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涙雨2.
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一花は一人、ボンヤリと立っていた。傘をさす人が行き交う。
寂しかったですか? という須賀の声がふと蘇る。
……うん、寂しくはなかったな、と、同じことを思う。寂しくはなかった。一人じゃなかったから。
いつ頃からそんなことをしていたのかはっきり覚えてないが、小学生の頃、一花は眠れないと屋敷の廊下の長椅子によく行くようになっていた。
大きな窓の外は暗く、屋敷はひっそりとして物音一つしないような夜更け、持ち出した毛布に一人で包まっていた。
心細くて寂しくて、半泣きで、でも一人でベットに寝ているのがもっと嫌で、そんなところにいたのだと思う。
でも、そのうち声がするのだ。ちょっとからかうような明るい声が。
「こんなところで何を泣きべそかいてるんですか? お嬢様?」
顔を上げると、金色の瞳の少年が可笑しそうに覗き込んでいる。
「怖い夢でも見たの? それともおねしょでもした?」
「違うもん!」
まだグスグス泣きながら反論する少女の頭に、白い手がクスクス笑いながら伸びる。
「冗談だよ。大丈夫、一花、泣かないで」
温かくて優しい声が降ってくる。いつでもそうだった。まるで魔法使いみたいに金色の少年は現れた。それから一花に付き合って遊んでくれるのだ。
それは懐かしい、真夜中の子供だった時間。
そう、今思うとあの頃の榛瑠もまだ子供だったのに。まだ声変わり前くらいの……。
その時、一花はあることに気づいて呟いた。
「……どうしよう、私……」
私、声変わり前の彼の声を思い出せない……。
「一花さん!」
不意に名前を呼ばれて、一花は物想いから引き戻された。
「お待たせしました」
須賀が透明傘を差して、目の前に立っていた。
「あ、ありがとう……」
一花は差し出された傘の中に入って歩き出した。傘は二人で一本だった。
「須賀くん、結構濡れてる。あ、まって、ハンカチ……」
「あ、いらないですよ、平気、平気」
そう言って須賀は濡れた頭を振る。茶色の髪が乱れる。やっぱりちょっと子犬みたい、と一花は笑いながら思う。
それから、あれ? と思う。今、なにかが胸をよぎった気がする。それを深く考える前に、須賀が明るく言った。
「なんだか笑われてるし!」
「ごめん、ごめん。悪気はないわ」
「ほんとうかなあ」
須賀はそう言って一花の顔を覗き込んだ。一花がそのまま笑顔をむけると、次の瞬間、須賀の顔が間近にあった。
え?
そう思ったときには唇に柔らかいものの感触があった。でもそれは一瞬で、気づくと一本の傘の下、二人で歩みを止めて向かい合っていた。
一花は驚いて声が出なかった。
「えっと……」
須賀は困った顔で立っている。
「あの、つい。……すみません」
そう言って律儀に頭を下げた。
「え、えっと、えーと、まあ。うんと、歩こっか」
一花はなんと言っていいか分からず、自分でも冴えないと思う言葉を返す。
須賀が「はい」と言って再び歩き出した。
しばらくの沈黙の後、須賀が言った。
「……やっぱ、一花さんって年上だよなあ。こんな時でも落ち着いてるし」
こんな時って、原因の人に言われても、と思いつつ一花は言う。
「いや、うろたえてるけど? うろたえてて、どうしていいか分からなくなってるだけで」
「ほんと? そう見えないっすよ」
「あなたが言ってどうするのよ、それ。なんなら怒ってもいいのよ?」
「あ、いやいや」
須賀はいくぶん真面目な声で続けた。
「いえ、すみません、本当に。でも、あんまり、スルーされるのもちょっと辛くて、ごめんなさい」
しゅんとする須賀を見て一花は可笑しくなりつつ笑いをこらえた。代わりに、次は無しね、と言う。
「はい、次は同意をとってからにします」
「もう」
怒ったふりを一花はする。なんとなく二人で小さく笑う。
でも、須賀の言う通りだと自分でも驚く。うろたえはしたけど、でも、だからってどうってことない。私、こんなんだっけ?
そこまで真剣なキスじゃないからってのもあるけど。一瞬だし。
でも、まあ、だって、須賀くんだし。大っ嫌いっていう人ではないし、かといって好きな人でもないわけで。
程なく、駅に着いた。須賀が傘をたたむ。
雨を避けて駆け込んできたパーカーを被った青年が、彼にぶつかりそうになる。
あっぶねえなあ、と須賀が言う。一花は大丈夫? と聞きつつ、また、あれ? と思う。何かのイメージが心をよぎる。なんだろう?
