恋の記録

藤谷 郁

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妖怪と女

3

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微かに膝が震えている。

ついに私は、古池店長と土屋さんを告発した。

これでもう、後には引けない。何か、とてつもなく大それたことをしたような怖さを感じる。たとえ彼らに非があるとしても、私が告発することで、彼らの今後の人生を変えてしまうのだから。

会社の不正を内部告発する人は、皆、こんな気持ちなのだろうか。すごく勇気のいる行為だと実感する。

でも私は後に引くつもりはない。特に店長は、相応の罰を受けるべきだ。どんな処分が下されても自業自得である。


「そうだ。山賀さんに電話しておこう」


告発したことを他者に漏らさないよう念を押すためだ。山賀さんはしっかり者だから、心配ないと思うが。

個人のスマートフォンに持ち替えて、彼女の番号をタップすると、


「あれっ?」


山賀さんの電話は話し中だった。

仕方ないので、《例の件無事に完了。他言無用でお願いします》と、メールを送る。詳しい話は、あらためて電話すればいい。


「これでよし」


スマートフォンをポケットに仕舞ってから、更衣室を出た。




今日の昼食はビルの六階にあるカフェ『フローライト』でとることにした。お弁当を持って来なかったし、休憩室を利用するであろう土屋さんと顔を合わせたくないから。

事務所にバッグを取りに行くと、古池店長がデスクのパソコンで作業していた。他に誰もおらず、カタカタとキーを打つ音だけがオフィスに響く。


「お疲れ様です。お先に休憩入ります」

「はい、お疲れ様」


いつもどおりの穏やかな口調。智哉さんのことを、まだ土屋さんから聞いていないらしい。もし知っていたら絡んでくるはずだ。

とぼけているのかもしれないが、いずれにしろ店長とは話をしたくない。私はバッグを持ち、さっさと事務所を出ようとした。


「一条さん、昨日はどうでしたか」


突然話しかけられて、ビクッとする。振り向くと、店長がパソコンの脇から顔を覗かせていた。

細い目が狡猾に光るのを見て、ぞっとする。

「どうでしたか」という質問の意味をわかりかね、黙っていると……


「お母さんの具合ですよ。昨日、お母さんが倒れて、入院されたんですよね」

「あ、ええ……はい」


我ながら迂闊だと思った。通常どおり振舞うよう横井さんに忠告されたのに、店長を前にすると、いろんな警戒心が働いて不自然になってしまう。

表情を変えないよう注意しながら、返事をした。


「母は、軽い脳梗塞でした。処置が早かったので後遺症もなく、数日で退院できそうです」


いつだったか、伯母が入院した時の状況を説明に使った。


「それは良かったですねえ。昨日はずいぶん深刻な様子だったので、心配しましたよ」

「ご心配をおかけして、申しわけありません」


よどみなく答える私を、店長が探るように見てくる。

私はもう、一刻も早く外に出たくて仕方なかった。店長への嫌悪感がすごくて、表情を保つのも辛い。


「では、休憩に入りますので、失礼します」

「ちょっと待ってください。今朝ほど、気になる噂を耳にしたのですが」

「……え?」


私の顔が強張るのを店長は見逃さず、にやりと笑った。世にもおぞましい不倫男が、デスクを離れ、ゆっくりと近付いてくる。

気になる噂――智哉さんのことだ。

店長のいやらしい顔つきから、それは明白である。

しかし私は、何を訊かれても絶対に余計なことは喋らないと決めている。土屋さんがどこまで伝えたのか知らないが、詮索はすべてシャットアウトだ。

平常心を保ち、プライバシーに干渉しようとする店長と対峙した。


「お付き合いされている男性がいらっしゃるとか。やはり、ただの『友人』ではなかったんですねえ。しかも、『ドゥマン』の店長さんと聞いてビックリしましたよ」


土屋さんは知り得た情報を、すべて喋ったらしい。本当に下世話な人達だ。


「『ドゥマン』の店長……水樹さんと言いましたっけ。彼と同居してるわけですよね。しかし不思議だなあ。一条さんは転勤して間もないのに、そんな深い関係に持ち込むなんて。一体、どんなご縁で知り合ったんです?」


まるでゴシップ誌のインタビューだ。

私はバッグを強く握りしめ、早く本部が不倫男を処分してくれることを願った。


「個人的なことなので、お答えできません」


自分でも驚くほどの、冷ややかな声が出た。店長はちょっと怯んだ様子だが、めげずに喋り続ける。


「水樹さんかあ。ビルのイベント説明会で、お見かけしたことがあります。すらっと背が高くて、いかにも女性にモテそうな美男子ですよねえ。うーん、大丈夫かなあ」


智哉さんを貶すつもりだろうか。私は、何を言われても無視するために身構える。

しかし……


「悪い男でなければ、いいのですが」

「はい?」


つい反応してしまった。でも今のは聞き捨てならない。


「どういう意味でしょうか」

「いえね、水樹さんほどの男性が、あの歳になるまで独身というのも妙ですし。あと、出会って間もない女性に手を出す速さというか、危ない人のような気がするんですよねえ」


身体中の血が沸騰した。

危ないのはあなたでしょうと、大声で叫びそうになる。

部下と不倫して、邪魔になったら追い払う。悪人の見本みたいな最低男のくせに!


「失礼なことを言わないでください。不愉快ですっ」

「ああ、すみません。悪気はないのですよ。ただ、上司として一条さんが心配なのです。変な男に騙されやしないかと」

「なっ」


騙される?

自分の行いを棚に上げて智哉さんを貶める店長に、カッとなった。

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