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第3章 配信者「姫宮みこと」
第44話 覚悟を決めて
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テレビ局の正面玄関は、昼下がりの光を鈍く反射していた。ガラス越しに見えるロビーの人影は疎らで、忙しない現場を想像していた身としては、拍子抜けするほど静かだった。だが、この建物の奥で、いくつもの番組が、無数の思惑と段取りに支えられて動いているのだと思うと、足の裏からじわりと緊張が這い上がってくる。
受付を済ませ、案内された通路を進む。廊下の壁には、過去の番組ポスターや出演者の写真が整然と並んでいた。その中に、何度も見た顔がある。桐立健太郎――名前だけでなく、声も、歌も、誰よりもよく知っている存在だ。
会議室の扉をノックすると、「どうぞ」という落ち着いた声が返ってきた。
中に入ると、思ったよりも狭い部屋だった。長机を挟んで、数人のスタッフと、そして彼が座っていた。黒縁の眼鏡、ラフなジャケット。テレビで見るよりもずっと、穏やかな雰囲気だ。
「初めまして。桐立健太郎です」
立ち上がって差し出された手を、反射的に握る。指先に伝わる体温が、妙に現実味を帯びていて、胸の奥がざわついた。
「姫宮みこと、です。……今日は、よろしくお願いします」
震えた声でそう名乗ると、桐立は少しだけ目を細めて、笑った。
「その声だ。やっぱり」
唐突な言葉に、返事を失う。
「生配信、何度も聴かせてもらいました。ボイスチェンジャーを使っていても、生で歌っている以上、誤魔化しは効かない。むしろ逆だ。あれだけ変換がかかった状態で、音程も感情も崩れないなんて、普通は考えられない」
褒め言葉だと分かっていても、素直に受け取れなかった。自分がしてきたのは、ただ必死に声を出し、積み重ねてきただけだ。それを、こうして正面から評価されると、居心地が悪い。
「実はね」
桐立は、少し照れたように頬を掻いた。
「姪っ子がいるんですが、彼女が姫宮みことの大ファンでして。家に行くたびに、あなたの配信を流されるんですよ」
意外な言葉に、思わず目を瞬いた。
「叔父さん、この人すごいんだよ、って。えらく自慢げでね。最初は正直、よくある配信者だろうと思っていた。でも、聴いた瞬間に分かりました。これは、ちゃんと“歌っている人”の声だって」
桐立は、机の上に一枚の紙を置いた。手書きの文字が、ぎっしりと並んでいる。
「これは君の歌だ」
そう言って、紙をこちらへ滑らせる。
歌詞だった。まだ推敲途中なのだろう、ところどころに線が引かれ、書き足しの跡がある。それでも、最初の一行を読んだだけで、胸の奥を掴まれた気がした。まるで、こちらの事情を知っているかのような言葉が並んでいる。
「……こんな、重たいものを」
「だからこそ、君に歌ってほしい」
真っ直ぐな視線に、逃げ場がなかった。桐立の言葉には、計算や打算よりも先に、純粋な熱がある。それが分かってしまうから、余計に厄介だった。
「スタジオは、もう押さえてある。今すぐにでも、仮歌を録れる」
背中を押される感覚。だが、同時に現実が頭をもたげる。
「……すみません。今日は、ボイスチェンジャーを持ってきていなくて」
一瞬、空気が止まった。だが、桐立はすぐに頷いた。
「なるほど。それは大事だ。じゃあ、後日にしよう。無理はしないでいい」
その言葉に、肩の力が抜けた。こうして話が通じること自体が、ありがたい。
局を出た頃には、空はすっかり夕色に染まっていた。駐車場に向かいながら、胸の奥で、さっき渡された歌詞がまだ熱を持っているのを感じる。
車に乗り込み、エンジンをかけたところで、スマホが震えた。