改札を二人でくぐる。目の前を歩く須賀の後ろ姿を一花は見上げた。
髪がしっとり濡れている。やっぱり、結構濡れてない? 風邪ひいたりしないといいけど。大丈夫かなあ。
…………あ。
そこでやっと、一花はさっきから胸の奥を横切っているものを捕まえた。
それなりに混んでいる人のざわめきの間を、須賀の後ろから歩き続ける。
そうだ、雨の日。冷たい雨の日。今日よりもっと降っていて、その中に少年は立っていた。あれは、彼が高一くらいだったか。
屋敷のいつも使っている勝手口の先に榛瑠は立っている。庭の木々が雨に濃い緑に濡れている。
私服の黒いパーカーを目元が見えないくらいまで深く被っていたが、頬に濡れた金色の髪が張り付いていた。雨が服も肌もぐっしょりと濡らしている。
表情はパーカーのせいではっきりわからない。一花は戸口の濡れないこちら側いて、驚いて、どうしたの? と聞いた時、榛瑠は意外なほどに穏やかな声で答えた。
「なんでもないです。雨に降られてしまっただけです」
静かな声だったと思う。口元は微笑んでいた。雨の音がしていた。
一花は胸が痛くなった。
思い出している今も、そしてあの時も。
あの時、彼の頬を濡らしていたのは本当に雨だけだったのだろうか。
でも、それを聞けなくて、でも胸はずっと痛くて、夜遅くにそっと、温めた牛乳を榛瑠の部屋の前に置いてきたのだった。翌日、お礼を言う榛瑠はまるっきりいつも通りで、蜂蜜入れたでしょ? 甘くしすぎ、だのなんだの言われた気がする。
あの時だけだ、彼が泣いてるかもって思ったのは。本当はあの時なにがあったのだろう。結局、聞けないままだった。
そして、その答えはもう聞くことができない。失われてしまった。榛瑠の子供のころの高い声を、もう聞くことも思い出すこともできなくなってしまったように。
「一花さん」
振り向いた須賀に一花は曖昧な笑顔を返した。
「思ったほど濡れずにすみましたね、よかった」
須賀にそうだね、と返答しつつ一花の心は別のところから戻りきれないでいた。
何もかもこうして無くしてしまうのだろうか。そして、遠くない先に、榛瑠自身を今度こそ失うのだ。
……だからどうだってわけじゃないわ。彼にとってはいいことだもの。胸が痛んだからって、生きていけないわけではない。
そう、だから、平気。
……でも榛瑠は? 彼は平気かしら。失くしたままで。……多分、大丈夫よね? 榛瑠だもの。きっと。
そう、きっと。いつだって、平気そうな顔をしているもの。
いつも。どんな時も。
……あの人は弱さを見せない。
一花は踵を返した。
「一花さん⁈」
須賀が驚く。
「ごめんね、須賀くん。忘れ物思い出したから戻るね、今日はありがとう」
「え? ここから? ちょっと待って。あ、傘!」
須賀の声はちょうど入ってきた電車の音と、続く人混みにかき消された。
一花は振り返らなかった。改札を出ると、雨の中を小走りで走る。ここからなら、榛瑠のマンションまで、そうかからず行けるはずだ。
一花は濡れるのも気にせず走り続けた。自分でもびっくりするほど、どちらにいけばいいか迷うことはなかった。
会いたい。会いたかった。会いたくて、会いたくて、どうにかなりそうだ。
マンションが見えるほど近くに来た時、一花は電話をいれた。
「榛瑠? ねえ、今どこ? 家にいる?」
「一花さん? 今ちょうど帰ってきてまだ駐車場ですが……」
「よかった。今から行くから待ってて!」
「今からって、今どちらにいるんですか?」
一花は足を止めて周りを見渡した。
「えっと、近くの横断歩道のそば。点滅信号の」
榛瑠がなにか言ったようだったが、それを聞かずに一花は電話を切った。小走りに横断歩道を渡る。
渡り切ってあと少しで着くと思った時、ふと、一花は足を止めた。点滅信号が濡れた地面に光っていた。
さあっという細かい雨の降る音が、急に耳に入ってきた。
……私、何やってるんだろう。
呆然と一花は立ち尽くした。
何をやってるんだろう。会いたいって何? なんの心配? なんの権利で、こんな時間にいきなり会いに行こうとしているの?
