七日目のはるか

藤谷 郁

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10.彼女とデート

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 駅近くのコンビニ前まで来ると、真崎はふいに立ち止まった。
「それじゃ、神田さん。私はここで買い物をして帰りますから。頑張ってくださいね」
「はあ……」
 日曜日の午後。空はきれいに晴れ上がり、絶好のデート日和である。
「気をつけて行ってらっしゃい」
「えっ、ちょっと待ってください!」
 コンビニに入ろうとする真崎を、春花は慌てて引き止めた。
「どうしました」
「やっぱりやめようと思うんですけど」
「デートをですか」
 頷く春花に、彼は向き直る。

「なぜです?」
「女性とデートするなんて、どうすればいいのか分かりませんよ」
「男性となら分かるのですか」
 それも分からない。春花は異性と付き合った経験が皆無なのだ。返す言葉もなく立ち尽くす春花に、彼は柔らかな微笑を浮かべる。
「電車に乗り遅れますよ。デートで女性を待たせるなんて失礼です。ホラ、さっさと行ってらっしゃい」
「いや、でも私は……あっ」
 駅の方向へと背中を押された。その力は意外なほど強く、迷う春花の足を進めさせた。
「ったく、どうなっても知りませんからね!」
「グッドラックです」

 にこにこと手を振り、真崎はあっさりとコンビニに入ってしまった。
 春花は閉じた自動ドアを睨んでいたが、やがて仕方ないように前を向き、駅のほうへと歩きだす。
「参ったなあ」
 こうなったらやるしかないのだ。
 彼女とのデートを。


 混雑する休日の総合駅から、港へ向かう急行電車に乗った。
 不思議なことに電車が走り出すと、春花の気持ちは多少落ち着いてきた。というより、開き直ったのかもしれない。
 そうだ、軽く遊びに行くつもりでいればいい。なにしろ相手は志村梨乃だ。男とか女とか考えず気軽に付き合って、さっさと帰って来よう。
 少し余裕のできた春花はドアの横に備え付けてある小さな鏡を覗き込み、前髪を手櫛で流した。
 凛々しい眉のもと、くるっとした目がこちらを見つめ返す。

(しかし、男は化粧しなくてもいいいから楽だな。着るものだって……)
 春花は自分の格好をあらためて見下ろす。真崎はスーツを着たらどうかと提案したが、そんな堅苦しいのはごめんだと断り、ラフな服装を選んだ。
 水色の綿シャツに白のデニム。シンプルな組み合わせは、爽やかな5月の景色に調和している。
 ふと顔を横に向けると、向かい側に立つ若い女性と目が合った。女性は慌てて目を逸らしたが、その態度から春花に見惚れていたのがありありと分かる。
「やっぱり私って、女の人にモテるタイプなのかな」
 複雑な思いを抱きつつ、港行きの電車にひたすら揺られた。


 港駅の改札を出て10分ほど歩くと水族館の入り口が見えてくる。
 海に面して建つその水族館は規模が大きく、地元のみならず遠方からの行楽客も集める人気の施設だ。
 とりわけ若いカップルにはうってつけのデートスポットだとメディアに宣伝されている。
 入り口前に設置されたイルカのオブジェのところで、志村梨乃は待っていた。
 春花は一瞬、人違いかと思った。品のいいワンピースを着て、髪型も化粧もいつもより控え目な感じである。心なしか不安そうな表情で、行き交う人に視線を泳がせている。
 彼女らしくもなく、随分と大人しい印象を受けた。

「どうも、こんにちは」
 春花が挨拶しながら近付くと、彼女は打たれたように顔を上げた。
 その頬がさあっと赤くなるのが分かり、春花はもちろん本人もびっくりしている。
「すみません、お待たせしました」
「いっ、いいえ。大丈夫です。私も、今来たところなので!」
「そ、そうなんだ」
 どうも調子が狂ってしまう。"女の春花"に対するような、馴れ馴れしい志村ではない。

「えっと。わた……じゃなくて、俺、チケット買ってくるから。君はここにいて」
 春花がチケット売り場に歩き出すと、志村は慌てた様子で後を追って来た。
「あのっ、私が誘ったんだから、私が払います」
 志村は財布から1万円札を取り出し、強引に渡そうとした。春花は驚いて、それを押し戻す。
「いいよ、俺が出すから」
 実は出掛けに真崎から3万円渡されている。研究費用だと彼は言っていたが、貧乏学生に同情して貸してくれたのだろう。

「でも……っ」
「いいから、ここで待っててくれ」
 少し強い口調で言うと、志村は大人しく手を引っ込めた。
「すみません」
 しおらしい態度に、春花は首を傾げる。
 志村は日頃、デート費用は男が持つのが当然と言い放っている。それなのに、男のぶんまでチケット代を出そうとするなんて。
 一体全体どうなっているのだ。

 チケットを買って来ると、志村は素直に「ありがとうございます」とお礼を言い、大事そうに受け取った。
 春花はまたしても疑問符を浮かべるが、あまり深く考えず館内に足を進めた。
 とにかくさっさと一回りして帰ってしまおう。彼女が何を考えているのかなんて、自分にはどうでもいい話だ。

 館内は全体的にブルーの空間になっている。アクリルガラスの向こう、巨大な水槽の中を、色とりどりの魚が優雅に泳ぎまわっている。
「きれいだなあ」
 思わず声を上げると、志村が遠慮がちに問いかけてきた。
「春彦君。この水族館に来るの、初めて?」
「うん」
 返事すると同時に、春花は少し意地悪な気持ちになり、質問を返した。
「君は何度か来てるの?」

 志村は何度も来ているはずだ。しかも、その都度違う男と。
「あっ、うん。女の子の友達と、何度か……」
 つい、顔をしかめるところだった。何というそらぞらしさ。
 平然と嘘をつく彼女に、嫌悪の感情が湧いてくる。
「どうしたの?」
 春花が押し黙っていると、志村は媚びるような目でこちらを見上げた。
「いや、何でもないよ。行こうか」
 春花は曖昧な笑みを浮かべ、胸のむかつきを誤魔化すように順路を進んだ。


 深海の世界という展示室に入ると、春花はそのことに思い至った。
 ライトを抑えたフロアは薄暗く、志村は不安そうな表情をして、それとなくこちらに寄り添っていた。
(なるほど、いつもこうやって男を嵌めているのだな)
 しおらしく純情なふりをして男の保護欲を煽り、その実デートの主導権を握る。この大人しい態度はすべて作戦なのだ。なるほど、相手が男性ならばそれも通じるだろう。

 春花の中で、再び意地悪心が頭をもたげてきた。
 自分が"男"であるのを利用してやろう――
 なぜそんな発想をしたのかわからないが、春花は攻撃的な気分だった。この女をからかい、困らせてやる。

 春花はさりげなく志村の手を握った。
 志村は体をビクッと震えさせたが、視線は暗い水槽に向けたまま。
 ほとんど真っ暗な深海の世界で、春花は柔らかく小さな彼女の手を包み込んでいる。志村は逆らおうともせず、じっとしている。
(振り払えばいいのに)
 春花は自分から握っておきながら、常識的にそうするべきだと勝手なことを考えていた。
 そして、しばらくそのままでいたが、いきなり手をぱっと離し、志村の先に立って歩き出す。
 何だか自分が本当の男になったような、おかしな気分に支配されていた。



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