七日目のはるか

藤谷 郁

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19.見知らぬ女

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 夜7時。
 春花と真崎はホテル内の和食レストランで食事している。食事中の話題は、昼間あったできごとだ。春花は真崎に分かりやすいよう、詳細に話した。
 
「男の人の筋力ってすごいですね。同じ技でも威力が全然違います」
 春花は興奮している。かつてない経験をして、闘争本能に火が点いたような高揚感を覚えたと、実感をもって語った。
「うん、まあそれはそうでしょうね」
 興奮状態の春花と対照的に、真崎は冷静だった。軽く相槌をうつのみで、興味を示すそぶりもない。魚介類をふんだんに使った創作料理を、端から丁寧に片付けている。

 春花はふと気が付く。さっきから、自分の事ばかり話している。
 彼の話も聞かなくてはと意識し、話題を変えた。
「先生はいかがでしたか、お仕事のほうは」
「ええ、楽しかったですよ。大学の講義を仮体験できたと、生徒さんたち皆、喜んでいました」
「そうですか」
「……」
 なぜだか口の重い真崎に、春花は困惑する。気のせいか沈んでいるようにも見えて、心配になった。

「どうかしましたか、先生。元気がないようですけど」
「いいえ、大丈夫ですよ」
 再び途切れた会話に、春花は不安を覚えた。何か気に障ることでも言っただろうか――と、自分の発言を逆さにたどってみる。
 だが、特に思い至らなかった。


 食事が終わると、真崎は先に立ってレストランを出て行こうとした。
 春花は慌てて後を追う。
「先生?」
 エレベーターに乗り込むと、真崎は上階のボタンを押した。
「客室は下ですよ。どこに行くんです」
「このホテルは夜景もいいですよ」
 真崎は横顔のまま、ただそれだけを言った。


 最上階にはルーフバルコニーの展望スペースがあり、真崎は春花に入るよう促した。そして、
「ちょっと待っていて下さい」
 自分は喫煙ルームに行くと告げて、フロアに戻っていく。
「煙草かあ」
 展望スペースは人が少なく、しかもカップルらしき二人連れがほとんどだ。春花は仕方なく、一人で夜景を眺めていた。

 暫くすると真崎が帰ってきた。先程よりは晴れた表情なので、春花は内心ほっとする。どうしてさっきは元気がなかったのだろう。
「春花さん、こちらに」
 真崎は石造りのテーブルにつき、春花を手招きした。向かい合って座ると、意外なことを申し出る。
「腕相撲をしましょうか」
「腕相撲ですか?」
 急にそんなことを言われても。春花はためらうが、浴衣の袖をまくると、とりあえず構えた。

「いきますよ」
 真崎も腕まくりをして、春花の手をぐっと握った。手のひらは春花より大きく、分厚い。
「思いきりやって下さい」
「え、ええ」
 正面から見据えてくる真崎の目は、静かだが、燃えるようでもあった。
 好きな男とガチンコ勝負。
 春花の胸に、こんな形で手を握るなんてと、複雑な思いがよぎった。

「はじめっ」
 真崎の合図で、春花は腕に力を入れた。
「ぐぐぐ……あれっ!?」
 渾身の力をこめたつもりなのに、3秒もしないうちに真崎に倒された。
 あっけなさすぎて、ぽかんとする。
「もう一度お願いします!」
「いいですよ」
 真崎は余裕の顔で、再戦に応じる。

 結果は何度やっても同じだった。信じられない。
「どうしました。若い男のくせに、情けないですね」
「なっ」
 春花は汗ばんだ顔を上げた。今の言い方はどうかと思う。
「自惚れてはいけませんよ、春花さん」
「……え」
 真崎は袂からハンカチを取り出し、こちらに手渡す。
 春花は素直に受け取ると、汗を拭った。

「春花さん。あなたは今日、とてつもなく危険な目に遭ったのです。それを自覚してください。自分を粗末にするのだけはやめて下さい」
「あ……」
 昼間のできごとについてだ。
 真崎は立ち上がると、夜の海を広く見渡せる位置へと春花を誘った。
 雲のない空に、まるい月が浮かんでいる。
 潮騒の音が大きく聞こえてくる。

「私は、あなたが心配なのです」
「……すみません」
 春花はここへきて、初めて自分の軽率を後悔した。
 格闘し、勝利したことに酔っていたと思う。調子に乗って、自慢げに話して聞かせたのだ。
 そのことを、真崎は怒ったのだろう。
 彼の隣で、春花はしゅんとした。

「ねえ、春花さん。教えましょうか。私がなぜ、時々煙草を必要とするのか」
「え?」
 真崎は春花の顔を覗き込むようにした。
「欲情を抑えるためです」
 春花は固まっている。意味が分からなかった。
「温泉の浴場じゃありませんよ。欲望の意味での欲情です」
「は、はあ」
 コメントの仕様がなく、こくりと頷くのみ。

(よ、欲情って……)
 真崎がそんなことを言うなんて意外であり、とんでもない秘密を打ち明けられたようで、妙に緊張してきた。とにかく春花は、ドキドキしている。
 彼が誰に欲情するのか。考えると、身体が熱くなってくる。
「ところで、生理現象のほうはどうですか」
「えっ、生理……現象ですか?」
「ハイ、それです。どんな感じですか」
 急に話題が変わり、春花は目をぱちくりさせた。欲情の話が気になるが、とりあえず頭を切り替える。

「そういえば、このところ無いですね。朝も昼間もおさまっています」
 言われてみると、夕子の時のような現象がまったくなくなっている。
「徐々に女性に戻っているのかもしれませんね」
 真崎が風に乱れる髪をかき上げながら、少しまぶしそうな顔で言った。
 春花はハッとして、彼の言葉を反芻する。
「戻っている……女性に?」
「ええ、そうです。ですから、くれぐれも油断しないように」
「えっ?」

 真崎はにこりと微笑み、さらりと忠告した。
「私も男ですからね。部屋の鍵はしっかりかけて、中に入れてくれと頼んでも、拒否して下さい」
「……」
「じゃ、部屋に戻りましょう」
 二人は黙ったままフロアに戻り、エレベーターでそれぞれの階に降りて、部屋に入った。

 徐々に女性に戻っている――

 春花はぼんやりとしたまま、部屋の窓から海を眺めた。海岸沿いに、灯りが連なっている。
 明るく、道を示すように。

 熱いため息が漏れる。
 もう駄目だと思った。

 女に戻っている。それは喜びだ。
 だけどその女は、かつての自分とは異なる。見知らぬ女が生まれつつあるのを強烈に感じていた。
 志村達のぎらぎらとした目を思い出し、春花は自分で自分の身体を強く抱いた。

 鍵をかけなくては。
 ドアのロックを確かめ、チェーンもしっかりと繋いだ。
 ベッドに潜ると瞼をきつく閉じて、まんじりともしない夜をすごした。
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