なんの立場で心配なんて言ってるの?
何ができるつもりでいるの? 何も、何一つ望まれていないのに。
一花は向きを変えた。
帰ろう。戻ろう。何やってるのよ、私。
一花はフラフラと横断歩道に戻る。その時急に、視界に車の姿が入った。
え?
足が止まる。間に合わない。
目を瞑ったその時、後ろから思いっきり引っ張られた。そのまま後方に転ぶ。目の前を車が行き過ぎた。
「大丈夫か⁈」
え?
一花は自分の状況がよくわからなかった。でも、どこも痛くない。
「どこも痛くない……」
目の前に榛瑠がいた。一花は横断歩道すぐの歩道のところで座り込んでいた。すぐ横で榛瑠が膝をついている。
助けてくれたんだ……。
榛瑠は一花に怪我がないのを確認すると、ホッとした顔をした。しかし、すぐに荒い声をだした。
「何をやっているんだ、あんたは。死ぬところだぞ!」
「ごめんなさい」
一花は弱々しく謝る。本当に、何やってるんだろう。なんでこう、いつも迷惑かけてばかり……。
「立てますか?」
幾分落ち着いた声で聞きながら、榛瑠が立ち上がりつつ一花に手を差し出す。
だが、一花は座ったままその手を取らなかった。
「……ごめんなさい」
「とにかく、部屋に行きましょう。体が冷え切ってますよ。服も乾かさないと。いったいどこから濡れてきたんですか」
「ごめんなさい」
「もう、いいから。立てる?」
一花は下を向いたまま唇をかんだ。
「ごめんなさい」
「一花さん?」
「私、私……、あなたが泣いているような気がして……」
榛瑠がもう一度膝をつく。
「……泣いているのは僕じゃなくて、あなたです」
一花は嗚咽が漏れないように唇を噛み続けた。自分のしたことが愚かしくてどうしようもなかった。
でも、会いたかったの。会いたくて、触れたくて、側にいたかった……。
涙と雨が頬を濡らした。
榛瑠は一花の肩をそっと抱いた。
「大丈夫ですよ、もう大丈夫。だから、泣かないで」
その声はいつかのように優しかった。
冷たい雨は降り続いている。
寂しかったですか? という須賀の声がふと蘇る。
……うん、寂しくはなかったな、と、同じことを思う。寂しくはなかった。一人じゃなかったから。
いつ頃からそんなことをしていたのかはっきり覚えてないが、小学生の頃、一花は眠れないと屋敷の廊下の長椅子によく行くようになっていた。
大きな窓の外は暗く、屋敷はひっそりとして物音一つしないような夜更け、持ち出した毛布に一人で包まっていた。
心細くて寂しくて、半泣きで、でも一人でベットに寝ているのがもっと嫌で、そんなところにいたのだと思う。
でも、そのうち声がするのだ。ちょっとからかうような明るい声が。
「こんなところで何を泣きべそかいてるんですか? お嬢様?」
顔を上げると、金色の瞳の少年が可笑しそうに覗き込んでいる。
「怖い夢でも見たの? それともおねしょでもした?」
「違うもん!」
まだグスグス泣きながら反論する少女の頭に、白い手がクスクス笑いながら伸びる。
「冗談だよ。大丈夫、一花、泣かないで」
温かくて優しい声が降ってくる。いつでもそうだった。まるで魔法使いみたいに金色の少年は現れた。それから一花に付き合って遊んでくれるのだ。
それは懐かしい、真夜中の子供だった時間。
そう、今思うとあの頃の榛瑠もまだ子供だったのに。まだ声変わり前くらいの……。
その時、一花はあることに気づいて呟いた。
「……どうしよう、私……」
私、声変わり前の彼の声を思い出せない……。
「一花さん!」
不意に名前を呼ばれて、一花は物想いから引き戻された。
「お待たせしました」
須賀が透明傘を差して、目の前に立っていた。
「あ、ありがとう……」
一花は差し出された傘の中に入って歩き出した。傘は二人で一本だった。
「須賀くん、結構濡れてる。あ、まって、ハンカチ……」
「あ、いらないですよ、平気、平気」
そう言って須賀は濡れた頭を振る。茶色の髪が乱れる。やっぱりちょっと子犬みたい、と一花は笑いながら思う。
それから、あれ? と思う。今、なにかが胸をよぎった気がする。それを深く考える前に、須賀が明るく言った。
「なんだか笑われてるし!」
「ごめん、ごめん。悪気はないわ」
「ほんとうかなあ」
須賀はそう言って一花の顔を覗き込んだ。一花がそのまま笑顔をむけると、次の瞬間、須賀の顔が間近にあった。
え?
