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迷子5.
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一花は助手席から運転中の榛瑠に話しかけた。
「吹子様と何を話していたの?」
「特にはこれといって……。昔話です」
そうなんだ、と答えておく。どのくらいからが今の彼にとっては昔、なのだろうか。
「ところで、この後何か予定はありますか?」
「え? 別に何もないけど?」
予期してなかった質問に、ちょっと慌てながら答えた。
「プリンを作ってみたんですよ。よかったら、食べにきませんか?」
「行きます! ありがとう」
一花は嬉しくなる。いつか言ってたこと、ちゃんと覚えていてくれたんだ。
そのまま、榛瑠のマンションに行く。玄関に入ると、ひどく懐かしい気がした。
前にここへきたのは、いつが最後だったかな。
中の様子は家具の配置もなにもかも変わったところはなく、それでも始めて入るような顔をして、一花は部屋の持ち主の後について歩いた。
リビングに通されて座って待っていると、ほどなくプリンと温かい紅茶が出てきた。
なんの飾りもない、素朴な薄い黄色のプリン。私の一番大好きなおやつ。一花は一瞬胸が詰まった。
「いただきます」
「どうぞ」
榛瑠はオープンキッチンで自分のコーヒーを入れている。会社のことやら差し障りのない話題を時々二人でする。微妙なよそよそしさの中、それでも、楽しい、と一花は思う。
食べ終わろうとするときに榛瑠に聞かれた。
「どうでしたか?」
「美味しかったわ。ありがとう」
「紅茶も?」
「うん、よく出してくれたのと同じ。おいしい」
一花は紅茶を口にしながら答える。
「そう。プリンも前と同じ?」
「え?」
実は、少しだけ違った。それを伝えてもいいのだろうか? 聞きたいのかな?
「えっと、本当は少し違った。前より甘い、かな? でも、充分おいしかったよ」
「そうですか、やっぱり」
「やっぱり?」
「実はレシピが出てきてそのまま作ったんです。何か違う感じもあったんですけど、とりあえず忠実に。たぶん、あなた好みにいつもは変えていたんでしょうね。紅茶も自分はそんなに飲まない割に茶葉が減っていたので、あなたが来た時に使っていたのだろうと出してみました」
「そうなんだ。なんか、探偵みたいね」
一花は素直に驚いた。榛瑠は微笑んだ。
「そうやって時間の隙間を埋めないとね」
「そっか……」
そこで会話が途切れた。と、榛瑠が近くに来てポットに残っていた紅茶を注いでくれた。
一花はお礼を言って紅茶を飲む。変わらず美味しい。榛瑠はコーヒーの入ったカップを持って、一花の斜め向かいのソファに座った。部屋も彼も変わらない。でも、決定的に違う。
「それにしてもあなたとここで、どうやって過ごしていたんでしょうね。自分で言うのもなんですが、女性が喜びそうなものなんて一つもないですよ、この家」
一花は笑った。
「あなたの家だから。余分なものは置かない主義だったもの。それに、榛瑠は忙しかったから、そんなには会ったりしてなかったし」
でも、言われてみれば何してたかな。
「来た時は、えーっと、ご飯食べたり、おやつ食べたり、仕事してるの見てたり、えっと、後は……。なんか、なんとなくいたかな」
「そう」
聞いた割には榛瑠は興味なさそうな返事だった。以前だってそんな部分はあったけれど、今はさっぱり考えていることがわからない、と思う。
「でも、意外とよくいらっしゃってますよね。今の私から見ると、ちょっと驚くぐらいに時間を割いている」
「いや、まあ、一応付き合っていたので……」
そう言って、一花はふと気付いた。
「なんで何回も来てたことわかるの? これも推理?」
「日々の行動を書いていたものが残っているんです」