〈晩御飯いらない。遅くなる〉
雪乃からのメッセージだった。
嫌な予感がしたわけじゃない。ただ、自然と、駅まで迎えに行こうと思った。ハンドルを切り、いつもの道を進む。
駅前に着くと、人混みの中に、見慣れた後ろ姿があった。雪乃だ。その隣に、同じ制服の男子――朝来野くん。二人で笑い合っている様子は、年相応で、仲睦まじい。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
だが、雪乃はすぐにこちらに気づき、朝来野くんに手を振ると、小走りで車に向かってきた。
「パパ、迎えありがと!」
助手席に乗り込み、シートベルトを締める。その表情は、いつもと変わらない。
「今日は、遅かったな」
「うん。ちょっとね」
それ以上は聞かなかった。聞く資格がない気もしたし、聞く必要もない気がした。
車を出そうとしたとき、雪乃がふと思い出したように言う。
「ねえ、カラオケ行きたい」
「……今から?」
「うん。久しぶりに、パパと」
断る理由はなかった。
二人で入ったカラオケボックスは、平日夜ということもあり空いていた。雪乃は先に数曲入れ、楽しそうにリモコンを操作している。
順番が回ってきて、俺もマイクを取った。選んだのは、昔よく歌っていた曲だ。声を出すと、不思議と、今日一日の出来事が少しずつ整理されていく。
歌い終えると、雪乃が拍手をした。
「パパ、本当に上手いよね」
「……そうか?」
「そうだよ」
笑い合いながら、俺は思った。
守るべき日常は、まだここにある。
その中で、歌も、配信も、そしてこれからの選択も――全部、抱えたまま進んでいくしかないのだと。
マイクを置いた指先が、少しだけ震えていた。
◇◆
桐立健太郎という名前を口にした瞬間、雪乃の反応は予想をはるかに超えてきた。
「え?」
リビングでテレビを眺めていた雪乃が、首だけでなく上半身ごとこちらを振り向く。
「今、なんて言った?」
「だから……桐立健太郎。今日、テレビ局で会ってきた」
「…………」
一秒、二秒。間。
「はああああああ!?」
ソファから跳ね上がる勢いで立ち上がり、俺の目の前まで詰め寄ってくる。
「ちょ、ちょっと待って!? 本物!? 本人!? 生きてる桐立健太郎!?」
「死んでたらニュースだろ」
「サインは!? ねえ、サインもらった!? 色紙とか! 紙でもいいから!」
「もらってないけど」
「なんで!? なんでそこで冷静なの!? パパ、人生で一番のチャンス逃してるよ!?」
両手で頭を抱え、わなわなと震える雪乃を見て、思わず笑ってしまった。
「急すぎただろ。そんな余裕なかったんだよ」
「えー……。でも、すご……。え、本当に曲書いてくれるの?」
「その話を、今日してきた」
雪乃は一瞬きょとんとした顔をしたあと、ゆっくりと、でも確実に笑顔になった。
「……やっぱり、パパすごいよ」
その一言が、不思議と胸に沁みた。
数日後。
俺はノートパソコンを抱えて、再び桐立のスタジオを訪れていた。
黒い壁に囲まれた、防音の効いた空間。ブースの向こう側には、いかにも高価そうな機材が並び、中央には一本のマイクが鎮座している。これまで何度も映像で見てきた場所だが、実際に立つと、空気の密度が違う。
「それが、ボイスチェンジャーか」
桐立が、俺のノートパソコンを覗き込みながら言う。
「はい。配信でも、これを使ってます」
「なるほど……。面白い。でも、歌は誤魔化せないよ」
その言葉に、背筋が伸びた。
収録は、思った以上に本格的だった。
まずは発声。
次に音程。
ブレスの位置、語尾の処理、感情の乗せ方。
「そこ、言葉が流れてる」
「今のフレーズ、感情が先に出過ぎだ」
「音は合ってる。でも、伝わらない」
一つ一つ、容赦なく指摘が飛んでくる。
