わたしの愛した知らないあなた  〜You don’t know me,but I know you〜

藤野ひま

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迷子2.

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「あの……」

 一花は戸惑いを含んだ榛瑠の声に、はっとして腕を解いて彼から離れた。

「ご、ごめんなさい。つい、あのっ」

 顔が赤くなるのを感じる。なんだか、すごく恥ずかしい。

「こちらこそ、不用意に触れてしまって失礼しました」

 そう言って、榛瑠は柔らかい笑みを見せた。

 窓からの光が彼の金色の髪を、いや、微笑む彼自身を包んでぼんやりと光らせているようだった。

 この人はこんなに柔らかく笑う人だっただろうか。
 でも変わらずきれいだ。

 そんなことを思う一花に、変わらない声で榛瑠は言った。

「それから、すみません」
「え?」
「謝っても仕方ないかもしれませんが、今回の事、申し訳なく思っています」
「えっと、大丈夫だから、うん。気にしないで」

 二人とも黙った。会話が途切れる。それでも、やがて沈黙を破ったのは一花の方だった。

「全然だめ?ほんとうに何もかも、全部?」
「ええ、全部です」

 榛瑠は真顔で一花の顔を見ながら言った。

「本当に、誰も彼も、自分もです。……すみません、あなたのことも全部、忘れてしまって」

 一花は急に窓からの光が眩しく感じられて目を細めた。
 そういえば、榛瑠はいつもの甘い香りではなくて、消毒液の匂いがする。

 

 榛瑠は退院した次の週には職場に復帰していた。復帰前には早川が直接いろいろフォローのため指導したらしい。また、職場のほうではごく一部の人を除き、事故の影響で記憶が混乱している部分がある、とだけ伝えてあった。
 でも、いざ戻ってみると、驚くほど仕事上の支障は少なかった。
 元々、生活に関係するような記憶の欠損はなく、主に人間関係に関することのようだった。知識に関係する欠損も感じられないらしい。まあ、もとの知識がどこまでかなんて、本人にしかわからないわけで。

 ……というようなことを、一花は鬼塚から聞いた。

「人の顔と名前とか仕事に直接関係する部分は、出社する前に丸覚えしたらしいからな。記憶は無くしても記憶力は損なってないらしい。何かあっても、すぐ修正できるから問題が起きにくいんだろうな」

 鬼塚は賑やかな昼時のトンカツ屋で、肉を頬張りながら一花に言った。

「そもそも秘書課に移動してそれほど経ってない、っていうのも良かったな。外部の人間とまだそれほど仕事してなかったわけだし」
「そっかあ」

 そう言いながら一花もトンカツを口にする。なんとなく胃に重いなあ、美味しいんだけどなあ。

「ま、もともと人間関係薄いみたいだし、本人がどう感じてるかは知らんが、意外に平気そうだぞ」
「うん。入院中も彼の同級生達が来たんだけど、なんかほとんど誰もあんまり気にしてないみたいなんですよね。むしろ笑い話になっちゃってる」
「似た者同士なんだろ。それより、なんで俺がお前に説明するんだよ。直接聞けばいいだろうに」
「悪いと思ってますって。だから、お昼奢ってるんじゃないですか」

 そう言いながら一花は箸を置いた。やっぱり、今日は食べきれないや。

「そうじゃなくてさ、なんで遠慮してんのかってことだよ」

 鬼塚も箸を置く。こちらは大盛りの皿がきれいに空になっている。

「お前、ヤツが覚えてなくても、一応彼女だろ?」
「まあ、そうなんですけど。一応……」

 遠慮ともちょっと違う、と一花は思う。でも、それをうまく説明はできなかった。

 店の外に出ると一花は空を見上げた。よく晴れた秋晴れの空だった。

「ご馳走さん。俺はこのまま外に出るから」
「はい、お疲れ様です。あの、いろいろありがとうございます」
「全くだ。さっさと元に戻ってくれないと、こっちも影響半端ないんだからな」
「……月ちゃんには気にしないでって言ってるんですよ」
「そんなことはわかってる。お前のせいじゃない。あいつの生真面目さときたら……」