そう思ったときには唇に柔らかいものの感触があった。でもそれは一瞬で、気づくと一本の傘の下、二人で歩みを止めて向かい合っていた。
一花は驚いて声が出なかった。
「えっと……」
須賀は困った顔で立っている。
「あの、つい。……すみません」
そう言って律儀に頭を下げた。
「え、えっと、えーと、まあ。うんと、歩こっか」
一花はなんと言っていいか分からず、自分でも冴えないと思う言葉を返す。
須賀が「はい」と言って再び歩き出した。
しばらくの沈黙の後、須賀が言った。
「……やっぱ、一花さんって年上だよなあ。こんな時でも落ち着いてるし」
こんな時って、原因の人に言われても、と思いつつ一花は言う。
「いや、うろたえてるけど? うろたえてて、どうしていいか分からなくなってるだけで」
「ほんと? そう見えないっすよ」
「あなたが言ってどうするのよ、それ。なんなら怒ってもいいのよ?」
「あ、いやいや」
須賀はいくぶん真面目な声で続けた。
「いえ、すみません、本当に。でも、あんまり、スルーされるのもちょっと辛くて、ごめんなさい」
しゅんとする須賀を見て一花は可笑しくなりつつ笑いをこらえた。代わりに、次は無しね、と言う。
「はい、次は同意をとってからにします」
「もう」
怒ったふりを一花はする。なんとなく二人で小さく笑う。
でも、須賀の言う通りだと自分でも驚く。うろたえはしたけど、でも、だからってどうってことない。私、こんなんだっけ?
そこまで真剣なキスじゃないからってのもあるけど。一瞬だし。
でも、まあ、だって、須賀くんだし。大っ嫌いっていう人ではないし、かといって好きな人でもないわけで。
程なく、駅に着いた。須賀が傘をたたむ。
雨を避けて駆け込んできたパーカーを被った青年が、彼にぶつかりそうになる。
あっぶねえなあ、と須賀が言う。一花は大丈夫? と聞きつつ、また、あれ? と思う。何かのイメージが心をよぎる。なんだろう?
改札を二人でくぐる。目の前を歩く須賀の後ろ姿を一花は見上げた。
髪がしっとり濡れている。やっぱり、結構濡れてない? 風邪ひいたりしないといいけど。大丈夫かなあ。
…………あ。
そこでやっと、一花はさっきから胸の奥を横切っているものを捕まえた。
それなりに混んでいる人のざわめきの間を、須賀の後ろから歩き続ける。
そうだ、雨の日。冷たい雨の日。今日よりもっと降っていて、その中に少年は立っていた。あれは、彼が高一くらいだったか。
屋敷のいつも使っている勝手口の先に榛瑠は立っている。庭の木々が雨に濃い緑に濡れている。
私服の黒いパーカーを目元が見えないくらいまで深く被っていたが、頬に濡れた金色の髪が張り付いていた。雨が服も肌もぐっしょりと濡らしている。
表情はパーカーのせいではっきりわからない。一花は戸口の濡れないこちら側いて、驚いて、どうしたの? と聞いた時、榛瑠は意外なほどに穏やかな声で答えた。
「なんでもないです。雨に降られてしまっただけです」
静かな声だったと思う。口元は微笑んでいた。雨の音がしていた。
一花は胸が痛くなった。
思い出している今も、そしてあの時も。
あの時、彼の頬を濡らしていたのは本当に雨だけだったのだろうか。
でも、それを聞けなくて、でも胸はずっと痛くて、夜遅くにそっと、温めた牛乳を榛瑠の部屋の前に置いてきたのだった。翌日、お礼を言う榛瑠はまるっきりいつも通りで、蜂蜜入れたでしょ? 甘くしすぎ、だのなんだの言われた気がする。
あの時だけだ、彼が泣いてるかもって思ったのは。本当はあの時なにがあったのだろう。結局、聞けないままだった。
そして、その答えはもう聞くことができない。失われてしまった。榛瑠の子供のころの高い声を、もう聞くことも思い出すこともできなくなってしまったように。
「一花さん」
振り向いた須賀に一花は曖昧な笑顔を返した。
「思ったほど濡れずにすみましたね、よかった」
須賀にそうだね、と返答しつつ一花の心は別のところから戻りきれないでいた。
何もかもこうして無くしてしまうのだろうか。そして、遠くない先に、榛瑠自身を今度こそ失うのだ。
