風呼びのフルテ

小林一咲

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第二話

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 それから数日が過ぎた。朝ごとに窓を開けると、まだ冷たさの残る風が部屋の中へ入りこみ、遠くの鐘の音を運んできた。父は地図を広げては、「今日はここへ行こう」などと一方的に言い渡し、私は私で、それに逆らう気力もないまま、ただ黙って靴紐を結んだ。母は終始穏やかな様子を装っていたが、旅の疲れが日に日に顔に滲んでいくのを、私はどこか他人事のように眺めていた。

 街を歩けば、石畳が足裏へ静かな重みを返してきた。人々の話す言葉は私には理解できず、その響きは水面を打つ波のように耳に届いては消えていった。どこを見ても見慣れぬ建物ばかりで、それらが私の小ささを映し出す鏡のように思われた。父は時折、振り返っては私を見たが、何かを言いかけてやめるように、すぐまた前を向いた。

 ある日の午後、私たちは大きな公園へ足を運んだ。騎馬像の立つ広場の先には、砂色の小道が長く伸び、左右には楡の並木が静かに影を落としていた。父と母は、ベンチを見つけると肩を並べて腰を下ろし、私は「すこし歩いてくる」とだけ告げて、その場を離れた。二人は軽く頷いたが、その視線はもう互いの方へ戻っていた。

 私は小道をゆっくりと進んだ。歩くたびに、乾いた砂が靴の周りでささやくような音を立て、その音が胸の奥へ吸い込まれていく気がした。やがて道は枝分かれし、噴水の見える広場と、小さな森へ続く陰った歩道とに分かれていた。私は何となく、涼しさを誘う方へ足を向けた。

 木々の葉が風に揺れ、光と影とが地面の上でゆるやかに混じり合っていた。私はその中を歩きながら、ふと振り返った。すでにベンチは見えず、両親の姿も影も失われていた。胸の奥で、小さな棘のようなざわめきが起こった。私は急いで戻ろうとしたが、さきほど通ったはずの分かれ道が、どれであったか判然としなくなっていた。

 見知らぬ道を、私は半ば焦りながら歩いた。周囲には人影もまばらで、聞こえるのは風の擦れる音と、遠くの子どもの笑い声だけであった。それらはどこか遠い出来事のようで、私の居場所だけが、世界からそっと切り離されているように思えた。

 そのときである。森の奥の方から、細い音色が流れてきた。低く震えるようでいて、どこか澄んだ、その音は、風に溶けこむようにして私の耳に届いた。私は思わず足を止めた。胸のざわめきが、その音に触れた瞬間、ゆっくりと形を変えていくのを感じた。

 音は途切れずに続いていた。私は音の方へ導かれるように歩き出し、茂みを抜けると、小さな池のほとりに出た。水面には雲が淡く映り、一本の白い光の筋が揺れていた。そのすぐそばに、一人の少女が立っていた。年の頃は、私よりいくぶん幼く見えた。銀色がかった髪が肩でやわらかく揺れ、手には古びた木製の笛が握られていた。

 少女は私に気づいた様子で、ふと視線を上げた。しかし彼女は何も言わなかった。代わりに、笛を唇に戻し、再び息を吹き込んだ。音は細く、けれどまっすぐで、池の水をそっと撫でる風の指先のように広がっていった。私は声をかけることもできず、ただその場に立ち尽くした。

 旋律は長くはなかった。けれど、音が消えたあとの静けさは、かえってはっきりと私の胸に残った。少女は笛を下ろし、少しだけ微笑んだ。その微笑みは、言葉よりも多くを伝えるようで、私は思わず軽く頭を下げた。彼女は小さくうなずき、両手で笛を胸の前に抱えた。

 私は、道に迷ってしまったのだ、と言いたかった。だが、口を開いても、すぐには言葉が出てこなかった。少女はそんな私の様子を眺めると、そっと手を上げ、指先でこちらへ来るように合図をした。そして池の縁を回り、森の奥ではなく、明るい方へ向かって歩き始めた。

 私はその後を、少し距離を保ちながらついていった。歩くたびに、彼女の髪が光を受けてやわらかく揺れた。風が吹くと、笛の紐が小さく揺れ、そのかすかな音が、消え残った旋律を思い出させた。やがて木々の影が薄れ、広い道が再び視界に現れた。

 遠くに噴水の白い飛沫が見え、その向こうに、見覚えのあるベンチがぼんやりと浮かんだ。胸の奥の緊張が、ゆっくりとほどけていくのを感じた。私は立ち止まり、少女に向かって深く頭を下げた。彼女は一歩だけ近づくと、静かに微笑み、両手で笛を抱いたまま、軽く会釈を返した。

 そのとき、不意に風が吹き抜け、木の葉がささやき、少女の銀色の髪が一瞬だけ強く揺れた。目を細めた私がもう一度顔を上げたときには、彼女の姿は、すでに人の流れの中に紛れていた。私はしばらくその場に立ち尽くし、風の残り香のような静けさを胸に抱いていた。

 やがて、母の声が遠くから私を呼んだ。振り返ると、心配そうな顔の母と、少しばかり不機嫌そうな父が立っていた。私は何と答えたのか、自分でもはっきり覚えていない。ただ、「迷った」とだけ口にし、あとは黙って二人のもとへ歩み寄った。

 父は短く溜息をつき、母は私の肩にそっと手を置いた。私は再び歩き出しながら、先ほどの池の方へ最後に一度だけ目をやった。しかし、そこにはもう、ただ光と影の揺れるばかりであった。胸の奥には、あの細い旋律だけが、風のように静かに鳴り続けていた。
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