 そこまで言って鬼塚は言葉を切った。視線の先に見知った後ろ姿があった。美園が楽しそうに榛瑠の腕に自分の腕を絡ませて歩いている。

「……早川経由で聞いた話だけど、それでも事故当初は結構ひどい精神状態だったらしい。美園が来て落ち着いたって。まあ、それで直ぐにどうのこうのなるほど人間単純じゃないけどな」
「……うん」

 鬼塚は一花の頭にポンっと手をやる。

「ま、あんまり怖がるなよ、ってこと。じゃあな」

 そう言って鬼塚は立ち去った。その後ろ姿を見ながら一花は思う。

 怯えてるのかな、私? でも何に?
 
 そんなことを考えながら会社の入っているビルのエレベーターホールまで来て、しまった、と一花は思った。

 目の前に榛瑠がエレベーター待ちしてるし!

 近くに美園はいなかった。それでも落ち着かなくて立ち去ろうとした時、榛瑠と目があった。会釈される。

 ああ、だめだ。見つかっちゃった。もう逃げられない。

 しょうがないのでおずおずと近寄って挨拶する。

「お疲れ様です」
「お疲れ様です。お久しぶりです。同じ会社でも意外にお会いしないものですね」
「そうですね。働く階も違いますし」

 言ってるうちにエレベーターが来る。他の人も乗り込んで会話が途切れることに、一花はほっとする。
 
 それでも最後は二人だけになってしまった。とにかく、何か言わないと。無言はつらい。

「仕事、……えっと、調子どうですか」
「悪くないです。なんとかやっていますよ」
「それなら良かったです」

 言って、結局、黙ってしまう。ああ、早く着いて。

 エレベーターは実際はすぐに一花の降りる階に着いた。
 一花は降りようとする直前、もう一度榛瑠に話しかけられた。

「いつでもいいのですが、よろしければ一度、お屋敷にお邪魔できませんか?」
「え⁈」

 一花は驚いて振り返る。扉が開く。外に待っている人はいなかった。
 榛瑠が腕を伸ばして、エレベーターを開けておくためにボタンを押した。

「以前住んでいたという場所を見てみたくて。迷惑でなければですが」
「あ、もちろんです。いつでも」

 では、また連絡しますね。榛瑠がそう言って、扉が閉まる。

 一花は自分のデスクまで戻ってくると、大きくため息をついて突っ伏した。

「どうしたんですか、一花さん。いつになくため息大きいですよ」

 隣の席の篠山が明るい声で話しかけてくる。

「うん、なんか疲れて」
「頑張りましょ。まだ週の半ばですよ」
「そうだよねえ」

 と、しっかり者の後輩に返事すると、一花は姿勢を起こした。

 ……だからね、鬼塚さん、遠慮も何もそれ以前に! 何をどう話していいかわからないんですよう。

 そんなことを心の中で呟きながら、いつもの書類に目を通す。

 いったい、どんな顔でどんな言葉で榛瑠と話していたのかわからない。
 何をどう、喋ってた? まるで私の方が記憶喪失だ。

 目の前のルーティンの仕事をしながら一花は思う。

 日常って素敵だ。いつもと同じってすごいことだ。
 今の榛瑠は、知らない顔をしている。彼は今の私には非日常の中の人だ。

 …………でも、違うのかも。

 私の方がもしかしたら、非日常に紛れこんでしまったのかもしれない。

 そう思うと、一花はくらくらしてきた。確かな筈のものが揺れている。


 
 その週末、榛瑠は舘野内家にやって来た。嶋が家の中を案内する。しかし最後に相手をしたのは一花だった。

 しょうがないよねえ。私の客なわけだし、と思う。
 そう、当たり前かもしれないけど、榛瑠は”客“の顔をしていた。

「何か気になったところとかあった?」

 応接室で紅茶を飲みながら、一花の問いに榛瑠は穏やかに答えた。

「いえ、残念ながら。でも素敵なお屋敷ですね。手入れが行き届いていて居心地が良さそうな」
 
 一花は複雑な気持ちになった。
 