「え? 本当に? 日記書く人だったの?」
「日記というより記録です。仕事が中心ですが、そこにあなたのこともちらほら出てくるんですよ」
「そうなんだ、知らなかった」
榛瑠ってそんな記録つける人だったんだ、と、一花は驚いた。マメな事してたんだなあ。今更、榛瑠に関して知らないことを知るのも、おかしな感じだった。
「今でもつけていますよ」
「え? そうなの?」
「はい。今はかなり意識的に細かく書いてます」
「そうなんだあ、意外。あなたは全部頭の中に覚えちゃう人だと思ってた」
「逆です。書いてしまえば覚えておかなくていいので楽なんです。といっても、記録が残っているのはここ一年くらいなんですけどね」
「私でわかることなら、なんでも答えるよ?」
「ありがとうございます。でも、人から聞くと、その人の記憶か自分の記憶かわからなくなりそうで。もっとも、美園さんなんか容赦なく話して聞かせてくれますけどね」
あ、そこで、その名前。
「でも、聞いていいですか?」
榛瑠が柔和な顔で聞いてきた。
「はい」
「言いたくなかったら言わなくてもいいのですが、どうやって付き合い始めたのか聞かしてもらっても?」
一花はうわっと思った。答えづらい。
「えーと、いろいろごちゃごちゃあったんですけど。つまり、えーと、つまるところ、あなたが私のことを好きになってくれたから、だと思う」
榛瑠は意外にも楽しそうな笑顔になった。
「そこなんですか? あなたは違ったんです?」
「違わないです!」
一花は慌てて言った。
「違わないけど、つきあえた理由はそこかなって」
「じゃあ、私が告白しなかったら付き合わなかった?」
「うん」
一花は即答した。そこは即答できる。
「私が手が届く人だって、思ったことなかったもの」
「お嬢様はあなたのほうなのに」
榛瑠はあいかわらず笑顔のままだ。
「関係ないもん。それに、あなた日本にずっといなかったし。帰ってこようと思ってくれなくちゃ、会えもしなかったし」
「……そうなんだね。美園さんがなんで日本に戻ったのかわからないって盛んに言ってましたけど」
うん、とだけ一花は答えた。理由の本当のところはきっと、榛瑠にしかわからないのだ。でも、それは失われてしまった。今はそれより……。
「あの、私も聞いていい?」
「なんでしょう?」
「あの、美園さんとはどんな関係なの?」
「気になります?」
相変わらず笑顔で言う。こういう意地悪なところは変わらないんだから。
それでも、なんだか今は聞けそうだった。きっと、プリンのせいだ。ここに来るまでよりずっと、心が軽い。
「……気になります」
「本当に言うようなことはないんですよ。見たままです」
よく、わかりませんが。
「気になるってわりに、遠慮がちですよね? 一花さんは」
「遠慮っていうか、戸惑ってるんです」
「何に?」
「あなたにです。というか、あなたの私の扱い方に」
「例えば?」
「ぜんぶ!」
一花は強く言葉が出た。
「全部です! 呼び方から話し方から扱い方から!」
まって、落ち着け私。
一花は一呼吸置いて付け足した。
「だって、私のことを知らない榛瑠なんて、気づいた時には存在しなかったのよ?」
「そっか」
「そうよ。初めまして、なんて言ったことないもん」
榛瑠は可笑しそうにクスクス笑った。何がおかしいのか全然わからないけど。
「あ、でも、あなたがうちに来た時のことは、はっきり覚えているの」
「本当に? だいぶ小さかったでしょう、あなた」
「うん、5歳だった。でも、覚えている。うん、覚えているよ」
とても綺麗な天使みたいな少年が、ある日突然、家にやってきたのだ。そう、ちゃんと覚えている。
「まあ、あなたのなかでは悪い思い出ではないのでしょうね」
「大切な想い出です」
何? なんかトゲがある。もしかして記憶をなくした彼を傷つけてしまったのかしら?
