えると、雪乃は口を尖らせて、俺の顔を覗き込んでくる。

「やっぱり。ぜんっぜん疲れてる顔してないじゃん。朝来野くんって、嬉しい時も楽しい時も顔に出ないタイプでしょ」

「そうか?」

「そうだよ」

 間髪入れずに返ってくる。

 雪乃は隣の席に腰を下ろし、机に肘をついて俺の横顔を眺めていた。教室はもう人が少なく、廊下の先からは運動部の掛け声が遠くに聞こえる。

「でも、地区優勝おめでとう。ちゃんと言ってなかったよね、私」

「……ありがとう」

 短く返すと、雪乃は小さく息を吐いた。

「私も頑張ったよ。テニス」

「知ってる。結果、聞いた」

「やっぱり」

 誇らしげな笑顔。その奥に、ほんの少し影が差しているようにも見えた。

 俺たちは、よく話すわけでもない。
 でも互いの近況を、なんとなく知っている。

 言葉は少ないのに、距離は近い――そんな関係。

「でもさ、都大会ってやっぱ怖いよね。強い人ばっかりなんだろうなぁ」

「強いな。……けど、戦えない相手じゃない」

「そういうところ、好きだよ」

 一瞬、心臓が強く跳ねた。

 だが表情は動かさない。
 雪乃は慌てて両手を振った。

「あ、ちがう! 人としてって意味だからね! ほんとに!」

「分かってる」

「もう……そういう真顔がずるいんだってば」

 拗ねたように言って笑う。

 俺は窓の外へ視線を逸らした。

 クール――そう言われるのは慣れている。
 けれど、それは本当の俺じゃない。

 本心を見せないための仮面だ。

 焦りも、嫉妬も、羨望も、胸の奥にはちゃんとある。

 ……特に、雪乃の前では。

「都大会が終わったら、受験モードかぁ」

 雪乃がぽつりと呟いた。

「うちのクラス、もう塾通い増えてきたし。朝来野くんはどうするの?」

「勉強もする。……でも、サッカーはやめない」

「だよね」

 雪乃は柔らかく微笑んだ。

「朝来野くん、サッカーしてる時が一番かっこいいもん」

 胸の奥が熱くなる。

 ――出すな。
 感情を、顔に出すな。

「……そう見えるだけだ」

「だけじゃないよ」

 雪乃はじっと俺を見つめた。

「私、分かるもん。朝来野くん、誰よりも練習してるでしょ。夜、校門のとこで走ってるの、何回か見たよ」

「見てたのか」

「見てた。でも言わなかっただけ」

 ふわりと笑う。

 俺は短く息を吸った。

「……雪乃も、努力してる」

「え?」

「テニス。……ちゃんと、見てたから」

 雪乃の頬が一瞬で赤くなった。

 ――しまった。
 少し、素直すぎたかもしれない。

 雪乃は視線を泳がせ、指先で机をとんとんと叩いた。

「ねえ、朝来野くん」

「なんだ」

「名前で呼んでもいい?」

 時間が止まったような感覚がした。

 胸の奥で何かが固く鳴る。

「……宏夜、って」

 その名を聞いた瞬間、心臓が一拍、強く跳ねる。

 俺の名前を、雪乃の声が呼んだ。

「嫌だったらやめるけど……」

 不安そうな目。

 拒む理由は、どこにもなかった。
 ただ一つ、顔に表情を出さないことだけを意識する。

「……好きに呼べばいい」

 それだけ告げる。

 雪乃はぱっと表情を明るくした。

「じゃあ――宏夜」

 柔らかく、丁寧に、その名前を口にする。

 胸の奥で熱が広がる。

「うん。なんかいい感じ」

「そうか」

「うん。宏夜、って言いやすい」

 ――危ない。
 このままだと、仮面が剥がれそうだ。

「今日、帰り駅まで一緒に歩いていい?」

「構わない」

「やった」

 無邪気な笑顔に、視線を逸らす。

 二人で教室を出ると、廊下は夕焼け色に染まり、窓の外の空は橙から群青へと移ろい始めていた。
 肩が触れそうで触れない距離を保ちながら、階段を降りる。

「ねえ、宏夜」

「なんだ」

「都大会、勝とうね。……どっちも」

「ああ」

「もし、どっちかが負けちゃっても」

 雪乃が立ち止まる。

「その時は、負けたほうを二人で励まそう。ちゃんと」

 胸が締めつけられる。

 言葉が喉の奥で熱くなる。

「……ああ。約束だ」

「約束ね」

 雪乃が小指を差し出す。

 俺は一瞬だけ迷い、小指を絡めた。

 温かい。

 ただ、それだけなのに。
 心が震えそうになった。

 なのに、表情は変えない。

 ――変えるわけにはいかない。

「じゃあ、また明日。宏夜」

「ああ」

 校門で手を振り、雪乃は反対方向の歩道へと歩き出す。

 その背中が小さくなるまで、俺は動けなかった。

 感情を隠すのは得意だ。
 昔から、ずっと。

 だけど――

(……雪乃の前じゃ、難しい)


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