 まさか榛瑠から居心地がいいなんて言われるなんて。彼は口にはしなかったけど、決してここでの生活が好きだったわけではないと思うのだけど。

「そう……。特に気にいったところある?」
「庭かな。好きですね」
 
 好き、という単語にどきっとする。違う、違う、これは家の話。……それにしても、庭なんだ。

「昔から、庭が好きだったよ、あなた。……そうなんだね。変わらないんだ。そういうの」
 
 一花は嬉しさがじわじわと込み上げた。顔がほころんでしまう。それに反して榛瑠は少し困ったような表情をしていた。

「ここに住んでいたんですよね」
「そうよ。8歳から10年間」
「直接の親族でもないのに、何でなのでしょう」
「わたしも小さかったし、よくわからないの。お父様か嶋さんに聞けば分かると思うけど」
「僕自身は、事情を理解していたのでしょうか」
「たぶん……」
「両親や親族のことがわからなくて。記憶としてもですが、手元の記録も無くて。なにかご存知ですか」
 
 その問いにも一花は答えることができない。

「ごめんなさい。私は知らないの。あなたもほとんどその件は話さなくて。お父様なら何かご存知かと思うけど」
「社長とは日本に戻ってから一度お会いして話したんですが、それ以来機会がなくて……。どうも会っても仕方ない、と思われているみたいですね」
「ああ、そうなんだ。ごめんなさい」

 お父様ってば何考えてるのかしら。昔から榛瑠には冷たいところがあるのよね。

「いえ、あなたに謝ってもらうことはないです。実際、会っても仕方ないですし」

 そう言って榛瑠は紅茶を飲む。長い指が美しくカップの形に沿っている。
 こうして見ていると何も変わってないようなのに。

「そういえば、家からお菓子のレシピがいろいろ出てきまして」
「あ、そうなんだ。あなたの趣味と言っていいのかな」

 正確には作って私に食べさせるのが趣味だったんだけど。ちょっと恥ずかしくて言えない。

「そうなんでしょうね。でも、あまり甘いものが好きだとも思わないけど」

 一花は笑ってごまかした。

「笑い事でもないですよ?」

 そう言いながら、榛瑠も笑った。

「レシピもあるし、作ることもできるのに、食べたいと思わないっていうね。目の前にあるものが何なのかはわかるのに、なぜかはわからない、というかね。愚痴りたいわけではないのですが、結構気持ち悪くて」

 そうだ、この人にとってはアイデンティティに関する事を失ってしまって再構築しなくちゃいけないのに、笑い事じゃないよね。

「人に……私に作るのが好きだったの。自分ではあまり食べなかったわ」
「そうですか。やっぱりね。…………一花さん、僕を避けてますよね」

 唐突な問いに一花はあわてた。

「え、いや、そんなことは」

 あるけど!えっと……

「どう接していいかわからなくて、あの、嫌な思いさせてたらごめんなさい」

 言いながら、違和感だらけだと思う。相手は榛瑠のはずなのに。

「それを言うのはむしろ僕のほうです。僕も正直、一花さんにどう接したらいいかわからない」

 「僕」と言うのが慣れない。そして、さん付けで呼ばれるのがもっと慣れない。

「あの、私は大丈夫だから、えっと、とりあえず、困ったことがあったら言ってください。私にわかることもあると思うし、あ、私はともかく、うちのスタッフは優秀だから。嶋さんとか。きっと力になってくれるので。遠慮しないでください」

 ありがとうございます、と榛瑠は笑顔で答えた。そして、夕食の誘いを丁寧に辞退して帰って行った。

 榛瑠は帰り際に一花に言った。

「そのうちお菓子を作ってみます。そのときは食べてくれますか?」
「はい、喜んで頂きます」

 答えながら一花は、なんだかとても嬉しい、と思った。なんだか、とても。
 

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