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記憶4.

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「ちょっと、ちょっと待って、ねえってば。榛瑠!」

 力ずくで一花は押し返した。が、びくともしない。

「ちょっと待ってって言ってるのに」
「何か問題でも?」

 一花を抱きしめたまま至近距離で榛瑠が聞く。

「問題だよ。だって……ずっとキスしてるのよ。ちょっとストップ! 唇の感覚なくなっちゃう」
「いけないの?」

 あーもー! いきなり元どおりだわ、この人。

「いけないの!」

 一花の言葉に、榛瑠はいかにも可笑しそうに笑った。
 朝の陽はだいぶ高くなり、その日差しを感じながら二人はそのまま長椅子に腰掛けていた。

「いつ、記憶が戻ったの?」

 一花は離れながら聞く。
 
「今朝」
「今朝⁈  病院行った方がいいんじゃない?」
「うん、そうだね」

 と、全く気のない返事をする。

「周りの人には言った? 記憶戻ったって」
「瞬には電話しておきました」
「びっくりしてたでしょ?」
「いや、面白がっていましたよ」

 ……よくわかんない。なんか、よくわかんないなあ、榛瑠の周りは。

「吹子様には言った?」
「いいえ。瞬に言ったので伝わるでしょう」
「ダメだよ! すごく心配してくれて、迷惑もかけたのに! 覚えてるでしょ?」

 どれだけ心配してくれたと思ってるのよ!

「わかってますけどね」
「じゃあ!」
「でも、嫌」
「なに、嫌って」
「コゴト言われるに決まってるから、嫌」
「あのねえ……」

 子供じゃないんだから。

「そのうち、直接会って言いますよ。みんな、まとめてね。いっぺんに聞いた方がましだから」

 そう言う榛瑠の表情は楽しそうで、それが彼らとの付き合い方なんだなあって思う。なんだかちょっと、羨ましく思っちゃうのはなんでかな。

 一花は気になっていたもう一人の名を出した。

「ね、あの、美園さんには電話したの?」
「いいえ」

 どこかでほっとする。

「でも先程仕事の連絡をしてきたので、ついでに話しました」

 ああ、彼女とは連絡とり合うんだ。話していたのね。そっか……。

「……なんて言ってたか聞いていい?」
「別にこれといって。いろいろ言ってたけど面倒だからあまり聞かなかった」

 もう。誰に対してもあんまり話聞かないんだから。

「でもまあ、喜んでいたようですよ」
「え、そうなんだ」

 それは予想外だった。美園さんは記憶のない榛瑠といる方がいいのかと思ってた。私と違ってずっと彼の近くにいれたもの。……私よりもずっと。

「彼女は彼女なりに大事にしていたものがあるのでしょうね」

 そう言う榛瑠の顔は穏やかで、一花の胸はズキッとした。あまりにわかりやすく痛かったので、一花自身が驚いたくらいだった。

 俯きがちな一花を見て榛瑠が言った。

「どうしたの?」
「ううん……」

 榛瑠は両手で一花の頬を包むと、そっと上を向かせて唇にキスをした。

「悲しそうな顔しないで。ごめんね」

 もう何度も謝られた。榛瑠のせいではないのに。一花は腕を伸ばして首にしがみついた。榛瑠が抱きとめてくれる。

「ごめんって言わないといけないの、ほんとは私のほう。ごめんなさい」
「なんで?」
「私、何にもできなかったから。何にもしてあげられなかった。……怖くて、辛くて、そばにいられなかった。ごめんなさい」
「なんで貴女が謝るの? 私が拒否したのに」
「そうだけど、……それでももっと、寄り添うこともできたかもしれないのに」

 美園さんはそれができたのに。榛瑠は小さく笑うと腕を解いて私を見た。

「あのさ、一花」
「はい」
「いろいろ言いたいけど長くなるので一言だけ言っておくけど」
「はい」
「夜に電話した時、そういう貴方らしいところも全部好きだなって思ってたから。もちろん今も。愛してるってそういう意味で言ってるんだけど。人の話、聞こうか?」

