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お正月
三日(ⅳ)
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……え?
ぞくっとした。思考ではないところで、全身が拒否する。しかし声帯は動かず、振り払うのも間に合わず、全身が硬直することで自身を守ろうとしている。
ヘラヘラした笑いと無遠慮な手がスローモーションのように迫ってきた。
馬鹿だ。距離をとっておけばよかったものを。その一瞬、自分を罵倒する。半ば反射的に足が後ろに下がった時、直前で伸ばされた手が止まった。
「何してんの?」
低い声がした。
視線を上げると背の高い董也が見下ろしていた。右手がおっさんの伸びた腕の手首を掴んでいる。
「え、イヤイヤ、冗談……」
男は言いながら手を自由にしようと揺すった、が、外れない。董也の手の甲に筋が立つくらい力を入れて掴まれている。
「離せ」
男は怒り声で言ってもっと激しく振りほどこうとする、が無駄だった。董也は無言で見下ろしたままだ。
「じ、冗談だって。からかっただけだろ? 触れてもないぞ、なあ?」
男は今度はヘラヘラ笑いながら私を見た。私が同意するとでも思っているのだろうか? 自然に顔が歪む。そう思うと同時に董也が言った。
「彼女があんたの楽しみに付き合うのが当たり前だと思ってる?」
低い威圧感のある声だった。驚いた。怒りを内包した声。こんな声初めて聞いた。表情は無表情に近く、だから逆に怖かった。びっくり。怒った所さえ、ほとんど見た事がないのに。
「え、いや、悪かったって」
オドオドしだした男を見て、私は口をだした。
「もういいよ、ありがとう。あなたも、もう子ども達に絡んだりしないで下さいね」
男は口の中で何かモゴモゴ言ったが、手を離されると小走りで立ち去った。
その背中を睨みつけて立っていた董也は、見えなくなると私を振り返った。
「咲歩ちゃん大丈夫だった?平気?何もされなかった?」
いつもの董也だ。いつもの優しい声、いつもの穏やかな彼。ちょっと慌ててるけど。私は自然に笑い出してしまった。
「え?」
「ごめん、ごめん」
だって、ほっとしたんだもん。
「大丈夫、何もないよ、董也だって見てたのに。……ありがとうね」
私はなんとか笑いをおさめてお礼の言葉を伝える。
「なら、よかった。びっくりしたよ。何とか宥めたと思ったら咲歩ちゃんに近づいていくんだもん、あいつ」
そう言って綺麗な顔をしかめる。
「うん、私も驚いたけど、まあ、ちょっと私もぼうっと立ってたから」
「何にも咲歩ちゃんのせいじゃないし。むしろ俺が甘い対応したのが不味かったんだよ」
落ち込んだように見えた董也に私は言った。
「子ども達も居たし大事にしないようにしてたのわかったよ。むしろ、よく我慢してるなあって。ていうか、最後怒ってくれた方がびっくりした」
「そう?」
「うん、ちょっと怖いくらい。あ、悪い意味じゃあ……」
「怖かったなら、よかった」
董也が笑顔で言った。
「え?」
「怖く見えたならよかったって。あ、もちろん、凄く腹たってたんだけど」
最後、慌てて付け足す彼を見上げる。
え、どうゆー事?えと、……。
「もしかして、演技?」
董也は小さく舌をだした。
「だってさ僕、喧嘩弱いもん。何とか穏便にひいてもらわないと、さ」
その割には手首がビクともしなかったよ? え? あれ、演技? びっくりなんですけど。
「……ごめんね、カッコ悪くて」
私は慌てて被りを振った。
「ううん、こちらこそ、怖い思いさせて、ごめんね」
今度は董也が笑い出した。
「いや、そこまでじゃないけど。カッコ良くはないけど」
「え、いや、そんな事ないし!」
そう言う私に董也は笑いながら「戻ろう」と言って歩き出す。私は彼の横に並んで歩く。
「考えてみれば、私が守んなきゃいけなかった」
落ち着いてみると、そうよ。
「え?」
董也が私を見る。
「だって董也が怪我でもしたら大変じゃない、仕事がいろいろ」
「えー、まあ、確かに動けなくなるようなのは迷惑かけちゃうけどさあ、流石に咲歩ちゃんに喧嘩してもらうほど格好悪いのはやだなあ」
「だって顔に万が一怪我でもしたら困るし!」
早く気付こうよ、私。何にもなかったから、よかったようなものの。
「それなら逆に分からないようにメイクしちゃえばいいから」
「そういうもの?」
「そういうもの」
董也を横から見上げる。いつもの笑顔だ。
「どした?」
彼が私に視線を合わす。
「……メイクした顔見た事ないなって」
「そりゃ、まあ、普段からするキャラじゃないし」
「見たい」
「……何か咲歩ちゃん、違う想像してない?顔色調整したりとかそういうのだよ?」
「見たい。ピンクとか絶対似合う。私の貸したいけど、私ピンク系持ってないんだよね」
「絶対、考えてる方向間違ってるし」
「そうかな?」
「そう」
董也は力を込めて言うと形の良い眉をしかめた。
「楽しそうなのにな」
と、私が呟くと、彼はちょっと膨れっ面をして先を歩き出す。その後姿を見ながら、本当は化粧した顔は何度か見た事あるけどね、と思う。舞台の時もだし、小さい時にふざけ合って二人でした記憶がある。私より可愛かった。
でも、怒った顔は……。今回は彼の言うように演技だったとしても、過去にも一度しか思い当たらない。
あの時だけ。私が董也に別れるって言った時。
「何だよ、それ。話を聞いても全然わかんないよ。なのにもう話す事ないとか、何なんだよ、勝手すぎるだろ」