正直、甘く見ていたわけじゃない。それでも、“プロ中のプロ”の耳と感覚は、次元が違った。
何度も歌い直し、喉が熱を持ち始める。
「……休憩しようか」
桐立がそう言ったとき、思わず安堵の息が漏れた。
「でもね」
彼は、こちらをまっすぐ見て続ける。
「君は、ちゃんと伸びる。もう、歌える人の領域に足を踏み入れてる」
厳しい言葉の裏にある、確かな評価。
それだけで、また歌おうと思えた。
ボイスチェンジャー越しの声でも、伝えられるものがある。
いや、だからこそ、誤魔化せない。
マイクの前に立ち、深く息を吸う。
――これは、俺の歌だ。
桐立に渡された歌詞を思い浮かべながら、もう一度、声を出した。
◆◇
スタジオの扉が閉まった瞬間、耳が一気に現実へ引き戻された。
防音室の中で浴び続けていた音圧が消え、代わりに、ひどく静かな空気が流れ込んでくる。まるで深海から急浮上したみたいに、感覚が追いつかない。
「……お疲れ」
桐立健太郎がそう言って、紙コップの水を差し出してきた。
それを受け取った瞬間、指先が少し震えているのに気づく。
「ありがとうございます」
喉に水を流し込みながら、ようやく自分がどれだけ力を入れて歌っていたかを自覚した。声帯がじんわりと熱を持ち、肺の奥がまだ忙しなく上下している。
「今日のところは、ここまででいい」
桐立はそう言って、椅子に腰を下ろした。
「正直に言うよ。君はまだ完成していない。でも――」
一瞬、言葉を切る。
「“ここへ来た”。それは間違いない」
胸の奥で、なにかが小さく音を立てた。
ここへ来た。
その言葉は、評価であり、宣告のようでもあった。
「配信者として、趣味で歌ってる人間の声じゃない。かといって、プロの完成形でもない。その途中……一番、厄介で、一番、面白い位置にいる」
桐立は淡々と語る。
だが、その視線は真剣そのものだった。
「ここまで来る人間は多い。でも、ここから先へ行ける人間は、ほんの一握りだ」
俺は、何も言えずに頷いた。
配信を始めた頃の自分を思い出す。
ただ、生き延びるために始めた。
名前も、姿も、声すら借り物で――逃げ場のように。
それが、いつの間にか、こうして本物のスタジオに立ち、プロから指導を受けている。
「……正直、怖いです」
気づけば、そんな言葉が口をついて出ていた。
「怖い?」
「はい。ここまで来てしまったことが」
桐立は、少しだけ目を細めた。
「失うものが増えた?」
「……守るものが、増えました」
雪乃の顔が、自然と浮かぶ。
配信者・姫宮みこととして見てくれる、無数のリスナーたち。
ほたるのことも、脳裏をかすめた。
桐立は小さく笑った。
「それでいい。怖さを感じなくなったら、歌は死ぬ」
その言葉に、救われた気がした。
スタジオを出ると、夕方の光が街をオレンジ色に染めていた。
ビルの隙間から射し込む光が、やけに現実感を伴って胸に刺さる。
車に乗り込み、エンジンをかける。
ナビも入れず、無意識にハンドルを切っていた。
家に向かう途中、信号待ちでスマホが震えた。
〈今日どうだった?〉
雪乃からのメッセージだった。
〈厳しかった。でも、ちゃんと前に進んでる〉
そう打ってから、少し考え、付け足す。
〈今度、またカラオケ行こう〉
すぐに既読がつき、返事が返ってくる。
〈やった!〉
それだけで胸の奥が少し軽くなった。
家に着き、エンジンを切る。
夜の静けさが、ゆっくりと車内に満ちてくる。
俺は、しばらくシートに身を預けたまま、動けずにいた。
配信者として、父として、人として。
どれも未完成で、どれも不安定だ。
それでも――。
「……ここへ来たんだな」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
玄関の鍵を開けると、家の中から生活音が聞こえてくる。