 真正面から言われて、一花は嬉しさと気恥ずかしさと少しの悔しさで、とっさに言葉が出てこなかった。で、つい可愛くないことを言ってしまう。

「……そんなの、あなたに人の話聞けなんて言われたくないし!」

 榛瑠は声を出して笑うと、また私の頬を包んでキスする。目をキュッとつぶっているとそのまま頬やらおでこやらにキスする。

「ちょっと、もうやだ、キスしすぎ! 禁止します!」
「あ、それ無理です」

 言いながら全然離そうとしてくれない。

「なんで」
「嫌だから」
「もう! どっちが人の話……」

 言葉は途中で遮られた。榛瑠はひと時の後、唇を離すと言った。

「唇にキスすることの欠点は、言葉を遮っちゃうことですね」
「……どうせ聞く気ないくせに」
「そんなことないですよ」

 あんまり榛瑠がにっこり微笑むので、一花は逆にふくれっ面をした。

「本当です」

 榛瑠は一花の唇に人差し指を置く。

「他にも言いたいことがあったら、なんでも言って。今回は本当に」

 そう言った瞳は思ったより真剣で、逆に一花は申し訳なくなってしまう。

「そんな、別に言いたいことなんて……」

 それこそ本当は、榛瑠がこうして側にいてくれるだけでいいのだ。

「なんでも聞きますよ」

 そうはいっても……。なにかあったっけ? 記憶が戻っただけで気が済んじゃったというか……。

「……あ、あった!」
「なんでしょう」

 一花は改めて榛瑠に向き直った。

「私、欲しいものがあるんですけど」
「なんなりと」
「指輪下さい」
「どんなのがよろしいですか?」
「ペアの指輪。あなたが私に用意して捨てちゃったのとおんなじの」

 榛瑠は微笑みながら、ちょっと首を傾げた。

「うーん、指輪はプレゼントしますけど……」
「絶対、おんなじデザインの。私、捨てちゃったって聞いて、ほんとに悲しかったんだから」
 
 これだけは、今でも悲しい。

「悪かったですけど、別に捨ててはいないんですけどね」
「え? うそ。だって……」
「家にはないって言いませんでした? あの指輪、さすがに捨てきれなくて。でもあの時は見たくなかったので、銀行の貸金庫に放り込んでおいたんですよ」
「え、じゃあ、まだあるの?」
「あります」

 あるんじゃない! 早く言って!

「え、じゃあそれ!それがいい!」

 口にしてから一花は、はっとして急に恥ずかしくなった。自分から指輪くれってしつこく言うのってどうなの。でも欲しいんだもん……。

「うん、でも、本当に捨てるつもりではいたので、別のでいいですか? 一緒に見に……」

 一花が今度は言葉を遮った。

「え? なんで? なんで捨てちゃうの?」
「もういらないですし、見たくないし」
「いるよ! それに買った時のこと思い出したんでしょ?」
「思い出したよ。でも、見たくないと思ったのも覚えているんだよ」
「そんな……。でも、それがいいのに」