「忘れがたい思い出は、思い出すほどに自分の都合にあわせて変わるものですから。でも、印象が良かったのは本当なんでしょうね」
「何を言ってるのかよくわからないけど、鮮明に覚えているわよ」
「それならそれでいいです」
榛瑠は変わらず微笑む。一花はまた彼を捉え損ねたような気分になった。
「ねえ、今も記録をとってるって言ったよね?どんなこと書いてるの?」
一花は気まずさを避けたくて、別の話題を切り出した。
「その日にあったことを書いています。会った人や、仕事や、考えたことや、全て」
「今日のことも書く?」
「書きますよ」
「さっきも言ったけど、やっぱり意外だわ」
「元々は、記録を取ることによって自分を俯瞰する等の意味もあったのだと思いますが、今はちょっと違いますね」
「今はなに?」
「念のために、です。次に何かあった時のために」
一花は背中が急にひんやりとした。
「何かってなによ。そんなにいつも……」
そうよ、鬼塚さんだって言ってたけど。
「そんなにいつもトラブルが起こったりはしないわ」
「それはそうであって欲しいですが、トラブルというより……」
榛瑠は言葉を切ると、噛み砕くように言い直した。
「つまり、医者にはいつ記憶が戻るかわからないと言われていて」
「うん」
「ある日急に記憶が戻ることもあるかもしれないと」
「うん」
「それって、つまり、またいつ記憶をなくすかわからないってことでもあるわけです」
一花はゾクッとして、無意識に肩を動かした。
「つまり、記憶が戻ると、逆に今のことを忘れるってこと?」
「それならまだいいですけど、全部忘れてまた0からのスタートっていうのが無いとはいえない、とも思うんです」
「……まさか。そんなこと、起こるわけないよ」
「なぜそう思うんですか? 充分あり得ることです。明日にはもう、今のことを忘れているかもしれない」
「そんな……」
榛瑠は微笑みながら、まるで道理のわからない子供に諭すように、優しい声で話す。
「自分で信じ切れないのです、自分の脳を。一度狂ってしまったネットワークが完治なんてできるんでしょうか? 脳のタンパク質合成処理ってそんなに簡単なのでしょうかね? 少なくともプログラムのバグを改善するようにはいかない気がするのですが」
いや、どっちも難しい、というツッコミはとりあえず一花は胸にしまった。そんなことはどうでもいいのだ。問題はそこじゃない。治るかどうか、でもない。
そうじゃなくて……。
一花は榛瑠をあらためて見た。彼は穏やかな表情をしていた。
なんで、こんな話をしてるときに限って、彼はこういう顔をするの?
一花はのりだすと榛瑠に手を伸ばす。彼の金色の髪にそっと触れる。そして、たまらなくなって抱きしめた。
自分の記憶を信じられないということは、未来を信じられないということだ。
過去を無くして、未来も手にできないまま、この人は生きていくつもりだろうか。
私は全然わかっていなかった。そんな恐ろしい場所で息をしているの?
「大丈夫よ。もしあなたがまた忘れてしまっても、私が覚えているから。あなたはまた必要ないっていうかもしれないけど、でも、覚えているから。もし、そうなっても、そうなったら今度こそ、はじめっから側にいる」
一花は腕を緩めて榛瑠の顔を見る。彼が金色の目で見返す。
そう、今度こそ絶対に、はじめから側にいるわ。
一花は榛瑠に顔を近づけると、その唇にそっとキスをした。
愛してる。大好きよ。
榛瑠はされるままになっていた。が、その手を一花の頭に持ってくると、彼女の髪を優しく撫でた。
一花はその感触にはっと我に返った。
「ご、ごめんなさい! ついっ」
一花はあわてて離れると立ち上がった。
つい、なんていうか……やりすぎだよお、私。ああ……。
顔が赤くなっていくのがわかる。
榛瑠は微笑んでいた。
「謝らなくていいのに」
「いや、えっと、その」
冷静な相手にキスするのってかなり恥ずかしいんだと一花は知った。顔が火照る。
そんな一花の頬に榛瑠の手が伸びて触れる。
え?
優しく触れられて、一花の鼓動が早くなる。私の心臓てば、これくらいで何よ。
「目に隈ができてる。眠れていないんですか?」
「え、いえ、あのっ」
本当はいろいろ考えちゃって寝つきが悪い日が多い。でも、言ったら心配させてしまう。
頰から手を離して、榛瑠は優しい声で言った。
「すみません、私のせいですね。でも、ちゃんと寝てくださいね? 寝不足は良くないです」
一花は赤い顔のまま頷いた。そんな一花を見て、榛瑠は僅かに微笑んだように見えた。
「あのね」
榛瑠は穏やかに続ける。
「率直に言って、あなたに対しての思いを以前と同じように持っているかというと、答えはNOです。でもね、多分、同じような関係を持つことはできると思うんです。もちろん、まったく一緒というわけにはいかないでしょうが」
……え?
一花は言われた意味が飲み込めなかった。そして、わかったとき、笑ってしまった。
「ははっ」
自分でも驚くくらいに乾いた笑いだった。
私と榛瑠で恋人ごっこをしろと? 今更?
もちろん世の中の恋人たちが、全員熱烈に恋をしているとは思わない。打算のほうが多いかもしれない。それが悪いとも思わない。自分だってそういう付き合いを何度かした。
でも、だからこそ。冷静なままのキスを榛瑠としろと?