……だからどうだってわけじゃないわ。彼にとってはいいことだもの。胸が痛んだからって、生きていけないわけではない。
そう、だから、平気。
……でも榛瑠は? 彼は平気かしら。失くしたままで。……多分、大丈夫よね? 榛瑠だもの。きっと。
そう、きっと。いつだって、平気そうな顔をしているもの。
いつも。どんな時も。
……あの人は弱さを見せない。
一花は踵を返した。
「一花さん⁈」
須賀が驚く。
「ごめんね、須賀くん。忘れ物思い出したから戻るね、今日はありがとう」
「え? ここから? ちょっと待って。あ、傘!」
須賀の声はちょうど入ってきた電車の音と、続く人混みにかき消された。
一花は振り返らなかった。改札を出ると、雨の中を小走りで走る。ここからなら、榛瑠のマンションまで、そうかからず行けるはずだ。
一花は濡れるのも気にせず走り続けた。自分でもびっくりするほど、どちらにいけばいいか迷うことはなかった。
会いたい。会いたかった。会いたくて、会いたくて、どうにかなりそうだ。
マンションが見えるほど近くに来た時、一花は電話をいれた。
「榛瑠? ねえ、今どこ? 家にいる?」
「一花さん? 今ちょうど帰ってきてまだ駐車場ですが……」
「よかった。今から行くから待ってて!」
「今からって、今どちらにいるんですか?」
一花は足を止めて周りを見渡した。
「えっと、近くの横断歩道のそば。点滅信号の」
榛瑠がなにか言ったようだったが、それを聞かずに一花は電話を切った。小走りに横断歩道を渡る。
渡り切ってあと少しで着くと思った時、ふと、一花は足を止めた。点滅信号が濡れた地面に光っていた。
さあっという細かい雨の降る音が、急に耳に入ってきた。
……私、何やってるんだろう。
呆然と一花は立ち尽くした。
何をやってるんだろう。会いたいって何? なんの心配? なんの権利で、こんな時間にいきなり会いに行こうとしているの?
なんの立場で心配なんて言ってるの?
何ができるつもりでいるの? 何も、何一つ望まれていないのに。
一花は向きを変えた。
帰ろう。戻ろう。何やってるのよ、私。
一花はフラフラと横断歩道に戻る。その時急に、視界に車の姿が入った。
え?
足が止まる。間に合わない。
目を瞑ったその時、後ろから思いっきり引っ張られた。そのまま後方に転ぶ。目の前を車が行き過ぎた。
「大丈夫か⁈」
え?
一花は自分の状況がよくわからなかった。でも、どこも痛くない。
「どこも痛くない……」
目の前に榛瑠がいた。一花は横断歩道すぐの歩道のところで座り込んでいた。すぐ横で榛瑠が膝をついている。
助けてくれたんだ……。
榛瑠は一花に怪我がないのを確認すると、ホッとした顔をした。しかし、すぐに荒い声をだした。
「何をやっているんだ、あんたは。死ぬところだぞ!」
「ごめんなさい」
一花は弱々しく謝る。本当に、何やってるんだろう。なんでこう、いつも迷惑かけてばかり……。
「立てますか?」
幾分落ち着いた声で聞きながら、榛瑠が立ち上がりつつ一花に手を差し出す。
だが、一花は座ったままその手を取らなかった。
「……ごめんなさい」
「とにかく、部屋に行きましょう。体が冷え切ってますよ。服も乾かさないと。いったいどこから濡れてきたんですか」
「ごめんなさい」
「もう、いいから。立てる?」
一花は下を向いたまま唇をかんだ。
「ごめんなさい」
「一花さん?」
「私、私……、あなたが泣いているような気がして……」
榛瑠がもう一度膝をつく。
「……泣いているのは僕じゃなくて、あなたです」
一花は嗚咽が漏れないように唇を噛み続けた。自分のしたことが愚かしくてどうしようもなかった。
でも、会いたかったの。会いたくて、触れたくて、側にいたかった……。
涙と雨が頬を濡らした。
榛瑠は一花の肩をそっと抱いた。
「大丈夫ですよ、もう大丈夫。だから、泣かないで」
その声はいつかのように優しかった。
冷たい雨は降り続いている。
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