 榛瑠が初めてペアで用意してくれたもので、それも指輪で……。

 榛瑠が髪を優しく撫でながら、あやすように言った。

「新しく一花が気に入ったものを贈るから。一緒に選びに行ってもいいし、ね?」
 
 こんなふうに言ってくれてるのに何をこだわるのだろうと一花は自分でも思う。それに贈り物は贈り主が決めることだ。でも。

「わたしね、わたし……」
「うん」
「指輪のことを聞いた時、すごく嬉しくて、それからすごく悲しかったの。それから……」

 一花は胸元にあるネックレスをそっと触った。

「それから、これをつけてくれて、もう、なんか、いっぱいいっぱいになっちゃって……」

 思い出しても涙が滲んで喉がつまったようになる。

「だから、なんか、うまく言えないけど、特別な感じで、だから……」

 全然、うまく言えない。悲しくて愛しくて堪らなくなる。

「すごく欲しいと思ったの、わたし……」

 ああ、そうだ。欲しかったんだ。全部全部、あなたごと、欲しかった。
 ……そう、しょうがないなんて本当は思えなかった。

「……全部、わたしのものだったのに」
「一花?」

 ああ、ダメだよ、榛瑠のせいじゃない。事故だったんだから。言っちゃダメ。
 そう思うのに、止まらない。
 
「全部、わたしのものだったのに。指輪も榛瑠も全部。なのに、無くなっちゃうの! いつも、いつも! いつだって!」

 一花は泣きながら何度も榛瑠の胸を叩いた。そしてそのまま彼の胸で泣きじゃくった。
 そんな一花を榛瑠は強く抱きしめる。

「ごめん、一花」
「……違うの、ごめ……なさ……榛……瑠のせいじゃない」

 一花は泣きながら言う。

「俺のせいだよ。俺は君を傷つける。わかってる、ごめん」

 一花は首を振る。
 違うよ、違うの。わたしが傷つくの。榛瑠の存在に、こんなにもどうしようもなく傷ついてしまうのだ。彼だから。榛瑠だから。

 榛瑠は時々頭を撫でながら、じっと一花を抱きしめ続けた。その力強さと温かさが一花の心の中に入ってくる。
 
 やがて落ちついても、一花はしばらくそのままでいた。それから恥ずかしさを抱えてそっと体を離した。

「……ごめんね。本当に榛瑠のせいじゃないから、あの……」 

 榛瑠はうつむく一花の額にそっとキスすると、再び今度は優しく抱き寄せた。

「傷つけてごめん。……でも指輪は許して。俺としてはそのネックレスも取り返したいぐらいなんだよ」
「え、嫌」

 一花はネックレスをぎゅっと握った。

「わかってる、言わないよ。でも辛くて悲しいことを思い出させるようなものを身につけていて欲しくないんだ。何より自分が見たくない。だからアレはあげられない。ごめん」

 そうか。でもね、でも……。
 
 そんな悲しい記憶も大切なあなたとの時間なのだと思う。
 一花は体を離すと榛瑠を見た。変わらず微笑んでいたけれど、どこか悲しげに見えた。

 うん、そうだね、そんな顔して欲しくないものね。あなたもわたしを見て、きっとそう思うのだろう。

「わかったわ。わがまま言ってごめんなさい」
「なにも、わがままなんて言われてない」
 
 優しい声に、一花はそうしようとも思わず自然に榛瑠に顔を寄せるとキスをした。それからぎゅっと抱きしめた。

「他にお嬢様、言いたいことは?」

 榛瑠が抱きしめながら耳元で囁やく。

「……大好き」
「うん」
「あなたが思ってるよりずっとよ」
「うん。貴方がそばにいることを当たり前だと思ったことはないよ。ありがとう」

 その声は穏やかで、陽の光のようにキラキラと一花の胸に落ちた。
 
 不意に、この人のために何かしたいという思いが湧き上がる。

「あ、そうだ。私がプレゼントする。あなたに。ねえ、何がいい? なんでも言って」

 一花は腕を解くとワクワクしながら榛瑠を見た。

「なに、急に」
「急にそうしたくなったの。ねえ、何か欲しいものとかない? なんでもいいよ」
「といってもなあ……」

 榛瑠は苦笑する。本当に物欲薄いんだから。

「なんでもいいから」
「えーっと、じゃあ……、一花」

 どきっとした。でも、そういうのじゃないもん。

「それはダメ」
「ダメなの? なんで?」
「もう、あげちゃってるから」

 榛瑠は声を出して笑った。