少なくとも、自分には無理だ。
そう、一花は思った。
だからこそ、記憶を無くした彼と無理に一緒にいようとはしなかった。感情が伴わないのに、行動だけなぞってもしょうがないと思う。
じゃあ、どうしたらいいのだろうってずっと考えていて。結局、もう少し、私のことを知ってもらう事くらいしか思いつかなかったんだけど。
戸惑ってる場合じゃないんだわ。……怖がっている場合じゃない。
一花がそれを言葉にするより先に、榛瑠が口を開いた。
「でも、もしあなたがそれを嫌だというなら、それはそれでわかります」
「嫌というか、なんていうか無理……。あ、でも、歩み寄ってくれようとしたのはとても……」
嬉しい、と続くはずの言葉は榛瑠によって遮られた。
「受け入れるのが無理なら、一度清算するべきだと思うんです」
「……え?」
「ここできちんと別れるほうがいい」
一花は思考が止まってしまった。今だって付き合ってるという状態じゃないけど、これ以上に関係のない人になるということ?
返事をすることができない。ただ、呆然と榛瑠を見るだけだった。
彼の後方から西日が差し込みはじめていた。赤い日が壁にあたり榛瑠を彩っている。その顔からは温かみが消え、ただ、無表情に一花を見ていた。
……ああ、私は間違えたんだ。これはもう、引き返せないんだ。
無表情な彼の横顔はたくさん見てきた。でも、その目が私に向けられたことはあっただろうか。
胸が痛かった。胸が痛い。でも、涙が出てこない。なぜかな、おかしいな。
陽は傾いていく。斜めの光が榛瑠を照らし、陰影を作る。無表情のまま動きを止めた彼を見ながら、なんて綺麗なんだろうと思う。まるで彫刻のようだ。
胸の痛みを感じながら、どこか遠くでそんなことを思う。
その整った唇が動いた。
「可哀想ですが、お嬢様。あなたの知っている、あなたが愛した男は、……あなたのことを知りぬいて、あなたを愛していた男は、もうどこにもいないんです」
過去にその男はいた。そして、未来にその姿を探した。そうなんだね、私がそうして過去や未来に拘っている間に、私たちの今は終わっていたんだ。
そう思ったとき、一花の目から涙がひと筋落ちた。
「吹子様と何を話していたの?」
「特にはこれといって……。昔話です」
そうなんだ、と答えておく。どのくらいからが今の彼にとっては昔、なのだろうか。
「ところで、この後何か予定はありますか?」
「え? 別に何もないけど?」
予期してなかった質問に、ちょっと慌てながら答えた。
「プリンを作ってみたんですよ。よかったら、食べにきませんか?」
「行きます! ありがとう」
一花は嬉しくなる。いつか言ってたこと、ちゃんと覚えていてくれたんだ。
そのまま、榛瑠のマンションに行く。玄関に入ると、ひどく懐かしい気がした。
前にここへきたのは、いつが最後だったかな。
中の様子は家具の配置もなにもかも変わったところはなく、それでも始めて入るような顔をして、一花は部屋の持ち主の後について歩いた。
リビングに通されて座って待っていると、ほどなくプリンと温かい紅茶が出てきた。
なんの飾りもない、素朴な薄い黄色のプリン。私の一番大好きなおやつ。一花は一瞬胸が詰まった。
「いただきます」
「どうぞ」
榛瑠はオープンキッチンで自分のコーヒーを入れている。会社のことやら差し障りのない話題を時々二人でする。微妙なよそよそしさの中、それでも、楽しい、と一花は思う。
食べ終わろうとするときに榛瑠に聞かれた。
「どうでしたか?」
「美味しかったわ。ありがとう」
「紅茶も?」
「うん、よく出してくれたのと同じ。おいしい」
一花は紅茶を口にしながら答える。
「そう。プリンも前と同じ?」
「え?」
実は、少しだけ違った。それを伝えてもいいのだろうか? 聞きたいのかな?