そう、震えの混じった声で私を睨みつけた、あの時。
ぞくっとした。思考ではないところで、全身が拒否する。しかし声帯は動かず、振り払うのも間に合わず、全身が硬直することで自身を守ろうとしている。
ヘラヘラした笑いと無遠慮な手がスローモーションのように迫ってきた。
馬鹿だ。距離をとっておけばよかったものを。その一瞬、自分を罵倒する。半ば反射的に足が後ろに下がった時、直前で伸ばされた手が止まった。
「何してんの?」
低い声がした。
視線を上げると背の高い董也が見下ろしていた。右手がおっさんの伸びた腕の手首を掴んでいる。
「え、イヤイヤ、冗談……」
男は言いながら手を自由にしようと揺すった、が、外れない。董也の手の甲に筋が立つくらい力を入れて掴まれている。
「離せ」
男は怒り声で言ってもっと激しく振りほどこうとする、が無駄だった。董也は無言で見下ろしたままだ。
「じ、冗談だって。からかっただけだろ? 触れてもないぞ、なあ?」
男は今度はヘラヘラ笑いながら私を見た。私が同意するとでも思っているのだろうか? 自然に顔が歪む。そう思うと同時に董也が言った。
「彼女があんたの楽しみに付き合うのが当たり前だと思ってる?」
低い威圧感のある声だった。驚いた。怒りを内包した声。こんな声初めて聞いた。表情は無表情に近く、だから逆に怖かった。びっくり。怒った所さえ、ほとんど見た事がないのに。
「え、いや、悪かったって」
オドオドしだした男を見て、私は口をだした。
「もういいよ、ありがとう。あなたも、もう子ども達に絡んだりしないで下さいね」
男は口の中で何かモゴモゴ言ったが、手を離されると小走りで立ち去った。
その背中を睨みつけて立っていた董也は、見えなくなると私を振り返った。
「咲歩ちゃん大丈夫だった?平気?何もされなかった?」
いつもの董也だ。いつもの優しい声、いつもの穏やかな彼。ちょっと慌ててるけど。私は自然に笑い出してしまった。
「え?」
「ごめん、ごめん」
だって、ほっとしたんだもん。
「大丈夫、何もないよ、董也だって見てたのに。……ありがとうね」
私はなんとか笑いをおさめてお礼の言葉を伝える。
「なら、よかった。びっくりしたよ。何とか宥めたと思ったら咲歩ちゃんに近づいていくんだもん、あいつ」
そう言って綺麗な顔をしかめる。
「うん、私も驚いたけど、まあ、ちょっと私もぼうっと立ってたから」
「何にも咲歩ちゃんのせいじゃないし。むしろ俺が甘い対応したのが不味かったんだよ」
落ち込んだように見えた董也に私は言った。
「子ども達も居たし大事にしないようにしてたのわかったよ。むしろ、よく我慢してるなあって。ていうか、最後怒ってくれた方がびっくりした」
「そう?」
「うん、ちょっと怖いくらい。あ、悪い意味じゃあ……」
「怖かったなら、よかった」
董也が笑顔で言った。
「え?」
「怖く見えたならよかったって。あ、もちろん、凄く腹たってたんだけど」
最後、慌てて付け足す彼を見上げる。
え、どうゆー事?えと、……。
「もしかして、演技?」
董也は小さく舌をだした。
「だってさ僕、喧嘩弱いもん。何とか穏便にひいてもらわないと、さ」
その割には手首がビクともしなかったよ? え? あれ、演技? びっくりなんですけど。
「……ごめんね、カッコ悪くて」
私は慌てて被りを振った。
「ううん、こちらこそ、怖い思いさせて、ごめんね」
今度は董也が笑い出した。
「いや、そこまでじゃないけど。カッコ良くはないけど」
「え、いや、そんな事ないし!」
そう言う私に董也は笑いながら「戻ろう」と言って歩き出す。私は彼の横に並んで歩く。
「考えてみれば、私が守んなきゃいけなかった」
落ち着いてみると、そうよ。
「え?」
董也が私を見る。
「だって董也が怪我でもしたら大変じゃない、仕事がいろいろ」
「えー、まあ、確かに動けなくなるようなのは迷惑かけちゃうけどさあ、流石に咲歩ちゃんに喧嘩してもらうほど格好悪いのはやだなあ」
「だって顔に万が一怪我でもしたら困るし!」
早く気付こうよ、私。何にもなかったから、よかったようなものの。
「それなら逆に分からないようにメイクしちゃえばいいから」
「そういうもの?」
「そういうもの」
董也を横から見上げる。いつもの笑顔だ。
「どした?」
彼が私に視線を合わす。
「……メイクした顔見た事ないなって」
「そりゃ、まあ、普段からするキャラじゃないし」
「見たい」
「……何か咲歩ちゃん、違う想像してない?顔色調整したりとかそういうのだよ?」
「見たい。ピンクとか絶対似合う。私の貸したいけど、私ピンク系持ってないんだよね」
「絶対、考えてる方向間違ってるし」
「そうかな?」
「そう」
董也は力を込めて言うと形の良い眉をしかめた。
「楽しそうなのにな」
と、私が呟くと、彼はちょっと膨れっ面をして先を歩き出す。その後姿を見ながら、本当は化粧した顔は何度か見た事あるけどね、と思う。舞台の時もだし、小さい時にふざけ合って二人でした記憶がある。私より可愛かった。
でも、怒った顔は……。今回は彼の言うように演技だったとしても、過去にも一度しか思い当たらない。
あの時だけ。私が董也に別れるって言った時。
「何だよ、それ。話を聞いても全然わかんないよ。なのにもう話す事ないとか、何なんだよ、勝手すぎるだろ」
そう、震えの混じった声で私を睨みつけた、あの時。
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