「それは困ったな」
「困るの?」
「困るよ。だって……」

 榛瑠は私を真っ直ぐに見ると目を細めた。

「一花より欲しいものなんて、なにもないから」

 落ち着いた声で言われたその言葉に、一花の心臓はとくん、と跳ねた。
 窓から入った明るい光で榛瑠の髪が金色に光り、その笑顔を照らしている。
                                                  
「でもよかった」

 榛瑠は一花の肩に頭を預けると言った。

「今回はさすがに詰んだかと思ったよ」
「詰んだって、何?」
「あなたが我慢強い人でよかったってことです」

 ああ……。

「言っとくけど、詰ませようとしたのはあなたの方よ」

 榛瑠は頭を起こして一花を見ながら答えた。

「わかってます、ごめんなさい」
「感謝して?」

 って、単に私が諦めが悪かっただけなんだけど。

「してます。ありがとうございます」
「しばらくは私のこと大事にしなくちゃダメなんだからね」

 一花はここぞとばかりに言ってみる。ちょっとくらいは調子に乗ってみたっていいよね?

「ずっと大事にします」

 そう言って榛瑠は一花の手を取ると手の甲にキスをした。

「あなたは素晴らしいよ、一花」

 一花の胸が静かに高鳴った。

「……ありがとう」

 榛瑠の唇が再び一花に重ねられた。優しくて温かいキスだった。それから抱きしめられる。
 一花は満たされた思いで抱きしめ返した。

 大好きな、いつもの榛瑠。

 榛瑠は腕をほどきもう一度キスをすると、一花を見つめた。

「このまま連れ去ろうかな」
「え? どこ行くの? あ、とりあえずお腹すいた。そろそろ朝ごはん食べに行かないと、怒られちゃう」
「あのねえ……。色気ないなあ」

 そんなもの、あったためしないじゃない。

「だって、嶋さん呼びに来ちゃう……。あなたがここに来てること知ってるんだよね」
「当たり前。知られずにここに入り込むなんて不可能でしょう?」

 そうだけど。

「じゃあ、気を使って呼びにきてないんだよ。榛瑠、朝食は?」
「私はいつも食べません」

 そうだった。

「でも、コーヒーぐらい飲むでしょ、行こう」

 立ち上がって手を差し出す一花に、しょうがないな、というような顔をしてその手をとると、榛瑠も立ち上がった。
 
「それで、どこに行くって?」

 階段に向かいながら一花は榛瑠に聞いた。

「ああ、そうだね。とりあえず、俺のベッドの上に」

 はい? 朝から何言ってるの、この人!

「と、とりあえず、コーヒー飲みましょ」
 
「はいはい」と、そう言って榛瑠は笑って続ける。

「じゃあ、お嬢様の今日の予定は何ですか?」
「うーん」

 何かな?

「そうね、気分良く過ごすわ、今日は」

 一花は繋いでいる手に力を込めた。雲のない青空みたいに、過ごしたい。

「了解しました」

 榛瑠が一花の手を握り返す。
 その温かみを感じながら、一花は榛瑠の横顔を見上げる。

 心がほっとする。
 でも、ほんの少し、ほんの少しだけ……。

「ねえ、あの、ね、記憶がなかった時のこと覚えているの?」
「覚えているよ、たぶんね」

 たぶん、か。そうだよね、何を忘れたかなんて、わからないんだもの。
 記憶は変えられていくのだし、いつも。

 でも、だから少しだけ、あの夜、電話で会いに来ると言った彼にもう会えないと思うと、残念な気になる。少しだけ。
 穏やかな声で話してくれた人。彼はどこにいったのだろう。

「なに?」

 見上げる一花に榛瑠が足を止めて問うた。

「あ、えっと……」

 せっかく記憶が戻った榛瑠に申し訳ない気持ちがする。悪いなって思う。
 ……でも……記憶を無くす前に聞いておきたい。

「あの夜言ってた事、あの……、私に会いに来て何を言うつもりだったのかなって」
「ああ、そんな事」

 榛瑠は手を解くと、一花を横抱きに抱き上げた。
 
「きゃっ」
「記憶があろうがなかろうが、伝えたい事は変わらないよ」

 そう言って、榛瑠は見惚れてしまうような晴れやかな笑顔を一花に向けた。

「愛してる、一花。僕の、お嬢様」



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