「えっと、本当は少し違った。前より甘い、かな? でも、充分おいしかったよ」
「そうですか、やっぱり」
「やっぱり?」
「実はレシピが出てきてそのまま作ったんです。何か違う感じもあったんですけど、とりあえず忠実に。たぶん、あなた好みにいつもは変えていたんでしょうね。紅茶も自分はそんなに飲まない割に茶葉が減っていたので、あなたが来た時に使っていたのだろうと出してみました」
「そうなんだ。なんか、探偵みたいね」
一花は素直に驚いた。榛瑠は微笑んだ。
「そうやって時間の隙間を埋めないとね」
「そっか……」
そこで会話が途切れた。と、榛瑠が近くに来てポットに残っていた紅茶を注いでくれた。
一花はお礼を言って紅茶を飲む。変わらず美味しい。榛瑠はコーヒーの入ったカップを持って、一花の斜め向かいのソファに座った。部屋も彼も変わらない。でも、決定的に違う。
「それにしてもあなたとここで、どうやって過ごしていたんでしょうね。自分で言うのもなんですが、女性が喜びそうなものなんて一つもないですよ、この家」
一花は笑った。
「あなたの家だから。余分なものは置かない主義だったもの。それに、榛瑠は忙しかったから、そんなには会ったりしてなかったし」
でも、言われてみれば何してたかな。
「来た時は、えーっと、ご飯食べたり、おやつ食べたり、仕事してるの見てたり、えっと、後は……。なんか、なんとなくいたかな」
「そう」
聞いた割には榛瑠は興味なさそうな返事だった。以前だってそんな部分はあったけれど、今はさっぱり考えていることがわからない、と思う。
「でも、意外とよくいらっしゃってますよね。今の私から見ると、ちょっと驚くぐらいに時間を割いている」
「いや、まあ、一応付き合っていたので……」
そう言って、一花はふと気付いた。
「なんで何回も来てたことわかるの? これも推理?」
「日々の行動を書いていたものが残っているんです」
「え? 本当に? 日記書く人だったの?」
「日記というより記録です。仕事が中心ですが、そこにあなたのこともちらほら出てくるんですよ」
「そうなんだ、知らなかった」
榛瑠ってそんな記録つける人だったんだ、と、一花は驚いた。マメな事してたんだなあ。今更、榛瑠に関して知らないことを知るのも、おかしな感じだった。
「今でもつけていますよ」
「え? そうなの?」
「はい。今はかなり意識的に細かく書いてます」
「そうなんだあ、意外。あなたは全部頭の中に覚えちゃう人だと思ってた」
「逆です。書いてしまえば覚えておかなくていいので楽なんです。といっても、記録が残っているのはここ一年くらいなんですけどね」
「私でわかることなら、なんでも答えるよ?」
「ありがとうございます。でも、人から聞くと、その人の記憶か自分の記憶かわからなくなりそうで。もっとも、美園さんなんか容赦なく話して聞かせてくれますけどね」
あ、そこで、その名前。
「でも、聞いていいですか?」
榛瑠が柔和な顔で聞いてきた。
「はい」
「言いたくなかったら言わなくてもいいのですが、どうやって付き合い始めたのか聞かしてもらっても?」
一花はうわっと思った。答えづらい。
「えーと、いろいろごちゃごちゃあったんですけど。つまり、えーと、つまるところ、あなたが私のことを好きになってくれたから、だと思う」
榛瑠は意外にも楽しそうな笑顔になった。
「そこなんですか? あなたは違ったんです?」
「違わないです!」
一花は慌てて言った。
「違わないけど、つきあえた理由はそこかなって」
「じゃあ、私が告白しなかったら付き合わなかった?」
「うん」
一花は即答した。そこは即答できる。
「私が手が届く人だって、思ったことなかったもの」
「お嬢様はあなたのほうなのに」
榛瑠はあいかわらず笑顔のままだ。
「関係ないもん。それに、あなた日本にずっといなかったし。帰ってこようと思ってくれなくちゃ、会えもしなかったし」
「……そうなんだね。美園さんがなんで日本に戻ったのかわからないって盛んに言ってましたけど」
うん、とだけ一花は答えた。理由の本当のところはきっと、榛瑠にしかわからないのだ。でも、それは失われてしまった。今はそれより……。
「あの、私も聞いていい?」
「なんでしょう?」
「あの、美園さんとはどんな関係なの?」
「気になります?」
相変わらず笑顔で言う。こういう意地悪なところは変わらないんだから。
それでも、なんだか今は聞けそうだった。きっと、プリンのせいだ。ここに来るまでよりずっと、心が軽い。
「……気になります」
「本当に言うようなことはないんですよ。見たままです」
よく、わかりませんが。
「気になるってわりに、遠慮がちですよね? 一花さんは」
「遠慮っていうか、戸惑ってるんです」
「何に?」
「あなたにです。というか、あなたの私の扱い方に」
「例えば?」
「ぜんぶ!」
一花は強く言葉が出た。
「全部です! 呼び方から話し方から扱い方から!」
まって、落ち着け私。
一花は一呼吸置いて付け足した。
「だって、私のことを知らない榛瑠なんて、気づいた時には存在しなかったのよ?」
「そっか」
「そうよ。初めまして、なんて言ったことないもん」
榛瑠は可笑しそうにクスクス笑った。何がおかしいのか全然わからないけど。
「あ、でも、あなたがうちに来た時のことは、はっきり覚えているの」
「本当に? だいぶ小さかったでしょう、あなた」
「うん、5歳だった。でも、覚えている。うん、覚えているよ」
とても綺麗な天使みたいな少年が、ある日突然、家にやってきたのだ。そう、ちゃんと覚えている。
「まあ、あなたのなかでは悪い思い出ではないのでしょうね」
「大切な想い出です」
何? なんかトゲがある。もしかして記憶をなくした彼を傷つけてしまったのかしら?