その音が、今の自分を現実につなぎ止めてくれていた。
逃げて辿り着いた場所かもしれない。
けれど、ここはもうただの寄り道じゃない。
歌う理由も、立ち止まれない理由も、全部抱えたまま。
俺はこの場所に立っている。
それは、始まりの合図だった。
受付を済ませ、案内された通路を進む。廊下の壁には、過去の番組ポスターや出演者の写真が整然と並んでいた。その中に、何度も見た顔がある。桐立健太郎――名前だけでなく、声も、歌も、誰よりもよく知っている存在だ。
会議室の扉をノックすると、「どうぞ」という落ち着いた声が返ってきた。
中に入ると、思ったよりも狭い部屋だった。長机を挟んで、数人のスタッフと、そして彼が座っていた。黒縁の眼鏡、ラフなジャケット。テレビで見るよりもずっと、穏やかな雰囲気だ。
「初めまして。桐立健太郎です」
立ち上がって差し出された手を、反射的に握る。指先に伝わる体温が、妙に現実味を帯びていて、胸の奥がざわついた。
「姫宮みこと、です。……今日は、よろしくお願いします」
震えた声でそう名乗ると、桐立は少しだけ目を細めて、笑った。
「その声だ。やっぱり」
唐突な言葉に、返事を失う。
「生配信、何度も聴かせてもらいました。ボイスチェンジャーを使っていても、生で歌っている以上、誤魔化しは効かない。むしろ逆だ。あれだけ変換がかかった状態で、音程も感情も崩れないなんて、普通は考えられない」
褒め言葉だと分かっていても、素直に受け取れなかった。自分がしてきたのは、ただ必死に声を出し、積み重ねてきただけだ。それを、こうして正面から評価されると、居心地が悪い。
「実はね」
桐立は、少し照れたように頬を掻いた。
「姪っ子がいるんですが、彼女が姫宮みことの大ファンでして。家に行くたびに、あなたの配信を流されるんですよ」
意外な言葉に、思わず目を瞬いた。
「叔父さん、この人すごいんだよ、って。えらく自慢げでね。最初は正直、よくある配信者だろうと思っていた。でも、聴いた瞬間に分かりました。これは、ちゃんと“歌っている人”の声だって」
桐立は、机の上に一枚の紙を置いた。手書きの文字が、ぎっしりと並んでいる。
「これは君の歌だ」
そう言って、紙をこちらへ滑らせる。
歌詞だった。まだ推敲途中なのだろう、ところどころに線が引かれ、書き足しの跡がある。それでも、最初の一行を読んだだけで、胸の奥を掴まれた気がした。まるで、こちらの事情を知っているかのような言葉が並んでいる。
「……こんな、重たいものを」
「だからこそ、君に歌ってほしい」
真っ直ぐな視線に、逃げ場がなかった。桐立の言葉には、計算や打算よりも先に、純粋な熱がある。それが分かってしまうから、余計に厄介だった。
「スタジオは、もう押さえてある。今すぐにでも、仮歌を録れる」
背中を押される感覚。だが、同時に現実が頭をもたげる。
「……すみません。今日は、ボイスチェンジャーを持ってきていなくて」
一瞬、空気が止まった。だが、桐立はすぐに頷いた。
「なるほど。それは大事だ。じゃあ、後日にしよう。無理はしないでいい」
その言葉に、肩の力が抜けた。こうして話が通じること自体が、ありがたい。
局を出た頃には、空はすっかり夕色に染まっていた。駐車場に向かいながら、胸の奥で、さっき渡された歌詞がまだ熱を持っているのを感じる。
車に乗り込み、エンジンをかけたところで、スマホが震えた。
〈晩御飯いらない。遅くなる〉
雪乃からのメッセージだった。
嫌な予感がしたわけじゃない。ただ、自然と、駅まで迎えに行こうと思った。ハンドルを切り、いつもの道を進む。
駅前に着くと、人混みの中に、見慣れた後ろ姿があった。雪乃だ。その隣に、同じ制服の男子――朝来野くん。二人で笑い合っている様子は、年相応で、仲睦まじい。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