「忘れがたい思い出は、思い出すほどに自分の都合にあわせて変わるものですから。でも、印象が良かったのは本当なんでしょうね」
「何を言ってるのかよくわからないけど、鮮明に覚えているわよ」
「それならそれでいいです」
榛瑠は変わらず微笑む。一花はまた彼を捉え損ねたような気分になった。
「ねえ、今も記録をとってるって言ったよね?どんなこと書いてるの?」
一花は気まずさを避けたくて、別の話題を切り出した。
「その日にあったことを書いています。会った人や、仕事や、考えたことや、全て」
「今日のことも書く?」
「書きますよ」
「さっきも言ったけど、やっぱり意外だわ」
「元々は、記録を取ることによって自分を俯瞰する等の意味もあったのだと思いますが、今はちょっと違いますね」
「今はなに?」
「念のために、です。次に何かあった時のために」
一花は背中が急にひんやりとした。
「何かってなによ。そんなにいつも……」
そうよ、鬼塚さんだって言ってたけど。
「そんなにいつもトラブルが起こったりはしないわ」
「それはそうであって欲しいですが、トラブルというより……」
榛瑠は言葉を切ると、噛み砕くように言い直した。
「つまり、医者にはいつ記憶が戻るかわからないと言われていて」
「うん」
「ある日急に記憶が戻ることもあるかもしれないと」
「うん」
「それって、つまり、またいつ記憶をなくすかわからないってことでもあるわけです」
一花はゾクッとして、無意識に肩を動かした。
「つまり、記憶が戻ると、逆に今のことを忘れるってこと?」
「それならまだいいですけど、全部忘れてまた0からのスタートっていうのが無いとはいえない、とも思うんです」
「……まさか。そんなこと、起こるわけないよ」
「なぜそう思うんですか? 充分あり得ることです。明日にはもう、今のことを忘れているかもしれない」
「そんな……」
榛瑠は微笑みながら、まるで道理のわからない子供に諭すように、優しい声で話す。
「自分で信じ切れないのです、自分の脳を。一度狂ってしまったネットワークが完治なんてできるんでしょうか? 脳のタンパク質合成処理ってそんなに簡単なのでしょうかね? 少なくともプログラムのバグを改善するようにはいかない気がするのですが」
いや、どっちも難しい、というツッコミはとりあえず一花は胸にしまった。そんなことはどうでもいいのだ。問題はそこじゃない。治るかどうか、でもない。
そうじゃなくて……。
一花は榛瑠をあらためて見た。彼は穏やかな表情をしていた。
なんで、こんな話をしてるときに限って、彼はこういう顔をするの?
一花はのりだすと榛瑠に手を伸ばす。彼の金色の髪にそっと触れる。そして、たまらなくなって抱きしめた。
自分の記憶を信じられないということは、未来を信じられないということだ。
過去を無くして、未来も手にできないまま、この人は生きていくつもりだろうか。
私は全然わかっていなかった。そんな恐ろしい場所で息をしているの?