だが、雪乃はすぐにこちらに気づき、朝来野くんに手を振ると、小走りで車に向かってきた。
「パパ、迎えありがと!」
助手席に乗り込み、シートベルトを締める。その表情は、いつもと変わらない。
「今日は、遅かったな」
「うん。ちょっとね」
それ以上は聞かなかった。聞く資格がない気もしたし、聞く必要もない気がした。
車を出そうとしたとき、雪乃がふと思い出したように言う。
「ねえ、カラオケ行きたい」
「……今から?」
「うん。久しぶりに、パパと」
断る理由はなかった。
二人で入ったカラオケボックスは、平日夜ということもあり空いていた。雪乃は先に数曲入れ、楽しそうにリモコンを操作している。
順番が回ってきて、俺もマイクを取った。選んだのは、昔よく歌っていた曲だ。声を出すと、不思議と、今日一日の出来事が少しずつ整理されていく。
歌い終えると、雪乃が拍手をした。
「パパ、本当に上手いよね」
「……そうか?」
「そうだよ」
笑い合いながら、俺は思った。
守るべき日常は、まだここにある。
その中で、歌も、配信も、そしてこれからの選択も――全部、抱えたまま進んでいくしかないのだと。
マイクを置いた指先が、少しだけ震えていた。
◇◆
桐立健太郎という名前を口にした瞬間、雪乃の反応は予想をはるかに超えてきた。
「え?」
リビングでテレビを眺めていた雪乃が、首だけでなく上半身ごとこちらを振り向く。
「今、なんて言った?」
「だから……桐立健太郎。今日、テレビ局で会ってきた」
「…………」
一秒、二秒。間。
「はああああああ!?」
ソファから跳ね上がる勢いで立ち上がり、俺の目の前まで詰め寄ってくる。
「ちょ、ちょっと待って!? 本物!? 本人!? 生きてる桐立健太郎!?」
「死んでたらニュースだろ」
「サインは!? ねえ、サインもらった!? 色紙とか! 紙でもいいから!」
「もらってないけど」
「なんで!? なんでそこで冷静なの!? パパ、人生で一番のチャンス逃してるよ!?」
両手で頭を抱え、わなわなと震える雪乃を見て、思わず笑ってしまった。
「急すぎただろ。そんな余裕なかったんだよ」
「えー……。でも、すご……。え、本当に曲書いてくれるの?」
「その話を、今日してきた」
雪乃は一瞬きょとんとした顔をしたあと、ゆっくりと、でも確実に笑顔になった。
「……やっぱり、パパすごいよ」
その一言が、不思議と胸に沁みた。
数日後。
俺はノートパソコンを抱えて、再び桐立のスタジオを訪れていた。
黒い壁に囲まれた、防音の効いた空間。ブースの向こう側には、いかにも高価そうな機材が並び、中央には一本のマイクが鎮座している。これまで何度も映像で見てきた場所だが、実際に立つと、空気の密度が違う。
「それが、ボイスチェンジャーか」
桐立が、俺のノートパソコンを覗き込みながら言う。
「はい。配信でも、これを使ってます」
「なるほど……。面白い。でも、歌は誤魔化せないよ」
その言葉に、背筋が伸びた。
収録は、思った以上に本格的だった。
まずは発声。
次に音程。
ブレスの位置、語尾の処理、感情の乗せ方。
「そこ、言葉が流れてる」
「今のフレーズ、感情が先に出過ぎだ」
「音は合ってる。でも、伝わらない」
一つ一つ、容赦なく指摘が飛んでくる。
正直、甘く見ていたわけじゃない。それでも、“プロ中のプロ”の耳と感覚は、次元が違った。
何度も歌い直し、喉が熱を持ち始める。
「……休憩しようか」
桐立がそう言ったとき、思わず安堵の息が漏れた。
「でもね」
彼は、こちらをまっすぐ見て続ける。
「君は、ちゃんと伸びる。もう、歌える人の領域に足を踏み入れてる」
厳しい言葉の裏にある、確かな評価。