「大丈夫よ。もしあなたがまた忘れてしまっても、私が覚えているから。あなたはまた必要ないっていうかもしれないけど、でも、覚えているから。もし、そうなっても、そうなったら今度こそ、はじめっから側にいる」
一花は腕を緩めて榛瑠の顔を見る。彼が金色の目で見返す。
そう、今度こそ絶対に、はじめから側にいるわ。
一花は榛瑠に顔を近づけると、その唇にそっとキスをした。
愛してる。大好きよ。
榛瑠はされるままになっていた。が、その手を一花の頭に持ってくると、彼女の髪を優しく撫でた。
一花はその感触にはっと我に返った。
「ご、ごめんなさい! ついっ」
一花はあわてて離れると立ち上がった。
つい、なんていうか……やりすぎだよお、私。ああ……。
顔が赤くなっていくのがわかる。
榛瑠は微笑んでいた。
「謝らなくていいのに」
「いや、えっと、その」
冷静な相手にキスするのってかなり恥ずかしいんだと一花は知った。顔が火照る。
そんな一花の頬に榛瑠の手が伸びて触れる。
え?
優しく触れられて、一花の鼓動が早くなる。私の心臓てば、これくらいで何よ。
「目に隈ができてる。眠れていないんですか?」
「え、いえ、あのっ」
本当はいろいろ考えちゃって寝つきが悪い日が多い。でも、言ったら心配させてしまう。
頰から手を離して、榛瑠は優しい声で言った。
「すみません、私のせいですね。でも、ちゃんと寝てくださいね? 寝不足は良くないです」
一花は赤い顔のまま頷いた。そんな一花を見て、榛瑠は僅かに微笑んだように見えた。
「あのね」
榛瑠は穏やかに続ける。
「率直に言って、あなたに対しての思いを以前と同じように持っているかというと、答えはNOです。でもね、多分、同じような関係を持つことはできると思うんです。もちろん、まったく一緒というわけにはいかないでしょうが」
……え?
一花は言われた意味が飲み込めなかった。そして、わかったとき、笑ってしまった。
「ははっ」
自分でも驚くくらいに乾いた笑いだった。
私と榛瑠で恋人ごっこをしろと? 今更?
もちろん世の中の恋人たちが、全員熱烈に恋をしているとは思わない。打算のほうが多いかもしれない。それが悪いとも思わない。自分だってそういう付き合いを何度かした。
でも、だからこそ。冷静なままのキスを榛瑠としろと?
少なくとも、自分には無理だ。
そう、一花は思った。
だからこそ、記憶を無くした彼と無理に一緒にいようとはしなかった。感情が伴わないのに、行動だけなぞってもしょうがないと思う。
じゃあ、どうしたらいいのだろうってずっと考えていて。結局、もう少し、私のことを知ってもらう事くらいしか思いつかなかったんだけど。
戸惑ってる場合じゃないんだわ。……怖がっている場合じゃない。
一花がそれを言葉にするより先に、榛瑠が口を開いた。
「でも、もしあなたがそれを嫌だというなら、それはそれでわかります」
「嫌というか、なんていうか無理……。あ、でも、歩み寄ってくれようとしたのはとても……」
嬉しい、と続くはずの言葉は榛瑠によって遮られた。
「受け入れるのが無理なら、一度清算するべきだと思うんです」
「……え?」
「ここできちんと別れるほうがいい」
一花は思考が止まってしまった。今だって付き合ってるという状態じゃないけど、これ以上に関係のない人になるということ?
返事をすることができない。ただ、呆然と榛瑠を見るだけだった。
彼の後方から西日が差し込みはじめていた。赤い日が壁にあたり榛瑠を彩っている。その顔からは温かみが消え、ただ、無表情に一花を見ていた。
……ああ、私は間違えたんだ。これはもう、引き返せないんだ。
無表情な彼の横顔はたくさん見てきた。でも、その目が私に向けられたことはあっただろうか。
胸が痛かった。胸が痛い。でも、涙が出てこない。なぜかな、おかしいな。
陽は傾いていく。斜めの光が榛瑠を照らし、陰影を作る。無表情のまま動きを止めた彼を見ながら、なんて綺麗なんだろうと思う。まるで彫刻のようだ。
胸の痛みを感じながら、どこか遠くでそんなことを思う。
その整った唇が動いた。
「可哀想ですが、お嬢様。あなたの知っている、あなたが愛した男は、……あなたのことを知りぬいて、あなたを愛していた男は、もうどこにもいないんです」
過去にその男はいた。そして、未来にその姿を探した。そうなんだね、私がそうして過去や未来に拘っている間に、私たちの今は終わっていたんだ。
そう思ったとき、一花の目から涙がひと筋落ちた。
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