それだけで、また歌おうと思えた。
ボイスチェンジャー越しの声でも、伝えられるものがある。
いや、だからこそ、誤魔化せない。
マイクの前に立ち、深く息を吸う。
――これは、俺の歌だ。
桐立に渡された歌詞を思い浮かべながら、もう一度、声を出した。
◆◇
スタジオの扉が閉まった瞬間、耳が一気に現実へ引き戻された。
防音室の中で浴び続けていた音圧が消え、代わりに、ひどく静かな空気が流れ込んでくる。まるで深海から急浮上したみたいに、感覚が追いつかない。
「……お疲れ」
桐立健太郎がそう言って、紙コップの水を差し出してきた。
それを受け取った瞬間、指先が少し震えているのに気づく。
「ありがとうございます」
喉に水を流し込みながら、ようやく自分がどれだけ力を入れて歌っていたかを自覚した。声帯がじんわりと熱を持ち、肺の奥がまだ忙しなく上下している。
「今日のところは、ここまででいい」
桐立はそう言って、椅子に腰を下ろした。
「正直に言うよ。君はまだ完成していない。でも――」
一瞬、言葉を切る。
「“ここへ来た”。それは間違いない」
胸の奥で、なにかが小さく音を立てた。
ここへ来た。
その言葉は、評価であり、宣告のようでもあった。
「配信者として、趣味で歌ってる人間の声じゃない。かといって、プロの完成形でもない。その途中……一番、厄介で、一番、面白い位置にいる」
桐立は淡々と語る。
だが、その視線は真剣そのものだった。
「ここまで来る人間は多い。でも、ここから先へ行ける人間は、ほんの一握りだ」
俺は、何も言えずに頷いた。
配信を始めた頃の自分を思い出す。
ただ、生き延びるために始めた。
名前も、姿も、声すら借り物で――逃げ場のように。
それが、いつの間にか、こうして本物のスタジオに立ち、プロから指導を受けている。
「……正直、怖いです」
気づけば、そんな言葉が口をついて出ていた。
「怖い?」
「はい。ここまで来てしまったことが」
桐立は、少しだけ目を細めた。
「失うものが増えた?」
「……守るものが、増えました」
雪乃の顔が、自然と浮かぶ。
配信者・姫宮みこととして見てくれる、無数のリスナーたち。
ほたるのことも、脳裏をかすめた。
桐立は小さく笑った。
「それでいい。怖さを感じなくなったら、歌は死ぬ」
その言葉に、救われた気がした。
スタジオを出ると、夕方の光が街をオレンジ色に染めていた。
ビルの隙間から射し込む光が、やけに現実感を伴って胸に刺さる。
車に乗り込み、エンジンをかける。
ナビも入れず、無意識にハンドルを切っていた。
家に向かう途中、信号待ちでスマホが震えた。
〈今日どうだった?〉
雪乃からのメッセージだった。
〈厳しかった。でも、ちゃんと前に進んでる〉
そう打ってから、少し考え、付け足す。
〈今度、またカラオケ行こう〉
すぐに既読がつき、返事が返ってくる。
〈やった!〉
それだけで胸の奥が少し軽くなった。
家に着き、エンジンを切る。
夜の静けさが、ゆっくりと車内に満ちてくる。
俺は、しばらくシートに身を預けたまま、動けずにいた。
配信者として、父として、人として。
どれも未完成で、どれも不安定だ。
それでも――。
「……ここへ来たんだな」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
玄関の鍵を開けると、家の中から生活音が聞こえてくる。
その音が、今の自分を現実につなぎ止めてくれていた。
逃げて辿り着いた場所かもしれない。
けれど、ここはもうただの寄り道じゃない。
歌う理由も、立ち止まれない理由も、全部抱えたまま。
俺はこの場所に立っている。
それは、始まりの合図だった。
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